砕氷船理論
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砕氷船理論(さいひょうせんりろん)とは、ヨシフ・スターリンが実行したと一部の論者が主張している戦略。第二次世界大戦におけるドイツと日本の侵略を砕氷船として利用し、その対象となって疲弊した地域を共産主義陣営に取り込む戦略のこと。
在野の歴史研究家杉本幹夫など「砕氷船理論」の存在を主張する論者によれば、第七回コミンテルン大会でスターリンが次のような演説を行った[1]。杉本によれば、「興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料」(国会図書館所蔵)中の「怪文書」[2]にその演説内容が記録されている。
ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ[3]。
ただし、これまでのところ、実際にこのような演説があったという、確実な史料に基づいた確認はされていない。
経過
砕氷船理論の直接間接の影響があると論者によって主張されている具体的な歴史的事実としては以下のものがある。
- 中国では西安事件以後は国共合作の方向が形成され、「中国共産党の劉少奇により起された盧溝橋事件[4][5]」[6]による日中の緊張した時期において、ソビエトのスパイであった張治中[7]は第二次上海事変によって上海の日本軍に対して正当な理由のない攻撃を行うことで日中戦争の開始を企てた[8]。
- 日本では尾崎秀実が砕氷船理論の実行者であるとされている。尾崎は同僚や関係者はおろか妻子にも話さず、秘密裏に行動を進めていった。具体的には国内の動きを逐一スターリンに報告し、ソ連と動きをあわせるためにひそかに活動を行っていた。[9]また、近衛文麿のブレーンとして、日中戦争早期講和および、国民党との講和に反対する論陣を張った。1937年(昭和12年)『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府にこだわるべきでないと主張し、翌1938年(昭和13年)1月16日の「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明に影響を与えた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、『中央公論』6月号で「長期戦下の諸問題」を発表した。近衛内閣は尾崎の主張にそう形で、中国国民党政府との和平交渉を打切り、日中戦争の拡大と泥沼化、そして日米戦争へつながる政策をとることとなった。
脚注
- ^ 杉本幹夫 (2003年). “中国の反日運動”. 自由主義史観研究会. 2009年5月24日閲覧。
- ^ 杉本自身、「国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中にあるが、入手経路が不明なるが故に怪文書と言われる」という注釈を付けている。
- ^ 加藤喜之『浮上する大和心』178頁に、『新編日本史・指導資料』(原書房)からの引用として紹介されている。
- ^ a b 中西輝政、平間洋一「コミンテルンに嵌められた大東亜戦争」『國民新聞』2007年12月25日、2~3面、(“コミンテルンに嵌められた大東亜戦争” (2007年12月25日). 2009年5月24日閲覧。)
- ^
- 参議院決算委員会における木暮山人議員発言 (“第128回国会 決算委員会 第3号”. 参議院 (1993年11月8日). 2009年5月23日閲覧。)
- 2003年6月12日、第156回国会憲法調査会中山正暉議員発言 (“第156回国会 憲法調査会 第8号”. 衆議院 (2003年6月12日). 2009年5月23日閲覧。)
- ^ 通説とは異なるが、若干の論者によって主張されている。 同事件の発端について、日本側研究者は「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。
- ^ ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年などで主張されている説であり、通説の理解とは異なる。「張治中」の項目を参照のこと。
- ^ ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年、341-342頁などでいわれている主張であり、通説とは異なる。
- ^ Agent: Sorge, Richard
- ^ ハリー・デクスター・ホワイトが"Jurist"と呼ばれる工作員であることを示すFBIのメモ
- ^ 『「もうひとつの戦争展」展示パネル集(第四集)』37頁
- ^ アメリカおよび日本の歴史家は、ハル・ノートの扱いの帰趨に関係なく、基本的に日本が11月15日の御前会議で決定された国家方針により戦争を開始したのであり、ハル・ノートは外交交渉上の一案にすぎず、大きな意味はないとしている。
参考文献
- 加藤喜之 『浮上する大和心』 徳間書店、1991年、ISBN 419554713X。
- 竹山道雄 『昭和の精神史』 新潮社、1956年。
- チャールズ・ウィロビー著、福田太郎訳 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』 東西南北社刊、1953年。
- 三田村武夫 『大東亜戦争とスターリンの謀略』 自由選書、1950年、ISBN 4915237028。
- 『新編日本史・指導資料』 原書房。