東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当(東大寺別当、住職)は219世・上野道善。
東大寺 | |
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大仏(国宝、盧舎那仏) | |
所在地 | 奈良県奈良市雑司町406-1 |
位置 | 北緯34度41分11.35秒 東経135度50分27.75秒 / 北緯34.6864861度 東経135.8410417度 |
山号 | なし |
宗派 | 華厳宗 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 盧舎那仏(国宝) |
創建年 | 8世紀前半 |
開基 | 聖武天皇 |
別称 | 金光明四天王護国之寺 |
札所等 |
南都七大寺1番(大仏殿) 法然上人二十五霊跡11番(指図堂) 神仏霊場 巡拝の道 第14番 |
文化財 |
金堂(大仏殿)、南大門、盧舎那仏(大仏)ほか(国宝) 中門、石造獅子ほか(重要文化財) |
法人番号 | 8150005000295 |
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である[1]。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。なお、奈良の大仏については、「東大寺盧舎那仏像」の項を参照。
歴史
(大仏および大仏殿の歴史については、別項目「東大寺盧舎那仏像」を参照)
創建と大仏造立
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[2]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用された、ということは、東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させる、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない、一大プロジェクトであったことをも白日の下にさらした。
奈良時代・平安時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[3]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。
中世以降
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648年-1705年)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている[4]。
伽藍
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。
- 南大門(国宝)
- 平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。
- 木造金剛力士立像(国宝)
- 高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従来の通説とは若干異なっているが、いずれにしても、運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ないであろう。
- 中門(重文)
- 金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)頃の再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。
- 金堂(大仏殿)(国宝)
- 金堂および本尊盧舎那仏(大仏)については別項「東大寺盧舎那仏像」を参照。
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多聞天像(金堂東北隅)
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広目天像(金堂西北隅)
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虚空蔵菩薩像
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如意輪観音菩薩像
- 金銅八角燈籠(国宝)
- 大仏殿の正面に立つ燈籠。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである。火袋には楽器を奏する菩薩の浮き彫りがある。
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金銅八角燈籠
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金銅八角燈籠の透彫
- 俊乗堂
- 鎌倉時代に大仏と大仏殿を再興した中興の祖、俊乗坊重源を祀る堂。現在の堂は宝永元年(1704年)の再建。本尊の俊乗上人坐像(国宝)は、上人が86歳で没した直後の制作と思われ、鎌倉時代肖像彫刻の傑作である。
- 行基堂
- 奈良時代の著名な僧で、東大寺の創建にも貢献した行基の肖像を安置する。
- 念仏堂(重文)
- 鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重文)を安置する。
- 鐘楼(国宝)
- 鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。2002年12月、NHKの下請け業者に釘を打ち込まれる事件に遭った。
- 法華堂(三月堂)(国宝)
- 境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、天平仏の宝庫として知られる。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により天平15年(743年)までには完成していたと思われる。建物の北側約3分の2(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている部分が天平時代の建築で、南側の礼堂(らいどう)部分は鎌倉時代の正治元年(1199年)頃に老朽化した天平建築を取り壊し再建したものである。堂内には多数の仏像を安置し、うち本尊の不空羂索観音立像をはじめ9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、執金剛神像を含む5体の塑像(粘土製の像)が奈良時代のものである。細い制作年代や当初の安置状況については諸説あるが、9体の乾漆像と執金剛神像が当初からの安置仏で、残りの塑像4体は客仏(後世に他の堂から移された像)とするのが通説である。
- 乾漆不空羂索観音立像(国宝)
- 奈良時代。高さ3.6メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕をもつ)の観音像である。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。
- 塑造日光・月光(がっこう)菩薩立像(国宝)
- 奈良時代。本尊不空羂索観音の両脇に静かに合掌して立つ。天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられたもので、本来は、薬師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、制作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天・帝釈天だった、とする説もある。
- 乾漆梵天・帝釈天立像(国宝)
- 奈良時代。本尊・不空羂索観音立像の左右に安置されている高さ4mを超える巨大な像で、ゆったりとした悠揚たる風格に圧倒される。
- 乾漆金剛力士立像(国宝)
- 奈良時代。
- 乾漆四天王立像(国宝)
- 法華堂須弥壇上の四隅に安置された四方を守護する神将像で、華麗な彩色文様がよく残り、天平時代の華やかさを今に伝える。
- 塑造執金剛神立像(国宝)
- 本尊不空羂索観音の背後の厨子に北向きに安置される。右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像である。長らく秘仏であったため、当初の彩色がよく残る。執金剛神とは、仁王像を1体で表わしたもの。本像は東大寺の開山(初代住職)良弁の念持仏と伝え、平将門の伝説でも知られる、古来著名な像である。伝説によれば、平将門が東国で乱を起こした時、この像の髻(もとどり、結髪)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び去り、将門を刺して苦しめたという。たしかに、本像の元結紐は今も片側が欠失している。秘仏であり、良弁の命日の12月16日のみ公開される。
- 塑造吉祥天・弁才天立像(重文)
- 奈良時代。堂内の厨子に安置されている。唐三彩の婦人俑に似た豊満な貴婦人の形をとっている。吉祥天は二臂、弁財天は八臂。いずれも破損が著しいがかえって塑像の構造が明らかにされており、美術史上貴重な資料である。
- 木造不動明王二童子像(重文)
- 南北朝時代。小品ながらもよくまとまった佳品である。
- 木造地蔵菩薩坐像(重文)
- 鎌倉時代。
- 二月堂(国宝)
- 旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。
- 開山堂(国宝)
- 開山(初代住職)良弁の肖像を安置するための堂。内陣は正治2年(1200年)、外陣は建長2年(1250年)の建築で、東大寺南大門とともに、大仏様(よう)建築の数少ない遺作である。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。
- 三昧堂(四月堂)(重文)
- 本尊千手観音像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。
- 大湯屋(重文)
- 鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。
- 勧進所
- 東大寺中興の祖である重源が勧進(焼失した東大寺再興のための寄金募集)の本拠としたところである。大仏殿西側の塀で囲まれた一画に阿弥陀堂、八幡殿、公慶堂などがある。
- 阿弥陀堂
- 五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆい)像(重文)を安置する。
- 八幡殿
- 建仁元年(1201年)、快慶作の僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像(国宝)を安置する。この像は東大寺の鎮守である手向山八幡宮い(たむけやまはちまんぐう)の神体であったもので、明治の神仏分離に伴東大寺に移された。制作当初の彩色が鮮やかに残る、快慶の代表作である。毎年10月5日のみ公開される。
- 公慶堂
- 江戸時代の大仏殿再興に貢献した公慶上人の肖像(重文)を安置する。像は上人の死去の翌年である宝永3年(1706年)の作。
- 戒壇院
- 出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。
- 塑造四天王立像(国宝)
- 法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照がみごとである。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であったので、今ある四天王像は後世に他の堂から移したものであることが明らかである。
- 転害門(国宝)
- 境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火にも焼け残った寺内で数少ない建物の1つ。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。2004年頃から野良猫による糞尿や爪とぎの被害が問題になっている。
文化財
史跡
現境内を含む約12ヘクタールに及ぶ広範囲の土地が「東大寺旧境内」として国の史跡に指定されている。
国宝
(建造物)
- 金堂(大仏殿)
- 南大門
- 本坊経庫
- 開山堂
- 鐘楼
- 法華堂(三月堂)
- 二月堂
- 転害門
(美術工芸品)
- 絹本著色倶舎曼荼羅図
- 紙本著色華厳五十五所絵巻
- 銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)
- 乾漆不空羂索観音立像(法華堂安置)
- 乾漆梵天・帝釈天立像(法華堂安置)
- 乾漆金剛力士立像 2躯(法華堂安置)
- 乾漆四天王立像(法華堂安置)
- 塑造日光菩薩・月光菩薩立像(法華堂安置)
- 塑造執金剛神立像(法華堂安置)
- 塑造四天王立像(所在戒壇堂)
- 銅造誕生釈迦仏立像・銅造灌仏盤 (奈良国立博物館に寄託)
- 木造金剛力士立像 2躯(所在南大門)
- 木造俊乗上人坐像(俊乗堂安置)
- 木造僧形八幡神坐像 快慶作(八幡殿安置)
- 木造良弁僧正坐像(開山堂安置)
- 花鳥彩絵油色箱
- 金銅八角燈籠(大仏殿前所在)
- 葡萄唐草文染韋(そめかわ)
- 梵鐘
- 賢愚経 巻第十五(四百六十七行)
- 東大寺文書100巻(979通)、8,516通
- 東大寺金堂鎮壇具 一括
重要文化財
- (建造物)
- 中門
- 東西回廊
- 東西楽門
- 念仏堂
- 法華堂経庫
- 法華堂手水屋
- 法華堂北門
- 二月堂閼伽井屋
- 二月堂参籠所
- 二月堂仏餉屋
- 三昧堂(四月堂)
- 大湯屋
- 勧進所経庫
- 石造五輪塔(奈良市川上町所在)
- (絵画)
- 絹本著色嘉祥大師像・絹本著色浄影大師像(かじょうだいしぞう・じょうようだいしぞう)
- 絹本著色華厳海会善知識曼荼羅図(けごんかいえぜんちしきまんだらず)
- 絹本著色華厳五十五所絵 10面
- 絹本著色香象大師像
- 絹本著色十一面観音像(2005年重文指定)
- 絹本著色四聖御影(ししょうのみえ)(建長本)・(永和本)
- 紙本著色東大寺大仏縁起 芝琳賢筆
- (彫刻)
- (金堂安置)木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像 順慶・賢慶・了慶・尹慶等作
- (南大門安置)石造獅子一双
- (俊乗堂安置)木造阿弥陀如来立像・快慶作 木造愛染明王坐像
- (念仏堂安置)木造地蔵菩薩坐像
- (法華堂安置)塑造弁才天・吉祥天立像 木造不動明王二童子像 木造地蔵菩薩坐像
- (二月堂参籠所食堂安置)木造訶梨帝母坐像
- (三昧堂安置)木造千手観音立像 木造阿弥陀如来坐像
- (公慶堂安置)木造公慶上人坐像
- (勧進所阿弥陀堂安置)木造五劫思惟阿弥陀坐像
- (戒壇院千手堂安置)厨子入木造千手観音・四天王立像 木造鑑真和上坐像 木造愛染明王坐像
- (中性院所在)木造菩薩立像
- (真言院所在)木造地蔵菩薩立像 木造四天王立像(新禅院伝来)
- (知足院所在)木造地蔵菩薩立像
- (収蔵庫)木造聖観音立像 木造十一面観音立像 木造伎楽面2面 木造行道面(蝿払)2面 木造菩薩面3面
- (奈良国立博物館寄託)木造釈迦如来坐像(旧所在指図堂) 木造弥勒仏坐像(旧所在法華堂) 木造阿弥陀如来坐像(旧所在勧進所) 木造十二神将立像(旧所在天皇殿) 木造地蔵菩薩立像・快慶作(旧所在公慶堂) 銅造舟形光背(二月堂本尊光背) 銅造如意輪観音半跏像(菩薩半跏像) 木造持国天立像 木造多聞天立像 木造伎楽面29面・乾漆伎楽面1面 木造舞楽面9面 木造獅子頭 木造閻魔王坐像・木造泰山府君坐像
- (東京国立博物館寄託)木造青面金剛立像
- (工芸品)
- 金銅鉢 2口
- 孔雀文磬
- 鉦鼓(長承三年銘)
- 鉦鼓(建久九年銘)
- 鉄釣燈籠(法華堂所在)
- 鉄湯船(大湯屋所在)
- 鉄鑰(てつやく)鍵付
- 堂司鈴
- 銅香水杓 4枝
- 銅水瓶 2口
- 銅鉢(金銅受台付)・金銅受台
- 鰐口
- 梵鐘 (真言院)
- 梵鐘(二月堂食堂所用)
- 雲鳳戧金経櫃(うんぽうそうきんきょうびつ)
- 朱漆布薩盥(ふさつたらい) 3口
- 黒漆鼓胴 2口
- 黒漆螺鈿卓(しょく)
- 彩絵鼓胴
- 彩絵鼓胴
- 五獅子如意(伝聖宝所持)
- 玳瑁如意(たいまいにょい)
- 二月堂練行衆盤 11枚
- 木製黒漆油壺 2口
- 木造西大門勅額
- 石燈籠(法華堂前所在)
- (書跡・典籍)
- 華厳経 巻第一、第四、第五、第六、第九、第十一
- 願文集
- 虚空蔵経 自巻第一至巻第八
- 金光明最勝王経註釈 巻第五、第九
- 金剛般若経讃述 巻上(白点本)
- 高僧伝六種 宗性筆
- 高麗版華厳経随疏演義鈔
- 紺紙金字華厳経
- 紺紙銀字華厳経残巻(二月堂焼経)
- 細字金光明最勝王経 自巻第六至巻第十
- 続華厳略経疏刊定記 巻第二、第九上下、第十三上下
- 大威徳陀羅尼経 自巻第一至巻第十
- 大般涅槃経 自巻第一至巻第四十
- 大毘婆沙論 巻第廿三
- 大方等大集菩薩念仏三昧経 自巻第一至巻第十
- 百法顕幽抄 巻第一末(朱点本)
- 法華統略 巻上
- 弥沙塞羯磨本(みしゃそくこんまぼん)
- 瑜伽師地論 巻第十二、第十三、第十四、第十七
- 羯磨(こんま)
- 円照上人行状記 凝然筆
- 東大寺凝然撰述章疏類自筆本(九種)
- 東大寺宗性筆聖教并抄録本(二百十四種)
- 東大寺要録
- 東大寺要録続録
- 賢劫経紙本墨書巻物(注)
(注)「賢劫経」は1897年重要文化財(旧国宝)に指定されているが所在不明。写真も残っていない。
- (古文書、歴史資料)
年中行事
- 1月1日 除夜の鐘(鐘楼)
- 1月1日~3日 正月三が日(大仏殿・二月堂)
- 1月7日 修正会(大仏殿) 悔過法要が行なわれる。
- 2月3日 節分・星祭り(二月堂) 日中、「還宮(げんぐう)」と「節分豆まき」がおこなわれる。還宮とは古くなったお札やお守り等を火にあげる儀式のこと。節分豆まきは、午後2時頃、二月堂の舞台の上から行われる。「星祭り」は、星に「除災与楽」を祈る法会。夕刻、二月堂本堂に万灯明をともし、「星曼荼羅」を掲げてこの法会を勤める。
- 3月1日~14日 修二会(お水取り)(二月堂) 詳細は修二会の項を参照。奈良時代、実忠和尚によって始められた東大寺の代表的行事。11人の練行衆とよばれる僧侶が精進潔斎して合宿生活を送り、二月堂の本尊十一面観音に罪を懺悔し、国家安泰、万民豊楽等を願う。内陣の中では過去帳読誦、走りの行法、韃靼の行法などの行事が行なわれる。二月堂の上でたいまつを振り回す「お松明」は3月1日以降連日行なわれる。若狭井から水を汲み本尊に備える「お水取り」は3月12日深夜(13日未明)に行なわれる。2007年の修二会は1255回目になる。
- 3月15日 涅槃講 釈迦の入涅槃を記念する法要。
- 4月8日 仏生会(大仏殿) 釈迦の誕生を祝う。
- 4月24日 華厳知識供(開山堂) 一山の僧侶が開山堂に参集し、良弁僧正の厨子の前に華厳五十五聖善智識曼荼羅をかけ、華厳経を講じ、法会を行なう。
- 5月2日~3日 聖武天皇祭 聖武天皇の御忌法要。
- 2日 天皇殿で論議法要。式衆・稚児の行列が市中から大仏殿に向かう。到着後、大仏殿で聖武天皇慶讃法要。舞楽も奉納される。
- 3日 山陵祭(大仏殿・佐保御陵) 大仏殿を出発し、東大寺一山の僧侶が聖武天皇をまつる佐保御陵に参拝する。帰着後、大仏殿で献茶式。
- 7月5日 俊乗忌(俊乗堂) 鎌倉時代に大仏を復興した俊乗房重源の法要。法要終了後(11時ころ)から午後4時ころまで日頃非公開の秘仏重源上人坐像(国宝)が一般公開される。
- 7月28日 解除会(げじょえ)(大仏殿) 法要と茅の輪くぐりが行なわれる。
- 8月7日 大仏お身拭い(大仏殿) 200人程の僧侶や関係者が、早朝より二月堂の湯屋で身を清め、白装束に藁草履姿で大仏殿に集合し、午前7時より撥遣作法が行われた後、全員でお経を唱え、年に一度の大仏さまの「お身拭い」を行なう。
- 8月9日 およく(二月堂) この日参詣すると46,000回参詣したのと同じ功徳が得られると伝えられている。
- 8月15日 万灯供養会(大仏殿) 盂蘭盆(うらぼん)の最終日、8月15日の夜、大仏に多くの灯籠をお供えする。お盆に帰省できない方々にもせめて御先祖の供養をしていただけるようにという趣旨で、昭和60年に始められた。
- 9月17日 十七夜(二月堂) 観世音菩薩の縁日で、法要のほか二月堂前広場で盆踊りが行なわれる。
- 10月5日 転害会 東大寺の鎮守の手向山八幡神社の祭礼。
- 10月15日 大仏さま秋の祭り(大仏殿)
- 12月14日 仏名会(二月堂) 三千仏の画像を掛け仏名を唱えて礼拝し、年内の罪障消滅を祈願。
- 12月16日 良弁忌(開山堂) 東大寺開山良弁僧正の法要。秘仏・良弁僧正坐像、執金剛神立像が公開される。
- 12月16日 方広会(法華堂) 研学竪義(けんがくりゅうぎ)と呼ばれる口頭試問が行われる。寺内の華厳と三論を学ぶものが学僧として認められるためにはこれに合格しなければならない。現在は形式化している。
- 12月18日 香水下げ渡し お水取りで汲まれた若狭井の水が信者に分け与えられる。
このほか、2002年以来、毎年12月にザ・グレイト・ブッダ・シンポジウムが開かれている。仏教に関する諸問題を広い視野に立ちながら厳密な学問的方法をもって分析・検討し、その意義を明らかにすることを目的とする。
社会事業
東大寺は、光明皇后が悲田院や施薬院を設け、日本の社会事業のさきがけとなった寺院であるため今も各種社会事業が行なわれている。
ギャラリー
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金堂(大仏殿)
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虚空蔵菩薩(大仏殿)
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金堂、祭典時
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二月堂
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二月堂から金堂を望む
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法華堂(三月堂)
アクセス
補注
- ^ 東大寺の記録には良弁以来の歴代別当が記録されているが、奈良時代期の重要決定・文書が別当ではなく三綱の名義で出されている事など矛盾も多く、良弁が東大寺の初代の住持であったのは事実であるが、実際に彼が就任したのは「造東大寺司」の別当であり、東大寺の代表者としての別当職の成立は「造東大寺司」が廃された平安初期頃と推定されている。
- ^ 異説として大和国国分寺は「総国分寺」である東大寺とは別個に設置され、奈良県橿原市八木町にある国分寺をこれにあてる説も存在する。
- ^ もっとも、華厳宗は開山・良弁ゆかりの宗派として重要視され、近代以前においても日本における華厳宗研究の中心地として、多数の優れた学僧を輩出していた。
- ^ 東西の七重塔に関しては、一時、再建が検討されたが、木造による完全復元は建築基準法に抵触するため、断念せざるを得ず、再建は見送られた(鉄筋コンクリートによる再建は可能だが、歴史的建造物としての意味が薄れる)。
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、足立巻一、清水公照 『古寺巡礼奈良14 東大寺』、淡交社、1980
- 川村知行 『東大寺I(古代)』(日本の古寺美術6)、保育社、1986
- 浅井和春、浅井京子 『東大寺II(中世以降)』(日本の古寺美術7)、保育社、1986
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』51 - 53号(東大寺1 – 3、手向山神社)、朝日新聞社、1998
- 奈良国立博物館、東大寺、朝日新聞社編 『東大寺のすべて』(特別展図録)、朝日新聞社、2002
- 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 永村真 『中世東大寺の組織と経営』 (塙書房、1989年 ISBN 482731036X)