仏生寺弥助

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仏生寺弥助(ぶっしょうじ やすけ、文政13年(1830年) - 文久2年(1863年8月8日)は、幕末の剣豪。練兵館最後の塾頭・原保太郎は、「日本武道史」の著者・横山健堂に、「弥助こそ当時の日本一」と語った。身長168cm。

略歴

越中国射水郡の漁村に生まれる。江戸へ出て、神道無念流の剣術道場・練兵館の風呂焚きの仕事に就く。仕事の合い間に道場を覗き見し、習わぬ剣術を覚えてしまった。道場に上げられ剣を持たせてみたら、初めから練達の者を打ち負かすほどだった。時に弥助16歳。何十年も修行をし、やっと一人前という剣士の多い中、天才肌の人物だったと言える。しかし文字も読めない無学者で、時代の流れ、文武両道志向から取り残され、無地位に終わった。

顛末

芹沢鴨と親密になり、新撰組に加わろうとしたところ、弥助の強さを恐れたかつての仲間に、謀殺された。謀殺の内容に関しては、諸説紛々としている。

史料

仏性寺弥助の記録は多くない。近しい世代の千葉栄次郎などと異なり、試合記録も残さなかった。高杉晋作ら、のちに名を成した幾人かの語る姿が、伝えられるだけである。写真、集合写真も残っていない。

ファイトスタイル

左上段からの面打ちを得意とした。言葉で宣言したのち行われるそれを、誰も防ぐ事が出来なかった。上段前蹴りも能くし、これも予告打ちでありながら、必中だったと伝えられる。