山梨県

日本の都道府県

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山梨県(やまなしけん、英語表記:Yamanashi Prefecture)は、本州内陸部に位置する、日本の一つ。令制国甲斐国に相当する。

やまなしけん ウィキデータを編集
山梨県
日本の旗 日本
地方 中部地方甲信越地方
団体コード 19000-4
ISO 3166-2:JP JP-19
面積 4,465.27km2
(境界未定部分あり)
総人口 784,175[編集]
推計人口、2025年9月1日)
人口密度 176人/km2
隣接都道府県 東京都神奈川県埼玉県静岡県長野県
県の木 カエデ
県の花 フジザクラ
県の鳥 ウグイス
他のシンボル 県の獣:カモシカ
県の歌:山梨県の歌
山梨県民の日:11月20日
山梨県庁
知事 長崎幸太郎
法人番号 8000020190004 ウィキデータを編集
所在地 400-8501
山梨県甲府市丸の内1丁目6番1号
外部リンク http://www.pref.yamanashi.jp/ 山梨県ウェブサイト
山梨県の位置
特記事項

山梨県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

ファイル:Prefectural Logo of Yamanashi.png
山梨県旗

山梨県庁舎本館

山梨県庁別館
ウィキポータル 日本の都道府県/山梨県
ウィキプロジェクト

概要

南に富士山、西に赤石山脈南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、海抜2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。都道府県面積は全国32位だが、山梨県はその8割を山が占めるため可住地面積は全国45位である。

箱根峠より西の内陸側に位置しているため、明治以来用いられている、日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方東北地方関東地方中部地方近畿地方中国地方四国地方・九州地方)では、中部地方中央高地。俗に言う甲信地方)として区分されている。しかし、首都圏整備法施行令では首都圏と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方と一緒に扱われることもある(同県の運輸関連の管轄は関東運輸局である)。すなわち、山梨県は中部地方と関東地方の両方に分類されている[1]

往来が比較的容易で、交通路も整備されている。東京都(除島嶼)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。又、埼玉県秩父地方との境には奥秩父山塊に隔てられているが、1998年国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となり、今後は交流の活性化が期待されている。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。

名が県名になった県の一つであり、律令制下において中核地域であった山梨郡に由来する。山梨郡の名前の由来は「旧春日居町にある山梨岡神社の裏山に梨の有名な古木があり、そのためこの地域はいつしか山梨と呼ばれるようになった」という付会伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われがちである。しかし残簡風土記には「山無瀬」、737年天平9年)の駿河国正税帳には「夜萬奈之」と記されており、語源としては「山平らす(やまならす)」、つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。そして713年和銅6年)に「諸国の郡郷名は好字(よきじ)で著せ」とする和銅官命が出されたことにより、「梨園」などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて、「山梨」と呼ぶようになったといわれている(出典:山梨県道路公社『雁坂トンネルと秩父往還』1998年)。

県域は、西半部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東半部の桂川(けいがわ)(相模川)と多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内とに大きく分けられ、両者は方言(東半部、特に大月や上野原はどちらかと言えば西関東方言に近い)や自然環境面でも文化的にも性格を異にする点が少なくない。

地理

山梨県の分類

隣接都道府県

東京都 - 神奈川県 - 埼玉県 - 静岡県 - 長野県

なお、富士山頂から麓にかけて接している山梨県富士吉田市静岡県駿東郡小山町及びそれに続く山梨県南都留郡山中湖村静岡県駿東郡小山町との境界(県境)には2ヶ所未定区間がある。

地形

気候と植物相

内陸側に位置するので、季節変化に明瞭な内陸性気候を呈しているが、山地によって隔てられる地域差も大きい。盆地部には夏の暑さと冬の寒さがともに顕著で、冬の季節風(八ヶ岳おろし)が強いが降雪はわずか。年間降水量が少なく日照時間が長く、台風の通過経路でもありしばしば集中豪雨に見まわれる。山麓地域では盆地部より気温が冷涼で、降水量も多い。このため、盆地周縁では冷涼な気候に向いた葡萄の栽培が盛んである。

植物相は盆地部で落葉広葉樹林、山岳部では亜高山・高山帯の植生。また、富士川下流域の河内地方は温暖多雨であり、潜在自然植生で常緑広葉樹林。

自然公園

歴史

※「甲斐国」も参照。

先史時代

甲府盆地では釜無川笛吹川が流れ両河川の氾濫原が広がっており、郡内地方では富士山の火山活動による影響も受け、定住が困難な時代が続いていた。

旧石器時代の遺跡は長野県との八ヶ岳山麓や静岡県の愛鷹山箱根山など隣接する文化圏に属する地域や桂川流域を中心に分布する。最古の一杯窪遺跡都留市)や立石遺跡(甲府市)をはじめ、八ヶ岳山麓の丘の公園内遺跡群(北杜市)や神津島産の黒曜石が出土した横針前久保遺跡(北杜市)長野県産の黒曜石が発見された天神堂遺跡などが代表的で、周辺地域に比べ密度は低いものの、周辺地域との人的移動を示す資料が発掘されている。

縄文時代草創期から前期には引き続き涌水の沸く山麓部や富士北麓などに遺跡が分布し、後期旧石器から草創期への移行期にあたる神取遺跡(北杜市)や関東文化圏の影響が見られる池之元遺跡(富士吉田市)が出現する。中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群(笛吹市、甲州市)や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。また、盆地西部の西郡地域は釜無川の氾濫原であり考古遺跡は乏しいが、近年では精巧な土器や土偶が出土した鋳物師屋遺跡が発掘され注目されている。

後晩期には地球的な寒冷化の影響を受けて遺跡数が減少するものの、石組や配石遺構など祭祀施設であると考えられている八ヶ岳南麓の金生遺跡(北杜市)や牛石遺跡(都留市)などが出現する。また、郡内地方の桂川流域では関東地方との交流が見られる遺物が出土している。

弥生時代には身洗沢遺跡金の尾遺跡などの集落遺跡があり、宮の前遺跡(韮崎市)では水田が確認されている。盆地南西部の曽根丘陵では東海地方経由で弥生文化が流入し、方形周溝墓が見られる上の平遺跡など古墳時代に至る遺跡がある。

古墳時代の4世紀後半には畿内で確立したヤマト王権と政治的接触を持っていたと考えられており、曽根丘陵では4世紀前半の前方後方墳である小平沢古墳をはじめ、4世紀後半には最大規模の甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳などの有力首長クラスの前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡などの副葬品も出土している。5世紀には中道勢力が衰退し、古墳の造営は盆地各地へ拡散する。

古代

記紀においてはヤマトタケルの東征において酒折宮に立ち寄ったとする伝説が伝わり、ヤマト王権の新興勢力、あるいは弥生時代以来の土着勢力が王権に服していたと考えられている。「甲斐」の枕詞である「なまよみ(半黄泉)」も、ヤマト王権の勢力が及ばない地域(黄泉)との境界に位置していたから付いたのではないかという説もある。ただしこれは学問的には通説とはなっていない。

律令制五畿七道では、甲斐国は内陸国ではあるが、東海道に属していた。しかし、富士山の麓の内陸側に位置するため、東海道の色は薄かった。

中世

平安時代後期の源頼朝の挙兵に従い、甲斐源氏の棟梁となった武田氏甲斐国の守護となる。中世には必ずしも甲斐守護を歴任していないが、鎌倉幕府滅亡後に北条時行ら北条氏の残党が起こした中先代の乱までは北条方に属し、南北朝時代には建武政権から離反した足利尊氏に従った。

室町時代には幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府における鎌倉公方関東管領の対立など関東地方の騒乱の影響を受け、上杉禅秀の乱では守護武田氏が乱に荷担し追討を受け甲斐は守護不在状況となり、反守護勢力の逸見氏が活動し国内は混乱した。室町後期には幕府の意向で武田氏の守護復帰のため入甲した跡部氏が台頭するが、守護武田信昌は跡部氏を排斥し、国内統一を勧めた。

戦国時代にも国内の争乱や隣国との抗争は続いたが、武田信虎は国中地方の有力国人勢力や郡内領主の小山田氏など従属させ、抗争を続けていた駿河の今川氏や相模の後北条氏とも和睦する。また、新たに甲府を拠点とした城下町整備を進め、国内統一を完成した。戦国期には武田氏による一円支配が行われているが、郡内の小山田氏や河内地方を領する穴山氏などの国衆はそれぞれ独自の支配を行っている。

武田晴信(信玄)は信虎後期の拡大志向を継承し、甲相駿三国同盟を背景に信濃侵攻を行い越後の上杉謙信と川中島合戦を繰り広げ、後期には西上野侵攻や今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行い最大領国を達成し、三河・遠江への侵攻も行い織田・徳川勢力と対抗した。また、信玄期に確立した大名権力により独自の領国支配が展開され、検地の実施や棟別諸役の整備、躑躅ヶ崎館を中心とする甲府の城下町整備、黒川金山湯之奥金山など近世まで稼働した甲州金山の開発、信玄堤の築造など治水事業が行われている。

勝頼期には長篠の戦いによる武田領国の動揺を招き、天正10年(1582年)3月、織田信長の武田攻めで武田氏は滅亡した。武田遺領は織田家家臣に分配され、甲斐は河尻秀隆の領土となった。同年6月に信長が横死し、空白地帯となった武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏による天正壬午の乱が起こり、甲斐国は徳川家康の領土となった。家康は家臣の平岩親吉に命じて甲府城築城に着手し、以来江戸時代に至るまで甲斐の支配拠点となる。

家康は豊臣秀吉に帰服し、天正18年(1590年)には駿府から江戸に移封され、甲斐国には浅野長政ら豊臣系大名が入った。豊臣政権下で甲斐は東国の家康に対する拠点として重視され、検地などが行われた。

近世

秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利した家康が、慶長8年(1603年)に江戸幕府を樹立すると、浅野氏は和歌山へ移封され、家康の九男の徳川義直の領地となった。甲斐国は関東に近い位置から、関東防衛の要所として重視され、国中には将軍直系、郡内には譜代大名が配置され、代官が置かれて江戸幕府が直覧した。元和2年(1631年)には、将軍秀忠の子徳川忠長が入り、支藩の谷村藩も生まれた。

徳川綱重、綱豊(徳川家宣)など徳川家の領地を経て、宝永元年(1704年)、綱豊が将軍後継になると、川越藩柳沢吉保が受封。享保9年(1724年)に子の吉里が転封されると天領(幕府の直轄領)化され、甲府勤番と代官による支配となる。延享3年(1746年)には御三卿の賄領がおかれ、うち田安領のみは幕末まで存続した。

江戸時代には甲州街道(甲州道中)が整備され、甲府も代官所の城下町として盛えた。又、江戸時代初期には角倉了以による富士川の工事が行われ、富士川水運が発展。江戸中期には郡内(都留郡)の農民が米価の値下げを求めて米屋の打ちこわしを行い、騒動が広まって甲斐一国騒動(甲州郡内騒動)と呼ばれる百姓一揆に発展した。

明治維新から終戦まで

慶応4年(明治元年、1868年)3月、甲府城へ入った新政府の板垣退助率いる甲州街道軍と、近藤勇率いる旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組)が勝沼甲州市の一部)大善寺で激突。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。

同年10月19日旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県石和県が設置され、12月11日旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年8月27日旧暦7月20日)、「」の呼称が京都府東京府大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。

明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる全国的な府県再編により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。明治6年(1873年)に着任した藤村紫朗殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。

明治42年(1909年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。

戦後から現在まで

※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。

1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。

1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。

田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。

昭和40年までに県内の中央本線が複線・電化され、昭和57年(1982年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、東京都区部からの日帰り観光地としても発展した。

バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武ダイエー湯村SCが撤退し停滞する甲府中心街を尻目に発展を遂げている。

望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫地方病)の終息宣言を行う。

天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。

平成15年(2003年)より平成の大合併が行われ、64あった市町村が28(2007年4月現在)まで集約された。

人口

年齢構成

年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]

年齢 人口
0 - 4歳      40
5 - 9      44
10 - 14      45
15 - 19     46
20 - 24       51
25 - 29        54
30 - 34      62
35 - 39      59
40 - 44     57
45 - 49    56
50 - 54     63
55 - 59      62
60 - 64     57
65 - 69     49
70 - 74       47
75 - 79      40
80歳以上       52

年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
男女別 [単位 千人]

年齢
21   0 - 4歳       19
23     5 - 9   21
23     10 - 14    22
24     15 - 19    22
26      20 - 24    25
28    25 - 29      26
32     30 - 34      30
30      35 - 39     29
29     40 - 44    28
28    45 - 49    28
32     50 - 54      31
31      55 - 59      31
28    60 - 64     29
23     65 - 69      26
21   70 - 74      26
17      75 - 79     23
17      80歳以上   35


山梨県(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 762,029人
1975年(昭和50年) 783,050人
1980年(昭和55年) 804,256人
1985年(昭和60年) 832,832人
1990年(平成2年) 852,966人
1995年(平成7年) 881,996人
2000年(平成12年) 888,172人
2005年(平成17年) 884,515人
2010年(平成22年) 863,075人
2015年(平成27年) 834,930人
2020年(令和2年) 809,974人
総務省統計局 国勢調査より

行政

山梨県知事

山梨県知事一覧を参照

山梨県議会

山梨県議会を参照

財政

  • 財政力指数:0.35(17年度)

経済

農業

山梨県は内陸性気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水事業と新田開発が行われ農業生産力は向上したが、水田は発達せず地質に合った養蚕果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活面の変化をもたらしている。

戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。また、首都圏中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。

1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。

また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル2004年)であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。

工業

かつては養蚕業が盛んであったが、戦後に斜陽化のため現在は衰退している。また海や大河がなく大量の水を使うことができないため鉄鋼・金属などの重工業産業が発展しにくい土地である。その一方で四方を山地に囲まれ水質が良好であることから中央自動車道の全線開通以降長野県諏訪地域とともに精密機械産業が発達している。そのほかには石英(水晶)の採掘地であったことから研磨宝飾を中心とした宝石加工産業が発達している。

甲府盆地および富士山麓地域を中心にほぼ全地域に工業団地が点在しているが、可住地面積の少なさが災いしてか大規模な工業団地が形成しにくい。そのため近年では県外の工業団地に移転する企業が相次いでいる。

本社を置く主要企業

製造業
情報通信業
金融業
卸・小売業

拠点事業所を置く主要企業

交通

東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
富士急行
  • 大月線
  • 河口湖線
※上記両線は総称として「富士急行線」と呼ばれる。

バス路線

山梨交通グループ
富士急行グループ
その他バス路線
高速道路・有料道路
国道
地域高規格道路
県道
その他の一般道路

有形文化財建造物

国宝
重要伝統的建造物群保存地区

観光

観光地

自然
寺社
史跡
保養地など

祭事

地域

自治体は、以下の13市5郡9町6村がある。町の読み方は富士河口湖町だけが「まち」で、ほかはすべて「ちょう」である。
市部
郡部

地域区分

「国中」「郡内」は、戦国時代以来の呼称。「中西部」「東部富士五湖」は気象情報で用いられている。郡名は古来用いられてきたもの。「峡○」は、県の出先機関である地域振興局の区分となっている(この四つの他、東部・富士北麓地域振興局がある)。国中地方は中部地方の文化圏であるのに対し、郡内地方は関東地方の文化圏となっている。

大学・短期大学

マスメディア

新聞

戦前には『山梨日日新聞』(以下山日)、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで山日と富士急行が大株主となった『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。昭和44年に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は基本的には甲信越版であるが、地域により東京版も販売されている。

テレビ局

NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局が昭和34年に中継送信所を設置して以来普及した。民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌昭和44年5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。

山梨県は首都圏に属しているが行政区分上、中部地方に分類されることから在京テレビ局の放送エリア外であり、しかもFNN系列、ANN系列、TXN系列のテレビ局がないため、首都圏でありながら民放2局状態が長く続いている。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県徳島県佐賀県宮崎県。)の1つとなっている。(ただし下にもあるように※有料ケーブルテレビの普及率が極めて高いため、実質的にはアナログは5局地域であり、デジタルでも4局地域にまではなりつつある。

ラジオ局

ケーブルテレビ

山梨県のケーブルテレビの世帯普及率は、2007年現在90%超と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると91%を超える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できるのは地上波とBSアナログ放送だけとなるのが普通である。CS系放送局用アナログコンバーターやデジタル放送用STBは別途オプション契約となる。

・2007年2月13日更新

県内の一部で受信可能なテレビ局

県内東部では以下のテレビ局が受信可能。ただ、甲府盆地周辺では受信が難しい模様。NHK放送センターもNHK甲府放送局と総合・教育共に同一チャンネル(但しアナログ放送)の為受信が難しい。CATV各局では、以下のテレビ局5局を再送信しているところと、甲府市近辺をエリアとする日本ネットワークサービス(NNS)のように、系列局を持つ日本テレビ・TBSテレビを除く3局を再送信しているところがある。しかし県内東部も在京キー局5局の放送エリアに入っているとはいえ、山間部で受信困難な場所が多いため、近くの山の山頂や高台に共同アンテナを設置したり、地元のケーブルテレビに加入しているケースが多い。また、デジタル放送ではチャンネルが重なる等で高性能アンテナを利用しないと受信できない場合がある。(双方の送信所がアンテナの方向の一直線上にある場合は在京キー局は受信できない。)

  • 日本テレビ(デジタル放送はYBS山梨放送と同一チャンネル25chの為、高性能型アンテナ無くしての受信は極めて困難と思われるがYBSは日本テレビの系列局であるため、フジテレビや、テレビ東京のような1系列の番組がほとんど視聴できない状況は当面、回避できる。)
  • TBSテレビ
  • フジテレビ(デジタル放送はNHK甲府デジタル総合と同一チャンネル21chの為、高性能型アンテナ無くしての受信は極めて困難と思われる。ただし、一部ケーブルテレビでは再送信が始まっている。)
  • テレビ朝日(一部のケーブルテレビでは再送信が行われている。)
  • テレビ東京(デジタル放送はNHK甲府デジタル教育と同一チャンネル23chの為、高性能型アンテナ無くしての受信は極めて困難と思われる。)
  • テレビ神奈川(tvk)(すでに一部のケーブルテレビでのデジタル再送信も行われている。)

また、県南部(身延町など)や富士山周辺(富士河口湖町など)では、在静各局が静岡(日本平)本局もしくは富士宮、御殿場の各中継局から発射している電波を受信できる地域もある。


地上デジタル放送
山梨県地域のデジタルチャンネル割当て時に選定に係わった人々(山梨放送、テレビ山梨)の思惑により自局視聴率向上を図りたい為に東京キー局と同じチャンネル割当に決定した経緯[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。がある。
地上デジタル放送については日本民間放送連盟が区域外再送信を原則として認めない方針のため、県内局のデジタル放送開始時点では在京キー局の再送信は一切行われていなかった。
独立UHF局は2004年TOKYO MXの一部地域における区域外再送信開始を皮切りに順次開始している。また、在京キー局も、テレビ朝日は2007年7月から順次、フジテレビも同年10月から順次、区域外再送信が開始されている。
しかし、テレビ東京からはいまだ再送信同意が得られていない(これも地元民放の山梨放送とテレビ山梨がテレビ東京の株主と言う立場を利用して何らかの思惑が働いているようである[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。)、交渉は継続しているものと見られる。また、NHK東京(首都圏広域放送)の総合テレビを地元県域局の甲府局とともに再送信しているところもある。これは放送対象外地域のNHK総合テレビ・教育テレビの再送信を禁止する方針は出されていないためである。
この他、県南部の一部では、静岡県の地上デジタル放送が再送信により視聴できる。なお静岡県の地上デジタル放送については、今後予定されている御殿場中継局の放送が開始されても、アナログテレビの受信状態から見ても、県東部の富士五湖周辺地域においても受信が可能になる確率は非常に低い。

作品

文芸

映画

 H2~君といた日々(TBS金曜ドラマ)-ロケ地:甲府市 主人公の高校 その他

山梨県を舞台にした漫画・アニメ

脚注

  1. ^ 現在、公式に2つの地方に分類されている都道府県は山梨県の他には三重県のみ。ただし福井県新潟県も2つの地方に分類される場合がある。

関連項目

外部リンク