荒谷俊治

日本の指揮者 (1930-2020)

これはこのページの過去の版です。202.243.144.64 (会話) による 2008年8月3日 (日) 09:40個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (略歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

荒谷 俊治(あらたに しゅんじ、1930年 - )は、日本の指揮者

略歴

広島県に生まれる。福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)、旧制福岡高等学校を経て、1953年九州大学法学部卒業、1955年同文学部卒業。九州大学在学中は九大フィルハーモニーオーケストラ福岡合唱協会に所属し指揮を行い、指揮法を石丸寛、作曲を高田三郎に師事する。1959年東京放送合唱団を指揮してデビュー。1968年東京フィルハーモニー交響楽団指揮者に就任する。1969年文化庁派遣在外芸術研修員としてアメリカに留学しジョージ・セルのもとで研究、1970年クリーヴランド管弦楽団を指揮する。同年秋からは東京バレエ団ヨーロッパ公演に招かれてボリショイ劇場管弦楽団ルクセンブルグ放送交響楽団などのヨーロッパ各地のオーケストラを指揮する。

傍ら1966年から日本オペラ協会と協力して『山淑太夫』、『春琴抄』などの創作オペラを公演したり、日本音楽集団と協力して三木稔廣瀬量平の作品など伝統に根ざした日本の新しい音楽を育てることに情熱を注いだ。1974年からは名古屋フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者として同フィルを日本有数の地方オーケストラに育てた。また、東京リーダーターフェル、東京コールフェライン、福岡コールフェライン、福岡OBフィル、桐蔭学園第九オーケストラ、町田フィルハーモニー交響楽団、町田フィルハーモニー合唱団など、アマチュアの育成にも尽力する。海外演奏は1970年以来、アメリカ合衆国、ソ連、フランス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプト、中国、南米、韓国に及んでいる。

2003年2月7日山田耕筰齋藤秀雄朝比奈隆に次ぐ第4代日本指揮者協会会長に就任する。

エピソード

九州大学法学部在学中、荒谷はもともと弁護士志望であったが、九大フィルの宮崎の演奏会において、招待児童の中に三重苦の生徒たちがおり、当初は楽員も荒谷もこの子たちがどのようにして音楽を感知できるのかと不思議に思っていた。音楽の感動は聴覚と視覚がなくては享受できないと思っていたからである。しかし、この三重苦の子供達は座している床板から伝わる微妙な振動によって音楽を見事に享受していた。音楽はそこから生徒たちの感応へ見事に溶け入って、生徒たちが輝かしい表情となっているのを荒谷は見た。演奏終了後、生徒たちの拍手を荒谷は泣きたい思いで受け取っていた。この時、荒谷の体を強い衝撃が貫き、プロ指揮者の道を志すことを決意したという。