ノート:合気

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朝青龍

「合気が使えた、指導していた人でも、それをそのまま実戦に使えた例は、公式試合などには認められない。」という主張は偏りがあるので削除しました。例えば近いところでは2010年1月13日に、大相撲という公式試合の場で朝青龍が琴欧洲に対し用いた「腕捻り」を合気だと言っている人もいます。尤も、あれはただの関節技であり合気とは異なるという意見もあります。何を合気と呼ぶかは意見が分かれますが「公式試合で使われたことがない」と断言はできないでしょう。--Murayamashi 2010年4月9日 (金) 23:36 (UTC)返信

とはいえ、朝青龍が合気の指導者、ではないでしょう。ここでの議論は木村達雄先生は別として、合気の指導者(合気指導で月謝を取っている方)の実戦性を話している訳で、ウィキペディアは公共性・正確性を示さなければいけないでしょう。大相撲の技が、合気の技というのなら、そのことの対して大相撲の方にも意見を聞い--無事本 2010年6月11日 (金) 17:43 (UTC)てみる必要が有るのではないでしょうか?--133.31.213.145 2010年5月18日 (火) 06:59 (UTC)返信

岡本氏がご高齢のため、はずしたというのは、私には「岡本氏は合気技法は使えるが、ご高齢のため実戦論争ではお気の毒」と解釈できます。岡本氏のお体を考慮したご親切なご対応と存じますが、岡本氏も月謝までとっ--顔の無い人 2010年6月11日 (金) 13:53 (UTC)て合気の技のご継承とご普及に尊いお命を尽くしているものと理解しています。私は岡本氏を、日本武術史上残る達人・名人とみなすならば、ここは避けるほうが岡本氏に対して、信用が薄いととらえられても仕方がないのでは?この観点から岡本氏の名誉のため、はずすべきではない、と信じております。--133.31.213.145 2010年5月19日 (水) 07:35 (UTC)返信

人選論

朝青龍が合気の指導者ではないという意見には同意します。

木村達雄「先生」は別として、という意見は、偏りがあるかと思われます。

岡本氏を実戦論に於いて扱わないのは、社会常識だと思います。ご高齢ですからね。岡本氏が日本武術史に残る名人、達人であるとする根拠も、不明です。

もちろん木村氏、高橋氏も六十代なので、ムリがあるとも言えますが。

高齢すぎずに著名な合気指導者、これがこの項に記載して良い、条件だと思います。となれば木村氏、高橋氏、あえて加えれば有満氏あたりになるのが、適切でしょう。--顔の無い人 2010年5月19日 (水) 08:54 (UTC)返信

岡本正剛氏が高齢であるから名前を外すというご意見には首を傾げます。本文にもあるように「『体格の良い男が小柄な老人に触れた瞬間投げ飛ばされる』…などの現象が代表的なイメージになっている」というのが「合気」の一般的な解釈です。塩田剛三は「翁先生(植芝盛平)は死の寸前が一番強かった」と著書やインタビューで述べております(無論真偽はともかくですが)。「年齢・体格・性別に関係なく発揮できる」とも言われ、そういう「社会常識」を超えた現象として認識されているというのが合気の実情です。「高齢であるから実戦で合気は使えない」という判断は、合気をめぐる言説として、合意を形成しているとは言いがたいのではないでしょうか。--Musounoken 2010年5月19日 (水) 18:06 (UTC)返信


イメージと常識の、バランスをとった記述が、百科事典には求められるのではないでしょうか。事実、市販の百科事典には、荒唐無稽な内容は書かれないものです。

老人とは言いますが、岡本氏は既に八十代なかばで、お歳を召されすぎています。老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます。年齢、体格、性別に関係なく発揮出来るのは、合気「指導」であって、「実戦で」と定義されているわけでは、ないんじゃありませんか・・?

編集している項目は実戦性なのですから、そこをゴチャ混ぜにしてはいけないと思います。

それと木村氏のみを外したがる理由を、明記して下さい。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 08:09 (UTC)返信

木村氏“のみ”を外すべきだとは私は考えていませんが、「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます」というご意見は納得しかねます。八十代で駄目なら六十代でも駄目でしょう。八十代の岡本氏を「実戦論に巻き込」んではいけないのであれば、六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか分かりません。「社会の常識」では60歳でも十分「老人」でしょう。年齢を理由に岡本氏を外すなら木村氏も外すべきなのではありませんか?また、「合気」の発揮に年齢は無関係と言われる時に「指導」と「実戦」を分けるような「定義」というようなものは、私は聞いたことがありません。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 08:32 (UTC)返信


「木村氏“のみ”を外すべきだとは私は考えていない」との事で、では何方の名前を残すべきでしょうかね・・

具体名は記さないというのを落とし所にしてはいかがでしょう? ご意見をお願いします。

「六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか」は、「ギリギリ六十代が許容範囲」と説明しています。

「60歳でも十分老人でしょう」との旨も、既に「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が」という表現で示しています。編集会議なので、きちんとお読み下さい。

「八十代でダメなら六十代でもダメ」という論理が、よくわかりません。八十代と六十代は同じようなものと仰りたいのなら、それはおかしいと思います。特に男性に於いて八十代は、平均寿命を過ぎていますので、六十代とは全く違う、深刻なお歳だからです。ただ、どうせによ具体名を記すのは、私も気が進みません。

「合気の発揮に年齢は無関係と言われる時に指導と実戦を分ける定義というようなものは」なされてきませんでした。言い換えれば曖昧にされてきました。そこを曖昧にせず、きちんと分けた記載を試みているのが、この項の編集になります。「分けられていなかったのだからどこまでも拡大解釈して良い」という編集姿勢は、百科事典にはそぐわないと思います。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 08:51 (UTC)返信

「何方の名前を残すべき」かについて、私は年齢で区切りを付ける必然性を感じませんので、木村氏も岡本氏も残せば良いと思いますし、「具体名を記さない」でも別に構いません。もっとも今ここで私と「顔の無い人」さんが決めるようなことでもないでしょう。それと「実戦論に巻き込」んで良いのが「ギリギリ六十代が許容範囲」というのは、あくまで「顔の無い人」さん個人の価値基準に過ぎません。「実戦論に巻き込んで良いのは六十代までで、それ以上は駄目」などという「社会常識」は存在していないでしょう。八十代が「深刻なお歳」なら六十代でも「実戦には耐えられぬような深刻なお歳」だといえるのではありませんか?更に「合気の発揮に『指導』と『実戦』の違いが曖昧にされてきたからこの項ではっきりさせるべき」という内容のご意見ですが、それは「顔の無い人」さんお一人のみの問題意識であり、社会に共有されているわけではありません。それをこの場で無理に行おうとするなら「独自研究は載せない」というウィキペディアの公式方針に反します。それこそ百科事典の編集にはそぐわない態度ではないでしょうか。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 09:32 (UTC)返信


私は「残さない」という考えなので、では具体名は削る事と致します。残したい方がいればその旨述べた上で、書き直して頂いてかまいません。

「個人の価値基準に過ぎ――」なくないと思います。あくまで残す場合に於いてはですが。六十代と八十代がまるで違うものなのは、化学、生物学的なものだからです。高齢になればなるほど意見としてどんどん極端になっていくのは、明白なのではないでしょうか。

それと六十代を「巻き込んで良い」とは考えていません。その旨は最初にも述べた通りです。残す場合に於いては極端すぎないお歳の方を、という事です。基本的に残さないほうが良いと考えますが・・

「この項ではっきりさせるべき――」などと、私が書きましたか? 編集会議なので、きちんとお読み下さい。

「分けて語られているのがこの(合気という)項目なのですから」というのが、私の述べた旨になります。私が分けて編集してきたわけではありません。分けて(何方かが)語られているので、それに沿った編集をするか、それ自体に反対であればその旨きちんと示せば良いのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年5月20日 (木) 09:51 (UTC)返信

「顔の無い人」さんのご意見は、合気の「実戦」性に年齢で区切りをつけるべきだとか、合気の「指導」可能年齢と「実戦」可能年齢の差異を明確にすべしという風にも読めましたが、「顔の無い人」さんがそのような偏った主張をなさりたいのではない、と仰るなら、これ以上は異論は述べません。この項に客観的で常識的な判断に基づく編集がなされることを希望いたします。--Musounoken 2010年5月20日 (木) 10:53 (UTC)返信


まるで違いますね。以後は思い込みで話されず、きちんと会議参加者、お一人お一人の書いている事に、耳を傾けるようなさって下さい。「履歴」にも目を通されれば、どなたがどの箇所を編集したのかも、間違えないと思います。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 11:07 (UTC)返信

そうですか。それでは今後は、「60代はギリギリ許容範囲だが80代は高齢であるから実戦論では扱わない」などという奇妙な「社会常識」はあまり振りかざさないようにお願いいたしますね。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 12:46 (UTC)返信


まだ思い込まれています。実戦論で扱いたがる編集者が出た、ならば残すなら高齢すぎないほうが常識を逸脱しない、というのが、私の書いた内容です。Muso氏の論理は、言い換えれば「具体名を列挙してしまうのを認める以上、どんな高齢でもかまわず並べてしまおう」になってしまうので、それに偏りを感じないのはいかがなものかと思います。

具体名を挙げたいとする編集者の意見も汲む、しかしその中にあっても(たとえば今回は高齢を基準にしましたが)人選を考える、これが編集に求められる(バランスのとれた)姿勢なのではないでしょうか。

・・これでもお解かりにならないとしたら、Muso氏はひょっとしたら、私が「具体名を列挙した編集者」だと、勘違いされているかも知れません。Muso氏の論理には、私と他の編集者とを合体させて扱っているフシも見られます。私が列挙した、その上で人選も勝手に年齢基準を設けた、そういう論理になっていなくもないですね。

繰り返しますが、「私は具体名の列挙には反対で」「しかし挙げたいとする編集者の意見も汲み」「高齢すぎる方を挙げるのはさすがに反対ですが」「知られた合気指導者が皆お歳なので仕方なく」「ギリギリ六十代なら賛成します」というのが、これまで示した私の立場と、意見になります。

本当は有満氏の四十代も、競技格闘技の常識を見ても、不適切かと思われます。しかし知られた合気指導者の方たちが皆そういう、またはそれ以上のお歳をされている以上、また合気のイメージが「高齢でも」になっている事も汲み、(ある意味)仕方なく認める次第です。岡本氏については、既に立てなくなられている事等を考え併せても、「はたしてこの人が実戦で合気を使えるのか」などという話に巻き込むのは、正直失礼ですし、社会常識に欠くと思います。ファンタジー性の高い分野とは言え、読者に「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思われかねないので、基準を無法にしてはいけないと思うのですが、いかがでしょう。

解かりにくい箇所があれば、遠慮なくご質問下さい。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 16:47 (UTC)返信

どうもかみ合いませんね。かみ合わない原因は、「顔の無い人」さんが適切ではない場面で見当違いの「社会常識」を振りかざしているからだと私は思っています。私自身はこの手の「合気が実戦で使えるのかどうか」といった議論の突きつけ方は余り共感しませんが、この論に幾ばくかの意義があるとすれば、それは他ならぬ「合気」の「ファンタジー性」をこそ鋭く批判している点でしょう。つまり足腰も立たぬような老人が実戦でなお最強だと信じる幻想がある、そう言うなら実際に「実戦」で見せてみたらどうだ?そんなことはできないだろう?「常識」で考えるなら。…と、そういう「常識」的価値観が含意されているわけです。それに対して「老人に実戦をさせよとは、非常識だ!」と激怒するのは感覚がズレていますよね。要するに話の筋が全く見えていないわけです。「老人に実戦はムリだろ」という批判は常識があるからできているわけで、それに対して「老人を実戦論に巻き込むな!常識で考えろ!」と仰る「顔の無い」さんは全くズレていると言わざるを得ません。見当違いの倫理や常識は一旦停止して、冷静に物事を見つめることをお勧めいたします。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 17:52 (UTC)返信


「老人」と「足腰の立たないような老人」とでは、まるで違いますよ。合気のイメージとしても、後者は極端であり、一般的ではないと思います。

この項の実戦論も、「実戦で見せてみたらどうだ? そんなことは出来ないだろう?」などといった批判的な、挑発的なものではないと思いますよ? 私も編集に書きましたよう、「意見の分かれるところ」というのが主旨であり、批判、挑発などといった、極端なものではないと思います。

「老人に実戦をさせよとは非常識だ!」などとは言っていませんし、「激怒」もしていません。

Muso氏は物事をオーバーに、漫画チックに、拡大解釈する向きがお有りなので、ご注意下さい。

「老人に実戦はムリだろという批判」など、誰もこの項に書いていないと思います。あくまで「合気の実戦性」が、この項の主旨であり、「合気は実戦じゃムリだろ」や「老人が合気を身につければ、実戦ではどうか」でもありません。要するに、老人はどこにも出てきていないのです。これは項目をきちんとお読み頂ければ、明らかです。合気批判でもありませんので、偏った思い込みはなさらないよう、お願い申し上げます。--顔の無い人 2010年5月21日 (金) 18:34 (UTC)返信

分かりやすくするためになしたデフォルメですが、それが御気に召さないと仰るなら構いません。言い直しましょう。つまり「老人」と明記されているわけではないが、本文では岡本正剛・木村達雄といった高齢者に「実戦で合気が使えるか?」という「疑義」が示されていたわけです。当然これは「合気」の「ファンタジー性」に対する常識的観点からの疑義です。それにたいして「老人を実戦論に巻き込むのは非常識」という倫理的規制は見当違いですよということです。なぜならそこで浮き彫りになっているのは正に、「『合気』の世界では当然のように高齢な武術家が実戦に通用するとされている」という非・常識的な幻想性そのものだからです。「老人を実戦論に巻き込むのは非常識」という倫理観自体がこの場では適切ではありません。不適切なものをムリに当てはめようとするから「八十代はダメだが六十代はギリギリ実戦論に巻き込んでオッケー」などというそれこそ非常識な倫理基準を設けなければならなくなってしまうのです。これらの行為は全く不要な交通整理であると考えます。--Musounoken 2010年5月21日 (金) 22:09 (UTC)返信

木村達雄氏は高齢者ではありませんよ。--無事本 2010年5月22日 (土) 06:02 (UTC)返信

>無事本さん、コメントありがとうございます。たしかに、言葉の厳密な定義ではそうでしょう。木村氏を「高齢者」と言ったのは「競技者(ここでの「実戦」には競技試合も含まれているので)としては高齢」という程度の比喩的な表現です。その点はお汲み取りください。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 09:57 (UTC)返信

疑義が示されていたのは、仰る通りです。なんせ示した(編集した)のは私ですから。(笑)

・・ただ、ここは「合気」の項であり、「老齢の実戦名人」という項ではないわけです。「合気」の項に「老齢の実戦名人」の成分も含まれるのは確かですが、それそのものではありません。「合気」は「合気」です。

「老齢の実戦名人」という項の中に「実在性」または「ここで言う実戦とは?」といった段落があった場合、Muso氏の仰る事もわからなくはなく、高齢者を扱ってもかまわない、むしろ高齢者をこそ扱うべきになります。

しかしここは「合気」なわけです。その成分(老齢の実戦名人という成分)も含まれますが、あくまで含まれるに留まり、それが主役ではない、わかりやすくはイコールではないわけです。

イコールではないからこそ、老齢成分はあくまで成分扱いであり、それを主役にしてはいけないと思います。

各種成分にも割り振りながら、項目自体を部分拡大しないのが、まともな編集姿勢でしょう。ここでは老齢成分も汲み、ある程度のお歳の方をも載せながら、しかし老齢性が主役ではない以上、「幾らお歳を召されていてもかまわない」という人選は、場違い(項違い)になります。割り振り、中立、健全さ、それら様々な成分をバランス良く汲んだ記事作りをと、述べてまいりました。

お解かり頂けたでしょうか。

・・岡本氏個人に目を向けると、高齢のため膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられています。相撲や柔道などでは初めから座っていたら負け、あるいは反則負けになり、つまり試合に出る前から試合に通じないのが判っているわけです。具体的にはそういう意味でも、岡本氏を挙げるのは適切ではありません。

無事本さん、そうですね。木村氏は高齢者ではありません。--顔の無い人 2010年5月22日 (土) 08:28 (UTC)返信

>疑義が示されていたのは、仰る通りです。なんせ示した(編集した)のは私ですから。(笑)

ではそこに岡本正剛氏の名前を書き込んだのもあなたですか?いずれにせよ、岡本氏の実名を「老齢だから非常識」という不適切な理由で削ったのなら同じことだと私は申し上げています。 また前提として間違っていると感じるのは、「顔の無い人」さんが、ことさら対象者の現在の年齢・健康状態のみを想定として扱っている点です。この「誰それは実戦に通用するのか」という話題では、武田惣角・植芝盛平・塩田剛三・佐川幸義といった故人もしばしば俎上に上ります。そこでは当然「膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられて」いるような健康を害している時点の姿で想定されるわけがありません。対象者が人々の最も強い印象に残っている最良の状態でイメージされるのが当たり前です。わざわざ最悪の状態で「佐川氏は晩年足腰が弱っていたから、たとえば今ヒョードルと対戦したら負けるだろう」などとは普通誰も言いません。現存者の岡本氏についても同様のことが言えます。岡本氏の実戦性が云々される場合想定されるのは、当然現在の衰えた状態ではなく、人々の記憶に最も印象に残っている時代の姿です。

その意味でも「顔の無い人」さんの唱える問題意識はまったく見当外れと言わざるを得ません。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 10:23 (UTC)返信


「岡本正剛氏の名前を書き込んだのもあなたですか?」

既に5月20日に、私ではないと書きました。編集会議なのできちんと読まれるか、あるいは記憶を確かにお持ち下さい。


「岡本氏の実名を「老齢だから非常識」という不適切な理由で削った」

のではありません。本当に読んでますか? 木村氏の名を削り、率先して岡本氏の名のみ残そうとする異様な編集に、疑義を述べているわけですが。なのでMuso氏の表現を借りれば、「岡本氏の実名を「木村氏よりもより老齢な岡本氏のみをあえて挙げようとするのはおかしい」という理由で削った」になります。


「対象者が人々の最も強い印象に残っている最良の状態でイメージされるのが当たり前」

記事に「往年の」「全盛期の」というような説明書きがあれば別ですが、単に名前のみ挙げられて、しかも老齢成分を持った現象が扱われる場合、「当たり前」とは行かないでしょう。(※こうよく考えず、断定、デフォルメ、拡大解釈、それら編集にそぐわない迂闊なご発言が多いので、ご注意頂きたいと思います)


故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。その他様々、生きている以上、総て現在の対象者へふりかかります。そしてそれは、高齢でない方々についても同じです。だからこそ私は、具体名の列挙には反対なのです。

しかし載せたいとする方がひいてくれなければ、それならばせめて高齢すぎないほうが、となるわけです。ごくごく自然な、あたりまえの判断だと思いますよ。

まとめますと、「合気」と「老齢の実戦名人」はイコールではなく、「故人」と「現存の人」もイコールではありません。それぞれ互いに成分は混入しますが、全体と成分は違うので、成分を拡大解釈されないよう、ご注意下さい。

解かりにくい、または納得出来ない箇所があれば、重ねてご質問頂ければと思います。--顔の無い人 2010年5月22日 (土) 11:14 (UTC)返信

>なのでMuso氏の表現を借りれば、「岡本氏の実名を「木村氏よりもより老齢な岡本氏のみをあえて挙げようとするのはおかしい」という理由で削った」になります。

いずれにせよ「老齢」を理由に削ったことに変わりはないわけですね。年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じないと私は申し上げております。

>故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。その他様々、生きている以上、総て現在の対象者へふりかかります。そしてそれは、高齢でない方々についても同じです。だからこそ私は、具体名の列挙には反対なのです。

高名な武術家・武道家であるなら、何らかの論評の対象になるのはごく当然のことでしょう。武術武道の看板を掲げ人々の耳目を集めそれを生業にしているのです。批判を耳にすることもあれば道場破りも来るでしょう。それは当然のリスクではありませんか。そのようなお節介な心配を「顔の無い人」さんがどうしてなさる必要があるのか疑問です。またそれがウィキペディアにおいて記述を控える理由にすべきであるとも思いません。奇妙な年齢基準を当てはめたりせず、岡本氏も木村氏も名前を記載すれば良いと思います。--Musounoken 2010年5月22日 (土) 14:22 (UTC)返信


「年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じない」理由は? Muso氏のこれまでの主張は、ちゃんとした説明がなく、会議になっていないと思うのですが。理由らしき理由は以下の2点で宜しいでしょうか。


(1)合気は老齢でも使えるというイメージがあるのだから、どんな高齢者をも実戦論に載せて良い

(2)誰かの名前が挙がった時、多く普通の人は(挙がった名前の)高齢時はイメージせず、若い全盛時をイメージするもの。だからどんな高齢者も(今の姿はイメージされないのだから)実戦論に載せて良い。


こう並べてみれば判る通り、(1)と(2)とでは、矛盾があります。(1)では高齢でも可能とイメージされると仰り、(2)では高齢時はイメージされないと仰る。どちらなのでしょう? 成分の互換性も、この場合成立しにくいと思います。いずれにせよ説明になっていません。


「お節介な心配」ではありません。社会常識です。たとえば著名人物の悪口を公の場に書いたら、名誉毀損罪になりますね。「悪口を書いたからと言って何なんだ? 著名人物である限りリスクは背負うだろう? 悪口を書いたからと言って書かれた人物に何が起きるのかを、お節介にも心配してどうすんだ?」などと言うのは、成り立ちません。ここでは悪口を例にとりましたが、荒唐無稽な論評なども、同様です。だからこそたとえば市販の百科事典などの、公な、正式な文書には、特定個人に関して荒唐無稽な論評が載らないのです。

Muso氏は市販の百科事典を手にとられ、パラパラ眺めてご覧になってはいかがでしょう。書き方の社会常識というのが、お解かり頂けると思います。

百科事典まで行かずとも、武術の専門誌などでもかまいません。A氏B氏C氏は実戦に通用するだろうかなどといった文章記事は、まず見当たるものではありません。


「岡本氏も木村氏も名前を記載すれば良いと思います」

そうお考えであればそれについては私に止める権限はありません。またそれ自体に強硬に反対するものでもありません。ぜひMuso氏の文章で、巧く具体名を組み込まれて下さい。皮肉でもプレッシャー掛けでもなく、見事な編集を期待します。--顔の無い人 2010年5月23日 (日) 16:34 (UTC)返信

>(2)誰かの名前が挙がった時、多く普通の人は(挙がった名前の)高齢時はイメージせず、若い全盛時をイメージするもの。だからどんな高齢者も(今の姿はイメージされないのだから)実戦論に載せて良い。

ここは少し違います。合気系武術家の場合、「若い」時が全盛期とされているとは限りません。たとえば植芝盛平の場合「脂の乗り切った七十代頃」と菅沼守人師範は仰っています。合気系武術武道周辺では一般社会の高齢者が全盛期であるという見解も成立しているのです。つまり「全盛期」は年齢によって決まるとは誰も断言できません。若くして全盛期の人もいるかも知れないし、老境で全盛期と言われる人もいるわけです。従って

>(1)合気は老齢でも使えるというイメージがあるのだから、どんな高齢者をも実戦論に載せて良い

と矛盾はありません。よって「六十代は記載してギリギリオッケーだが七十代はアウト」などという馬鹿げた年齢制限も意味を失います。これが「年齢を理由に記載の基準を設けることに必然性を感じない」理由であります。

>「お節介な心配」ではありません。社会常識です。たとえば著名人物の悪口を公の場に書いたら、名誉毀損罪になりますね。

「合気」の本文に岡本正剛氏の悪口が書かれていたのなら削除すべきですね。しかしここで書かれていたのはあくまで「実戦で通用するかどうか」の「疑義」でしょう。「悪口」ではありません。

>荒唐無稽な論評なども、同様です。だからこそたとえば市販の百科事典などの、公な、正式な文書には、特定個人に関して荒唐無稽な論評が載らないのです。

>Muso氏は市販の百科事典を手にとられ、パラパラ眺めてご覧になってはいかがでしょう。書き方の社会常識というのが、お解かり頂けると思います。

>百科事典まで行かずとも、武術の専門誌などでもかまいません。A氏B氏C氏は実戦に通用するだろうかなどといった文章記事は、まず見当たるものではありません。

良く分かりませんね。つまりあなたは「岡本正剛が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる」という本文の文章が「荒唐無稽な論評」だと仰っているのですか?それはいかなる意味で「荒唐無稽」なのですか?

  1. 岡本正剛が実戦に通用するわけがないのだから論評するな
  2. 岡本正剛は実戦で通用するに決まっているのだから論評するな

以上のどれでしょうか? --Musounoken 2010年5月23日 (日) 18:18 (UTC)返信


Muso氏へ。


まず「悪口ではありません」といったまたも読んでいない発言や、「馬鹿げた年齢制限」などといった常識を欠く言葉遣いは、されませんようご注意下さい。


「若い」と言ったのは、全く体の動かなくなられた時点に較べればという意味です。そしてMuso氏は当初、まさに「全く体の動かなくなられた時点の岡本氏」を、合気のイメージでは「有り」と、仰っていたのではなかったですか?(※「足腰が立たないような老人が――」を参照)


「六十代は記載してギリギリオッケーだが七十代はアウト」

本当に読んでますか? わざとお間違えなら、それは会議にふさわしくない態度ですが・・

私は上記引用箇所のような発言はしていません。 ・・ただ、どうにせよ七十代のほうが、化学、生物学的にも、記載するには常識の欠け度合が増すでしょうけれど。あまり健康を害されすぎていない、七十代の合気指導者がおられれば、記載はギリギリ認められるかも知れません。年齢先にありきではなく個人先にありきなのは、きちんとご理解頂きたいと思います。


「良く分かりません」

書いてある内容そのものです。伺いますが、そのような内容が百科事典、あるいはやや条件を緩和して、武術雑誌に見られるでしょうか? お答え下さい。


「いかなる意味で荒唐無稽なのですか?」

専門外の分野で実力論に使われる事、専門内でさえまず見られない条件(この場合お歳)、この2点によりそう判断致しました。逆に言えばこの2点があるのに記載された例は、まっとうな文書類、たとえば百科事典とか専門雑誌に、あるものでしょうか・・?


「論評するな」

細かい事ですが、「するな」などという表現はやや品、常識を欠くものです。私も使っていませんし、またそのようにデフォルメして会議するのは不適切なので、くれぐれもご注意下さい。--顔の無い人 2010年5月23日 (日) 19:03 (UTC)返信

顔の無い人さん、あなたはずいぶん他人の言葉遣いに厳しい道徳観をお持ちですね。所で少し気になっていたのですが、私のハンドルを「Muso氏」と妙な略し方をするのは何か意味があるのですか?私は「Muso」が苗字ではありませんが。それはあなたの常識では失礼ではないのでしょうね。

>そしてMuso氏は当初、まさに「全く体の動かなくなられた時点の岡本氏」を、合気のイメージでは「有り」と、仰っていたのではなかったですか?(※「足腰が立たないような老人が――」を参照)

「有り」と考える人もいるかも知れませんよ、ということです。極端な例ですが、最初にも挙げたように塩田剛三は著書やインタビューで「植芝先生は亡くなる直前便所に立とうとして止める弟子を投げ飛ばした。開祖は死の直前が一番強かった」と語っており、私の周りにもそれを信じている人がいます。(私は信じていません。)そういう見方もあるということです。岡本氏の現在をすら「有り」と考える人もいるかも知れませんし、そうでない人は岡本氏のもっと若い頃を自然に「全盛期」としてイメージするでしょう。従って今の健康状態がどうであろうと、それを理由に岡本氏の名前を削る理由はありません。

>伺いますが、そのような内容が百科事典、あるいはやや条件を緩和して、武術雑誌に見られるでしょうか? お答え下さい。

実例は挙げられませんが、過去に無かったとも言えないでしょう。それとウィキペディアは紙製の百科事典ではありません。従来の刊行物が扱わなかったような新事象やマイナーな概念も扱います。従来の刊行物に無かったから書いてはいけない、というのは根拠にはなりませんよ。

>専門外の分野で実力論に使われる事、専門内でさえまず見られない条件(この場合お歳)、この2点によりそう判断致しました。逆に言えばこの2点があるのに記載された例は、まっとうな文書類、たとえば百科事典とか専門雑誌に、あるものでしょうか・・?

お答えは同上。そしてこれがあなたが「岡本正剛が、総合格闘技の試合に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる」という本文の文章が「荒唐無稽な論評」だとする理由なら、合理性を認められません。(「専門外の分野で実力論に使われる事」という部分も意味が良く分かりません。)もっと合理的で明確な理由を示して頂けますか。--Musounoken 2010年5月23日 (日) 22:15 (UTC)返信


Musounoken氏へ。


「あなたはずいぶん他人の言葉遣いに厳しい」

私が厳しいのではなく、社会常識だと思います。何かきちんとした会議の場で、「馬鹿げた」などという言葉遣いは、普通聞かれるものではありません。省略は寧ろ今の世の中では普通であり、フルネームで呼ぶほうが少ないと思います。Musounoken氏のお名前が長く、また頻繁に呼びかけが入るので、打ち間違えのないよう、そうしていました。私の事も「顔氏」「顔さん」と呼んで頂いてかまわないですよ。 ・・しかしご不快であれば、逐一フルネームでお呼びするようにします。


「有りと考える人もいるかも知れませんよ、ということです」

いるとは思います。しかし一般的ではないでしょう。それは既に5月21日に、「合気のイメージとしても、後者は極端であり、一般的ではないと思います」と書いています。

植芝氏に関しては、私の周囲にそれを真に受けている方は、いないです。また著名な格闘技の選手の何人かが、自身のご師匠あるいは父親を、「自分が今もまるで歯が立たない」と話しています(話していました)。四、五十代、中には八十代の例もあります。しかしそれを真に受ける読者の数は、一般的とは言いがたいでしょう。「師匠や父親の扱いとはそういうものなのだ」と、多く一般の人は理解しているからです。公式データ的な場に「Aという格闘家よりもその(お歳を召された)師匠のほうが強い」と記される事はありませんし、そしてWikipediaはどちらかと言えば、その「公式データ的な」場なのではないでしょうか。

一般的でない事が記されてしまったら、ほとんどの世間、読者は、抵抗を覚えると思います。「あるかも知れない」、または若い頃を的確に思い浮かべてくれる、それらの反応はごくごく稀少にとどまるもので、一般的(に出る反応)と考えるのはムリがあるでしょう。


「従来の刊行物に無かった」

のは、一般的でなくムリがあったからに他ならないと思います。「新事象やマイナーな概念」が必ず一般性に反するという事はないのでは? 「一般的でなくムリがある」と「新事象やマイナーな概念」は、イコールではありません。


「専門外の分野で実力論に使われる」とは、たとえば「数覚」というのをご存知でしょうか? 数学センスの事であり、それが無いと数学で大成は出来ないと言われています。数学者に数覚(があるかないか)は、専門内と言えるでしょう。しかし偉大な物理学者や発明家を、いくら著名で、天才だからと言って、数覚(があるかないか)論に使うのは、専門外と言えるのです。

事典に「数覚」という項があったとして、「著名な発明家や物理学者にそれが備わっていたかは、意見の分かれるところと言えよう」などと記述される事は、まずないわけです。ましてや「エジソンやアインシュタインに数覚があったかは――(略)――」と書かれる事など、絶対に。

専門外だからです。専門外をムリに俎上に挙げるのは、分野のいかんに関わらず、「荒唐無稽」なのではないでしょうか。

合気の記事の編集も、このよう他の分野を見渡しながらされてはいかがでしょう。合気指導者は実戦は専門外になられます。ひょっとしたら(実戦に)通じる実力、あるいは素質はあるかも知れませんけれど、格闘家や柔道選手、それら試合の専門家に較べれば、専門外なのは事実です。解かりにくい箇所あれば、重ねて遠慮なくご質問下さい。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 09:47 (UTC)返信

>顔の無い人さん、

迂闊にもある重要な一点について確認するのを忘れておりました。 あなたはここで度々岡本正剛氏の健康状態について触れておられますが、それは何をソースとする情報ですか? 個人の健康状態というのは普通プライバシーとして扱われます。社会的・商売上の信用や名誉に関わるからです。 この情報は正確かつ岡本正剛氏側からきちんと了解の上公表されている情報なのですか? もしそうでないなら重大な問題に発展する可能性も考えられます。 私もここでの会話に関わってきましたので、他のことはさておき、この点については第一に明らかにしてください。--Musounoken 2010年5月24日 (月) 11:45 (UTC)返信


秘伝誌。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 14:04 (UTC)返信

引用は可能ですか?またどの号か分かりますか?--Musounoken 2010年5月24日 (月) 16:15 (UTC)返信


購入しなかったので、引用、号の特定、それぞれ難しいです。--顔の無い人 2010年5月24日 (月) 16:20 (UTC)返信

大切なことですので大体いつ頃かでも教えて頂けませんか?バックナンバーを検索します。またどのような扱いの記事・文章だったかもお願いいたします。「岡本氏については、既に立てなくなられている事」「岡本氏個人に目を向けると、高齢のため膝を悪くされ、立って動く事が出来なくなられています。」というあなたの記述は本当に正確なものですか?--Musounoken 2010年5月24日 (月) 16:43 (UTC)返信


長く見積もってもここ2、3年の間のだと思います。記事は合気の特集か何かで、岡本氏の実演写真と注意書き「岡本氏は膝を悪くされ現在は立っての指導はされていない」がありました。記述は(無論一言一句ではないものの)正確だと思います。それはここの会話でも、たとえば一度出た話を忘れてしまったりという、記憶の不確かさを見せていない事からも、お解かり頂けるのではないでしょうか。--顔の無い人 2010年5月25日 (火) 08:56 (UTC)返信

「立っての指導はされていない」と

「立てなくなられている事」「立って動く事が出来なくなられています」では、

大きな開きがありますが。岡本正剛氏は「立てなくなられている」と「秘伝」の記事に書かれていたのではなかったのですか?そこは重要なポイントですよ。繰り返しますが「立っての指導はしていない」と「立てない」では意味が全く異なります。--Musounoken 2010年5月25日 (火) 11:17 (UTC)返信

同じじゃないでしょうか。 武術的には。--無事本 2010年5月25日 (火) 17:20 (UTC)返信

>無事本さん

個人の健康情報についての取り扱いは、武術的な話だけで済む問題でしょうか?“常識”で考えるなら、個人の名誉と尊厳にも関わる重要な問題かと思いますが。--Musounoken 2010年5月25日 (火) 19:53 (UTC)返信

>Musounoken

全くその通りで、ここまでのトークも貴殿の方が正しいと存じております。合気の真実を公平性を保ち、かつ非難しないことが、辞典に掲載される最低の常識でしょう。「岡本正剛氏が立てなくなられている」「武術的には同じ」などという記述は、場合によっては法律問題になります。ウィキペディアの公共性をよく認識するべきでしょう。頑張って下さい。--133.31.213.145 2010年5月26日 (水) 08:24 (UTC)返信

>133.31.213.145さん

お言葉、深く痛み入ります。ありがとうございます。m(_ _)m

ところで133.31.213.145さんに是非お伺いしたいことがあるのですが、133.31.213.145さんは、顔の無い人氏が言うような、岡本正剛氏が「既に立てなくなられている」という話をご存知ですか?私は顔の無い人氏のこの文章を読む以前には一度も聞いたことがないのですが…。ここで初めて聞きました。以下に顔の無い人氏の文章を引用しますが、

岡本氏については、既に立てなくなられている事等を考え併せても、「はたしてこの人が実戦で合気を使えるのか」などという話に巻き込むのは、正直失礼ですし、社会常識に欠くと思います。ファンタジー性の高い分野とは言え、読者に「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思われかねないので、


…と、なんだか“合気に関わらない「読者」”(?)までが、岡本正剛氏が「既に立てなくなられている事」を良く承知しているかのような文章です(一体“彼ら”はどこでその情報を入手できたんでしょう?)。顔の無い人氏が想定するような読者がいるとは、私には俄かには信じがたいのですが…。

もしよろしければ133.31.213.145さんのご意見も頂けると幸いです。--Musounoken 2010年5月26日 (水) 13:04 (UTC)返信


Musounoken氏へ。


「立てなくなられている」と「立っての指導者はされていない」は同じだと思います。お考えの「開き」を、解かりやすくご説明願えるでしょうか。

私からも簡単に説明しておきます。岡本氏の主宰する会の「指導」は、型稽古であり、立っている人へ向かい「受け」(の人物)が手をとりに行き、少し触れた時点で受けが自ら飛びます。「取り」すなわち立っている人は、その場から動きません。取りへかかる体の負担は、ほぼ「立っている」それのみになります。強いて言えば、立っているプラス「僅かな動き」となるでしょうか。岡本氏は現在それがお出来にならない、つまり「立って(僅かにも)動く事が出来ない」わけです。

膝が悪いからごムリをされないだけで、本当は立てる、だから「立てない」というのは間違いだ。あえて言えばそういう論理で(私の情報に)批判は可能ですが、たとえば膝も腰もお悪くて、体中筋肉の萎えた寝たきりのご老人でも、全く立てないという事はありません。普段車椅子を使われていても、よほどの症状じゃない限り、「全く一瞬たりとも立てない、歩けない」という事は、まずないです。しかしそれを以って「立てる」「立って動ける」とは、特に運動場面の話題では、言いがたいでしょう。

またそもそも、たとえば「日常全場面で一切全く立てなくなられている」、たとえば「日常生活では立てるが車椅子を使用しなければならず、運動の場面では基本的には立てない」、そのように表現し分けなければ情報として誤りになる、という事もありません。「立てなくなられている」がその両者(両症状)に多大に含まれるのは、事実なのですから。「この局面では立てる」を添えないといけない事もありますが、今の会議はとりたてて「この局面(つまり日常生活ですね)」を添えなければならない場でもないですし、それ(この局面)を話題にもしていないと思うのですが、いかがでしょう。


133.31.213.145|133.31.213.145氏へ。

「合気の真実を公平性を保ち、かつ非難しないこと」とは、この場合何でしょう? 私は何か「非難」をした憶えがないので、解かりやすくお願いします。

また133氏の編集、木村氏を削り岡本氏を積極的に入れたがるのが問題とされているわけですから、その件きちんとお答え下さい。それでは説明になっていませんので、宜しくお願い致します。


Musounoken氏へ。

「良く承知」は、公刊書に示されたので、そう扱って良い部分はあると思います。辞書で岡本氏の名前を見て、もしも知らない人でも、「誰だこの人?」と聞き込んだら、武術に詳しい人からは「ああ、その人なら今」と返ってくる可能性は、低くないと思います。秘伝誌先月号にも、(以前の説明書きはありませんが)岡本氏の座って指導されているお写真があるほどです。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 00:56 (UTC)返信

顔の無い人さん

「立てなくなられている」と「立っての指導者はされていない」は同じだと思います。お考えの「開き」を、解かりやすくご説明願えるでしょうか。

「立てない」は立つ能力がない(あるいは妨げられている)、ということ

「立っての指導はしていない」は、「指導」という場面においてのみ「立って」いない、という状態を述べているに過ぎません。全く同じではありませんね。

色々と仰っていますが、「立っての指導はしていない」のだから「立てない」のだ、と断定するのなら、それは憶測による軽率な記述です。ここは「運動場面」の話だけで「日常生活」の話はしていない、というのもあなたの勝手な思い込みです。私が取り上げた塩田剛三による“植芝盛平が死の直前便所に立とうとして止める弟子を投げた”逸話も日常生活を含んでいます。ましてやあなたがその視線を危惧する「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思うような外野の一般読者がそんなに都合よく「運動場面」と「日常生活」を峻別して考えてくれるでしょうか?少し甘い期待をし過ぎでは。

顔の無い人さんが個人的にそう思ったというだけで確たる証拠も無く、このような現存個人のプライバシー侵害に繋がるようなことを安易に書くべきではありませんし、たとえ仮に「岡本氏が立てなくなっている」が事実であったとしても、岡本正剛氏ご本人の許可を得て正式に公表された情報で無い限り、ウィキペディア上でそれを書くことは許されるべきではありません。ウィキペディアの公式方針「Wikipedia:存命人物の伝記」をお読みになるべきです。

また顔の無い人さんは岡本氏が「立てなくなられている」ことを示すソースを提示できていません。これは現存人物の記述にあたっては「検証可能性」を満たす、というウィキペディアの公式方針にも反します。そのような情報源も不確かで確認もできぬ状態でいくら「岡本氏は立てなくなられている」と主張しても説得力を持たないと思います。

秘伝誌先月号にも、(以前の説明書きはありませんが)岡本氏の座って指導されているお写真があるほどです。

「月刊秘伝」2010年5月号(ASIN: B003ETYNRA)は私も持っています。「合気上げ最終定理」の特集があり、p14には座って指導する岡本氏の写真と共に「膝を悪くされている岡本氏は正座ではなく胡坐で稽古を行っている」の文章がありますが「立てない」とはどこにも書いていませんね。顔の無い人さんは「座って指導されているお写真があるほどです」と仰るけれど、「合気上げ」なのですから座っていても当然であり、論拠足り得ません。ちなみにその前のページには、手前に投げられた弟子の体で一部隠れているためはっきり確認できませんが、岡本氏の腿の角度が垂直に近く立っているところから見て、畳に膝立ちをしているとおぼしき写真もあります。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 03:44 (UTC)返信


つまり立てないということだと思います。--無事本 2010年5月27日 (木) 05:56 (UTC)返信

短絡的な決め付けは慎みましょう。個人のプライバシーに属する健康状態について、これ以上いい加減な憶測を書き続けると、「誹謗中傷」「名誉毀損」と判断されかねませんよ。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 07:37 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

「立てない」は、「一切全く日常でも立てない」とイコール視されるものだと、仰りたいのですね。それは拡大解釈なのではないでしょうか。また拡大解釈されるとしても、それは本記事、つまり辞書部にそれのみ書かれた場合で、ここは会議所なのですから、「それはどこまでの意味ですか?」という風に、互いに聞き合えば良いものと思います。

植芝氏の逸話は、「試合」「乱取」「スパーリング」という枠づけ(断り)がありませんよね? 実戦という段落(枠づけ)で語られる場合とは、まるで以って違うと思うのですが。また植芝氏には運動場面と日常生活を分けて考えなければならない、たとえば立てないという種の仕障は、なかったと思います。


「確たる証拠もなく」

「ソースが提示出来ていません」

一応秘伝誌で見たとお伝えしました。証拠あるいはソースについては、たとえばMusounoken氏の「植芝氏の逸話を信じている」という知人は何と言うお名前で、それを本当に言ったという証明は、とも言えてしまいます。しかしここは辞書部ではなく会議所なのですから、それを求めるのは場違いなのでは・・?(無論イイカゲンな話を書いてよいという意味ではなく)

記事の編集のために話しているのを、見失われている感じがします。


お挙げの秘伝誌は既に私が書いたよう、「立てなく」の旨は書かれていません。私の記憶では(これも既に書いたよう)もっと以前のになります。

但しひょっとしたら、「膝をお悪く」と「正座はされず」の情報により、また過去には立って指導をされていた事も併せ、「ああもう立てないのだな」と「解釈」し、そう書かれていたものと思い込んでしまった可能性はあります。もしも間違いであれば、その時は謝ります。(読んだ秘伝誌がもっと以前なのは確かです)

しかし伝えたかった旨は「健康に障りが出ている」という事だったので、それはご理解頂きたいと思います。

ところで本記事に具体名は書かれないのでしょうか? それ自体には以前も申し上げた通り、特に反対致しませんので、遠慮なさっているのなら、かまわず書いて頂いて良いですよ。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 08:41 (UTC)返信

>膝を悪くされている岡本氏は >正座ではなく胡坐で >稽古を行っている

書いてある通り、つまりこれを立てないと言います。--無事本 2010年5月27日 (木) 09:03 (UTC)返信

>顔の無い人さん

「立てない」は、「一切全く日常でも立てない」とイコール視されるものだと、仰りたいのですね。それは拡大解釈なのではないでしょうか。

「イコール」とは一言も言っていませんよ。あなたが仰るような「運動場面」においても「生活面」においても、そもそもどこにも「岡本氏が立てなくなっている」旨公式に記述されているソースが示されていないにも関わらず(いくらあなたが「過去に見たのは確かだ」と仰ったとしても、その確認は他者と共有できなければなりません。「植芝氏の逸話を信じている」私の知人とはソースを示すべき重要性が異なります)、「岡本氏が立てなくなられている」を公然の事実であるかのように語り、それを拠り所の一つとして記事の編集をなさることには賛成できかねると言っているのです。それを認めてしまえば、「岡本氏は立てない」が事実であると半ば認めたのに等しいと私は思います。「運動場面」において「立てない」と言っただけで、「生活面」を言ったのではないから構わない、というような、そういう問題ではありません。

また先にも書いたように「なんだ、合気に関わる連中は社会常識もないのか」と思うような外野の一般読者は「立てない」と言われれば普通は「日常生活」も含めて、と理解すると私は思います。事情も良く知らない人が「運動面では立てないけど日常では立てる」などと、どうしてそこまで配慮の行き届いた解釈をするでしょうか。

そして何よりもまず、岡本正剛氏は現存個人です。岡本氏ご本人が許可した情報であると確認されない限り、個人のプライバシーである健康状態について他人がああだこうだと軽率に語るべきではありません。それは「合気」の項本文でもこの会話ページでも同じことです(繰り返しになりますが、ソースを示すべき必要性として「植芝氏の逸話を信じている」私の知人とは重要性が異なります)。それこそ「社会常識」なのではないでしょうか。

顔の無い人さんは以前、

故人と現存の人物は、決定的に違います。なぜなら現存の人物は、百科事典を見た方が試しに会いに行く事も可能であり、また批判がご本人の耳に届いたりもします。

と現存人物に配慮すべき旨仰っていたはずです。岡本氏が「立てなくなられている」というご自分についての記述をお知りになったらどう思うでしょうか?顔の無い人さんは現存個人に配慮すべきと他人には言っておきながら、ご自分は岡本氏のプライバシーに言及することについて、岡本氏個人に対する配慮がほとんど見られなかったことが、私にはひどく残念に感じられます。

もしも間違いであれば、それは謝ります。(読んだ秘伝誌がもっと以前なのは確かです)しかし伝えたかった旨は「健康に障りが出ている」という事だったので、それはご理解頂きたいと思います。

了解します。

ただし私の意見としては、武術武道家の現在の健康状態だけを基準に実力を語る必要はないし(語ろうとすれば今回のようにプライバシー侵害の恐れも出てくる)、「合気」は生理学や医学など科学や常識で解明されているとは言い難いのだから、それらや年齢を基準に実力を考える場面から排除すべきでないという考えは変わりません。 記事の編集は、異論が無ければ時期を見て行います。しかし大幅な改編は考えていません。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 10:39 (UTC)返信

私は某大学の合気道部に所属しているものですが、Musounokenさんお一人でがんばっている手記、感動いたしております!!部員全員かつ、うちの大学には大東流合気柔術のサークルもあり、全てあわせると総勢200名近くになります。みんなMusounokenさんを応援しています。お一人でがんばってください!!


Musounoken氏へ。

「一般読者は「立てない」と言われれば普通は「日常生活」も含めて、と理解すると私は思います」

それは拡大解釈だと思います(枠づけは何処へ行っちゃったのでしょう?)。またここは一般読者向けの本記事(辞書部)ではないので、もしも辞書部に書くとしたら、より細かい記述になると思います。そもそも辞書部にそのような情報は書かないものでしょう。

Muso氏が辞書部と会議所をごちゃ混ぜにしている旨、既にご指摘差し上げたのですから、お忘れにならないようお願いします。

岡本氏の健康状態については、「許可無く」でも「プライバシー」でもなく、公刊情報だった(と記憶していた)から書いただけですよ。そしてまだ公刊性が否定されたわけではないのですが。


「武術武道家の現在の健康状態だけを基準に実力を語る必要はない」

「だけ」で語ったわけではないですが、健康状態に障りがある場合、それは重要なファクターになりますよ。基準度「ゼロ」と扱いたがるMuso氏のご姿勢は、著しく偏りがあると思います。勿論これは既に述べさせて頂いたよう、「比較」に於いてですけれど。比較とは、「同じ合気指導者の、より若い方を削り、優先して極端な高齢者を挙げようとする、偏った編集姿勢が見られた時」という意味です。どうも著名な合気指導者を全員は挙げたがらない、人選も理由が示されない、ならば基準を設けさせて頂く、そのような流れでしたよね。

私としては「全員挙げて良いというご意見なら賛成」「しかし具体名を示さないよりも示すべきだとする意見には反対」「なぜなら説明がなされていないから」「勿論示してはいけないとは言わず」「でも(他を挙げず)極度な高齢者を率先して挙げるのはおかしい」と考える次第です。


「科学や常識で解明されているとは言い難い」

そうですね。仰る通りです。しかし科学や常識を丸無視するのは、良くないと思います。また「高齢でも実戦で使える」という予想は、「公に証明されていないという結果で(使えないと)解明されている」とも言えてしまいます。当初から述べていますよう、編集にはバランスが求められるのではないでしょうか。Muso氏はこう考えたら「これだけ」という、やや偏った編集姿勢でいらっしゃるので、「全方向性を汲む」という概念、ご姿勢を、お持ちになったほうが良いのではないかと思います。


「記事の編集は、異論が無ければ時期を見て行います」

133氏も説明して頂けないようなので、編集をして頂いてかまいません。まるで私のせいで(Muso氏が遠慮され)したい編集が出来ない形になるのは心外なので、どうぞ速やかに。クドイようですが、私に遠慮はなさらないで下さい。細かい表現等、相談があれば乗りますので。--顔の無い人 2010年5月27日 (木) 13:54 (UTC)返信

>顔の無い人さん

それは拡大解釈だと思います。またここは一般読者向けの本記事(辞書部)ではないので、もしも辞書部に書くとしたら、より細かい記述になると思います。そもそも辞書部にそのような情報は書かないものでしょう。Muso氏が辞書部と会議所をごちゃ混ぜにしている旨、既にご指摘差し上げたのですから、お忘れにならないようお願いします。

どちら向け、という問題でしょうか?一般読者向けで無ければ不確定な情報・プライバシー侵害の恐れのある情報を載せても良いということにはなりません。この会話ページは特定の人間だけが見る場所ではありません。無制限に公開されていることは本文も会話ページも条件は同じですよ。どこであろうとそこが公開の場所である限り、言動には厳しい理性が求められる筈です。

岡本氏の健康状態については、「許可無く」でも「プライバシー」でもなく、公刊情報だった(と記憶していた)から書いただけですよ。そしてまだ公刊性が否定されたわけではないのですが。

公刊性は否定されてはいませんが、確認されてもいません。確認されるまでは事実の正当性は留保されて然るべきでしょう。それまではプライバシーとして扱われるのが当然では?まず尊重されるべきは岡本氏個人の名誉と尊厳でしょう?顔の無い人さんの意見の正しさはその次でも痛みは無いはずです。それともあなたの意見の正当性は、他人のプライバシー(=人権)を侵害する危険性を侵してまでも第一に尊重すべきものなのですか?そうではないはずです。御自分の正しさにこだわるより、まず他者の尊厳への配慮ということを思い起こして頂きたいです。

しかし科学や常識を丸無視するのは、良くないと思います。また「体に障りがあっても実戦で使える」という予想は、「公に証明されていないという結果で解明されている」とも言えてしまいます。

「解明」は言い過ぎでは。「体に障りがあっても実戦で使える」かどうか以前に、そもそもどういう条件で「合気」が可能なのかすら、科学的には十分解明されていないのが現状なのです。そうでありながら特定の「年齢」とか「足腰の状態」などといった条件制限を課すのはおかしいのでは?と言っているのです。第一それは科学的に考えても正しくありません。どういう条件があるかはこれから解明されるべき課題なのですから、そこを見誤ってはいけないと思います。その意味で「科学や常識を丸無視する」と言われるのは大変心外ですし、科学や常識を尊重するからこそ、思い込みを排した冷徹な観点が必要なのだと考えます。科学的な発見や発明は、それまでの常識を一旦留保して冷静に検証しなおすことから産まれています。「合気」を解明するにしても同様の態度が必要ではないでしょうか。

編集は顔の無い人さんに遠慮しているわけではなく、まだ他の方のご意見が出る可能性もあるので、それを見てからと思っています。どうぞ御了承ください。--Musounoken 2010年5月27日 (木) 15:13 (UTC)返信

>「運動場面」において >そもそもどこにも「岡本氏が立てなくなっている」旨公式に記述されているソースが示されていない

ご自分の引用した記事にソースが示されているんじゃないですか。--無事本 2010年5月27日 (木) 15:22 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

「不確定な情報」は事実ですが、それは「信じている知人」等にも言える事ですよ。会議のための参考情報は、全てにソースが求められるわけではないんじゃないでしょうか、と申し上げました。なお「イイカゲンな情報」は良くないと思いますし、プライバシーの侵害も無論良くはありません。岡本氏に関して「立てない」というのがプライバシー情報かと言えば、公に示されているので、そうではありません。文章にそのものその表現があれば無論の事、膝がお悪いのは公開されていますし、お若いの頃のよう立って指導されている場面が、一ショットも見られないです。これはプライバシーではなく、ショットも含め、全て公開されている情報ですよ。

日常生活を語ればプライバシーという事になりますが、それは何度も申し上げた通り私は書いていないので、Musounoken氏の拡大解釈です。

それと植芝氏の逸話は、何処で読まれましたか。私は近代柔道という雑誌で読みました。亡くなる数日前に、畳に敷かれた布団から立ちお手洗いへ行こうとされたのを、止めた4人のお弟子さんを振り払ったら、廊下を飛び越え、庭まで飛んで行ったという逸話でした。植芝氏は秘伝誌情報によれば、亡くなる一ヶ月前に病院へ運び込まれ、以後退院する事なく病院で息を引きとられました。なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。


「解明は言い過ぎでは」

解明されていないと言うのなら、という意味です。見方は公平にしなければなりません。


「年齢とか足腰の状態などといった条件制限を課すのはおかしいのでは?」

歳や病気、ケガなどが、人の能力を著しく制限してしまうのは、人の何百、何千年の歴史で証明されている事です。同じ合気を身につけた同士なら、歳の行ったほうが優る、あるいは最低互角、それが証明されない限り、証明されている事を丸無視してはいけないでしょう。

Musounoken氏の言葉、ご姿勢を言い換えれば、「歳や病気、ケガなどは、丸無視するべきでは?」となります。私の考え、編集姿勢は、「歳や病気、ケガなどは、汲んだ上でしかし同時に合気のファンタジー性、たとえば年齢超克性なども、盛り込んで行きましょう」になっています。どちらの姿勢に偏りがないかは、見ても明らかだと思うのですが、いかがでしょう。


最後に、編集するおつもりは無いのでしょうか・・? 議論、ひいてはご論闘がお望みで、編集はなさらないというご姿勢なら、編集会議という主旨で参加する、私や他の方たちに、迷惑がかかります。お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。--顔の無い人 2010年5月28日 (金) 15:56 (UTC)返信

>--顔の無い人さん

「不確定な情報」は事実ですが、それは「信じている知人」等にも言える事ですよ。

岡本氏の健康状態と「植芝盛平の逸話を信じている知人がいる」という情報では、ソースを示すべき重要度が違うということは既に言いました。岡本氏の健康状態についてはプライバシー侵害の危険性が拭えず、ゆえに緊急にソースを示すべき理由がありますが、「逸話を信じている知人がいる」という情報があるからといって、別段誰も傷つきません。

岡本氏に関して「立てない」というのがプライバシー情報かと言えば、公に示されているので、そうではありません。

あなたの確信の中ではそうであっても、「公に示されていた」証拠は未だ衆前に示されていません。証拠が示されるまでは岡本氏のプライバシーとして保護されるべきです。ということも既に言いました。

それと植芝氏の逸話は、何処で読まれましたか。

『決定版 植芝盛平と合気道1 開祖を語る直弟子たち』(ISBN 4900586811)のp186-187にあります。

なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。

当時を良く知る方から「そのようなことは有りませんでした」と私も聞いています。しかしその逸話を信じている人は少なからずいると思われます。真偽が問題ではありません。

私の考え、編集姿勢は、「歳や病気、ケガなどは、汲んだ上でしかし同時に合気のファンタジー性、たとえば年齢超克性なども、盛り込んで行きましょう」になっています。

しかし実際には高齢と「立てない」旨を理由に実名を削除しており、言行不一致と見えます。

歳や病気、ケガなどが、人の能力を著しく制限してしまうのは、人の何百、何千年の歴史で証明されている事です。同じ合気を身につけた同士なら、歳の行ったほうが優る、あるいは最低互角、それが証明されない限り、証明されている事を丸無視してはいけないでしょう。

私もあなたが仰りたいことはもちろん良く分かっていますよ。分かった上でなお申し上げております。言ってること自体は正しいけれど、あなたが問題なのは、その言うべきポイントがずれている点ではないかと思われます。

議論が錯綜して分かりにくくなってしまいましたが、そもそも元の「合気」項目本文では

ストレートな言い方をすれば、合気技法の指導者である岡本正剛や有満庄司、木村達雄が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる。

と、極めて常識的な観点から「合気」の実力に疑義が呈されていた。(取り合えず誰が書いたかは問題ではないので「書いたのは私です」とか仰るのはひとまずご遠慮下さい。)

この疑義に対して「通用するはずだ」とする立場の人は、「合気は体格・体力・年齢などの常識的な不利や制限を超えて発揮される能力だ」と思っている。「開祖は死の直前が一番強かった」という植芝神話もある。そういうファンタジーを常識の荒波で洗い直し検証すべき、ということに「疑義」のポイントがある。

その洗い直すべきファンタジーの象徴が他ならぬ「岡本正剛」氏である。氏は高齢であり最近では膝も悪いと公式アナウンスされている(「立てない」ではない)。そのような武術家にも果たして「合気」が「実戦」で使えるのか?と問うことで、「合気」のファンタジーを冷静に検証し考察する観点の必要性を示している。(なお留意すべきは、ここでの「検証」は決して「実際に戦うべき」という要請ではなく、あくまで考察の必要であること。)

しかるにそこでせっかくの論議の好対象である岡本氏を「でももうご高齢ですから」と外すというのは、私としてはズッコケ以外の何ものでもない。「…なんでやねん!」と(笑)。

岡本氏をその検証対象から外すのがなぜ問題かと言うと、これでは「老齢に達すればこそ合気も高まる」というファンタジーをそのまま生かすことになるからです。これはむしろ常識や科学を重んじる顔の無い人さんの立場からは好まざる状態なのではないでしょうかね?「市販の百科事典には荒唐無稽なファンタジーなど載せないものです」…だから検証しない?それは違うんじゃないでしょうか?

その辺の本末転倒というかズレっ振りを少しは考えて頂かないと、今後も禍根を残すように思えてならないので、こうやって敢えて苦言を呈させて頂いている次第なんですが、中々御理解頂けない様で難しいですね。

お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。

何が「明らか」なのか分からないので何を「ご注意」すれば良いのかも分かりません。あなたのそういう意味不明な他人への指図も理解に苦しむ点です。編集するかしないか、タイミングをどうするかは私自身が決めることです。あなたに指図される謂れはありません。--Musounoken 2010年5月28日 (金) 18:14 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

「信じている知人がいる」という事を会議の論拠とされているのですから、同じですよ? ・・とは言え私は、疑いを持ちませんけれど。

「プライバシー」ではありません。全て示されている情報ですから。書いたよう、「立っている」お写真のほうが無いのですから、寧ろ公示情報をしか見ていないという偏りがあるほどです。


「当時を良く知る方から「そのようなことは有りませんでした」と私も聞いています」

私は直接聞いてはいませんが、公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ、ゆえに自動的に「信じている」「信じていない」の問題ではなくなります。


「しかし実際には高齢と「立てない」旨を理由に実名を削除しており、言行不一致」

スポーツや格闘技の世界ではありえない、60代の方を残しているので、高齢というファンタジー性をも多大に汲んだ人選と言えるでしょう。まさか60代をファンタジーではないとお思いになっているのですか?? そこが私とのみならず、世間一般と(Muso氏が)ズレているところだと思いますよ。


「岡本正剛や有満庄司、木村達雄」

こう意図的に人選を変えるのは、会議に不適切な姿勢だと思います。ご注意下さい。


「老齢に達すればこそ合気も高まる」

これは何処で何方が唱えられているのでしょう? また証明はされているのでしょうか。植芝氏のはなかったのが証明されましたが。そして合気を占めるパーセンテージの高いファクターなのでしょうか? 合気(の説明や特性)を占めるパーセンテージが高くない、一般的ではないようなので、それのみ拡大抽出した記事作りは、不適切なのではないでしょうか。


岡本氏を挙げるのが不適切な理由は、大別して2点になります。

・お歳と健康状態から、ファンタジー「過ぎる」という事

・より若い方を率先して削り、優先して挙げたがる異様さ

お伝え出来たでしょうか。


Muso氏は以上2点からズレた返答しかなさらないので、よく読まれるか、あるいはご論闘がお望みで意図的にズラされているのであれば、ここへの参加はご遠慮下さい。


「何が明らかなのか」

事実133氏からは(私の5月19日の提案に)お返事がありませんでした(まるで別の話が返ってくるに終わりました)。MUSO氏と人選に関する意見の違うのは、133氏お一人です。以上により「明らか」なのですが、それでなお編集なさらないのは、なぜでしょう。お読み頂ければ解かりますが、他の箇所も編集としてまだまだ完全とは言いがたいものになっているので、ここはあくまで会議としてお使い頂きたいです。別の意図は極力我慢して下さるよう、お願い申し上げます。--顔の無い人 2010年5月29日 (土) 06:56 (UTC)返信


編集会議を致しましょう。「合気技法の指導者である岡本正剛や有満庄司、木村達雄が」の部分、この人選と表現で宜しいでしょうか。133氏は木村氏の名をどうしても挙げたがらず、「岡本、有満、高橋」とされたいようですが、Musounoken氏は「岡本、有満、木村」という事ですね。私は具体名を挙げないという意見ですが、挙げるなら「木村、有満、高橋」か、「木村、有満」、あるいは「岡本、有満、木村」というMUSO氏と同意見になります。

細かく並びを重要視するなら、お歳の順に「岡本、木村、有満」が良いかも知れません。

あるいは以下のようなのはいかがでしょう。

「ストレートな言い方をすれば、木村達雄や有満庄司、ひいては岡本正剛といった高齢者も含む、知られた合気技法の指導者が、指導ではない柔道や総合格闘技の試合(または乱取、スパーリング)に身を置かれた時、合気が本当に効くのかという、極めてシンプルな疑義が持ち上がる。」

こうすれば一般読者からもまっとうな、バランスのとれた記事に思って頂けるかも知れません。--顔の無い人 2010年5月29日 (土) 07:18 (UTC)返信

>顔の無い人さん

「信じている知人がいる」という事を会議の論拠とされているのですから、同じですよ?

どうしても「岡本氏のプライバシーの尊厳を最優先すべき」そしてご自分がそれを侵している、ということを認めたくないのですね。あなたの他者への配慮はその程度なのだろうと理解します。

「プライバシー」ではありません。全て示されている情報ですから。書いたよう、「立っている」お写真のほうが無いのですから

「立っている」写真がない・座っている写真だけから(座り合気上げの稽古なんだから当たり前であるにも関わらず)「立てない」と決め付けていいのなら、世の中「立てない」人だらけですね。しかし岡本氏には膝立ちしているらしい写真もあるのですが。「立てない」ことはどこにも示されていないので、プライバシーであることに揺るぎはありません。あなたもこの前の発言で一度は謝ったはずですが、言い逃れる方に気が変わったのですか?やはり我が身が一番可愛いようですね。

私は直接聞いてはいませんが、公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ、ゆえに自動的に「信じている」「信じていない」の問題ではなくなります。
植芝氏は秘伝誌情報によれば、亡くなる一ヶ月前に病院へ運び込まれ、以後退院する事なく病院で息を引きとられました。なので「亡くなる数日前に」「いかにも日本風の造りをしたお屋敷(ご自宅?)で」そのような逸話の発生する事は、ありえないとなるわけです。

その情報は誤りでしょう。『合気道開祖 植芝盛平伝』(植芝吉祥丸 著・植芝守央 監修 ISBN 4882931680)によると、植芝盛平は昭和44年3月26日に「道場で死にたい」との希望で病院から自宅に戻り、そのまま4月26日に死去しています(p295-297)。従って「公示情報を組み合わせるだけでも矛盾が生じ」というのは正しくありません。 また、それとは別に塩田剛三による「開祖は死の直前が最も強かった」神話を信じる人は、塩田剛三の影響力を考えれば少なくないと考えるのが自然です。一般の読者は情報の細部まで正確に確認できるとは限りませんから、影響力を持つ人物から「あった」と言われれば自然にそう信じても無理はありません。

スポーツや格闘技の世界ではありえない、60代の方を残しているので、高齢というファンタジー性をも多大に汲んだ人選と言えるでしょう。まさか60代をファンタジーではないとお思いになっているのですか?? そこが私とのみならず、世間一般と(Muso氏が)ズレているところだと思いますよ。

「60代をファンタジーではない」と思っていないからこそ、「『老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が許容範囲かと思われます』というご意見は納得しかねます。八十代で駄目なら六十代でも駄目でしょう」と最初にお聞きしています。「高齢というファンタジー性をも多大に汲」みたいなら八十代のほうが効果的ですし、「ご高齢だから」切るのは矛盾です。それに対するあなたの答えは

「六十代の木村氏はどうして巻き込んで良いのか」は、「ギリギリ六十代が許容範囲」と説明しています。「60歳でも十分老人でしょう」との旨も、既に「老人を実戦論に巻き込むのは、ギリギリ六十代が」という表現で示しています。編集会議なので、きちんとお読み下さい。

でした。要するに自分が「ギリギリ六十代が許容範囲と言ったら許容範囲だ!」ということなのだな、と解釈しました。(笑)

「岡本正剛や有満庄司、木村達雄」こう意図的に人選を変えるのは、会議に不適切な姿勢だと思います。ご注意下さい。

私は何も変えていませんよ。単に岡本氏の名前が載っているから「2010年5月20日 (木) 08:01時点における版」を引用しただけです。妙な言いがかりはやめて下さい。

「老齢に達すればこそ合気も高まる」これは何処で何方が唱えられているのでしょう?

数多ありますが、たとえば保江邦夫著『合気開眼』(ISBN 4875252471)p160では、佐川幸義が死の直前「これが本当の合気だ」と示しながら木村達雄を投げ飛ばしたとあります。

植芝氏のはなかったのが証明されましたが。

先に挙げたように、あなたの根拠とする元情報が誤りなので証明されていません。思い込みです。

そして合気を占めるパーセンテージの高いファクターなのでしょうか?

古今合気の達人・使い手とされる人物は概して老人です。老いても衰えないということが修行者の大きなモチベーションとなっています。その意味で重要度は高いと言えます。

Muso氏は以上2点からズレた返答しかなさらないので、よく読まれるか、あるいはご論闘がお望みで意図的にズラされているのであれば、ここへの参加はご遠慮下さい。

私にはあなたの発言の方が不適切だと感じます。「ご論闘がお望み」なのではなく、独善的かつ奇妙な「社会常識」を振りかざすアンバランスな編集方針を提示されることに対して、疑念と違和感を覚えずにはいられません。またたびたび他者の発言を制限するような言動もお控え下さるようお願いいたします。--Musounoken 2010年5月29日 (土) 13:35 (UTC)返信

膝立ちは大腿四頭筋(膝関節)が解放されるので、立てることとは全然違いますよ。--無事本 2010年5月29日 (土) 17:53 (UTC)返信

「立てない」こととも違います。参考までに「膝立ちとおぼしき写真がある」という事実を付記したまでです。--Musounoken 2010年5月30日 (日) 00:51 (UTC)返信

立つことは膝関節の負荷運動なので、正反対の膝立ちまでしか武術的局面で出来ないのでしたら、それは立てないということです。--無事本 2010年5月30日 (日) 15:06 (UTC)返信

「膝立ちまでしか武術的局面で出来ない」という証拠はどこにもありません。事実は単に膝立ちとおぼしき写真があるだけです。また仮に「膝立ちまでしか武術的局面で出来ない」が事実であったとしても「立てない」ことにはなりません。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 11:30 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

以前の(私の)表現がお気に召さないのであれば、言い直しましょう。

「お若い頃のよう、立って指導されているお写真も見られません」

より詳しく書くならば、「膝を悪くされていて、お若い頃のよう立って指導されているお写真も見られません」となるでしょうか。


「一度は謝ったはずですが」

その時は謝ります、と言っています。誤解がないよう書き直したのが、Muso氏のお返事が早すぎて、目に留まらなかったのでしょう。


「植芝吉祥丸」

氏の証言と、秘伝誌の情報は、違いますね。確か西尾氏か藤田氏というお弟子さんで、病院へ運ばれる直前、亡くなる一ヶ月前開祖最後のお写真も添えた記事でした。


「高齢というファンタジー性を多大に汲む」事は、「加齢グラフと能力グラフが比例すると考える」事ではないと思います。グラフが反比例する、そのあたりまえの事実は認めつつ、しかし両グラフの示す点が(一般的には離れすぎなものの)あまりに離れすぎない場所を、あえて異例にも取り扱う。これがバランスなのではないでしょうか。


「私は何も変えていませんよ」

133氏は「岡本、有満、高橋」としたがっていました。そしてその人選を、問題としています。


「保江邦夫」

氏は、お挙げの方のお弟子さんです。また見た者が少なく、一般的とは言いがたく、その上「老齢」が「高める」説明に、それではなっていないと思います。


「古今合気の達人・使い手とされる人物は概して老人です」

お若い頃に達人と知られ始めた方ばかりだと思います。「維持」も不明な現状、加齢が「高める」と「知られている」とする根拠は、やや曖昧なように思えます。


「独善的かつ奇妙な社会常識」

いえ、「馬鹿げた」という表現などは、独善ではなく、矢張り社会常識に欠くと思います。編集して頂きたいとする理由は、私の異議、すなわち「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる編集へ対して」というのが、Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっているからです。編集に参加して頂ければ、その一点に自動的に関らざるを得なくなり、ズレた話にならないからです。


前回の編集会議には、お答え頂けないのでしょうか。解かりにくければ聞いて下さってかまいませんので、少なくともこの編集会議にはお返事頂きたいと思います。--顔の無い人 2010年5月30日 (日) 16:11 (UTC)返信

とりあえず編集のみに関して。余計な文章の付加は不要です。単に「岡本正剛・木村達雄・有満庄司」でいいでしょう。

合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり、(実戦性という)そのものズバリに向き合われていないのが、現状と言えよう。

この下りも余計です。そんな単純な話でもありません。削除が妥当でしょう。--Musounoken 2010年5月31日 (月) 20:40 (UTC)返信

>Musounoken

多忙のため遅れました。何卒ご容赦下さいませ。知らないうちに話が進んでいるようですね。 まず私は、岡本正剛氏が立てない、ということは全然存じておりません。 次に、私は一般論を記述しただけで特定の方を非難した覚えもございません(特定の人は応援致しましたが、私見によるものです)。 また133氏という方が、私のことであれば申し上げておきますが、木村達雄先生につきまして、ウィキペディアでのこの話に先生のお名前がご掲載されることによって、先生ご自身にデメリットが生じることを懸念しております。それは他の合気指導者とは異なり、木村達雄先生は本職が数学の大学教授という極めて公共性・教育性のある職に就かれているからです。私個人的には木村達雄先生も日本武術史上に残る名人・達人と存じております。したがって木村達雄先生ご本人のご許可をとってお名前を掲載いただくことには大賛成です。しかるにご本人のご許可をとった形跡も無く、勝手にお名前を掲載している様子なので削除したまでです。 しかし、ここまでの議論を拝見するに、編集のみにつきましてはMusounoken様のご意見に賛同し、余計な文章の付加は不要で単に「岡本正剛・木村達雄・有満庄司」各先生でよいと存じます。また、合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり、(実戦性という)そのものズバリに向き合われていないのが、現状と言えよう。 という下りも余計で削除した方が妥当だと存じます。 なお、論争を蒸し返すつもりは微塵もございませんが、以下の3点は強調させて下さい。  ①木村達雄先生のお名前をご掲載するには、やはりご本人のご許可が絶対必要であること。  ②岡本氏のプライバシー問題は、まだ解決している様に思えません。  ③植芝先生のご系統の方(例えば、植芝守央現道主や塩田現養神館長)のご記載につきましては、皆様どのようにお考え  なのか? 私は、既に老齢でかつ現在仕事が多忙でございます。よって今後誠に勝手とは存じますが、考え方が同じですので、Musounoken様のご意見を、私の意見とさせて頂きとう存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。皆様方の益々のご健勝と合気の発展を祈念させていただきます。拝。--133.31.213.145 2010年6月1日 (火) 08:18 (UTC)返信


Musounokne氏、133氏へ。

会議へのご参加ありがとうございます。

元は122氏の「わかりやすく述べると、合気の達人と言われる佐川幸義宗範の弟子の木村達雄先生や岡本正剛先生が、指導するのではなく最小ルール無しの実戦試合(例えばK-1やプライドなどの試合)に参加したとき合気の技が本当に効くのか?という極めてシンプルな事を想像してみるとよいが、これは論点のすりかえと合気系武道の修行者たちは考えていて、やはり見解の相違というジレンマに陥る」という記事でした。

会議で問題になったのが具体名、それと「これは論点のすりかえと――」から始まる箇所の訂正箇所が不要、この2点という事ですね。

では後者1点は削りましょう。

具体名ですが、許可は木村氏のみならず何方からもとっていないので、許可が確認されるか許可が不要との意見が出るまでは、とりあえず今のまま、具体名のない記事にしておきましょう。それで解かりにくくなってはいないので、宜しいですね?

細かい表現等、意見があればここで議題に挙げて頂くか、各自編集して頂ければと思います。--顔の無い人 2010年6月1日 (火) 11:05 (UTC)返信


編集しましたが、各段落の最後が「る。」「る。」「る。」と連なりすぎていて、表現として綺麗ではない事に、眺めて初めて気がつきました。削除した一文を「そんな単純ではない」とする意見にも、説明が添えられていないため、様子を見て差し戻すか、新たな表現で書き直すかも知れないので、意見があればお願いします。--顔の無い人 2010年6月1日 (火) 11:15 (UTC)返信


①wikipediaは本人の許可によって成立する場所ではありません。

②立てないというのは岡本氏のプライバシーではなく、引用された通り公示された情報です。

③植芝守央合気道主や塩田泰久養神館長は合気道の人であり、余り合気という論旨で扱われる人ではないので、実戦性の項目に列挙するのは不適切です。--無事本 2010年6月1日 (火) 18:03 (UTC)返信

どこにも岡本氏が「立てない」という公示も引用もありません。事実無根な虚偽を書き込むのはおやめ下さい。--Musounoken 2010年6月1日 (火) 20:59 (UTC)返信


あなたが引用した項目ですよ。

実戦性の項目ですからね。--無事本 2010年6月2日 (水) 08:35 (UTC)返信

意味不明です。私は如何なる刊行物からも「岡本氏が立てない」という引用はしておりません。いったい何を根拠に事実無根の虚偽ばかり仰るのですか?こうなるともはや愉快犯の領域と判断されても仕方ありませんよ。--Musounoken 2010年6月2日 (水) 11:53 (UTC)返信


あなた自身が雑誌の何月号だかの記事を引用していましたよね。

そこに岡本氏が立っている写真はありましたか?--無事本 2010年6月2日 (水) 17:17 (UTC)返信

無いですが。それがどうだと言うんですか?立っている写真が無ければ「立てない」と勝手に他人を決め付けて良いのだったら、仮にある雑誌に私の座り合気上げの写真だけが有れば、「この人は立てないのだ」と決め付けて良いのですか?--Musounoken 2010年6月2日 (水) 17:27 (UTC)返信

>133.31.213.145様 コメントありがとうございます。 (1) 木村氏の許可ですが、氏が大学教授であり武術家であることは氏自身が著作で自ら公開している情報ですので、ウィキペディア上で扱うことに問題はないと思います。(2) これについては私もあきれております。何らかの行動が必要なのかもしれません。(3) 合気道では「合気」を、技法から理念まで含む広い意味合いで考えます。片手で若者を翻弄する老人もいますが、あまり「合気」という技法を前面に押し出す傾向はないようです。

その他御同意頂いた点諸々、ありがとうございます。--Musounoken 2010年6月2日 (水) 18:14 (UTC)返信

あなたに「立てない」という事前情報があり、更には膝が悪いという表示込みで、それ以前にはメインだった立ち捕りではなく座捕り合気上げの写真のみが有れば、それは立てないということだと思われます。--無事本 2010年6月2日 (水) 22:46 (UTC)返信

事前情報その他、全く理由になりません。論理の飛躍と短絡・拡大解釈であり、状況証拠で推定有罪と断ずるのと同じです。個人の健康状態についていい加減な憶測を書き込むのは個人に対する誹謗中傷・名誉毀損・人権侵害です。発言の撤回を求めます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 01:28 (UTC)返信

>顔の無い人さん

133氏は「岡本、有満、高橋」としたがっていました。そしてその人選を、問題としています。

私の異議、すなわち「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる編集へ対して」というのが、Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっているからです。

それは133.31.213.145氏の御意見であって私の意見ではありません。「お若い方を削り高齢者を率先して挙げる」と殊更年齢を問題視しているのもあなただけです。人選の件を私にとやかく言われても私は知りません。あなたは他人には「以後は思い込みで話されず、きちんと会議参加者、お一人お一人の書いている事に、耳を傾けるようなさって下さい。」などと言う割りに、なぜ他人の主張の区別がつかずにお門違いなクレームをお付けになるのでしょうか。

「保江邦夫」氏は、お挙げの方のお弟子さんです。また見た者が少なく、一般的とは言いがたく、その上「老齢」が「高める」説明に、それではなっていないと思います。

弟子かどうか・見た者が少ないかどうかは関係ありません。こういったエピソードが刊行物にあるということを言っています。佐川氏のエピソードは「死の間際に最高の合気を示した」という趣旨の描写です。

なお誤解なきように言っておきますが、私はこれらの逸話や「老齢が合気能力を高める」説の真偽については知りません。ただそのような見方が合気系武道武術で広く持たれていることは知っています。私は現在合気道を学び、大東流もほんの少しですがかじったことがあります。そこでは多くの人が「歳をとっても上達していける・能力を高めていける」と信じ、それをモチベーションとして稽古を行っています。このようなことは合気系武道を学ぶものなら当たり前の常識だと思っておりましたので、わざわざ説明の必要があるとは思いませんでした。失礼ですが顔の無い人さんは実際に合気系武道・武術を実践されている方ではないのですか?--Musounoken 2010年6月3日 (木) 02:29 (UTC)返信

>顔の無い人さん

お返事(異論)のないのが明らかでありながら「返事待ち」(異論待ち)という物言いは、以後はご注意頂きたいと思います。
「何が明らかなのか」
事実133氏からは(私の5月19日の提案に)お返事がありませんでした(まるで別の話が返ってくるに終わりました)。MUSO氏と人選に関する意見の違うのは、133氏お一人です。以上により「明らか」なのですが、それでなお編集なさらないのは、なぜでしょう。

その後133.31.213.145さんからはきちんとお返事がありましたね。「お返事(異論)のないのが明らか」ではありませんでした。何でもそうですが、軽率な決め付けはよくありません。

それに「お返事(異論)のないのが明らか」などとあなたが仰れば、もし他に発言したい方が居られたとしても、言い出し辛くなってしまいますよ。今後は他者の発言を抑制するような発言はお慎み下さるようお願いします。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 12:28 (UTC)返信


Musounokne氏へ。

133氏のご意見でありMuso氏のではないのは、解かっています(何か解かっていない事を示す発言があったでしょうか・・?)。あと分け隔てが生じているのが問題なのですから、「自分は分け隔てていない」とご主張されても、会話になっていないのですが・・

「人選に初めから分け隔てをしていないのならかまわない」「しかし分け隔てをする編集者がいる」「分け隔てる理由が不明」「ならば他にも様々な理由で分け隔てなければいけなくなりますよ?」というのが、当初からの流れになります。


>多くの人が「歳をとっても上達していける・能力を高めていける」と信じ


細かいですが、それは違います。正しくは、


歳をとっても上達していける、能力を高めていける「可能性がある」と信じ


です。

またパーセンテージ的には、けして「多く」ないようです。私の合気系武道の経験を聞いて下さるのは、失礼ではありません。私も多種関わってきましたが、力強く信じている方のいない、あるいはきわめて少ない事に、もどかしさと憤りを覚えてきたものでした。高めていける・・「かも」ね。高めていける・・「可能性はある」かな。そのよう、弱々しい見方をしかしてくれない方ばかりで、現実を見たくない時期もありました。しかしこれが現実である事を知りました。だからこそ多くほとんどの公刊書にも、堂々「高めていける」と、断言される事がないのでしょう。

佐川幸義氏の系統は少数派であり、特殊な主張かと思われます。あまり一般的とは言いがたいのではないでしょうか。

133氏のは私の指摘(お返事がなかった)の後なので、それは意味のないご主張だと思います。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 17:16 (UTC)返信

>顔の無い人さん

133氏のご意見でありMuso氏のではないのは、解かっています(何か解かっていない事を示す発言があったでしょうか・・?)。

分かっているのであれば、木村氏を外して岡本氏を記載した133.31.213.145氏の件に関し「Muso氏がその一点を避けたがる、あるいは誤解なさるため、延々ズレたご意見になっている」と私にクドクド言うのはやめて下さい。人の意見に対して私がなぜ説明を求められねばならないのか、意味が分かりません、ということを繰り返し申し上げております。

私も多種関わってきましたが、力強く信じている方のいない、あるいはきわめて少ない事に、もどかしさと憤りを覚えてきたものでした。高めていける・・「かも」ね。高めていける・・「可能性はある」かな。そのよう、弱々しい見方をしかしてくれない方ばかりで、現実を見たくない時期もありました。しかしこれが現実である事を知りました。

顔の無い人さんが修行された流派ではあまり老齢で活躍なさっている師範が居られなかったということでしょうか。私は直に「これは凄い」と感嘆するしかない老師範を複数見てきましたので、「高めていける」説には一定のリアリティを感じていますし、そういう方の姿に勇気付けられて多くの修行者がモチベーションを高めて行くさまも見ています。そもそもそういう「修行年齢と共に高めていける」という共通認識が合気道修行者に一般的でないなら、今のように合気道が世界中に広まり一つの文化を形成することは無かったし、今もこれからも維持することは出来ないだろうと思っております。

佐川幸義氏の系統は少数派であり、特殊な主張かと思われます。あまり一般的とは言いがたいのではないでしょうか。

佐川幸義氏の門人・系列道場は少なくとも、同門からは木村達雄・保江邦夫・高橋賢・吉丸慶雪各氏の著作が出、津本陽氏の著作と含め、合気道修行者間においても無視できない影響力をもっております。少数派と片付けることはできません。

133氏のは私の指摘(お返事がなかった)の後なので、それは意味のないご主張だと思います。

意味がなくは無いでしょう。133.31.213.145さんはお仕事が多忙なため返事が遅れたと断っています。各人義務で書き込みに参加しているわけではありません。人それぞれ事情はあります。「私の指摘の後なので」とはどういう意味ですか?指摘があったから慌てて書き込んだろうという意味なら、133.31.213.145さんに対して失礼ですよ。

また。133.31.213.145さん以外にも発言したいと思っている人はいるかも知れないのですから、「発言がないのは明らか」などと他者の発言を望まぬかのような決め付けはお控え下さるよう、重ねてお願いいたします。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 18:18 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

>人の意見に対して私がなぜ説明を求められ

ていないと思います。繰り返し説明していますが、「ある要素を以って分け隔てが生じたから」「他の要素も考えなくちゃいけないのでは? となった」、これが流れ(の全て)になります。いきなり「他の要素」から始まった、そう言わんばかりの論調のみMuso氏がとられるので、初めに分け隔てがあったからなのですよ、流れを理解していますか、とお聞きしてきたわけですが。

解かりにくいでしょうか?

他意はないので、書いてあるそのままをお受け取り下さい。

合気系に関しては広く様々な流派に関わりましたが、「可能性がある」を外して極端な考えに陥っているパーセンテージは、一般的とは言いがたかったです。

合気道が世界中に広まった理由は、意見の分かれるところではないでしょうか。

佐川幸義氏の系統が合気認識に影響力を持つのは事実ですが、「影響力を持つ」と「一般的である」は、違うと思います。なぜ違うかは話がやや厳しいものになっていくので、あえてご賢察頂くようお願いします。

133氏の件は、事実時間があいたのちに、まるで違う回答に終わりました。なので仕方なく、「回答がなかった」と明記した次第です。私の指摘後お書きになった説明は、最初の時に書けた長さ、内容でした。「木村氏に許可をとっていないから」のみが、説明だったわけですから。


>他者の発言を望まぬ


いえ、寧ろ触発されて書く人が出ると思います。とは言え挑発したわけではなく、事実を見てもそれ以上でも以下でもない、他意のない発言でした。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 19:06 (UTC)返信

>顔の無い人さん

細かいですが、それは違います。正しくは、
歳をとっても上達していける、能力を高めていける「可能性がある」と信じ
です。
またパーセンテージ的には、けして「多く」ないようです。

「可能性がある」でも結構です。またそう信じる人は、私の印象では「パーセンテージ的に」も多いです。 「可能性がある」ことを示す刊行物の記述も探せば結構ありますよ。

それとよく(植芝盛平が)話されていたのが「気力が本当に充実するのは六十歳を超えてからだ」ということです。大先生がご自分を発憤させるためのお言葉かなと当時は受け止めていましたが、実際に私がその年齢に達し、大先生の言わんとされたことが理解できるようになりました。(季刊合気ニュース NO.142 2004年秋号 清水健二氏会見 ISBN 4900586277 p39)
内弟子になって間もなく、仙台の演武会にお供した時のことですが、受けを取っていて気をものすごく感じましたね。大先生は年とともに気力が充実する、「肉体は有限で気は無限だ」とよくいわれてましたでしょ。また、「六十を過ぎなきゃ気力の充実はない」ともよくいわれましたが、大先生のお年から気休めだろうくらいに思っていました。しかし間違いでした。大先生に限っては、それは言葉だけではなく本当のことでした。それはすごかった。稽古にかぎらず、普段接していても、こう行くとこう来られるなというのを感じさせられるんですね、ここでこうやると危ないなとか。だから大先生の場合は、「こちらから先にいいなりになってしまう」という感じでした。攻めがたいというほうが適切かな。(『決定版 植芝盛平と合気道2 開祖を語る直弟子たち』清水健二「広がりよりも深さを求めた合気道を」ISBN 4900586838 p227)


-先生(荒川博読売ジャイアンツコーチ・王貞治に一本足打法を指導)がお書きになっている有名なエピソードに、植芝(盛平)先生の木刀を叩いたら、自分が跳ね飛ばされたというのがありますよね。
荒川 ああ、そうだ。先生は木刀をボールだと思って打て、と突いてくる。僕は先生が飛んじゃうんじゃないかと心配しながら、木刀でバーンとバッティングの要領でひっぱたいたら、僕のほうが植芝翁の右前方へ前のめりになった。「こらいけねえ」と思って思い切ってもう一度バーンとひっぱたいたら、今度は僕が吹っ飛んじゃったよ。僕がバットを振ったとたんに、なんか木刀がくっついたかなと思っているうちにどーんと向こうに持って行かれちゃった。もう信じられないよ(笑)。ちょうど鉄棒をひっぱたいてんのと一緒だろうな。だから振った分、僕の力の分だけ飛んでっちゃったわけだよね。(中略)それが先生が76~77歳の時だよな。そういう話がいくらでもあるわけよ。たとえば、「荒川君、おいで」っていうから行ったら、頭をひゅっと触られてぐじゃって潰れちゃったこともある。(季刊合気ニュース NO.142 2004年秋号 ISBN 4900586277 荒川博氏会見「野球に生かす合気道」 p32より)


佐川幸義の)一番の教えは、「人間はいくらでも変われる。いくらでも進化できるし一生修行なんだ」ということに尽きると思います。(中略)佐川先生は90歳をすぎてもまったく老人という感じがありませんでした。(中略)亡くなる前に一週間ぶりにお会いした時に、先生の片手を持って、「えっ」と思いました。今までとぜんぜん感じが違う。あまりの精妙さに思わず心のなかで、「これは人間のできる技ではない!神様の技だ」と叫んでしまいました。それまでも先生の次元が変わったなと思ったことが3回か4回あったのですが、その最後の時は本当にはっきりと違った。その日の夜、稽古から帰宅して妻に、「佐川先生はまたものすごいことになってしまった!これから一体どうなってしまうのだろう!」と興奮して話したのを覚えています。しかし先生はその翌日に亡くなられたのです。一生修行だと口で言う人は多いけど、先生はほんとに亡くなる前の日にジャンプするほどの段階に進んで、翌日95歳で亡くなったのです。(「季刊合気ニュース No.141」2004年夏号 ISBN 4900586803 木村達雄氏会見)

こういう話はまだまだ出てくる筈です。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 17:20 (UTC)返信

残し、表現、書き直し

ご意見(代案や説明)がなかったので、不要との事だった箇所をとりあえず差し戻しました。

「合気が出来れば無敵」というのは、武術関係のライターの方が著作で批判的にその風潮を書いていたり、また大東流の佐川幸義氏が、問われて「そんな簡単なものではない」と仰った話が、本にあったりした事から、取りました。

「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。

ウェブとは言え一応辞書なので、表現にも気を配り、編集していきましょう。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 00:19 (UTC)返信

「合気が出来れば無敵」というのは、武術関係のライターの方が著作で批判的にその風潮を書いていたり、また大東流の佐川幸義氏が、問われて「そんな簡単なものではない」と仰った話が、本にあったりした事から、取りました。

具体的に出典情報を示されるべきでしょう。とりあえず「要出典」のタグを貼ることにします。

「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。

合気道修行者としては同意しかねます。「合気道は競技試合を想定していない」ならまだ話は分かりますが。その二派に極分化するというのもほんとなのかなと疑問を持ちます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 04:01 (UTC)返信


>拡大解釈

拡大解釈ではなく、単にご両者の情報をそのまま足し算しているだけです。

あなたが、昔通り立っている写真もあった、とソースを提示してくれるならそれはそれで構いません。

それと最高の合気と実戦性は別物ですよ。

ここは実戦性の項目ですからね。--無事本 2010年6月3日 (木) 08:43 (UTC)返信

座っている写真をいくらかき集めて足し算したところで「立てない」ことにはなりません。個人を確たる証拠も無く「立てない」などと決め付るべきではありません。このような詭弁を弄する書き手の良心を疑います。「最高の合気と実戦性」に関する主張もしていませんので混乱なさらぬよう。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 09:10 (UTC)返信


座っている写真をかき集めて足し算しているのではなく、ご両者の情報を足し算しているだけです。

最高の合気を、修行者の思潮を挙げ、検証すべき対象として実戦性の項目に組み込むよう主張しているのはあなたですが、そうしたファンタジーは合気そのものに関してであり、実戦性とは別物なのでご注意を促している次第です。--無事本 2010年6月3日 (木) 16:28 (UTC)返信

いくら「足し算」を繰り返したところで無から有は生まれません。虚しい主張です。「合気と実戦性は別」というのはあなたの意見であって、修行者全員の共通了解ではありません。勝手に決め付けるのはやめましょう。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 18:18 (UTC)返信

武術関係のライターは、長野氏という方です。「武術の考え」「武術のシクミ」などといった書名だった憶えがあります。P.130あたりからだったと思いました。合気を身につけたとされる方の具体名を挙げ、長野氏にかからなかった、どうも合気が出来れば即実戦で無敵だと勘違いしている、それはその個人だけではなく複数の著名指導者がそうなっている、そんな事はありえない、とそういう旨が書かれていました。佐川氏ご自身の戒めは吉丸慶雪氏の著作にあります。長野氏吉丸氏、ともに著作数は限られるため、オーケーでしょうか。

合気道ですが、Wikipediaにも「技の稽古を通して心身の練成と社会に有為の人材を育成し、同時に自然との調和、世界平和への貢献等を主な理念とする」とあります。ここは試合、乱取、スパーリングが実戦と扱われている項目なので、まさに「想定していない」で良いのではないでしょうか。

あるいは次のような表現はいかがでしょう。


「合気は実戦を理念とはしていない」


表現に関しては、細かく楽しく話し合って行きたいと思います。--顔の無い人 2010年6月3日 (木) 17:16 (UTC)返信


>実戦

古流でいう乱組みですね。

合気系とはイメージ上の親和性が高いため、この表現も盛り込むべきかも知れません。--無事本 2010年6月3日 (木) 17:43 (UTC)返信

>顔の無い人さん

長野氏吉丸氏、ともに著作数は限られるため、オーケーでしょうか。

Wikipedia:出典を明記する」を良く読んで、正しい手続きを理解してください。あなたは「要出典」のタグを外してお仕舞いになっていますが、差し戻させて頂きますよ。編集合戦にしないようお願いしますね。

両極端の考えに定まる傾向があり

これも誰がそう言っているのか、出典を明記して下さいね。

合気道ですが、Wikipediaにも「技の稽古を通して心身の練成と社会に有為の人材を育成し、同時に自然との調和、世界平和への貢献等を主な理念とする」とあります。ここは試合、乱取、スパーリングが実戦と扱われている項目なので、まさに「想定していない」で良いのではないでしょうか。

合気道の理念が、どうすれば「想定していない」に結びつくのか理由不明です。御説明願えますか?--Musounoken 2010年6月3日 (木) 21:21 (UTC)返信

おっと失礼。「参考文献」欄に加筆があるのを見落としておりました。「『Wikipedia:出典を明記する』を良く読んで」の下りは謹んで取り消します。ごめんなさい。

ただし

両極端の考えに定まる傾向があり

の部分はソースが不明なので出典をお願いします。この部分に「要出典」タグを貼らせて頂きます。--Musounoken 2010年6月3日 (木) 21:32 (UTC)返信


「合気が出来たからと言ってそのままで敵無しであれるものではない」という旨の、ちょうど中間に位置する概念提示、ご発言が、佐川氏以外に見られないところから、そのように書きました。

勿論佐川氏以外にゼロと言いたいわけでもなく、たとえばMuso氏、その流派も、見事中間立場をとられているかも知れず、そういった方たちを尊重しない意図ではありません。寧ろ稀少さ、先見性を、浮き彫りにしたい意図が大きいくらいです。残念ながら(本来あるべき)中間立場は、パーセンテージとしてひどく僅少にとどまるのが実情ではないでしょうか。長野氏も「それでこそ武道家です」と、佐川氏へ賛辞を送っていて、誰でもと言えるくらいその立場をとっているのが実情なら、殊更賞賛も生まれないわけですから、矢張り稀少と判断されうる次第です。--顔の無い人 2010年6月4日 (金) 09:14 (UTC)返信

上の文章が
合気系修行者たちは、この問題について概ね二通り、すなわち「合気が出来れば無敵なのだからそんな事は考えなくて良い」「合気は実戦を想定していない」の、どちらか両極端の考えに定まる傾向があり

ということの根拠ですか?佐川さんがある風潮を批判し、長野さんがそれを賞賛したということは事実でしょうが、だからある風潮が支配的かどうか?ということはまた別問題だと思いますよ。それだけでは二極化の根拠として弱いですよ。

また合気道の理念が、どうすれば「実戦を想定していない」に結びつくのかの理由も知りたいです。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 10:52 (UTC)返信


>いくら「足し算」を繰り返したところで無から有は生まれません。

確かに岡本氏の立っている写真は無ですね。

>「合気と実戦性は別」というのはあなたの意見であって、修行者全員の共通了解ではありません。

そうではなく項目の話です。--無事本 2010年6月4日 (金) 16:48 (UTC)返信

あなたはまだ現存個人への誹謗中傷行為をやめないのですか?どうしてこのような行為を意地になって続けるのでしょうか?何が目的ですか?--Musounoken 2010年6月4日 (金) 17:24 (UTC)返信


誹謗中傷? http://hanahibi.blog99.fc2.com/blog-entry-842.html無事本 2010年6月4日 (金) 17:57 (UTC)返信

正剛先生は膝を痛めていらっしゃるので袴姿(羽織はもちろん脱がれて)のままステージにあぐらの片足を伸ばして状態で座っていらっしゃいます。

「立てない」とはどこにも書いてませんね。これまでと同じじゃないですか。私だって前に膝の手術をした時は座って稽古しましたけど、「立てない」わけではありませんでした。無意味なリンクはやめましょうよ。--Musounoken 2010年6月4日 (金) 21:28 (UTC)返信


>「立てない」とはどこにも書いてません

ちょっと苦しいですね。--無事本 2010年6月5日 (土) 07:25 (UTC)返信

苦しいのは自分でしょう。書いてもないことを勝手に決め付けてはいけませんよ。それが個人の健康状態なら尚更です。--Musounoken 2010年6月5日 (土) 08:39 (UTC)返信


合気と実戦性

レイアウトのために項目を作ってみました。

色々と意見が取り交わされていますが、ここは実戦性の項目なのですから、要するにご一方が「合気の巧さ」とか「合気と年齢」とでもいった項目を作り、住み分ければ善いのではないでしょうか。--無事本 2010年6月6日 (日) 17:16 (UTC)返信


無事本さん、レイアウト作りをありがとうございます。

合気出来れば無敵論は、ちょうど中間の立ち位置のご見解が多く見られれば否定されますが、佐川氏しか見られない現状、また多数の会派を見歩いたライターが「(無敵論者が)複数いた」という旨を書かれている事から、やや支配的と言わざるをえないようです。

合気道の理念については、「主な理念とする」の「主な」の重きをご理解下さい。「理念的には力による争いや勝ち負けを否定し」ともWikipediaに書かれています。試合、乱取り、スパーリングは、争いであり勝ち負けだと思います。それらをおこなっていない、理念としてもいない、また現実通用した公式記録もない、これを「想定している」とは普通言えないでしょう。

「力による」にある程度重きが置かれていると解釈しても、実情からも、殆ど変わりません。

繰り返しますが、「実は想定している個人や流派も存在する」というのも、否定はしません。しかし表立っての傾向で記事作りをするのがWikipediaなのですから、「実は情報」を主役にするのは、難しいかも知れないです・・--顔の無い人 2010年6月6日 (日) 18:03 (UTC)返信


顔の無い人さん

合気出来れば無敵論は、ちょうど中間の立ち位置のご見解が多く見られれば否定されますが、佐川氏しか見られない現状、また多数の会派を見歩いたライターが「(無敵論者が)複数いた」という旨を書かれている事から、やや支配的と言わざるをえないようです。

「合気出来れば無敵論(批判)は佐川氏しか見られない」と長野さんが「(無敵論者が)複数いた」旨書いている、という事実があるだけなのでは。長野さんは「支配的」とか「二極化」とは仰ってないのですか?それはあなたのご意見ですよね?

合気道の理念については、「主な理念とする」の「主な」の重きをご理解下さい。

「主な理念」と「実戦を想定していない」がどう結びつくのか理解できません。 「主な」という言葉の意味は「ここに書いていないことは想定しない」という意味では無いと思うんですが。

「理念的には力による争いや勝ち負けを否定し」ともWikipediaに書かれています。試合、乱取り、スパーリングは、争いであり勝ち負けだと思います。それらをおこなっていない、理念としてもいない、また現実通用した公式記録もない、これを「想定している」とは普通言えないでしょう。

合気道の最大会派・合気会は試合を行いませんが、「実戦」という言葉が含む全てを想定しないわけではありません。「実戦」という言葉の定義にもよりますが、「合気道は実戦を想定していない」と言われるなら誤解を招く表現になります。前にも言いましたが、「合気道は試合を想定していない」「合気道は試合を想定しない会派の人口が大半である」ならまだ分かります。

それとウィキペディアの編集の論拠をウィキペディアの他の記事に求めるのは自己参照になりますので、余り推奨されない行為とされていることをお知らせしておきます。--Musounoken 2010年6月7日 (月) 13:27 (UTC)返信


こちらこそ、朝青龍と人選論に分けて頂きまして有りがとうございます。--無事本 2010年6月6日 (日) 18:47 (UTC)返信


ここの「実戦」の段には、「試合(または乱取、スパーリング)」と書いてありますよ。--顔の無い人 2010年6月8日 (火) 09:17 (UTC)返信

>顔の無い人さん

ならば提案です。ここでの「実戦」が「試合(または乱取、スパーリング)」のみしか意味しないなら、わざわざサブセクション名を

「実戦性」の論点

などと大まかな括りにせずに、

「試合・競技性」の論点

と明確にすれば良いのではないでしょうか?この方が論点がすっきりするはずです。--Musounoken 2010年6月8日 (火) 10:35 (UTC)返信


乱組みの論点も含まれますので、「実戦性の論点」でいいのではないでしょうか。--無事本 2010年6月8日 (火) 19:57 (UTC)返信

「乱組み」の文字も説明も本文中のどこにもありません。どこにどう含まれているのですか?またそれが含まれていたらなぜ「実戦性」でなければならないのでしょうか?ご説明下さい。--Musounoken 2010年6月8日 (火) 21:51 (UTC)返信

再提案します。当該サブセクション名を“「実戦性」の論点”から“「試合・スパーリング」の論点”に変更しましょう。--Musounoken 2010年6月9日 (水) 14:40 (UTC)返信


乱組みの文字や説明は私が少し上のほうで書いていますので、よければ参照してみて下さい。

なぜそれが含まれていれば「実戦性」と表記すべきかといえば、その目的(理念)や結果が実戦性と直結しているからです。--無事本 2010年6月9日 (水) 19:35 (UTC)返信

>実戦
古流でいう乱組みですね。
合気系とはイメージ上の親和性が高いため、この表現も盛り込むべきかも知れません。--

上の文章がその「説明」ですか?何も分からないですね。そもそも実在する言葉なのかどうか?--Musounoken 2010年6月9日 (水) 19:49 (UTC)返信


>何も分からないですね。

本文からの流れを再確認してみて下さい。

言葉のことは例えばこの二行目をご参照を。 http://www.budoshop.co.jp/Yoshimine%20/bh2005/1216Randorigeiko.htm無事本 2010年6月10日 (木) 16:44 (UTC)返信

乱捕は流派によっては乱組、意地稽古ともいい、限定された範囲で随意に技を掛け合う稽古方法です。これも流派によってやり方は様々で、江戸時代にも既に行なわれていたようですが、その形式は柔道の乱捕よりもレスリングのスパーリングに近いものだったようです。

要するに乱取り・スパーリングの一種ということですね。ならば別に「実戦性」でなく「試合・スパーリング」と改名して問題なさそうですね。--Musounoken 2010年6月10日 (木) 19:55 (UTC)返信

サブセクション名“「実戦性」の論点”を、内容に沿って“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名しました。--Musounoken 2010年6月10日 (木) 20:13 (UTC)返信


合意なき性急な編集でしたので、差し戻しておきました。

伝統武術の乱組みはボクシングやキックボクシング、レスリングのイメージが色濃い限定的攻防や、またチャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容なので、「実戦」の一語で統括しておきます。--無事本 2010年6月11日 (金) 07:51 (UTC)返信

横から失礼します。「伝統武術の乱組みはボクシングやキックボクシング、レスリングのイメージが色濃い限定的攻防や、またチャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容」という考え方はどんな文献に出てくるのでしょうか?私の知識では使用例を存じないので、出展の記載をお願いします。それから実戦と言うとあまりにも範囲が広いです。極端な話、素人の暴漢を不意打ちで撃退するのも実戦ですし、なめてかかってきた暴漢に合気柔術の技を掛けるのも立派な実戦です。ですのでMusounokenさんの“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”という改名に私は賛成です。--Hakusai 2010年6月11日 (金) 12:09 (UTC)返信

Hakusaiさん、御賛同いただきありがとうございます。

無事本氏が引用したサイトにも、

「乱捕をやるから実戦的」という短絡的な説もこれに起因します。

とあり、「あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容」とする無事本氏のような意見に否定的ですね。私も無事本氏に出典の明示を求めます。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 12:56 (UTC)返信


Musounoken氏へ。

記事はお話し合いの上、書き直されて下さい。

実戦性のサブセクションに「K-1」「プライド」といった試合概念による定義を持ち込んだのは122.135.135.241氏なので、少なくとも編集者のお一人に、実戦イコールほぼ試合と考える、そうイメージなさる人がいたというのは事実でしょう。(但しプライドは今は無いので、より概念の広い、一般的な競技名に私が書き換えさせて頂きました)

実戦をどうお考えになるか、詳しくは「実戦と現代人が聞けば、何をイメージする人が多いか」は、慎重に決めなければならないので、とりあえず122氏その他のご意見を待ってからにしませんか。

122氏が実戦の(一部)定義を試合に求めたのは、あながち間違いではないと思います。なぜなら、相手が(ほとんどの場合)格闘技をやっているからです。素人を相手にすれば何をやっても決まるものですし、戦闘技術(かも知れない概念)の項目である以上、対格闘技を実戦とするのは、ある意味自然な事とも言えるでしょう。

また格闘技人口が空前の数となっている、今という時代性も、無視出来ません。もしも実戦を街中の突発的なそれと定義したくても、格闘技の練習者という言わばハズレクジを引く可能性が、一昔前とは比べ物にならず、そういった意味でも仕方のない定義かも知れないです・・--顔の無い人 2010年6月11日 (金) 09:18 (UTC)返信


顔の無い人さん

素人を相手にすれば何をやっても決まるものですし、

そんなことはありません。格闘家が素人にやられたなどという話はザラにあります。素人に技が掛からない有段者の話も良く聞きます。「素人だから」と軽く見る、というのは武道武術をたしなむ者として慎むべき慢心かと思います。また同様に思索者としても安易な物事の決め付けは慎むべき慢心と存じます。

実戦をどうお考えになるか、詳しくは「実戦と現代人が聞けば、何をイメージする人が多いか」は、慎重に決めなければならないので、とりあえず122氏その他のご意見を待ってからにしませんか。

それは構いませんが具体的にいつまで待つのですか?3日ですか?一週間ですか?1ヶ月ですか?仮に122.135.135.241氏のお答えがない場合は記事の編集はできないのでしょうか?

物事を論じるのに言葉の定義を明確にするということは基本中の基本ではないかと考えますが、その点については御異論ありませんか?

一合気道に携わる者としては、「実戦」が何であるかを曖昧にされたまま、

「合気は実戦を想定していない」は、主に合気道の総意、考え方として、取りました。

などと勝手に総意を創造されては困りますし、そのような曖昧な前提で論議を進められることにも同意できません。

そのような「総意」は、いつどこの何という合気道家が表明され、一体どのような手続きで合気道界の「総意」とされたのか、ソースを明らかにする必要があるでしょう。

もし顔の無い人さんが、「実戦」が「試合・スパーリング」のことであると仰るなら、誤解のないように

「合気は試合・スパーリングを想定していない」は、主に合気道の総意

と明確に仰るべきだと思います。本文の記述も同様に訂正を求めます。

そしてこのようなことは別に122.135.135.241氏のお答えを待つまでもありません。「『合気は実戦を想定していない』は、主に合気道の総意」云々は顔の無い人さんの御意見であって、122.135.135.241氏の御意見ではないからです。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 12:35 (UTC)返信

顔の無い人さん

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%90%88%E6%B0%97&oldid=32538396#.E3.80.8C.E5.AE.9F.E6.88.A6.E6.80.A7.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AB.96.E7.82.B9

とりあえず「合気は実戦を想定していない」の部分に「要出典」のタグを貼らせて頂きましたので、先にお貼りしました「どちらか両極端の考えに定まる傾向があり」の分と合わせて、何卒御対応のほど宜しくお願い申し上げます。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 13:21 (UTC)返信


先に引用した合気道の理念は、間違いなのでしょうか? 間違いでなければ、ハッキリ言葉にされているよう、合気道の主な理念は実戦ではありません。


>格闘家が素人にやられたなどという話はザラにあります

それは比率として、全くと言ってよいほど「ありません」。ほぼゼロに近いと言ってよいでしょう。試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう? パーセンテージとして試合よりも多いのが、存在するのですか。


>具体的にいつまで待つのですか?

お返事がなさそうだなと判断されるまでです。前の133氏の時のよう、それはそれほど先にはならないと思います。--顔の無い人 2010年6月11日 (金) 13:53 (UTC)返信


顔の無い人さん

先に引用した合気道の理念は、間違いなのでしょうか? 間違いでなければ、ハッキリ言葉にされているよう、合気道の主な理念は実戦ではありません。


何か根本的に勘違いをなさって居られるのではないでしょうか?「主な理念」で「実戦」を謳っていなくとも、合気道が「実戦」を全て放棄したわけではありませんよ。植芝吉祥丸二代目道主も、合気道は武道としての実質的な強さを追及すべきであるという旨著書で述べています。

柔道にしても、基本理念として「精力善用 自他共栄」と謳っているのは有名ですが、柔道は試合を行っていますよね。柔道の「主な理念」は「試合」だったのですか? 「主な理念」も「主な」という単語も、それが実戦や試合を想定するか否かという問題とは全く無関係な問題です。物事を混同して考えてはいけません。

試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう? 

私が想定した「実戦」とは正に街中の喧嘩を含むようなものから合気道の稽古で素人の見学者に技が掛からなかった場面までを広く含みます。「実戦」という広い範囲を示す言葉なのだから、私が色々な場面を想定するのは私の自由ですよ。顔の無い人さんは「実戦」と言いながら、それはあくまで「試合」に限定された意味だと仰るのですか?ならば最初から「試合」と仰って頂かなければ困ります。価値観の違う相手と会話をするのに、言葉の定義を曖昧にしようとなさるからこのような混乱が起こるのです。だから「言わんこっちゃない」のです。

>具体的にいつまで待つのですか?
お返事がなさそうだなと判断されるまでです。

「六十代が実戦論のギリギリ許容範囲」の時もそうでしたが、それは誰がどのような権利で判断なさるのですか?あなたですか?私ですか?「なさそうだな」とは、何を根拠にするのですか?あなたの主観的な予想ではなく、客観的な基準を示して頂けますか?

また重ねて申し上げますが、「合気は実戦を想定していない」「どちらか両極端の考えに定まる傾向があり」の出典は122.135.135.241氏のお返事を待つ待たないとは無関係の問題ですので、こちらはこちらで宜しくお願いいたしますね。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 15:09 (UTC)返信


実戦とは対素人なのか?

レイアウトのため、項目を作成しました。

>伝統武術の乱組みは

>チャンピオンスポーツに特化された性能を目指すものではなく、

>という考え方はどんな文献に出てくるのでしょうか?

伝統武術でチャンピオンスポーツを志向する体系が存在して、それが主流なのでしょうか?

そもそも江戸時代や明治時代に全国的な試合制度自体が存在しなかったと思われますが、よければ出典を明記して下さい。

>素人

>街中

>素人の見学者

よほど厳しい状況でしたら別として、仮想敵の水準を素人まで下げると、子供や老人、怪我人まで仮想され、この場合武術の必要性からして疑問視されかねませんので、実戦の基本的定義としては「心得」を最低ラインの仮想敵とすべきように思われます。

街中の素人を特別な存在として、どうしても組み込みたければ、「護身術」として住み分ければいいだけです。

また、素人の見学者でしたら「稽古」にカテゴライズすべきでしょう。--無事本 2010年6月11日 (金) 17:43 (UTC)返信

無事本さん

==実戦とは対素人なのか?==

いたずらに議論を混乱させるだけの無意味な区切りであると思うので、申し訳ありませんが取り外していただけますか。

誰も「実戦の対象が対素人であるか」どうかを問うているのではありません。また一概に「素人」と言ってもその内実はさまざまで、安易に「仮想敵の水準が下がる」とするのは誤りです。「合気道は素人でも空手は玄人」「武道は素人でもウェイトトレーニングはプロ」「スポーツは素人でも力仕事の腕自慢」など強い人間は幾らでもいます。「子供や老人、怪我人」にしてもその内実はさまざまで、問題にする方がおかしいです。対象によりカテゴライズすべきなどというのは議論の拡散にしかなりませんので、以後無用に願います。

そもそも江戸時代や明治時代に全国的な試合制度自体が存在しなかったと思われますが、よければ出典を明記して下さい。

そのような主張は誰もしておりませんので出典を出す義務はありません。出典が求められているのは、

乱組みは(中略)あくまで実戦性を目的とし、実戦性と直結する内容

というあなたの主張に対してです。--Musounoken 2010年6月11日 (金) 20:11 (UTC)返信


素人のフレーズはあなた方からその意を込めて使用したのですから、それはそれで採用してます。

ただし護身術や稽古へのカテゴライズは、別に議論の拡散ではなく現実ですので、いたしかたありません。

乱組みの目的が実戦性以外だという出典も、よければお願いいたします。--無事本 2010年6月12日 (土) 07:23 (UTC)返信

乱組みの目的が実戦性以外だという出典も、よければお願いいたします。

それはそう主張されている方にお聞きになればいかがですか。

実戦とは対素人なのか?

対素人のこともあればそうでないこともある。この答えに尽きますね。 これでこの節は終了です。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 12:18 (UTC)返信

サブセクション“「実戦性」の論点”を“「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名の提案

議論のため節を分けました。

そもそも「実戦」とは何か、「素人」とは何か、その定義が曖昧なので議論が成立しません。そのような議論の混線を防ぐためにも、本文のサブセクションhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%B0%97#.E3.80.8C.E5.AE.9F.E6.88.A6.E6.80.A7.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AB.96.E7.82.B9

「実戦性」の論点”を

「試合・スパーリングにおける実戦性」の論点”と改名するよう、改めて提案します。

対象をある程度限定することで無限に議論を拡散する弊害を防ぎ、論点を明確にすることを企図しています。

もし異議を唱える場合は、理由とその根拠になる出典を明記し意思表示下さい。--Musounoken 2010年6月12日 (土) 12:18 (UTC)返信


>合気道が「実戦」を全て放棄したわけでは

ないでしょうね。武術を元に作られているのですから、護身の部分も含まれてはいるでしょう。但しその護身部分が極度に狭くなっていないかや、実戦が極度に狭い(意味の)護身を指すのかが、問われているところなのです。


>植芝吉祥丸

氏の唱えているのが実戦という意味なのか、それによるでしょうね。吉祥丸氏は演技性志向の高い人なのが、保江氏のご著作にもありましたし、ここで言う「そのものズバリ」ではないようです。


>柔道

は型が文法で乱取が作文と、明確に嘉納氏が位置づけています。また実際にもそうなっています。言葉として唱えられていて実際にもそうなっている、ここが合気道とは異なるところではないでしょうか。

合気道は理念として否定した上で、唱えているパートも無い、実際にもそうなっていない、これを「想定している」とは言いがたいでしょう。


>私が想定した「実戦」とは正に街中の喧嘩を含むようなものから

それは間違いではないと思います。


>実戦」と言いながら、それはあくまで「試合」に限定された意味だと仰るのですか?

いえ、街中の喧嘩も含めて良いと思いますし、必ずしも試合に限定されたものだとは思いません。勿論(何でもそうですが)実戦の意味を拡げすぎると、話が違うものになってしまいますけれど。

街中の喧嘩は信頼に足るデータが乏しいのですが、いずれにせよ素人と(競技格闘技)経験者の勝敗が、パーセンテージとしてそうひっくり返るものではないと思います。武器あり銃器ありまで拡げると、パーセンテージは大幅に変わるでしょう。長生きを(実戦の)勝利とするならば、多く殆どの男性が、女性には勝てなくなります。

意味を拡げず、限定しすぎず、今の時代に於いて人が実戦と聞いて何を思い浮かべる(パーセンテージが多い)かを、考えてみれば良いと思います。


122氏のお返事待ちは、議題に関係のない内容が返ってくればその時点で現編集参加者に判断が委ねられると思います。いずれにせよ無視は良くありませんので、何らかのご発言がある事、これが明確な基準になると思います。--顔の無い人 2010年6月12日 (土) 13:14 (UTC)返信


顔の無い人さん

但しその護身部分が極度に狭くなっていないかや、実戦が極度に狭い(意味の)護身を指すのかが、問われているところなのです。


それは初耳です。これはどなたが、どのような形で問われていることなのでしょうか?出典をお願いいたします。


>植芝吉祥丸
氏の唱えているのが実戦という意味なのか、それによるでしょうね。吉祥丸氏は演技性志向の高い人なのが、保江氏のご著作にもありましたし、ここで言う「そのものズバリ」ではないようです。


“ここで言う「そのものズバリ」”とは何ですか?ここで何度も言っているのは「実戦」という言葉の曖昧さです。「実戦という意味」「そのものズバリ」とは何なのかをまず明らかにして下さい。あなたが思っている「実戦」が他者にとっても同じものをさすかどうかは別問題ですので。


言葉として唱えられていて実際にもそうなっている、ここが合気道とは異なるところではないでしょうか。合気道は理念として否定した上で、唱えているパートも無い、実際にもそうなっていない、これを「想定している」とは言いがたいでしょう。


なるほど。 「言葉として唱えられて」いる、それが重要なのですね。では合気道が「言葉として」「実戦」を否定している、たとえば「合気道に実戦は存在しない」と謳っているような、具体的に「実戦」の二文字が入った出典をお願いできますか。植芝盛平なり植芝吉祥丸なりがそう述べているという文言がありますか?

また他に理念として「実戦」の二文字を謳っている・または具体的に否定している武道があるなら、参考までに御教示頂けますか?


いえ、街中の喧嘩も含めて良いと思いますし、必ずしも試合に限定されたものだとは思いません。勿論(何でもそうですが)実戦の意味を拡げすぎると、話が違うものになってしまいますけれど。


あなたと私の間では充分「話が違うものになってしま」ってますけれど。違う話になってなかったら、

試合に素人が出てきて勝った例など、少なくとも見た事がなかったです。Muso氏の仰る実戦とは、何でしょう?

などと、すれ違った質問をだれがするでしょうか?後から「いえ、実は知ってましたよ」みたいなことを言われてもですね。


意味を拡げず、限定しすぎず、今の時代に於いて人が実戦と聞いて何を思い浮かべる(パーセンテージが多い)かを、考えてみれば良いと思います。


では「“実戦”と聞いて現代人は何を思い浮かべるか」の具体的かつ信頼に足る統計データを示して下さい。あなた個人の想像ではなく。


122氏のお返事待ちは、議題に関係のない内容が返ってくればその時点で現編集参加者に判断が委ねられると思います。いずれにせよ無視は良くありませんので、何らかのご発言がある事、これが明確な基準になると思います。


私は「具体的にいつまで待つのですか?」とお聞きしております。122.135.135.241氏のお返事を時間的にいつまで待つのか、それはどのような合理的客観的判断に基づくものなのかということです。「122氏の発言があったら判断する」かどうかはお聞きしていません。

それと、本文の「要出典」の件はまだお答え頂けないのでしょうか?--Musounoken 2010年6月12日 (土) 14:50 (UTC)返信


>問われている

のは今この流れに於いてですよ。


>ここで言う「そのものズバリ」とは何ですか?

本文には(実戦という)とカッコで説明されています。 ・・これだけじゃお解かりにならないでしょうから、吉祥丸と対比的に言えば、演技ではない自由攻防となるでしょうか。

自由攻防も、限定されすぎていないのが、そう扱われるのではないでしょうか。腕相撲なども自由攻防ですが、限定されすぎているので、実戦と扱うのは難しいと思いますので。


>合気道に実戦は存在しないと謳っているような

「実戦は存在しない」ではなく「実戦を主な理念としていない」です。「合気道 理念」でヤフー検索してみても、Wikipediaの次に出てくる二件目に既に、Wikipediaのと同様の理念が言葉が示されています。


>実戦と聞いて現代人は何を思い浮かべるかの具体的かつ信頼に足る統計データを示して下さい

編集者では私、122氏、無事本さんが、似たようなのを想起しました。

また「思い浮かべる」とは言いましたが、それは数学的な確率論でもあります。世にある実戦のパーセンテージは、喧嘩よりも試合(乱取、スパーリング)のほうが遥かに多いですよね? 腕相撲よりも多いと思います。また合気上げの練習回数よりも、多いと思います。多いもののほうが、必然的に「思い浮かべる」対象にも、なりやすいと思います。


122氏のお返事とは、全く何もご発言がない場合でしょうか? それでしたら現編集者たち、私やMuso氏、無事本さんが、「ちょっと待つ事になりそうだな」と合意出来たら、になりますかね・・

本文の要出展に関しては、合気道の理念、中立概念の提示が公に存在しない事、以上の2点を以って、幾度も説明していますよ。--顔の無い人 2010年6月12日 (土) 15:39 (UTC)返信

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