桂歌丸

日本の落語家 (1936-2018)

これはこのページの過去の版です。210.194.89.234 (会話) による 2009年5月19日 (火) 17:34個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (笑点メンバーとして)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

桂 歌丸(かつら うたまる、1936年8月14日 - )は、落語家位階勲等旭日小綬章。本名は椎名 巌(しいな いわお)。神奈川県横浜市南区真金町の出身・在住(最寄駅は横浜市営地下鉄ブルーライン阪東橋駅)。社団法人落語芸術協会会長。横浜橋通商店街名誉顧問。出囃子は『大漁節』。当初は新作落語中心だったが、現在は、廃れてしまった落語の演目の発掘や、三遊亭圓朝作品など古典落語に重点を置き、活動をしている。

かつら うたまる
桂 歌丸
本名 椎名 巌
別名義 歌さん
生年月日 (1936-08-14) 1936年8月14日(89歳)
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市南区真金町
血液型 A
活動期間 1951年~現在
活動内容 落語家落語芸術協会会長)
配偶者 妻(椎名冨士子)
受賞
旭日小綬章
テンプレートを表示

演芸番組『笑点』(日本テレビ)の放送開始から大喜利のメンバーとして活躍、現在は同番組の5代目司会者を務める。

人物

落語家までの道

  • 生家は置屋「富士楼」であり、間近で芸者達を見て育ったためか、女の化粧風景を描写した「化粧術」の珍芸を持つ。
  • 『浜っ子』であることを誇りにしており、そのためか、古典落語独特の江戸ことばは多用しない。美しい日本語で語ることをモットーとしている。
  • 戦時中、母方の実家である千葉に疎開している最中に横浜の空襲で生家も焼失したが、戦後すぐに祖母はバラックを建て「富士楼」の経営を再開。貧しい時代にあっても食料に困ることもなく、当時高価だったラジオも持っていた。このラジオでよく聴いていた落語を、祖母や芸者の前で披露すると喜んでもらえることが落語家になるきっかけとなっている[1]。なお、本人によると小学校4年生の頃には将来落語家になるとすでに決めていたという。
  • 中学生となり、女郎屋の慰労会の席で当時二つ目だった春風亭柳昇の落語を聴いて落語家になる決意を完全に固めた。そして、NHKの出版部にいた遠縁の親戚を通じて誰に弟子入りしたらよいかを相談し「一番面倒見の良い人だから」ということで5代目古今亭今輔を薦められ入門することになる。ちなみに本人は「噺家になれさえすれば師匠は誰でも良かった」とのこと。

プレイボーイであったと言われるが、これは都市伝説、歌丸本人によれば楽太郎の流した噂ではないかという[2]

落語家として

  • 中学3年だった1951年に今輔の元に入門。兄弟子で、後の師匠である米丸の初名であった「古今亭今児」を名乗る。その際、師匠・今輔から言われた事は「芝居を見ろ」。今輔によると歌舞伎を見る事は落語に活きるからだと言い、実際自ら演じる際はそのエピソードをマクラとして登場させている。
  • 今輔門下から兄弟子・4代目桂米丸門下へ移籍したのは、当時芸術協会で勃発した香盤(序列)問題や、今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていた事に端を発している(ただし、今輔は「新作落語といっても土台は古典だから古典落語もしっかりやりなさい」と今児に話しており、実際に今輔から古典落語もいくつか教わっている)。この一件で今児は破門状態となり、一時ポーラ化粧品本舗のセールスマンへ転職するが、三遊亭扇馬(現:3代目橘ノ圓)の肝煎りで落語界に復帰。しかし、師匠・今輔が付けた条件により兄弟子・米丸門下となった(米丸も『浜っ子』である)。一部の記事では、1961年に「今輔死去に伴い兄弟子米丸門下に移籍」との標記があるが、これは誤り(米丸門下に移籍したこと自体は1961年の事だが、先述のように今輔一門からの事実上の破門状態になったことによるもので、今輔死去は1976年である。現に、1968年に行われた笑点での歌丸の真打昇進披露口上では、今輔と米丸がそろって登場している)。
  • 米丸一門の総領弟子ではあるが、芸風の違い(歌丸は今輔調といわれる)や米丸が新作一筋だったことから、米丸からは一つも噺を教わることは無かった(元は、米丸の弟弟子であり、米丸門下になった時点で二ツ目まで昇進していたこともあり、あえて米丸が稽古を付け直す必要性がなかったこともある)。ただし、米丸に師事して間もなく放送番組のレギュラーを数本もっていた米丸に米坊は鞄持ちとして付き、放送局に出入りするようになる。なお、米丸一門に移籍した後しばらくは新作落語中心に演じていた。
  • 米丸に師事して古今亭今児から桂米坊に改名したが、もう「坊」という歳でも無かろうと言うことで1964年1月に現在の歌丸に再改名する。何れも名付け親は米丸であり、また名前の由来は本人にも明らかにされていない。従って歌丸は当代が初代であり、名跡ではない。
  • 1974年1月より自宅に近い三吉演芸場がリニューアルオープンしたのを機にここで独演会を行うようになるが、「毎回新作を作っていくのではとても保たない」ということで古典落語中心に演じるようになる。また、演者の少ない演目の発掘もこれをきっかけに始める事となる。なお、独演会開始から満30年を迎えた2004年からは歌丸がトリを取っての一門会のスタイルに変わり現在に至っている。
  • 著書の中で1978年に起きた落語協会分裂騒動の際、新しくできた落語三遊協会に5代目三遊亭圓楽を通じて参加を要請されたことを明らかにしている。歌丸自身は上記の経緯で米丸一門に移籍したことを説明し「米丸一門を飛び出すことはできない」として断っている。
  • 1994年、TBS落語研究会のプロデューサーが6代目三遊亭圓生演ずる「栗橋宿」のビデオを持ってきて「やって御覧なさい」と言われたことがきっかけで以後三遊亭圓朝作の古典落語を演ずるようになる。
  • 出囃子の『大漁節』は趣味の釣りに由来する。ただし、「こだわっているので詳しく演じようとしてかえって噺がくどくなってしまい、釣りを知らない人には皆目面白くないものになってしまう」という理由で釣りを扱った落語は演じたことがないという。

頭髪に関するエピソード

  • 30代から現在に至るまで容姿が殆んど変わっていない。30代前半頃には、既に現在の頭髪に近い状態になっていた。なお、30代で逝去した自身の父はもっと薄かったと懐述している[3]
  • その頭髪の状態故か、実年齢よりも老けてみられることがあり、噺家として信用を置いて見られることがあったため、頭髪が薄いことで得なキャラクターとなったと語っている。
  • 本人曰く、育毛剤を使って頭髪を再生しようとしたことはないらしい。
  • 2000年代に入るまで、笑点における歌丸罵倒ネタといえば、ほぼ「禿ネタ」が中心であった(次いで冨士子夫人ネタ)。5代目圓楽政権末期頃から現在は、ブラック団による死去ネタがメインで、次いで禿ネタ・ジジイネタ・夫人ネタとなっているが、笑点開始以来、「禿」が歌丸の代名詞となっているといっても過言ではない
  • 司会就任後は、その頭髪の薄さにならい、同じく髪が薄くなってきている三遊亭小遊三(「小遊三さんもだいぶ歌丸師匠に近くなってきた」として)とともに、「ハゲカケ王子」(『ハニカミ王子』『ハンカチ王子』にかけた洒落)と呼ばれるネタをされることがある。無論、歌丸は既に「ハゲカケ」とは言い難い状態になっている。
    • 余談だが、歌丸と小遊三は、笑点メンバーであることは勿論のこと、落語芸術協会の正副会長と役員の上位に付いている、頭髪が薄い、いずれも恐妻家という共通点を持っている。
  • 大喜利でかつらを被る場合とあからさまな禿ネタを放たれた場合は、必ず歌丸の顔がアップで映し出される。
    • 大喜利メンバーが老婆のかつらをかぶる問題では、歌丸が被るかつらはほぼ確実に柳生博のようなものとなり、お題を発表して被った直後に昇太から「(毛が)増えてる」などと罵倒される。当然ながら、昇太の座布団は没収となる。

妻に関するエピソード

  • 妻の名前は冨士子大喜利でもしばしば恐妻として登場し、定番の笑いのネタとなっている(近年では、恐妻ネタはたい平罵倒ネタ(まれに小遊三罵倒ネタ)として使われる)。
  • 高座でも時折『女房殺害』ネタをしており、2006年の新春寄席では『後生鰻』という噺の結末「子供が川に放り込まれる」を鰻屋の女房(しかも冨士子という名前)が川に放り込まれる結末に変えていた。
    • ただし実際の夫人は私生活においても、健康面などで苦労の絶えなかった歌丸を支え続けてきた糟糠の妻であり、ほとんど世間に出ることはない。
    • 笑点への登場も、平成元年に座布団10枚の商品となった、クィーンエリザベスⅡの夕べでクルージングした時だけ。この時も後姿のみで顔は一切出さなかった。
  • 冨士子夫人も、歌丸と同じく横浜真金町の出身であり、歌丸の生家の近くに在住していた。このため、師匠・5代目今輔から勧められた見合いを断って、かねてから顔見知りであった冨士子夫人と結婚したと後に語っている。
  • 2007年11月23日に行われた歌丸の旭日小綬章と金婚式を祝う会では公の場に夫婦揃って登場した[4]
  • 冨士子夫人との結婚は21歳の時。娘も20歳で結婚したため42歳で孫が生まれた。これは芸能界では「最年少おじいちゃん」記録であると当時いわれていた。

笑点メンバーとして

前身番組の「金曜夜席」時代から番組に出演。「笑点」になった後も降板していた1969年4月6日11月2日および腰部脊柱管狭窄症の手術・療養のため休んだ2008年6月29日7月6日を除き、出演を続けている(なお、笑点オフィシャル本では、自己都合での休演は2008年の腰の手術の際の2回分のみとしている)。「金曜夜席」からの出演者の中で、現在まで出演を続けているのは歌丸だけである。

番組開始当初は喧嘩っ早いがらっ八役、他のメンバーや初代司会者7代目立川談志にまで喧嘩を売るキャラクターだった。それに必ず応戦するのが若旦那役の4代目三遊亭小圓遊で、大喜利における罵倒合戦のそもそものルーツがこれである。後年になると、世論風刺した答えを織り込む事が多くなる。理由は定吉役の6代目三遊亭圓窓が卒業後、風刺の効いた答えを言う人がいなくなった(後任の三笑亭夢之助がお調子者キャラクターだった)ためとしている。小圓遊亡き後は三遊亭楽太郎との罵倒合戦を繰り返している。

カラー高座着の登場後は「穏やかな緑色が好きだから」という理由で、一貫して黄緑色の高座着を着用した(司会就任後も1年余り着用)。ライバル・小圓遊の水色の高座着も、歌丸が黄緑色を着用したことを意識したからとも言われる。

1973年(脱腸)と2001年(急性腹膜炎)に2度開腹手術を受けているが、いずれも番組に穴を開けることはなかった。1973年の手術直後の神奈川県伊勢原市での公開録画には、体調が優れない中で看護婦同行の上で収録をこなした(この伊勢原での公録の模様を放送した「笑点」は40.5%の歴代最高視聴率をマーク)。2001年の時は手術直後の収録で、積み上げた座布団への昇降が困難だということで、歌丸は座布団の後ろに座ってその前に座布団を積み上げるという方式を取って臨んでいる。2006年に腰部脊柱管狭窄症の手術を行った際は収録が無い時期に手術を行った。

番組以外でも罵倒合戦が続いていて、歌丸が2009年に退院したときには記者会見で楽太郎が乱入して歌丸に向かって合掌(仏様扱い)や「次の入院のご予定は?」と言われた[5]


海外公演に積極的に参加

海外での活動は、過去にカナダトロントでの公演などが行われている。2006年3月10日には、パリで海外公演を開催、日本語(フランス語の字幕付き)で「尻餅」を演じ、11月2日には、ニューヨークで海外公演を開催し、同じく日本語(英語の字幕付き)で「尻餅」を熱演。2007年5月にはメキシコ公演(三遊亭楽太郎との二人会)、11月にはインド公演を行った。

趣味

多趣味で知られ渓流ワカサギ釣りが趣味。また、近年問題になっているブラックバスなどの外来魚放流問題に対しては怒りを露わにしている。他にも収集癖がありジッポ化石コレクターでもある。海外公演があると古物店巡りをする。

経歴

声優

テレビ出演

その他・単発出演

映画やドラマ等

CM

著書

一門弟子

脚注

  1. ^ 2008年7月21日放送 NHK「わたしが子供だったころ」
  2. ^ 2009年4月19日放送 NHK「笑いがいちばん」
  3. ^ 落語芸術協会会長就任時に日刊スポーツから受けたインタビュー記事
  4. ^ 桂歌丸、叙勲&金婚式を祝う会
  5. ^ 歌丸、笑点復帰 まだまだ司会ゆずれない!

関連項目

外部リンク

先代
5代目三遊亭圓楽
笑点司会者
5代目 2006年5月-
次代