ストロベリー・フィールズ・フォーエバー

ビートルズのシングル

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ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」("Strawberry Fields Forever")は、1967年2月にビートルズが発表した14枚目のオリジナル・シングル曲である。両A面シングル曲で片面は「ペニー・レイン」である。

『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー / ペニー・レイン
Strawberry Fields Forever / Penny Lane』
ビートルズ両A面シングル
リリース
録音 アビー・ロード・スタジオ(1966年11月24日 - 12月21日
ジャンル ロック
時間
レーベル イギリス:パーロフォン
アメリカ:キャピトル・レコード
プロデュース ジョージ・マーティン
チャート最高順位
  • 2位(イギリス)
  • 8位(アメリカ)
ビートルズ 年表
イエロー・サブマリン / エリナー・リグビー
(1966年)
ストロベリー・フィールズ・フォーエバー / ペニー・レイン
(1967年)
愛こそはすべて
(1967年)
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解説

レノン=マッカートニーの作品。実質的にはレノンの作った楽曲である。リードヴォーカルはジョン・レノン。リヴァプールにある戦争孤児院"Strawberry Field"(曲のタイトルとは異なり孤児院の名前の方は単数形のストロベリー・フィールド)をモチーフに作った曲である(ただし本人はそれが実在したという記憶は無く架空の場所とインタビューで答えていた)。ビートルズサイケデリック期における傑作として評価されている。

この曲は、アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の収録曲と同時期に録音されており、「ペニー・レイン」と共に、同アルバムに先行する両A面のシングルレコードとして1967年2月にリリースされた。これら2曲は同アルバムには収録されていないが、同年の米国キャピトル・レコード編集によるアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』には収録された。

既発売の正式テイクは、2コーラス目の冒頭の歌詞、「Let me take you down, 'cause I'm going to」の、「I'm」と「going」の間(CDでは開始からちょうど1分の所である)で、演奏キーの(さらにはテンポも)全く異なる(つまり、音域やコードが平行移動された)2つのテイク(テイク7と20)の録音テープの回転速度を合わせて、絶妙に繋ぎ合わせている。このため、テイク変更後はテンポとピッチ調整の影響でジョンの声が異なって(低く太い声に)聞こえる。こうなった経緯として、ジョンがシンプルな前半部か賑やかな後半部のどちらを取ったらいいか迷ったあげくにジョージ・マーティンに両方のテイクをつなぎ合わせるように頼んだというものが挙げられる。[1]ザ・ビートルズ・アンソロジー2』で、繋ぎ合わせる前の前半のテイクのみのスルーバージョン(通し演奏版)が収録されている。 イントロ後の"―――'cause I'm going to"のバック(左チャンネル)に聞こえるモールス信号のような音は、John Lennonのイニシャルの「J」「L」が4回ずつ(・--- ・-・・×4?)流れているが、これはギター(モールス音?)などで意図的に入れたものなのか、偶然なのかは不明である。

イントロ部分に当時の最新テクノロジー楽器であるメロトロンも利用されている。この曲のレコーディングにはかなりの時間が掛けられている。しかし、作者のジョン本人は、主にアレンジ面で不満があったようで、1980年のインタビューで、「ヘルプ!」や「アイ・アム・ザ・ウォルラス」と共にもう一度、レコーディングを行いリリースしたいと答えていた。プロデューサーのジョージ・マーティンによると、初めてジョンが目の前で歌ったアコースティック・ギターのみの演奏が最高だったと述懐している。[2]

この曲の終わりのジョンの2回のシャウトが「I buried Paul(ポールを埋めた)」と聞こえると話題になり、「ポール死亡説」を裏付ける一因とされたが、ジョンによれば「クランベリーソース(Cranberry Sauce)」と言っているだけとのことだった。実際『ザ・ビートルズ・アンソロジー2』収録のこの曲のアウトテイクでもはっきりと2回「Cranberry Sauce」と言っているのが、聴くことができる。

1990年に英ポップ・ダンスバンド、キャンディフリップにより同曲がカヴァーされ、イギリスでスマッシュヒットした。

なおモチーフとなったストロベリー・フィールド孤児院(救世軍子供の家)は、ビートルズ・ファンの訪問が絶えない場所であったが、入居する孤児が減少したことと、孤児のためには孤児院よりも里親制度のほうが好ましいとの運営側の判断から2005年に閉鎖された。建物の存続も心配されたが、その後2006年10月、祈祷や瞑想のための部屋を備えた修道施設として再オープンした。

ステレオ・ヴァージョン

「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」のリアル・ステレオ・ヴァージョンはビートルズの活動中にはリリースされなかった。ただしアメリカでは1967年11月にリリースされたアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』ステレオ盤に収録された。英国では1973年4月リリースの『ザ・ビートルズ1967年〜1970年』が最初となる。(但しアメリカで発売されていたものとは別ミックス)CDでは1987年8月にリリースされたアルバム『マジカル・ミステリー・ツアー』に収録された。

シングル盤

当時のイギリスでは、シングル盤はどのアーティストも同じ柄のレコード・スリーブ(レコード盤を入れる紙製の袋。レーベルの部分に穴が開いており、そこからどのレコードであるかを見分ける事ができる。もちろんデザインは各レコード会社によって異なっている)だったが、このシングルでは、初めてビートルズのメンバーの写真を使ったオリジナル・スリーブが使われた。裏面には各メンバーの幼年期の写真が使われて、取り出し口は波の形をしているという、非常に凝った作りになっており、当時のイギリスでは大きな話題となった。しかしながら、「ペニー・レイン」との両A面であったためにとレコードの売り上げを喰い合ってしまい(当時のレコード売り上げ集計システムは非厳密な正確性を欠いていた)「プリーズ・プリーズ・ミー」以来12作続いた英国のヒット・チャート1位には至らなかった。[3]その時1位になっていたのはエンゲンプルト・フンバーディンク(Engerbert Hunperdink)という歌手が歌った「リリース・ミー」という曲である。アメリカではB面扱で『ビルボード』(Billboard)誌では、1967年4月1日に週間ランキング最高位の第8位を獲得。ビルボード誌1967年年間ランキングは第92位。『キャッシュボックス』誌では最高位10位、年間ランキング100位以内には入らなかった。アメリカでは100万枚以上のセールスを記録し、イギリスでは50万枚以上のセールスを記録している。

なお、英国盤CDシングルでは1曲目に収録され、事実上のA面曲であることが伺える。

プロモーション・フィルム

プロモーション・フィルムもカラー映像で製作されており、当時としては珍しく演奏シーンの全くないものとなった。プロモフィルムも非常に評価が高い。 今日的なミュージック・クリップとしては世界初のものだった。 「ペニー・レイン」と2曲分が制作された。

収録アルバム

脚注

  1. ^ ジョージ・マーティン『メイキング・オブ・サージェント・ペパー』 35ページ
  2. ^ ジョージ・マーティン『メイキング・オブ・サージェント・ペパー』 24ページ
  3. ^ ジョージ・マーティン『メイキング・オブ・サージェント・ペパー』 水木まり訳、キネマ旬報社、1996年、40-41ページ

関連項目