三遊亭圓歌
初代
本名は泉清太郎。1895年に三遊亭右左喜、1897年に二つ目で三橘、1906年にで初代三遊亭小圓右を経て1907年9月に真打で初代圓歌を襲名。 1875年6月10日 - 1927年10月22日、享年52歳。
2代目
本名は田中利助(たなか りすけ)1890年4月28日 - 1964年8月25日。出囃子は「踊り地」。新潟県生まれ。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学卒業の高学歴で、横浜で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで、札幌に移って、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。
はじめは旅回りの一座に入り勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽で巡業中の2代目小圓朝に見つかり、それがきっかけとなって、大正4(1914年)に東京の初代三遊亭圓歌門に入り歌寿美と名乗る。のち三遊亭歌奴。大正10(1920年)真打。昭和9(1934年)2代目圓歌を襲名。新潟訛りと吃音を非常な努力の末で克服した。
持ちネタも多く新作では「呼び出し電話」「社長の電話」「空き巣の電話」「ボロタク」「木炭車」「馬大家」。芝居噺では「七段目」「将門」。古典はあまりやり手のない「紺田屋」「写真の仇討」「紋三郎稲荷」「山岡角兵衛」「首ったけ」「姫かたり」などがある。
モダンで明るく、艶っぽい芸風で女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じたが、残された音源を聞くと、放送禁止用語が連発されるのに一つも嫌らしく聞こえない。かなりの力量を持った噺家であった。また、「圓」の字は画数が多く自分の芸風にあわないと、「円歌」の文字を使っていた。大の歌舞伎ファンでもあった。
また、彼の本名「田中利助」は落語・「花色木綿(出来心)」で表札に書かれていた名前に今なお活躍することがある。
5代目古今亭志ん生とは、息子が志ん生の娘と結婚したため、親戚関係にあった(ただし、円歌の死後に両者は離婚)。
晩年は自家用車を買って、自分で運転していたが、「ひとにぶつけてはいけないと」非常にスロー運転で、銀座で「あまり遅すぎる」と警察から罰金をとられたことがあるという[1]。
1963年、落語協会副会長就任。この時に圓歌を健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任に推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して6代目三遊亭圓生を会長に推そうとしたため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった8代目桂文楽が会長に復帰し、圓歌が副会長に収まったという経緯がある。
結局は会長就任がかなわぬまま1964年8月25日死去。享年74。没後副会長職は圓生が引継いだ(翌1965年に会長に就任)。
3代目
本名中沢信夫。出囃子は「二つ巴」。東京都出身で、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)卒業後、国鉄に就職し、山手線新大久保駅の駅員の経歴を持つ。1945年9月に2代目圓歌に入門した。前座名は歌治。1948年4月に二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。1958年9月に真打昇進した[2]。
歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。一時期「笑点」の大喜利メンバーとして出演していた。1967年に御前公演をした。この頃に自作の「授業中」で人気を博したことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。 1970年、圓歌襲名後はテレビ出演を控え、高座に専念。1971年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。1985年に出家し、圓法を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。1987年には当時の落語協会副会長6代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。1996年8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目会長就任。2006年6月から最高顧問に就任。後任の会長は2001年に死去した3代目古今亭志ん朝の後任で副会長に就任した5代目鈴々舎馬風である。
得意演目は「授業中(山のあな)」「浪曲社長」「月給日」「中沢家の人々」「我孫子宿」「坊主の遊び」「西行」「湯屋番」「天皇陛下、初めて落語を聴く」「宮戸川」など。