小島和恵

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小島 和恵(こじま かずえ、1965年12月12日-)は青森県西津軽郡稲垣村(現・つがる市)出身の日本の元陸上競技選手。1989年に女子マラソンの日本最高記録(当時)を樹立したが、同年で現役を引退した。

人物・来歴

青森県立木造高等学校卒業。高校3年生の時には青森県高校総体の800mで優勝。高校を卒業した1984年、川崎製鉄千葉(現・JFEスチール)陸上部に監督の瀧田詔生のスカウトを受けて進む。チームには当時ロサンゼルスオリンピックのマラソン代表となった増田明美がおり、瀧田はもっぱら増田の指導に当っていたため、主にコーチの小沢欽一の指導を受ける。ロサンゼルス五輪後、瀧田と増田はともに川鉄千葉を退社し、小沢が監督に就任して本格的に小島のトレーニングに当った。

小島は長距離走に転向し、1987年3月の名古屋国際女子マラソンに一般参加選手として出場、初マラソンながら2時間34分59秒のゴールタイムで2位となる。これは、チームの先輩である増田の記録(2時間36分34秒)を1分以上も上回る、初マラソン日本最高タイムであった。

1988年9月開催のソウルオリンピック女子マラソンの代表選考会であった、同1987年11月の東京国際女子マラソンでは、2時間33分44秒で日本人最高の8位となる。この時点で小島が五輪候補の一人として注目が集まったが、翌年1月の大阪国際女子マラソンで2位に入った宮原美佐子が2時間29分37秒のゴールタイムで日本女子最高記録を更新、ほか3位の荒木久美・4位の浅井えり子と3人が小島の記録を上回ったため、小島は惜しくもソウル五輪代表には選ばれず補欠代表に留まった。

1989年1月の大阪国際女子マラソンは、2時間34分56秒で4位だった。その後同年の4月23日パリマラソンに出場した小島は、2時間29分23秒の当時日本女子最高記録を達成し、マラソン初優勝を果たす。ソウル五輪代表選考の際、一時は五輪代表に決まったかのような報道がなされながら落選したくやしさをはらすことになった。ゴール後小沢コーチ共々涙の勝利者インタビューとなった。海外の規模の大きなマラソン大会に日本の女子選手が優勝したのは、小島が初めての快挙であった。

小島は、自国開催である1991年世界陸上東京大会、翌1992年バルセロナオリンピックの有力候補選手とも言われていたが、マラソン日本女子最高記録樹立からわずか8ヶ月後、1989年12月に記者会見を開き「体の限界を感じ、これ以上競技を続けることができなくなった」として、突如現役引退を表明した。同年の秋頃から疲れが取れなくなり、不安を感じるようになったことから、監督の小沢と相談して決めたと理由を説明している。当時の陸上関係者やファン達からは、彼女の早過ぎる引退を驚き惜しむ声があがった。引退後は、大学に進学し、コーチ学を専攻していたが、結婚した。相手は山口百恵の元マネージャー。式には、山口(三浦)百恵も列席した。