大隅石井氏
(大隅/薩摩)石井氏(いしいし)は、。桓武平氏三浦氏の一族で、相模の国から下大隅に下向し、鎌倉・南北朝・戦国時代に活躍した武士で島津氏の重臣。
概要
大隅国大隅郡垂水中俣・海潟(垂水市)の領主に石井氏があった。石井氏は相模の国の豪族で頼朝を扶(たす)け、鎌倉幕府の創立に尽力した三浦義明の子孫で、石井(現在の神奈川県横須賀市平作町に小字石井がある。)の城主。 鎌倉時代(1330年頃)、石井重義下大隅に下向。垂水城を再興し、石井氏を名乗りここを居城とした。南北朝時代北朝側に属し、貞和5年(1349年)石井中務丞重信(重義の子)を南朝の肝付兼重が攻めたが、島津氏五代当主貞久、鹿児島より援軍を差し向け救出している。 石井氏五代元義の頃が石井氏が最も盛んな時代で、島津氏九代忠国、十代立久、十一代忠昌、十二代忠治四代の家老を務めた。 石井家は仏教に帰依しており、五代元義は、福昌寺造営の際、馬一匹、青銅百疋奉加。九代義辰は垂水海潟井之上に松岳寺を開いた。 天文五年(1536年)太守島津勝久下之城主伊地知重貞、田上城主梶原昌豊をして石井を攻略、垂水城陥落と旧記にあり。当時石井氏は島津実久方に属していたので、勝久方の伊地知氏に九代石見守義辰が殺害され、滅亡したものと考えられる。その後、石井氏の子孫は一部は大隅に残り、一部は島津氏に仕え鹿児島等薩摩半島や日向国佐土原に移住した。
嫡家略系図
桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王(平姓)─良文─忠道─為道─為継─義継(三浦姓)─義明─義澄─朝村─員村─盛明─義継(石井太郎)─①重義(大隅下向)─②重信─③久義─④孝義─⑤元義─⑥重義─⑦義春─⑧義定─⑨義辰─⑩義高─⑪義泰(鹿児島移住)─⑫義知─⑬義家─⑭義教─⑮元明・・・・才援─元亭(明治期医師)─元信