日米関係史

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日米関係史(にちべいかんけいし 英:Japanese-American historical relations)では、日本アメリカ合衆国の二国間関係の歴史について述べる。時間軸としては1853年以後となる。

日米関係
JapanとUSAの位置を示した地図

日本

アメリカ合衆国

両国は、アメリカの領土の拡大とフロンティア消滅以後、時に強圧的に、時に協力的に歩み現在に至る。

アヘン戦争からペリー来航まで

この節では、国と国とのつながりはないがアメリカとの関係を年表形式で並べておく。

  • 1841年(天保12年)6月 - 中濱万次郎太平洋を漂流しアメリカ船に救われる。
  • 1845年(弘化2年)3月 - アメリカ捕鯨船、漂流民を護送し浦賀に来航。
  • 1846年(弘化3年)5月 - アメリカ捕鯨船員の7名、択捉島に漂着する。
  • 1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビッドル、浦賀に来航し通商を求める。幕府、拒絶する。
  • 1848年(嘉永元年)5月 - アメリカ捕鯨船、西蝦夷地に漂着。幕府、乗員を長崎に護送する。
  • 1849年(嘉永2年)3月 - アメリカ軍艦プレブル号長崎に来航し、漂流民ラナルド・マクドナルドを受け取り退去する。
  • 1849年(嘉永2年)6月 - アメリカ捕鯨船員の3名、樺太島に上陸する。
  • 1851年(嘉永4年)1月 - 土佐漁民中濱万次郎ら、アメリカ船に送られて琉球に上陸する。

日米和親条約

日本と米国との関係が生じるのは、1837年(天保8年)に米国船・モリソン号が、日本の漂流民を届けに来た時からである。この時は日本は異国船打ち払い令に基づき同船を追い返したが、太平洋航路の確立を急ぐ米国は、1846年(弘化3年)にも開国を要求するためにジェームズ・ビッドル浦賀に派遣したが、日本は拒否した。

1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、米国大統領フィルモア国書幕府にもたらすために、軍艦4隻を率いて浦賀に来航した(黒船来航)。国書を受け取った幕府は、その回答を翌年に行うこととし、ペリーは一旦琉球へと去った。幕府はこれを朝廷に伝え、その後諸大名に国書を示し意見を問うた。当時、外交などに諸大名が口出しをすることはなく、異例のことである。幕府の困惑ぶりを示すものといえるが、かかる来航には何も予告が無かったわけではない。すでに前年の1852年(嘉永5年)にオランダ商館クルチウスが東インド総督の来航を告げていた。幕府は、この告知を無視していた。

ペリーによる黒船の来航にあたり、「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず 」のような狂歌が流行る。

1854年(嘉永7年)1月16日、ペリーが再度7隻の軍艦を率い再び神奈川沖に来泊。2月10日には、林復斎らと交渉が開始された。幕府は漂流民保護・薪水食給与などを承認、通商については決し難き旨を回答した。3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結され、日本は、下田箱館の2港を開港した(1855年(安政2年)下田で条約批准)。

1855年(安政2年)、幕府は朝廷に条約締結の事情(英・米・露国、各国との条約締結)を具陳する。先の条約の要綱どおり米国は、1856年(安政3年)10月21日に駐日総領事ハリスを下田に来航させる。27日にはハリスが下田奉行に対し、通商の自由・通貨交換比率の取り決めを要求する。之に対し翌年5月26日下田条約(日米条約)を締結する。その後、10月21日にはハリス、江戸城に登城し、将軍に米大統領ピアース親書を提出することになる。之に対し登城反対の旨が諸大名などから老中に提出されたようだが結局登城となった。11月1日には、この親書・ハリスの口上書の写しを諸大名に示し、意見を求め、諸大名は意見を上申。12月2日、老中、ハリスを招き通商貿易と公使の江戸駐在を許可。11日には幕府全権の井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震目付)とハリスとの間で日米修好通商条約の交渉を開始することとなる。13日には幕府がこの条約を締結すべき旨を朝廷に伝える。1858年(安政5年)1月5日、幕府は勅許奏請のため、条約調印の60日延期をハリスに伝える。8日、堀田正睦勅許奏請のため京都に赴く(翌日参内)。3月20日、天皇は条約調印拒否の勅答を正睦に与える。その後、幕府は再び勅書を諸大名に示し、意見を聞く。6月19日、井上、岩瀬の両名は神奈川沖のポウハタン号でハリスと日米修好通商条約及び貿易章程に調印。これが(安政の五カ国条約)の最初となる。

12月30日、老中間部詮勝参内し条約調印了解の勅諚を受ける。そして1860年(安政7年)には二つの日本人グループがアメリカに上陸する。1月13日に咸臨丸軍艦奉行木村喜毅軍艦操練所教授勝海舟らが米国に向かい2月26日にサンフランシスコ港に入港。1月18日には、遣米特使外国奉行新見正興村垣範正・目付小栗忠順ら米艦で出航。万延元年(1860年だが閏3月に改元された)閏3月28日、米大統領カナブンと会見。条約批准。

積極的に関係を結ぼうと、使者を送ってきたり軍艦を引き連れてきたりしていたアメリカであったが、日米修好通商条約の締結・批准後、下関戦争などの長州藩四国艦隊(アメリカを含む)との攻防などはあったが、積極的な関係は一時途絶える。理由としては下記の二つが挙げられる。

  1. アメリカ南北戦争(1861年~1865年)
  2. 日本の明治維新(1868年)

しかし、この時期が過ぎ明治政府が成立すると、先の不平等条約を撤廃しようと日本側は動き始める。その第一陣的なものとなるのが、岩倉使節団である。1872年(明治5年)1月25日、岩倉具視は米大統領グラントに謁見する。

条約改正問題

使節団の後一旦、1878年(明治11年)には日米条約・協定を修正し日本の関税自主権を認める約書に調印、批准されるが、施行されず。1886年(明治19年)、外相井上馨が各国公使と第一回条約改正会議を開く。が、不調に終わる。1911年(明治44年)、ついに日米通商航海条約改正というかたちで関税自主権を回復し、不平等条約の撤廃に成功した(ちなみに既に治外法権は1899年、日米通商航海条約締結により撤廃済み)。

上記と時期は前後するが、1904年(明治37年)に日露戦争が勃発する。これは、朝鮮満州などに関しお互いの利益が絡んだためである。日本は前段階として1902年(明治35年)には日英同盟を結び、三国干渉臥薪嘗胆し、このときを待っていた。勝敗は日本優勢であった。遼陽会戦奉天会戦で勝利し、日本海海戦でも勝利した。ここで、日本は米大統領に日露講和の友誼的斡旋を希望する。そこで米大統領ルーズベルト、日露両国に講和を勧告し両国は受諾する。そしてその会議をポーツマスで開きポーツマス条約を締結する。だが、日本国内ではこの条約締結に対し非難が相次いだ(日比谷焼き討ち事件など)。主な理由としては日本側(と言うより日本国民)が、この戦争には勝ったと考えていたからである(実際に勝利と定義できるかはここでは触れないで置く)。また、条約には賠償金の規定がなく、そのことに対し怒った民衆が騒擾化した。

1906年(明治39年)、サンフランシスコ市の学務局が、日本人学童の隔離を命令した。これは排日移民行動なるものの皮切りと言われる。アメリカ合衆国の移民全面停止措置を唯一免れていた日本(当時アジアで唯一の先進国であったため?)が、州レベルでついに実行されることとなった(これは当時のルーズベルト大統領の異例の介入で翌年撤回となる)。この後、翌年には、アメリカ駐日大使が日本人労働者移民の渡航制限を要請してくる(これは日米紳士協約第一号と呼ばれる)。

当時の年表

1914年(大正3年)、日本はイギリスの要請により(日英同盟による)、参戦を表明しドイツ宣戦布告する。翌年には中国に対し対華21ヶ条要求を提出する。これに対し、米国務長官ブライアン、一部に不同意の覚書を日本側に手渡す。終戦間際の1918年(大正7年)にはアメリカがチェコ軍救済のためウラジオストクへの日米共同出兵を提議し日本は了承する(シベリア出兵開始)。また、同年11月にはアメリカより日本のシベリアへの出兵数・シベリア鉄道占領の件で抗議を受ける。戦後1919年(大正8年)、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した理念に基づいてパリ講和会議が開催される(日本全権は、西園寺公望牧野伸顕ら)。同年2月には国際連盟規約委員会で日本代表、人種差別撤廃条項を提案し、過半数を超える国の賛成を得るもののウィルソンの反対により否決される。五月には講和会議、山東省のドイツ利権に関する日本の承認を了承し、また赤道以北旧ドイツ領南洋諸島委任統治国を日本に決定。翌年、中国借款を日英米仏で成功させる。1921年(大正10年)にはワシントン会議が開かれ、日本・アメリカを含む九ヶ国が出席した。その中で、四カ国条約九カ国条約などをそれぞれ締結。

1929年(昭和4年)10月、アメリカで世界恐慌が起こる。翌年には日本にも影響は波及し多大な影響を受け生糸などの価格が崩落した。この不況状態は1932年(昭和7年)ごろまで続く。1939年(昭和14年)(開始の説は多々あるが、それは置いておく)、第二次世界大戦が勃発。日本とアメリカは当初は直接的には敵対はしていなかった(開戦当初はアメリカは中立の姿勢であったため)。

しかし、日本は1941年(昭和16年)、アメリカ等による石油の禁輸政策の後、かの有名な真珠湾攻撃に出る。その結果アメリカ政府は即座に参戦表明し枢軸国側に対し宣戦布告した。これは奇襲作戦であり、本来宣戦布告後攻撃とならねばならないところ、そうしなかったので後に非難を受けることとなる(現在外務省は、大使館の不手際によるミスということでその事実を公的に認めている。真珠湾攻撃#宣戦布告遅延問題参照)。翌年のミッドウェー海戦ガダルカナル島の陥落と続き日本は圧倒的に不利な状態に陥っていく。そして1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍による広島への原爆投下8月9日長崎への原爆投下を経て、ついに日本政府は8月14日ポツダム宣言降伏文書)の受諾を決定した。そして、9月2日に日本政府はポツダム宣言に調印した

米軍による日本の占領

米軍占領終結から冷戦終結まで

冷戦終結後

参考文献