仲代達矢

日本の俳優・演出家・歌手・ナレーター・声優(1932 - )

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仲代 達矢(なかだい たつや、1932年(昭和7年)12月13日 - )は、日本俳優東京都出身。
本名・仲代 元久(なかだい もとひさ)。

なかだい たつや
仲代 達矢
本名 仲代 元久
なかだい もとひさ
生年月日 (1932-12-13) 1932年12月13日(92歳)
出生地 日本の旗 日本東京都
民族 日本人
職業 俳優
活動期間 1954年 -
配偶者 宮崎恭子
主な作品
用心棒』、『椿三十郎』、『天国と地獄
影武者』、『』、『新・平家物語
華麗なる一族
受賞
ブルーリボン賞
主演男優賞
1962年切腹
1980年『影武者』、『二百三高地
その他の賞
毎日映画コンクール
主演男優賞
1961年人間の条件・完結篇
1980年『影武者』
紀伊國屋演劇賞
個人賞
1974年
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劇団俳優座出身で、「無名塾」を主宰し後進の育成にも務める。
舞台演劇と映画・映像にほぼ等分の活動を続け、その両方で戦後日本を代表する一人である。映画では多くの名監督たちに繰り返し起用され、終生コンビを組んだ黒澤明小林正樹岡本喜八市川崑五社英雄らのほか、山本薩夫成瀬巳喜男熊井啓らの信頼も厚かった。木下恵介篠田正浩らを含めると、ある時期、日本映画の巨匠で彼と組まなかった人は数えるほどしかいなかったと言える引っ張り凧の名優であった。
主演作『影武者』がカンヌ国際映画祭グランプリを受賞するなど海外でも受賞が多い。出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネチア・ベルリン)のすべてで受賞しており、四冠を達成している(下記参照)。2007年文化功労者

経歴

茨城県の農家出身で東京ハイヤー会社を経営していた父と五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘だった母との間に生まれる。富裕層の多い青山の青南小学校に通うも、一家は極貧状態で弁当のおかずもなく、母親は教師から「ここはあなた方のような貧乏人が来る学校ではないとののしられた」という少年時代を過ごした。小学校2年の時、父が亡くなり千葉県津田沼から東京世田谷区瀬田に移る[1]
戦後は親戚や弟と、ポン菓子屋、中華そば製麺所を起こし、小学校用務員なども勤める傍ら青南小学校卒業後、北豊島工業学校、東京重機学校などを経て、学制改革ののち、東京都立千歳高等学校(現東京都立芦花高等学校)定時制卒業。愛称の「モヤ」は、母が仲代の本名・元久のモと、「ねえや」「ばあや」のヤをかけあわせて呼び始めた。

俳優の道へ

高卒後、定職に就けず、大井競馬場で鑑札を持たない違法予想屋を取り締まる警備員をしたり、学歴不問ということでボクシングの三回戦ボーイの職にありつくなどしながら、映画館・芝居見物に通う。
そんな日々の中、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年俳優座養成所に第4期生として入所。同期生に佐藤慶佐藤允中谷一郎宇津井健などがおり、仲代はバーで働きながら役者修行に励んだ。

養成所時代に、黒澤明監督『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。1955年、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。芸名の「達矢」は射手座生まれにちなんで「的に達する矢のごとく」と異母姉が命名した。同年秋の公演『幽霊』で抜擢されて好演、新進舞台俳優として知られるようになる。この『幽霊』を見た女優の月丘夢路の推薦で、月丘の夫・井上梅次監督から依頼が舞い込み、同監督の映画『火の鳥』(1956年日活)で月丘の相手役という大役をつとめ、映画界にも本格デビューを果たす。翌1957年小林正樹監督の松竹映画『黒い河』での冷酷なやくざ・通称人斬りジョーの演技でも存在感を示す。

1957年、俳優座所属の女優・宮崎恭子と結婚。

主演俳優に

1959年、小林監督による六部(上映は1961年まで)に及ぶ超大作(総上映時間・約10時間)『人間の條件』で主人公・梶に起用される。撮影1年半に及んだこの作品(原作:五味川純平)で仲代は、監督も感服する演技を見せた。同年には犯罪者に扮した『野獣死すべし』も公開。当時、映画会社数社から専属契約を打診されつつも断っている。

名監督たちと

黒澤明監督にも注目され、黒澤映画の常連主演スター・三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、1961年用心棒』に出演依頼を受ける。「七人の侍」出演のときに監督に散々NGをだされた記憶から、仲代は最初固辞したが、結局出演、洒落者だが残忍なヤクザをつとめて好評を得る。翌年『椿三十郎』でも黒沢に続けて起用され、今度は剛直な武士を演じ、仲代の風格と演技力を買った監督に応えた。1963年にも黒澤作品『天国と地獄』で誘拐事件捜査を指揮する警部役を演じ、犯人との相似すら感じさせる異常な執念に個性を発揮した。

他の監督の映画では市川崑監督の『』(1959年)、成瀬巳喜男監督の『娘・妻・母』(1960年)、『女が階段を上る時』(1960年)、小林監督の『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、豊田四郎監督の『憂愁平野』(1963年)、『四谷怪談』(1965年)、岡本喜八監督の『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)など、映画会社に縛られない身で名監督たちとの仕事が続く。1968年にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演。アジア系ではなくメキシコ・インディアンの血を引くという設定のアメリカ人の悪役である。

1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督による政財界もの映画『華麗なる一族』(1974年)で準主役、『不毛地帯』(1976年)では主役を演じた。山本監督はこの間、石川達三原作の『金環蝕』(1975年)でも仲代を主演に起用、冷酷な官房長官役を演じさせている。

映画会社とは一切専属契約は結ばなかったが、結果的には東宝映画への出演が飛びぬけて多い。会社別を基本として編纂されたグラビア叢書セット「戦後日本映画黄金時代」(日本ブックライブラリー1978)では「東宝の主役」の巻に収録されている。専属契約を結ばなかったため、宣伝攻勢をかける専属映画会社やプロダクションが無かったこともあり、仲代はトップスターと目されながらも、他の大スターのような熱狂的な人気の盛り上げには欠けた。そのため、仲代の名前に頼って観客動員を図る映画はごく少なかったが、逆に企画優先、作家性優先の映画に多く出演することができ、結果、出演歴を多くの名作で飾ることにつながった。

一方、長らく空白だったテレビドラマでも、1972年のNHK大河ドラマ新・平家物語』で平清盛を演じ、清盛が出家する後半では実際に剃髪して熱演している。

俳優・そして俳優養成所「無名塾」主宰

俳優座の看板俳優だった1975年に、恭子夫人と共に「無名塾」を創立、後進の養成を開始。1979年には俳優座を退団。以後は無名塾公演で、脚本・演出を妻に任せ、自分が出演する形で舞台活動を継続してきた。

映画では、1980年の黒澤監督の大作『影武者』で、監督との確執で降板した勝新太郎の代役として、急遽主役に抜擢される。結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。

同年には舛田利雄監督の戦争巨編『二百三高地』にも主演、人情味をたたえた乃木希典司令官を演じている。さらに、1982年には五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』で、土佐の鬼政こと鬼龍院政五郎を激しく演じ、全くタイプの異なる役柄を演じ分けた。

1985年の黒澤作品『』でも主演し“戦国版リア王”として悲劇をたどる秀虎役を演じた。翌年の『熱海殺人事件』では一転して狂騒的なドタバタ喜劇に、それでもなお重厚さのにじみ出る演技を見せた。なお、舞台での代表作を自ら脚色したつかこうへいは、主役・木村伝兵衛の名を「仲代の名を支えきれない」と二階堂伝兵衛に変えてしまった。

時代劇、現代劇を問わず演じられる俳優として、テレビドラマでは『忠臣蔵』(1991年、大石内蔵助を演じた)、中国残留孤児となった子を探し続ける父親を演じた『大地の子』(1995年)、『秀吉』(1996年、千利休を演じた)などで近年も活躍している。

俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演、日本を代表するシャイクスピア俳優でもある。

海外での受賞歴は、シシリア・タオルミナ映画祭賞(1971年)、カンヌ国際映画祭グランプリ(1980年)、マニラ映画祭主演男優賞(1982年)、フランス文化賞シュパリエ芸術勲賞(1992年)など。

2009年春、久々の主演映画『春との旅』の撮影に入った。

家族

恭子夫人とは、1955年に舞台『森は生きている』の共演で急接近し、1957年に結婚。その後、家庭と無名塾の公私両面を二人三脚で乗り切る。夫人が1962年に死産してから夫婦に子がなかったため、夫人の妹宮崎総子アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている(総子は奈緒の実父と離婚している)。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった。1996年、長年連れ添った恭子夫人をで失う。

自叙伝『遺し書き』によると、テレビ東京のドキュメンタリー『ネシアの旅人』で太平洋全域の島を訪れ、生きることの意味を再発見して仕事に復帰したという。

脚本家演出家だった恭子夫人死後の無名塾公演は演出家を招くか、時に仲代自身が演出を兼ねる形で続いている。

弟はシャンソン歌手仲代圭吾

逸話

  • 仲代の少年時代からの愛称“モヤ”は、養成所時代、また芸能界でも多くの人々に用いられてきている。理由は、仲代の本名の他、「靄」と掛けて、仲代の顔のつかみどころのない独特の雰囲気、声に抑揚があまりない、という特徴を言い表わした愛称だからという。
  • 俳優座養成所時代、宇津井健とは性格が随分違っていたが、却って仲が良かった。『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
  • 仲代は温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎も「ケンカが強いのは仲代」と述べていた。
  • 映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』など傲岸な役も多かった仲代だが、素顔は前述通り温厚。妻も女優であり、数々の女優達とも共演してきたが、『さんまのまんま』(関西テレビ)では「女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ…。」と語っている。
  • 大河ドラマ風林火山』で武田信虎を演じたとき、映画『影武者』で晩年の武田信玄を演じたことを引き合いに出し、「こういった信玄像もあるのか」としきりに感心していた。

主な出演

映画

★印は黒澤明監督作品。

テレビドラマ

舞台

バラエティ・教養番組

ドキュメンタリー

ラジオ

CM

ディスコグラフィー

シングル

  • 「男の涙」(作詞:高月ことば / 作曲:村沢良介。1958年1月、テイチク
  • 「東京の灯よさようなら」(作詞:柴田忠男、作曲:村沢良介 / 1958年3月、テイチク)
  • 「青空のない男」(作詞:柴田忠男、作曲:村沢良介 / 1958年3月、テイチク)
  • 「銀座ロックン」(作詞:大高ひさを、作曲:村沢良介、編曲:伊藤恒久 / 1958年6月、テイチク)
  • 「小雨の駐車場」(作詞:渋谷郁夫、作曲:野崎真一 / 1958年6月、テイチク)
  • 「トランペット物語」

関連項目

脚注

  1. ^ 『「家」の履歴書』 光進社 2001年、180頁

外部リンク