井上吉弘
井上 吉弘(いのうえ よしひろ)は戦国時代から江戸時代の武将。加藤時代の食禄は一千石、後に二千二十石に加増。
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時代 | 戦国時代から江戸時代初期 |
生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 寛永20年9月16日(1643年10月28日) |
改名 | 渋谷吉弘→井上吉弘、浄庵 |
別名 | 弥一郎、勘兵衛 |
主君 | 佐々成政→加藤清正、忠広→青山幸成 |
氏族 | 渋谷氏 |
父母 | 井上宗庵 |
兄弟 | 加藤重次、吉弘 |
子 | 市大夫、弥一郎 |
人物
加藤清正重臣(家老職)・加藤大和守與左衛門重次の実弟。近江国甲賀の出。初め富山城主佐々成政が隈本城主になると彼に仕え兄と共に肥後入りしたが、肥後国人一揆など内政の失敗で成政が豊臣秀吉の命で切腹させられたため、重次と共にその後に熊本城主になった加藤清正に仕えた。佐敷城代であった重次が主君加藤清正と共に豊臣秀吉の命で朝鮮出兵に参加(文禄の役)する事になっており、手薄になった佐敷城の留守居役として守った。
天正20年(1592年)、島津の武将梅北宮内左衛門国兼らが、豊臣秀吉の出兵命令を拒否して加藤清正の佐敷城を6月15日に部下730〜1000人規模で占拠した時、留守居役だった吉弘は井上彦左衛門、坂井善左衛門、安田弥右衛門らと謀り、6月17日の酒宴の席で油断した国兼を討ち取り、梅北一揆を鎮圧した(「井上弥一郎梅北一揆始末覚」、「梅北宮内左衛門一揆之次第」)後、朝鮮出兵に参加した。後に清正の側用人。加藤家家臣井上宗庵の婿養嗣子。渋谷勘兵衛を井上勘兵衛に改める。
寛永9年(1632年)、2代藩主加藤忠広改易後、入道して浄庵と名乗り、尼崎城主青山幸成(後に尼崎藩初代藩主)の客分(廿人扶持)と招かれ生涯を尼崎で終えた。長子市大夫(尼崎藩三百石)は尼崎にて病死、後に家督を相続した次子弥一郎(尼崎藩ニ百石)は世子青山幸利の代に、生まれ故郷肥後熊本に帰郷を願い出て許されている。子孫に大日本帝国憲法、皇室典範草案者である井上毅がいる。
登場する創作物等
漫画家小山ゆうの漫画「あずみ」に井上勘兵衛として登場しており、映画や舞台版での勘兵衛役は北村一輝、赤坂晃、的場浩司等が演じた。