ノート:共産主義
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>資本主義社会においてよく言われる私有財産の廃止でなく、社会的生産手段(工場、土地など)の私有の廃止がその核心であり、個人的な必要に使用される財産は逆に社会主義社会において再建されるとされる。 この部分ですけどまさしく北朝鮮において国家が生産手段を握った結果、国民の私有財産を後回しにしたという決定的な実例がありますね。生産手段ってのは言ってみれば砂漠の井戸、幾ら水は個人の物であるといっても水を配分する井戸さえ国家が抑えたら個人のものじゃなくなるわけだ。
"共産主義国家の実態"の項が「~でるという摩訶不思議な大変危険な思想である。」など、著者の主観が入りすぎているように思うのですが如何でしょうか
極端に偏りがある内容だと感じます。そもそも、百科事典である以上中立的な見方で見なくてはいけません。 中立的にかけないのであれば、概要(説明)以外すべて削除するべきだと考えます。
明らかに中立的な内容ではなかったので、大幅に削除させていただきました。これから編集される方はできるだけ中立的なものにしましょう。
別に全て削除せずとも、中立的な内容に我々が書き直せばいいような気もしますが・・・まあ、前文はひどすぎたような気もするので削除が妥当でしょう。
「ML主義」というのはマルクス・レーニン主義の略として既に定着しているもので、毛沢東・林彪の略ではありません。かつて、ごく一部の者があるセクトの人間が毛沢東に傾倒していたことからMLは毛沢東・林彪だと揶揄するのに使っただけの話でしょう。
"日本が世界で唯一成功した共産主義国"というのは一種のレトリック的な表現で、実態も思想も共産主義とはかけ離れています。コメントアウトしておきました218.225.39.62 2006年3月11日 (土) 07:51 (UTC)
この加筆によって「共産主義の現在」というセクションが設けられましたが、一節まるごと「論評」もしくは(誰のものかわからない)「解釈」になっていないでしょうか? とりわけ「そのため逆に21世紀を迎えた今日こそ共産主義革命の好機だと主張する」という記述は、誰がそう主張したのか書いていないので、セクション自体の「評論」感を強めていると思うんですが....。--Iosif 2006年9月5日 (火) 01:03 (UTC)
「日本=共産主義国家」論の項は、少しですが中立性に難があるような気がします。
フリーソフトウェア運動と共産主義の部分
既存の記述をこの項目に移動した上で大幅に加筆したのは自分ですが、その後書き換えられた部分で意味が大幅に曖昧なものとなり、180度ひっくり返されてしまっている部分さえあるのですが、このあたりの説明を求めたいです。
まず
>LinuxカーネルをGPL(GNUパブリックライセンス)のもとで公開したリーナス・トーバルズ(本人の両親が共産主義者であり、その影響があったことは認めている)などのコピーレフトによって構築され、事実上その根幹の多くをこれらフリーソフトウェアに依存するまでに至った現在のインターネットの性質や環境を、「共産主義(ドット・コミュニズム)である」と指摘するケースがある。
- このコピーレフトの部分を自分は「成果」と書いていたのですが、現在のインターネットを構築するソフトウェアの多くが広義のフリーソフトウェア運動の成果にあることにはもはや疑いの余地はないものの、それらが一律にGNUやGNUパブリックライセンスというフリーソフトウェア運動の一部に過ぎないものの下にあるかのような現在の改変は、現実に即していない(フリーソフトの全てがGPLを採用しているわけではない。これらをコピーレフトと形容することは明確に誤りである)と指摘せざるを得ません。
- またこれら広義のフリーソフト運動をドット・コミュニズムと指摘する文脈は、言い換えれば共産主義の対極といえる資本主義の支持者が一方的に揶揄する文脈で用いるレッテルであり、こういった背景(特定のイデオロギーの支持者が論敵を一方的に揶揄しているに過ぎない)を説明せずに彼らの主張を代弁することは、公平性を欠き百科事典としても望ましいものとは言えません。また
>このような、指摘が出現した背景としては、フリーソフトウェア運動側に肯定する人々がかなりいることが原因とされる。
- 自分の記述がここでも中途半端に改変されてこれらの文脈を補強する形にされてしまっていますが、フリーソフトウェア運動の参加者や支持者に共産主義者が「かなりいる」とミスリードを誘うような記述も典型的なFUDに過ぎず、そもそも政治運動とはかけ離れた広義のフリーソフトウェア運動に対して共産主義のレッテルを貼ることは妥当ではなく穏当を欠くといった記述も全て削除されてしまっています。そもそも「かなりいる」とする根拠が提示されておらず、また「かなり」という曖昧な記述も妥当とは言えません。
>その理念の根幹は「free(このfreeは、無料ではなく自由という意味)」であり、ひとえに「ソフトウェアの配布と使用の自由」を永続的に守るために厳格なライセンスの適用と履行を行うことにあるとされるが、これで共産主義ではないとするには共産主義の位置付けからして無理であり、資本論の第3巻の存在への無理解からマルクス主義者側が反応しつつある。
- この段落も、後半が改変され全く意味不明なものとなっています。
>ブラジルでは、「共産主義」と公然に主張する共有ソフトが流通している
- これなどは典型的なFUDであり、共産主義を標榜する人々が作成したソフトウェアを流通させる際にフリーソフトウェアであることを保証するライセンスを採用することをもって採用されたライセンスが共産主義であるとするには飛躍が大きすぎます。共産主義者がほんの僅かなフリーソフトウェアを供給することを針小棒大に問題視するのであれば、大資本が参画し大量のコードをもってフリーソフトに貢献しているという現実は問題視しないのでしょうか?
>「コピーレフトのレフトは左翼だ」など、この種の意見も現実味を帯びつつある。
- 私が少なくない文章量を費やして記述した「フリーソフト運動の理念や個々のライセンスの具体的な条件などについて正しく理解しておらず、またその気もない人々によって興味本位に中途半端にその一部のみが取り上げられ的外れな批判にさらされている」といった論旨を全て削除し、代わりに削除された部分に書かれていた通りのものが書かれてしまうあたり、もはや確信犯と見なして良いということでしょうか。
>なお、日本の肯定派にはストールマンの初来日講演で司会を務めている池田信夫や山形浩生などがいる。
- 彼らが共産主義者であったとは初耳です。根拠があれば是非提示していただきたいところです。
上記引用部の改編者には上記の説明を全て滞りなく済ませてから本文の記述にあたることを要求します。また現在の度し難い記述はリバートしておきます。210.149.190.143 2006年9月27日 (水) 01:11 (UTC)
南米における急進左派政権の社会主義国証明
ベネズエラやボリビアでは国有化が始まっており、社会主義といえるだろう。 ベネズエラは大統領の任期を増やし、与党独裁を達成した。ボリビアのモラレス氏も憲法改正をし独裁国家にしようとしている。--以上の署名のないコメントは、211.1.185.129(会話・投稿記録)さんが {{{2}}} に投稿したものです。
>財産の国有化は魅力的な言葉だが、それ自体は方法に過ぎない。理想主義者の出した資本主義社会の究極の形。共産国の誕生は、「世界が同時に共産国にはならない。」と言う100年前の結論だ。--以上の署名のないコメントは、218.251.102.7(会話・投稿記録)さんが {{{2}}} に投稿したものです。
世界が同時に共産国になっても無意味ではないでしょうか? 国家もまた所有の一プレーヤーに過ぎず、必ずしも信頼できるものではないと思います。 複雑化した社会に置いてはその運営に無数の知恵と工夫が必要であり、一部指導者に知恵を集中し他の意見を採用しないというあきらかな非効率は、共産主義に特有のものである。 人口のぶんだけ社会は複雑になるのに、それに対して小さな中央で対処するというのは全く計算が合わない。 また拒否権を他のプレーヤーから奪い取る国有化は独裁化への一本道といわざる終えない。 奪い取る権利に何の正当性もないのである。 一律に搾取するために資産を上手に使える人の元に資産をもたらすということが行われなくなる。 また運営に失敗した時の責任を取らなくてもすむという大問題もある。 文献から浮かび上がる最低限成功してる、しそうな共産主義は。 「外との交流が確保され、他との比較が自由に出来ること。 そのために風通しの良い小規模に抑える。 気に入らなければ脱退する自由があり共産的運営を捨てる投票を簡単に行える。 文化によって運営方法が全く変わるので一律にはしない。 極めて血族主義や家族主義と相性が良いのでその単位で行うとスムーズに行く。 個別の契約によって資産の運用を委託。」 ってこれじゃあ資本主義と変わらないですね。 ここで考えた内容に反しているのは、悪用しやすい共産的手法を悪用する搾取カルト教団です。 血族主義の家族主義の互助組織を共産主義とみなすのは間違っているかも、財閥とか華僑とかなんか全然違いそうだし。 結局組織運用のバリエーションと分類のグラデーションを考えたら線引きなんてできないような気もします。
再構成しました
とくに思想にかかわる記述を中心に大きく修正しました。初歩的な間違いが多かったためです。章立ても変えました。理由も書かずに元に戻そうとする人がいますが、具体的な点を指摘してくれないと改善できません。--Kazhik 2007年2月19日 (月) 14:20 (UTC)
学術的な見方をも抹消するのは論外です。初歩的云々よりも過大な修正です。あなた一人の個人的見解だけでここまで変えるのはいかがかと。--219.108.14.30 2007年2月20日 (火) 15:30 (UTC)
ですから、具体的な箇所を指摘してくれと言っているのです。--Kazhik 2007年2月20日 (火) 21:27 (UTC)
- あまりにも多岐に渡っているんですが、まずは「共産主義とは財産の共有を目指す思想」と要約してしまっていいのかどうか説明をお願いします。--Powership 2007年2月22日 (木) 04:03 (UTC)
- 私の修正前には生産手段の社会的所有や「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原則によって共産主義が説明されていました。これはマルクスやエンゲルスの共産主義論の説明です。それ以外の共産主義思想を考慮するならもっと曖昧に「財産の共有」と言っておくのが適切だと思います。ついでに言えば、マルクスやエンゲルス以前にも社会主義と共産主義の区別がなかったかのような記述は誤解を招くものですし、レーニンの「共産主義とはソビエト権力プラス電化だ」という言葉を当時のソ連の状況から切り離して引用するのもおかしいので、削除しました。--Kazhik 2007年2月22日 (木) 12:57 (UTC)
- それなら「マルクス・エンゲルスによる共産主義」とそれ以外を分けて説明すれば済むことだと思います。また、マルクスの説明が「財産の共有を目指す思想」に当てはまらないのであれば、マルクスによる説明はこの「要約」から除外されることを説明しておかなければ虚偽の記述になると思いますが。 -- NiKe 2007年2月26日 (月) 06:28 (UTC)
- マルクスとエンゲルスの共産主義も「財産の共有を目指す思想」と言って間違いないと思います。彼らの場合、「財産」が狭く厳密に生産手段と規定されているということです。彼ら以外の共産主義思想については、私の修正では完全に抜けています。修正前の記述は間違っていたので削除しましたが、改めて記述すべきなのは確かです。--Kazhik 2007年2月26日 (月) 12:54 (UTC)
- それなら「マルクス・エンゲルスによる共産主義」とそれ以外を分けて説明すれば済むことだと思います。また、マルクスの説明が「財産の共有を目指す思想」に当てはまらないのであれば、マルクスによる説明はこの「要約」から除外されることを説明しておかなければ虚偽の記述になると思いますが。 -- NiKe 2007年2月26日 (月) 06:28 (UTC)
- 私の修正前には生産手段の社会的所有や「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原則によって共産主義が説明されていました。これはマルクスやエンゲルスの共産主義論の説明です。それ以外の共産主義思想を考慮するならもっと曖昧に「財産の共有」と言っておくのが適切だと思います。ついでに言えば、マルクスやエンゲルス以前にも社会主義と共産主義の区別がなかったかのような記述は誤解を招くものですし、レーニンの「共産主義とはソビエト権力プラス電化だ」という言葉を当時のソ連の状況から切り離して引用するのもおかしいので、削除しました。--Kazhik 2007年2月22日 (木) 12:57 (UTC)
人物の項についてですが、ナセルは外すべきではないですか?
共産党宣言は誰のもの?
今日(2007/04/06)の編集で、「共産党宣言」はマルクスとエンゲルスの共著ではなく共産主義者同盟の綱領的文書だ、という趣旨の加筆がなされました。間違っているとは言えませんが、説明としてわかりにくくなってしまったように思います。「共産党宣言」はマルクスとエンゲルスが共産主義者同盟の綱領的文書として書いたものです。その後彼らが「共産党宣言」に盛りこまれた原則を否定したことはありません(1872年ドイツ語版序文を参照)。--Kazhik 2007年4月6日 (金) 12:31 (UTC)
- 共産党宣言の成立史に関する記述が非常に詳しくなりましたが、共産主義の項としては細かすぎるので削除しました。共産党宣言の項に移したほうがよいと思います。--Kazhik 2007年4月18日 (水) 12:43 (UTC)
まことのその通りだと想います。しかしながら『共産党宣言』そのものがマルクスとエンゲルスの純粋な著作と呼べないことは、現在国際マルクス=エンゲルス財団によって刊行中の、新MEGA(Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe)編集に携わる研究者でのほぼ一致した見解ですし、『共産党宣言』のみを基にしてマルクスとエンゲルスの“共産主義”を語ることは2007年の現在ではほとんど意味をなしません。そのため『共産党宣言』の文献学的考証、新MEGAの編集作業を議論の前提に考えずに、『共産党宣言』という綱領文書のみから、マルクスの“共産主義”を考えることは現代では不可能でありますし、また『宣言』の文献考証を経た上での記述でなければ客観的とは言い難いのではないでしょうか。したがって、ここでの記述には一定の評価の留保をつけることが学術的には誠実な態度であると思います。 なおよろしければKazhikさんの『宣言』の草稿の文献学的考証に対する態度を示していただき、現在の新MEGAの編集状況とあわせ、どのように考えるかを明示していただければ幸いです。なお新MEGAの編集状況とそれに対する評価を明示せずに、『宣言』を一つの著作のように扱い、そこからマルクスとエンゲルスの共産主義を論ずることは2007年の現在、文献学的考証に耐える客観的な記述とは言えないでしょう。マルクスの全集が未だに完成していないという現実において、完成されたマルクスの思想があるとするのは、若干学問的な誠実な態度に欠けるのはないでしょうか。新MEGA編集作業の過程と、草稿の文献学的考証が今後の課題であるとするのが、現時点での妥当な判断であると思います。我々は未だにマルクスの文献学的に正しく考証された全集を誰も見てないというのが現実であります。 2007年4月19日 1:12
- 「共産党宣言」はマルクス・エンゲルスによって書かれたもので、その後彼らが「共産党宣言」に盛りこまれた原則を否定したことはない、という点はあなたも認めますよね? そうであるかぎり、「共産党宣言」によって彼らの共産主義論を説明するのは間違いではないでしょう。マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」の序文を何度も書いていて、この著作を彼ら自身のものとして扱っています。それと、「共産党宣言」に関する詳しい成立史に関しては、この項に注をつけるより共産党宣言の項の参照を求めたほうがよいと思います。--Kazhik 2007年4月18日 (水) 21:35 (UTC)
基本的に返答のコメントの中には新MEGAの文献考証に関する記述は見られませんでした。的場昭弘氏、またリュドミラ・ヴァシーナ女史、テレル・カーヴァー氏などの研究や編集作業についてどのような見解を持っているのか、また石塚正英氏や、大村泉氏や大藪龍介氏の研究もどのように思っているのかもコメントを読む限りでは私は申し訳ないのですが、わかりませんでした。基礎的な文献考証が明記されず、1次文献の厳密な初稿の確定手続きを踏まずに、現在の段階で客観的な結論を出すことはできないというのが私の立場です。共産党宣言には明らかにマルクス、エンゲルス以外の思想が混入されています。それに対しての厳密な考証を抜きにして、宣言のみでマルクス、エンゲルスの共産主義を語ることはできません。できるとすればきちんと的場昭弘氏、篠原敏昭氏、また石塚正英氏の論考を検証し、Kazhikさんなりの反駁と検証を行わなければ、確かな客観性を持ち得ないと個人的には思います。Kazhikさんの中での厳密な資料分析、1次文献の精査とUrtextの確定等がされ、それが学術的な検討が耐えれば問題はないでしょう。 ただここで、Kazhikさんは、私の文章提供がこの箇所に相応しいと考えてはおられないと推察します。そのようなわけで、私は今後自分の持つ知識を提供することを致しません。不快な思いをさせてしまったとしたら申し訳ありません。Kazhikさんの立場で思うことをどうぞ書かれてくださいませ。私は自分の思索に返ろうと思います。いろいろご指摘ありがとうございました。
Kazhikさんの返答がないようなので、続けてノート記入することをお許しください。“マルクスとエンゲルスの共産主義”を語る前提として、共産党宣言(共産主義者宣言)の文献学的考証、および成立史的研究は必須と思われます。いちおう共産党宣言の項目を拡充して書いておきましたので、参考になるようでしたらお読みください。またこちらの“共産主義”の項目中、私の方で書き加えた部分で成立史的または客観的記述に問題がある部分はKazhikさんの方でご自由に訂正くださって結構です。
また共産党宣言の成立の経緯からして、以下の項目の参照が必要になると思い、新たに拡充し、存在しなかった項目については私の方で新たに作成しました。良かったらご覧ください。
- Wikipediaはあなたのものでも私のものでもありません。私個人に対して文献考証を要求するのは筋違いです。私は新MEGAにも共産党宣言の成立史にもほとんど関心がなく、それらが「マルクスとエンゲルスの共産主義」を理解する上で決定的に重要だとも考えていません。あれを読めこれを読め、新MEGAの完結を待て、などと逃げ回るのではなく、私の疑問(マルクスやエンゲルスが共産党宣言の原則を否定したのか?)に答えてくれませんか。--Kazhik 2007年4月20日 (金) 10:46 (UTC)
文献考証がされずにマルクスに何かを語ることができるというのは学問的に誠実な態度とは言えません。あくまで客観的な記述を記載するのであれば、現在のマルクス学の研究成果を真摯に希求し、その上で初稿の確定をすべきなのではないでしょうか。それができないのであれば学問的にこれを記述する資格はないでしょう。誰もマルクスと会ったこともないのですから、真摯に歴史学的な再構成をまず読み、そこに批判をするのであればきちんとその議論を前提として議論をすべきであると思います。知らないことについては「知らない」と名言されるのであれば、その点については真摯に認めていただいたほうがよいかと思います。
それからマルクス『共産党宣言』の論点を否定したのかそうでないのかという質問がありますが、問題はまさにそこでして、共産党宣言の原則のどこがマルクスの思想であるのかをきちんと把握する必要があるんです。実際に宣言の中にはシュタインの文章のほぼ丸ごと引用の一文も含まれていますし、カール・シャッパーも校閲をしたうえで出版をしています。また当時の秘密結社・共産主義者同盟ではマルクスは主導的な役割を果たしてはいません。それにも関わらず、マルクスの著作としてこれを扱うのは現代で問題があるとされているのが、21世紀現在のマルクス学の常識であります。したがってこれをきちんと摂取したうえで、批判をしなければKazhikさんの論拠は客観性を持ち得ません。
まず新MEGAの進行状況についてご存知ないのであれば、現在のマルクス学の状況を把握していないということですので、客観性を持つことはできません。その前提でマルクスを語ることができるという自覚があるとすれば、それは真摯な学問的態度とは言えないと思います。まず的場昭弘氏、大村泉氏、またオランダ、アムステルダム現代史文書保管国際センター等の結論をまず学問的に否定するところから議論を始めなければならないでしょう。それが文献考証という作業なのであり、主観的な思い入れを一切排してあくまで学問的に追及する真摯な姿勢であると思います。新MEGAについて知らないということは、マルクスを学問的に研究・調査をしていないということとほぼ同義です。
とはいえ、私は先の書き込みで、この項目に対する書き込みの権利を自ら放棄し、Kazhikさんに裁定を委ねています。Kazhikさんがどのような論拠において草稿研究の前提を覆すことができるのかわかりませんけど、それについてはあえてゆだねようと思います。どちらが学問的に誠実な態度であるかは今後、これを読む読者が判断すべき問題であると考えます。
また別の角度から語れば、例えば『宣言』の中のマルクス思想の再検討という作業をしている研究者で篠原敏昭氏の論考があります(もちろんKazhikさんも読んでいらっしゃると思いますが)。この中で篠原氏はマルクスの「私的所有」概念と、『宣言』に見られる「個人的所有」概念が違う概念であるとして、『宣言』に盛り込まれた「個人的所有概念」を再検討することで『宣言』という著作に込められたマルクスの意図を浮き彫りにし、『宣言』をマルクス読解の非常に重要な著作として再評価しています。
『宣言』を“マルクスの著作”として評価し、論評し、一定の客観性ある文章を執筆するためには、篠原氏のように学術的な研究前提をきちんと踏まえた上で、どの部分にマルクスの思想を読み込むのかということが重要な案件になります。
ですからそれを前提とすることもできますよね。
Kazhikさんが『宣言』の中にマルクスの思想を読み取り、それを客観的に叙述するのは全く自由です。ただしそれは学問的な現代までのマルクス研究の堆積を大前提にしなければ、どんな論考もミッシェル・フーコーの言う意味での“ドクサ”に堕してしまいますよね。
客観的な叙述ということは、非常に重要なことです。私自身は石塚正英氏の研究、テレル・カーヴァーの研究を前提とし、また服部文男氏の論考なども参照しながら、それでもなお2000年の『新マルクス学事典』(弘文堂)の項目の前提を客観的に書くようにつとめました。その前提において「『宣言』はマルクスの著作とも、エンゲルスの著作とも言うことはできない」という結論が学会において出されていると判断せざるを得ませんでした(個人的には反論したい気持ちもあるのですけどね・笑)。ですからその前提をきちんと検証し、学術的に見て公平な叙述ができればそれで良いのだと思うんです。私が「今後執筆をしない」と上に書いた理由は一つにはKazhikさんの心情を害してしまった可能性もあると考えたからですが、もう一つには自分の持っている文献で検証可能なことはだいたい書いてしまったというところにもあるわけです。 日本人研究者だけをあげるならば向坂逸郎、大内兵衛、田中吉六、古在由重、杉原四郎、望月清司、平田清明、宇野弘藏、廣松渉、花崎皋平、鈴木亨、竹内良知、良知力、梅本克己、田畑稔、山之内靖、今村仁司、佐藤金三郎、小林昌人、篠原敏昭、柴田隆行、的場明弘、石塚正英、田中ひかる、植村邦彦、大藪龍介、岡本充弘などの諸論考は必読ですよね。それらの文献もちゃんと読みましたし、また置塩信雄、森嶋通夫、大村泉、大谷禎之介、村上俊介、伊藤誠なども読んでいますけど、まだまだ私自身の学術的な検証作業及び基礎知識が不足していることは自覚をしているつもりです。 「本格的なマルクス研究がいまやっとはじまった」と杉原四郎氏が述べたのは1999年のことですが、そこから現在までなおマルクスの読解は端緒についたばかりです。マルクス研究の最新動向をきちんと捉えるためにも、新MEGA編集に携わる研究者たちの論述はある程度客観的な普遍妥当性を有していますし、それに対し反論するためには、それらの研究の諸前提を知った上で反証しなければ、やはり反駁そのものも一定の普遍妥当性を持ち得ないと思います。
上記の文章に対し、しばらくしてからもKazhikさんのご意見やご高見がこのノートに見られない場合には、原則として私は私自身の叙述の前提に対する文献的な反証と調査の作業がKazhikさん自身に不充分であると自らお認めになったと判断致します。学問的に自身の研究作業が未完成で不充分であることを認めることは学問的に誠実な態度であると考えますので、できればKazhikさんご自身が21世紀現在のマルクス学に関する研究・文献精査の作業が不充分であることをここでお認めになられることを期待します。もちろん私自身もまた、新MEGA研究の過程である学問的堆積を覆せるほどの研究・調査が不充分であることは認めます。未だ私もなおマルクス学の研究調査過程の途上にあると言えるでしょう。個人的に関心があるのは、Kazhikさんがどのような学問的堆積を持ち、どのような論述・研究を自身の論の前提にしているのかという部分ですので、それをご教示いただければ幸いです。 2007年4月23日(月)17:50
2007年5月25日現在においてKazhikさんの学問的立論の論拠が提示されていませんが、学問的にどのような立論の根拠で「共産党宣言がマルクスの著作である」と考えているのか、その1次・2次文献の考証と典拠を示していただきたいと思います。学問的に客観的な批判で、一定の普遍妥当性を持ちうるものならば真摯に受け止めたいと思っております。典拠を示し、学問的に実のある議論をしたいと切に願っております。もちろん邦語文献のみに限らずMEW、旧MEGA等の研究、海外の諸研究でも構いません。典拠及び文献考証は学術的研究の基礎となるものですので、それを示して学術的にどのような立場をとるのかを教えてください。真摯に検討して客観的な叙述を心がけるべきだと考えます。
「日本=共産主義国家」論について
日本は世界で唯一成功した社会主義国家、という説についてのセクションはまるごと削除したほうがよさそうです。三つの段落のうち二つに「要出典」が付き、百科事典の記述として残す意味がほとんどなくなりました。もともと荒唐無稽な俗説なので、なくてもいいと思います。--Kazhik 2007年4月23日 (月) 11:40 (UTC)
- 一ヶ月以上待っても異論が出なかったので削除しました。--Kazhik 2007年5月25日 (金) 13:53 (UTC)
- 「世界で唯一成功した社会主義国家」ってゴルバチョフが言ったことだっけ?--経済準学士 2007年5月25日 (金) 15:07 (UTC)
- ゴルバチョフが言ったことがあるとしても、彼が最初ではないでしょうね。私が削除した部分を最初に書いた人は、日本の誰かの説に依拠したはずです。--Kazhik 2007年5月27日 (日) 00:05 (UTC)
- この(噴飯ものの)表現はゴルバチョフが第一書記になる前からありました。それを踏襲してゴルバチョフが発言したとしたらまったく悲しいことです(これは単なる感想です)。--Boomy 2008年4月25日 (金) 23:27 (UTC)
- ゴルバチョフが言ったことがあるとしても、彼が最初ではないでしょうね。私が削除した部分を最初に書いた人は、日本の誰かの説に依拠したはずです。--Kazhik 2007年5月27日 (日) 00:05 (UTC)
- 「世界で唯一成功した社会主義国家」ってゴルバチョフが言ったことだっけ?--経済準学士 2007年5月25日 (金) 15:07 (UTC)
もっと古い歴史
歴史を紐解けば偶々共産主義と似たようなシステムや思想、面々と続いているシステムもあるようですが。 18世紀以前から存在する、または存続している共産主義的システムの側面はかける人いませんかね? 19世紀生まれの共産主義は現状失敗しましたがもっと古いのもあるようですし。
『ゴータ綱領批判』における「共産主義二段階論」について
「マルクス、エンゲルスの共産主義論」において、「マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。」とされています。
『ゴータ綱領批判』は「ブラッケあての添え書と綱領草案の批判と ー は、一八七五年、ゴータ合同大会の少しまえに、ガイプ、アウアー、ベーベル、リープクネヒトに見せたうえ送りかえすように、と言ってマルクスがブラッケに送ったものである。ハレの党大会がゴータ綱領の審議を党の議題にした以上、この審議に関係のあるこの重要なーおそらく最も重要なー文書を私がこれ以上公表せずにおいたら、一種の横領罪をおかすことになるだろう。」「一八九一年一月六日」「Fr・エンゲルス」(序文 国民文庫10ページ『ディ・ノイエ・ツァイト』第九年次、第一巻、第一八号) 以上のように記されているように、マルクスがゴータ綱領草案について非公式の見解を述べたものです。そして、この見解が公表されるまで、15年の歳月を要しています。
『ゴータ綱領批判』において問題にされているのは、「いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。」(『ゴータ綱領草案批判』同28ページ)ということであり、「ラサールの影響で、綱領は偏狭にも『分配』だけしか眼中においていない」(同24ページ)ことにマルクスの批判の眼目がおかれています。
マルクスは具体的には「ここで問題にしているのは、それ(生産手段の共有を土台とする協同組合的社会)自身の土台の上に発展した共産主義社会ではなくて、反対にいまようやく資本主義から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、~旧社会の母斑をまだおびている。」と述べています。ここでマルクスは共産主義の「低い段階」とは明らかに述べておらず、資本主義から脱け出た段階の社会の特徴について述べているわけです。そして、「共産主義のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、~そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができるー各人はその能力におうじて、各人はその必要におうじて!」(同28ページ)
このように『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの具体的な記述を検証してみるならば、マルクスが述べた真意は分配問題に関するラサール派の見解にたいする批判であり、共産主義社会を二段階あるいは「低い段階」「高い段階」と定式化したものではないということがわかると思います。そしてマルクスがこのような見解を述べたのは『ゴータ綱領批判』の他には見受けられません。
したがって、共産主義社会論について『ゴータ綱領批判』におけるマルクスが「共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し」たという記述は事実と異なり、適切な記述ではないといえます。 2007年10月14日 荊冠旗
- 『ゴータ綱領批判』はマルクス自身が発表した文書ではない、というのはご指摘の通りです。そこに書かれた見解はマルクス自身が世に問うた見解ではありませんから、無視してもいいものです。しかし、レーニンをはじめ様々な論者がこの文書に言及していますので、今となっては全く無視することもできません。
- 二段階論という整理は適切ではない、というご指摘に対しては、あなた自身が引用したマルクスの文章が回答になっています。マルクスは「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」と「いまようやく資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」を区別しています。--Kazhik 2007年10月15日 (月) 12:54 (UTC)
「共産主義に対する批判」という節について
ロッテルダムの旅人さんにより、「理論的批判」という節が「共産主義に対する批判」という名前に修正され、以下の二つの段落が追加されました。
「イギリスの経済学者・ジョン・メイナード・ケインズは、有効需要の概念を説き、減税や財政出動による公共事業などの実施によって失業問題を解決し、資本主義を危機に陥れるような大恐慌を克服することが可能であると主張した。(ケインズ革命)」
「イギリスの政治家・ウィンストン・チャーチルは「20歳までに共産主義に傾倒しない者は情熱が足りない。 20歳を過ぎて共産主義に傾倒している者は知能が足りない」と指摘している。」
ケインズのほうはどこが共産主義に対する批判なのか分かりませんし、チャーチルのほうは理論的な中身がありません。このレベルの言葉を追加していたら節の内容が際限なく増えてしまいます。
そもそも共産主義に対する批判的な見解ばかりが歴史的な文脈を無視して紹介されていることもおかしいのですが、ロッテルダムの旅人さんの編集はその傾向に拍車をかけるものです。私が「雑多な内容を箇条書きした節を避けるというWikipediaの方針に反しています」と理由を示して削除したら、「雑多だと思うのなら、あなたが一連の文脈になるようにまとめては?」と言って復活させました。このような無責任な居直りはWikipediaにふさわしくないものです。
まずは上記の二つの段落を削除した上で、あらためて節の内容について議論すべきかと思います。--Kazhik 2008年4月25日 (金) 13:11 (UTC)
- ケインズは探せば理論的批判がありそうですね。しかし著作では見つからないかもしれません。チャーチルは問題外で、「理論的批判」と「その他の共産主義批判」に分けたうえで後者に分類してはどうでしょう。--Boomy 2008年4月25日 (金) 23:21 (UTC)
- 雑多というよりも、単純にひとつの節としては情報量が多すぎるのでしょう。削除するよりも、「マルクス主義批判」という別の項を作って独立させたほうがいいのではないでしょうか?マルクス主義批判は多様で膨大なのですから、そちらのほうがまとめやすいでしょう。--ブラックモンブランアント 2008年4月28日 (月) 02:15 (UTC)
- せっかく書き加えられた情報をただ削除するのはWikipediaの趣旨に反するでしょう。情報を生かす形で、一連の文脈になるようにまとめなおすほうがいいと思います。出典主義にこだわりすぎて、研究者ごとに箇条書きにするので雑多な印象を受けるのでは? 研究者別にではなく、分野ごとに「唯物史観批判」「マルクス経済学批判」「共産主義体制批判」などにわけて、まとめ直してみましょう。しかし、そうなると共産主義批判というよりも、マルクス主義批判となるので、マルクス主義の項へ移動させたほうがいいかもしれません。私がまとめなおしてみましたので、こんな感じでどうでしょうか?--マイケル・トム 2008年4月29日 (火) 23:15 (UTC)
- 節全体をマルクス主義に移すこと、項目を分野ごとに分けることについては賛成します。ただ、出典は明示すべきだと思います。人名だけでなく文献名も。そうしないと独自研究になってしまいます。--Kazhik 2008年5月2日 (金) 14:54 (UTC)
「現在の共産主義圏」という地図画像について
この地図画像ですが変更履歴を見ると2009年6月4日にモルドバが共産主義国として加えられています。しかし、wiki内の「社会主義国」の項目を見るとモルドバは社会主義国とはいえないという事になっていますし、この項目内でもモルドバの国名が提示されていません。従って、この地図画像は以前の画像に戻すべきだと思われますがいかがでしょうか。