ヨシフ・スターリン
ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин、1879年12月9日(グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Иосиф Виссарионович Джугашвили , グルジア語:იოსებ ჯუღაშვილი)。20世紀にその名を残す独裁者の1人。「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して2000万人もの人々を虐殺し、過酷な抑圧政策をとったことで知られる。しかしその一方で、旧ソ連ではスターリンを、ドイツ(ナチ政権)から祖国を守った英雄と認識している人も少なくなかった。
ヨシフ・スターリン Иосиф Сталин | |
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ソビエト連邦
第2代 最高指導者 | |
任期 | 1922年4月3日 – 1953年3月5日 |
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出生 | 1879年12月9日 グルジア、ゴリ (都市) |
死去 | 1953年3月5日 モスクワ |
政党 | ソビエト連邦共産党 |
配偶者 | エカテリーナ・スワニーゼ(最初の妻) ナジェージダ・アリルーエワ(二度目の妻) |
ボリシェヴィキ(ソ連共産党)の書記局長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。ロシアでは総書記に当たる語で呼ばれる。ウラジーミル・レーニンの死後、レフ・トロツキーやニコライ・ブハーリンなど、ライバルや反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るうに至った。彼が存命の頃のソ連は、強力なプロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後はニキータ・フルシチョフのスターリン批判などによって、スターリンによる独裁の時代の政治体制や主張・理論は、スターリン主義として右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視された。
来歴
生い立ち
ヨシフは現在のグルジアのゴリで、靴屋ヴィサリオン・「ベソ」ジュガシヴィリの息子として生まれた。彼の母親エカテリーナは農奴だった。他の3人の兄弟は幼くして死に、「ソソ」や「コバ」と呼ばれたヨシフはただ一人の子供だった。ヨシフは酒に酔った父親に、しばしば厳しく鞭で打たれた。当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。
ヨシフの家の近所に、ダヴィド・パピスメドフ(Давид Паписмедов / David Papismedov)というユダヤ人がいた。パピスメドフはヨシフに金銭と本を与えて激励した。数十年後、パピスメドフは、ヨシフ少年がどうなったか知るためにクレムリンを訪れた。ヨシフは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで、同僚を驚かせた。
ヨシフの父親は、家族を残してトビリシに行ってしまった。ヨシフはゴリの教会学校に通ったが、14歳になるとカフカース地方随一の名門校トビリシ神学校への奨学金を獲得した。また、神学校の聖歌隊で歌うことで、僅かな俸給も支払われた。エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になった後も望んでいた。
社会主義運動
ヨシフの社会主義運動への参加は、神学校時代に始まった。ヴィクトル・ユゴーを読んで、かねてから革命家になりたがっていたヨシフは、1896年にマルクス主義のサークルを組織、1898年にグルジア社会民主党に入党している。神学校での成績は非常に優秀だったが、規則違反や教師への反抗を繰り返すようになり、1899年に学校の試験に出席しなかったことを理由に放校となる。その後トビリシの中央気象台で勤務する傍ら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加。1901年に中央気象台を辞めた後は、カフカース地方で政治的地下活動、活動資金調達のための現金強奪などを行い、1902年から1917年までの間、逮捕とシベリアへの追放が繰り返された。なお、1907年にトビリシで、国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている[1]。1912年に初めて中央委員に選出された。1913年より、ヨシフは終生の筆名となる「スターリン」を名乗り始めた。
権力の掌握
二月革命の後、流刑地から戻ったスターリンはレフ・カーメネフらとともに党を指導し、臨時政府に対する条件付き支持の方針を打ち出した。しかし1917年4月に帰国したレーニンは臨時政府打倒を呼びかける四月テーゼを発表し、スターリンらの方針を否定した。同年11月7日のボリシェヴィキ革命における彼の役割は小さなものだった。
スターリンはロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。
ポーランド・ソビエト戦争においては、南西正面軍の政治委員としてポーランドのリヴィウの占領に拘泥し、赤軍敗北の一因を作っている。但しこれに関しては補給を無視して突出したトゥハチェフスキーにも問題があり、一概にスターリンにのみ責任があるとは言えないという論調も存在する[2]。
スターリンの最初の政府役職は、民族人民委員としてであった。続いてソ連共産党政治局員となり、1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任した。各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れ、後継問題が浮上するとトロツキーが有力視されたが、スターリンは政治局の中でカーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフと組み、いわゆる「トロイカ」体制をつくり、トロツキーの追い落としを図る。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを、レーニンの政治活動への参加を巡って激しく叱責したことからレーニンの不信を買う。そしてスターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し[3]、遺言で「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。しかしその要求は、スターリンが自制する事を条件に中央委員会メンバーによって伏せられてしまった。
1924年1月21日にレーニンが死ぬと、スターリンは、カーメネフ及びジノヴィエフと共に、左派のトロツキー及び右派のブハーリンの間で党を管理した。この期間にスターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。彼はブハーリンと行動を共にし、まずトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフと対立することになる。五カ年計画の最初の年である1928年に、スターリンの権力は最高潮に達し、世界革命論を唱え続けたトロツキーは翌年に追放された。次いでスターリンは、ブハーリンをはじめとする党内右派の抵抗を抑え、集団農業化、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めた。しかしながら、セルゲイ・キーロフのような他の指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。
大粛清
スターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放した。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺の後に法律を改定し、強制収容所への収監と処刑が行われた。
キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。
1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる「大粛清」の前兆であった。
主な犠牲者としては、かつてスターリンと共にトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、ソコルニコフ、チュバール、ピアタコフ、ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、ゲンリフ・ヤゴーダ、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのは僅か15人であった。トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。
俳優及び演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、留学中の医師・国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されていたことが判明している)。
「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、裁判により処刑されたものは約100万人、強制収容所や農業集団化により死亡した人数は一般的には約2000万人と知られている。1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現政府のロシアが公式に認めた。しかし、これは一部分であり、全ての文書の公開はされておらず、公開されるのはさらに時が経つのを待たなければならない。とりわけこの時のシベリアへの農民移住は悲惨を極め、このことが同時期の大飢饉と無関係ではあり得ないが、正確な犠牲者数は未だに不明である。
スターリン憲法
1936年、スターリンは「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「労働者の利益に従って」という条件のもと、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初であった。
だが、この憲法は国内よりは対外的な宣伝を意図して作られた物であり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。スターリンの死後に一部が改正され、1977年にレオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。後にミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月及び1990年3月に改正された。後者の改正は、大統領制・複数政党制が導入されている。最終的に、1991年のソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。
第二次世界大戦
独ソ不可侵条約
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でナチス・ドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。こうしてポーランドの東半分を得たスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。
その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導のもと一刻も早い防衛体制の確立をめざした。一方で時間を稼ぐため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けることでドイツの攻撃の開始を遅らせることを図った。
独ソ戦
しかし1941年6月22日、アドルフ・ヒトラーは協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全く出来ていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。
ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月にはスターリングラードにおいてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。
スターリンの戦略家としての欠点が、ソ連の敗北と多くの市民の死に繋がったとされる一方、彼はボルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持した。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[4]。スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。
戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民を共に撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。
スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。
対日参戦
8月、アメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本及び満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太・千島・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。
ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1931年、1932年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5パーセント以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアにおける最も大きな祝日のうちの一つである。
冷戦
第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア、ブルガリア、ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは形式上の独立を保持したが政治的に孤立し、かつソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。
これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放を以てソ連との国交を断絶した。
一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦において、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党を裏から操っており、初期は国民党を支援していたが形成不利と見るや支援を打ち切り、共産党への支援を強化した。1949年の中華人民共和国の成立により、中国を「共産主義ブロック」に置き中ソ対立まで技術交流などを積極的に行った。
更に朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、朝鮮戦争の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。
「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。
プロパガンダ
国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、
- ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明
- トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明
- グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの
- ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明
とされた。
また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され(例として、このページに載っている「スターリンとレーニン」写真は実は集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。
また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された(壇上で演説するレーニンの写真に於いては,引き続き階段で待機していたトロツキーを削除したり等)。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗りつぶすよう求められた。塗りつぶされていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。
他にも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人の間での些細な冗談であっても、密告によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。
個人崇拝
上記のようなプロパガンダを駆使して「聖者スターリン」のイメージを作り上げた結果、スターリンに対する個人崇拝も大変なものとなった。多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名のリスト)、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞やノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、現在はどちらも名称が異なる(平和賞に至っては、存在するかどうかすらもはっきりしていない)。
また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置された。当然これらもプロパガンダの一環であるため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学や音楽、それに詩集もスターリンを賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の多くでは、スターリンは神の如く崇められており、第2次世界大戦を1人で終結させたというような荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表のソビエト連邦国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。ただし、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えばヴァーノ・ムラーデリに代表される様な筋金入りのスターリン崇拝者で無い限りは、スターリンに心酔していたということを直ぐには意味しない。そのように心酔しているフリをしなければならないという、一種の強迫観念と社会環境に囚われていた可能性が高い。
ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、大統領派や民族主義派などの各派にもその傾向がみられる。デモに於いてスターリンの肖像画がある事は決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊した結果、富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の1つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたそうである[5]。また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した[6]。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代の後半、グラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。
これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている[7]。
なお、スターリンの故郷であるグルジアはゴリ市のスターリン博物館は今なお健在[8]である。
死去
1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。
暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。
発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存され、その後クレムリンの壁に埋葬された。
スターリンの死去はソ連をはじめとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重体が日本で報じられた3月5日、日経平均株価は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「スターリン暴落」と呼ばれた。これは、スターリンが亡くなることで朝鮮戦争の終結が早まり、当時日本経済を支えていると考えられていた朝鮮特需が終結することが懸念されたことが原因であった。
死因にまつわる噂
スターリンの死に関して、彼が殺害されたという説は根強い。1993年に公表された、元外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述がある。
2003年、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。スターリンの娘であるスヴェトラーナは、スターリンが脳卒中で倒れた時、フルシチョフらがいたにも関わらず医者を呼ばず、放置したことが死に繋がったと指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対を記している。
2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
なお、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じの為に殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。
人となり
性格
スターリンは、ロシア帝国時代において少数民族と認識されていた、グルジア人である。身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながらワインを飲んでいたという。
人間不信
スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれにともなう犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、パラノイアに冒され、常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフはスターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。
家族
スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚、1908年に長男のヤーコフが生まれたが、エカテリーナは25歳で病没した。スターリンは葬儀の場で、「彼女は、私の石のような心を和らげてくれた」「人間に対する温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。スターリンは、息子のヤーコフに対して冷たく接した。また、独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答し、人質交換には一切応じなかった。ヤーコフは、1943年に収容所内で射殺された。2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリーとスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは、1932年に拳銃自殺を遂げた。
ワシーリーは、周囲が気遣って空軍中将まで昇進させたが、後に身を持ち崩した。さらに、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコール依存症で死んだ。娘のスヴェトラーナだけは可愛がられたようであったが、彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。後に他の男との間に子を儲けた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて、アメリカに亡命することとなった。彼女は亡命先のアメリカで、「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と語っている。
臆病なる独裁者
権力の絶頂期には、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清であり、曖昧な返事でも粛清であり、返事を即答できなければ粛清であった。スターリンは少年時代に鞭を手にした教師に、「目を逸らすことは何かを企んでいる証拠である」と叱られた経験を持っていてこれを忠実に覚えており、スターリンとの会話の際、目を逸らした者は粛清の対象となった。このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話する時は、必死に彼の目を見たという。しかし、逆に部下と話す時は、恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。会議中に停電が起こり、電気がつくと、スターリンの姿が見えず、探してみると机の下で小便を流しながらブルブル震えていたという臆病さを表すエピソードが多くあり、非常に臆病な人物として知られている。ソビエト人民にとって不幸なことは、スターリンの猜疑心によって、大勢の無関係な、無実の人間が殺されたことである。歴史学者のロイ・メドヴェージェフは、「あの大粛清は、スターリンの性格の異常さだけに責任があるのではない。彼の暴走をとめられなかった党や国民にもあるのです」と語っている。
この性向は晩年に近づくほど酷くなり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前にでることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には痴呆も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった(軍隊が攻めてきても、2週間持つほど重装備であった)。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。
スターリンが信頼できたのは、ルーズベルトぐらいであろう。一方で、英国のチャーチルには強い不信感をもっていたようである。しかし、ルーズベルトは第2次世界大戦の終結を見ることなく他界している。
イヴァン4世への傾倒
スターリンは、帝政ロシア時代最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝を自らの師と崇めていたが(スターリンが絶対権力の階段に登る過程は、規模が違うだけでイヴァン雷帝の手法を模倣したものである)、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じるも、第2部において、描写をめぐって対立。その際、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している。
ヒトラーへの共感
また、スターリンは宿敵であるヒトラーに対し、親近感を抱いていたと言われている。大戦末期に当時イギリスの外務大臣であったイーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心が無いことを表明したという。
なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者(ライバル)としてスターリンを評価しており[9]、ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェビキの政策に影響を受け、秘密警察や強制収容所をソ連を参考に創設したと言われる。独ソ両国間での技術交流なども独ソ戦の開戦までさかんに行われた。更にミハイル・トハチェフスキー、エルンスト・レームなど政敵の排除のやり方をヒトラーとスターリンは共に参考・利用した説も存在する。
反ユダヤ感情
スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪感を持っていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かず、商売に執着している人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にユダヤ人(ラーザリ・カガノーヴィチやマクシム・リトヴィノフ等)を重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾する等、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていた[10]が、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちと共にユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪を話題にしては楽しんでいた。また、第二次世界大戦中には娘・スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレルがユダヤ人だったことから、彼を逮捕してヴォロクタ収容所での重労働刑を宣告している。
しかし冷戦に入る頃には、ユダヤ人に対して、ヒトラーと同質の強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった。その典型例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれている。
他人からの印象
このように文章だけを読むと残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、実際のスターリンは他人と話す時は常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げたり好感の持てる男だった。例えばトロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表。遺書どおりにトロツキー達がスターリンに書記長の座を降りるように要求した時、一切反論をせず反省の弁を述べ書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時カーメネフ達に「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などと持ち上げていって接触し、既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフ達の反対により書記長の座にとどまった。その後カーメネフ達がトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるように提案した時、スターリンはなんとトロツキーを擁護し反対している(後に解任)。しかし、ライバルを超える権力を持ち始めると本性を現した時には、すでにどうにも出来ない程の絶大の権力を持っていた。このようにスターリンは腹に一物も、二物ももつ本性を全く相手に感じさせず仮面を被るのが非常にうまかった。この為他の党員たちはスターリンが本性を現すまで、取るに足らない小物と思われていた。
容貌
一般的に知られているスターリンの容貌は、毅然とした美男子であるが、これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であって、実際には大きく異なる。グルジア人である彼の目と眉毛は釣り上がっており、「アジア人」というあだ名をつけられていた。またソ連時代「腕の短いヤツ」とはスターリンを意味する隠語であった。
スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物は影武者である。さらに、片方の足の指の一部がくっついていた[11]。
また、スターリンの身長は163cm程度でこれを非常に気にしていたため、シークレットブーツを履いており、写真で写る時は遠近法で大きく見せる為に必ず前の椅子で座っていた(ヒトラーも、記録によると175cmでドイツ人としては背が低くシークレットブーツを履いていたというが、真偽は定かではない)。『レーニンをミイラにした男』という本によると、スターリンの防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたということである。
なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただし、こうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。
スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されている時はプロパガンダのため、エンバーミングされ、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。
映画では1930年代後半からミハイル・ゲロヴァニがスターリン役として定着していたが、メイクはあくまでプロパガンダのスターリンの様相であったのは言うまでもない。実際のスターリンの容貌は1970年代より配役が多かったヤコヴ・トリポーリスキィの方が近い。
エピソード
- スターリンは、少年時代に父親から受けた虐待を忘れることはできなかった。彼の変名「コーバ」は、グルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギ作による英雄物語の主人公の名で、その題名は「父殺し」といった。
- 政権を握ってからは、故郷のグルジアから多くのワイン・ブランデー・ジャム・チーズ・ヨーグルトなどの食材を取り寄せさせて、自分の母親の手料理にできるだけ近い味を再現させるよう料理人に要求した。
- スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1~3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、スターリンは部下が酒に酔い潰れるのを見て楽しんだため、部下は酒を浴びるほど飲むことを命ぜられた[12]。そのためスターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。
- スターリンの趣味の一つに、映画鑑賞があった。アメリカの映画をよく取り寄せさせて側近たちと観ており、側近の一人に翻訳をさせていた。しかし英語がわからぬ側近ばかりで、実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
- 権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初にとるということは絶対にせず、部下に毒見をさせてから食べていた。
- 車で移動する時、装甲車並みの車を必ず自分で運転をして、先頭車両を必ず取り、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
- スターリンが赤の広場など公衆の面前に姿を現すときは、徹底的に秘密警察により観客の身体検査が行われ更に観客の両側を青い帽子を被った隊員らが式の行われている間中、観客の様子を監視したという。また、式を見下ろすことが出来る建物の窓は全て占拠され狙撃手が配備された。迂闊に立ち入り禁止区域に入った人間は即座に射殺されたと言われる。
- 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激で、スターリンにサインを求めたとき、不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様を聞いて喜んでいた。
- 長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出した後で、スターリンは、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えた。スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、「男なら堂々と死ねばよいのに」と怒り、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。が、後にゲオルギー・ジューコフがヤーコフの安否を聞いたとき、スターリンは「あいつは死を選ぶだろう」と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。程なくしてヤーコフは、収容所にて、警備兵によって射殺された。
- 肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカスの宮殿に住んだが、粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のようにスターリンに送った。1935年、スターリンが、死が近付いた母に会いにカフカスを訪問した際、「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と言うと、エカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。国民はこの母親の言葉に大層喜んだというが、「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったの?」「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」という会話は伝えられていなかったという。
- 1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。
- 1936年、大粛清の最中軍司令官イオナ・ヤキールが、処刑される直前にスターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。後に彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されたことを聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と口汚く罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、後に処刑された。
- 独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめ、残酷な目つきになった。特に瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいかわからなかった。
- スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。が、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行くことは二度となかった。
- 1941年の日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは松岡洋右外相にこう尋ねた。「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」。「コニシ」とは、京都大学教授・小西増太郎(1861~1940)のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣で、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。なお、野球解説者の小西得郎は増太郎の子息であり、その祖先は安土桃山時代の武将、小西行長であった。
- 1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官が騎乗することになっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフのもとにスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と告白した。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した。
- 毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。
- モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝りだし、来客に次々とレモンを食べさせ「私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!」と自慢した。
- 1939年の冬戦争でソ連軍は大した作戦も立てずに進行した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に惨敗した。スターリンは、旧友であり元帥でもあるクリメント・ヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、口汚く罵った。しかし、それまで一度も彼にはむかったことが無いヴォロシーロフがこのときばかりは、「(敗戦の責任は)あなたの粛清によって、多くの優秀な軍人たちが殺されたからではないですか!」と言い返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。ちなみにヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。
語録
- 「一人の人間の死は悲劇だ、数百万の人間の死は統計上の数字だ」
- 「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
- 「死が、全てを解決する。人間が存在しなければ、問題は起こらない」
- 「君たちは戦車の上に百貨店を造るつもりかね」
- 「社会主義が成功すればするほど階級闘争はそれだけ激しくなる」
- 「コルホーズ反対の反乱農民は富農であり、すべての富農を撲滅せよ」
- 「赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争後、政府当局が公式に示した敵に捕らえられたロシア人捕虜に対する態度)
- 「ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際、ヒトラー自殺の報告を聞いて)
- 「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」(長男ヤーコフがピストルによる自殺未遂で失敗した時)
- 「チベット攻撃?けっこうなことだ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められた時の返事)
- 「人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
- 「我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日、日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の松岡外相に言った言葉)
- 「うちのヒムラーです」(ポツダム会談の折、米英首脳に腹心の内務人民委員部長官ベリヤを紹介したときの言葉)
- 「策略を十分に練って、敵を完膚なきまでに倒したその晩に、上質のグルジアワインを飲む時だな」(記者から、「一番幸せな時は?」と聞かれたときの言葉)
- 「バチカンは、何個師団の軍事力を有しているのか」(スターリンが、国家の実力を軍事力でしか判断できないことを示すエピソード)。
- 「では、われわれが農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あの時だって200万人も死んだのですよ」(1937年、粛清の行き過ぎを仲間に指摘されて)
- 「よく刑務所なんかに入っている暇があったもんだ。戦争が始まったよ」(粛清された仲間を釈放して呼び出したときの冗談)
- 「私はアジア人のことはよく知っているがね、あいつらとは時と場合によってはきびしく接しないといかんね」(1939年、ドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの会話での発言)
- 「奴は人殺しだ。1938年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」(スターリンの指示で粛清を実施し、後に自らも粛清されたニコライ・エジョフについての言葉)
- 「私はもうおしまいだ。だれも信用できない。自分さえも」(1951年、スターリンがフルシチョフとミコヤンにつぶやいた言葉)
- 「チャーチルという奴は、見張っておかないと君のポケットから1コペイカ失敬するような男です。そう、たった1コペイカのためにポケットに手を突っ込むんです。ローズヴェルトは違う。彼はもっと大きな銭を取ろうとしてポケットに手を突っ込む」(1944年、ユーゴスラビアのジラスに語った米英両首脳の比較)
- 「いつまでも復位させることはない。しばらく連れ戻しておいて、適当な時に背中にそっとナイフを突き立てればよいのさ」(1944年、ユーゴスラビアのチトーとの対話で、退位したユーゴスラビアのペタル王の処遇についての発言)
著作物
- 『レーニン主義の基礎』 スターリン全集刊行会翻訳 大月書店 1952年 ISBN 4272820109
- 『マルクス主義と民族問題』
- 『マルクス主義と言語学の諸問題』
- 『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』
なお、全集も存在する。
参考文献
- バーナード・ハットン著/木村浩訳 『スターリン』 講談社学術文庫 1989年 ISBN 4061588982
- 産経新聞/齋藤勉『スターリン秘録』 産経新聞ニュースサービス ISBN 4594030750
- ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書(ソ連篇)』 2006年 恵雅堂出版 4874300278
- エドワード・ラジンスキー著/工藤精一郎訳 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯(上、下)』 日本放送出版協会 1996年 ISBN 4140802553、ISBN 4140802561
- ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メドヴェージェフ 共著/久保英雄訳 『知られざるスターリン』 現代思潮新社 2003年 ISBN 4329004283
- ユーリイ・ボーレフ著/亀山郁夫訳 『スターリンという神話』 岩波書店 1997年 ISBN 4000010662
- ロバート・コンクウェスト著/片山さとし訳 『スターリンの恐怖政治(上・下)』 三一書房 1976年
- ドミートリー・ヴォルコゴーノフ著/生田真司訳 『勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像(上・下)』 朝日新聞社 1992年 ISBN 4022564369 ISBN 4022564377
- アラン・ブロック著 鈴木主税訳 『対比列伝 ヒトラーとスターリン』全3巻 草思社 2003年
- ニコライ・トルストイ著/新井康三郎訳 『スターリン その謀略の内幕』 読売新聞社 1984年 ISBN 4643543604
- クリストファー・アンドルー、オレク・ゴルジエフスキー共著/福島正光訳 『KGBの内幕(上・下)』 文藝春秋社 1993年 ISBN 4163482105、ISBN 4163482202
- ルドルフ・シュトレビンガー著/守屋純訳 『赤軍大粛清』 学習研究社 1996年 ISBN 4054006507
- 亀山郁夫著 『大審問官スターリン』 小学館 2006年 ISBN 4093875278
- ソロモン・ヴォルコフ著/中野好男訳 『ショスタコーヴィチの証言』中央公論社 1980年
- アブドゥラフマン・アフトルハノフ著/ 田辺稔訳 『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』 中央アート出版社 1991年
- 福田ますみ著 『スターリン 家族の肖像』 文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X
脚注
- ^ スターリンは計画全般を指揮したが、実行には参加していない。
- ^ →「ポーランド・ソビエト戦争 § ヴィスワ川の奇跡」も参照
- ^ レーニンの死後に見つかった手紙などから、レーニンがスターリンを批判したのはクルプスカヤへの叱責事件が原因だということがはっきりしている。
- ^ しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている
- ^ スターリンテストに落第
- ^ シベリア観光庁、スターリン記念碑を再建
- ^ スターリン人気上昇中 モスクワに新たなスターリンの銅像
- ^ 国立スターリン博物館公式サイト(グルジア語、ロシア語、英語)
- ^ 『スターリン その謀略の内幕』p.99 ヒトラーは1942年に「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した。
- ^ 大粛清ではカーメネフ・ジノヴィエフ・ラデック等がユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、『プラウダ』などの風刺画で、額にハーケンクロイツを付けた姿など「ナチスの手先」として描かれることが多く、ユダヤ人であることには言及されなかった。
- ^ 『スターリン その謀略の内幕』p.31 帝政ロシアの警察による記録では、左足の第2指および第3指が癒着していることが記されている。
- ^ この行為には部下の忠誠度をチェックする目的もあったとされ、スターリンは部下たちを泥酔させながら、自身は水を飲んで酒に酔っているふりをしていたこともあったといわれる。
関連項目
- 独裁
- 全体主義
- ファシズム
- スターリン主義
- スターリン批判
- スターリン様式
- 書記局長
- 個人崇拝
- GPU
- NKVD
- ラーゲリ
- スペイン内戦
- 冬戦争
- 独ソ戦争
- 東条英機
- アドルフ・ヒトラー
- ベニート・ムッソリーニ
- 毛沢東
- 金日成
- 蒋介石
- 蒋経国
- 宋美齢
- アレクセイ・スタハノフ
- 有田芳生
- 1984年 (小説)
- Video
外部リンク
- 「大会への手紙」レーニンの事実上の「政治的遺言」というべきもの。スターリンに対する否定的な評価を含む(英語)。
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):スターリンによるイメージ操作
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):ソ連からのメッセージ
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