郁久閭歩鹿真

これはこのページの過去の版です。123.222.81.112 (会話) による 2009年11月21日 (土) 10:25個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: ''''郁久閭 歩鹿真'''(漢音:いくきゅうりょ ほろくしん、拼音:Yùjiŭlǘ Bùlùzhēn、? - 414年)は、柔然の[[可...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

郁久閭 歩鹿真漢音:いくきゅうりょ ほろくしん、拼音:Yùjiŭlǘ Bùlùzhēn、? - 414年)は、柔然可汗社崙斛律の長兄(詰帰之?)の子。可汗号は不明もしくは無し。

生涯

神瑞元年(414年)、斛律は北燕馮跋と和親を結び、娘を馮跋に嫁がせようとした。すると甥の歩鹿真が「幼い娘が遠国に嫁げば、悲しくなって病となることでしょう。大臣の樹黎や勿地延らの娘を派遣して側女とすべきです」と言ったが、却下された。そこで歩鹿真は大臣の樹黎や勿地延らに「斛律はお前たちの娘を側女として、遠い他国に行かせようとしているぞ」と嘘をついて、樹黎や勿地延らと共謀し、夜に斛律を捕えて娘とともに北燕に放逐してやった。樹黎は歩鹿真を立てて可汗とし、自らは相(宰相)となった。のちに歩鹿真は社崙の子の社抜と共に大人(部族長)の叱洛侯の家に行き、その少妻と淫す。そこで少妻は叱洛侯が謀反を企み、大檀を可汗にしようとしていることを告げる。これを聞いた歩鹿真は八千騎を発して叱洛侯を包囲し、叱洛侯を自殺に追い込んだ。さらに歩鹿真は大檀を襲撃するが、反撃に遭い、逆に捕われて殺されてしまう。大檀は自ら立って可汗となる。

参考資料

  • 魏書』(列伝第九十一 蠕蠕)
  • 北史』(列伝第八十六 蠕蠕)
  • 晋書』(載記第二十五 馮跋)
先代
斛律
柔然可汗
414年
次代
大檀