メアリー・オブ・モデナ
メアリー・オブ・モデナ(Mary of Modena, 1658年10月5日 - 1718年5月7日)は、イングランド・スコットランド及びアイルランドの国王ジェームズ2世(スコットランド王としては7世)の王妃。父はエステ家のモデナ公アルフォンソ4世・デステ。母ラウラ・マルティノッツィはジュール・マザラン枢機卿の姪。元の名(イタリア名)はマリア・ベアトリーチェ・エレオノーラ・アンナ・マルゲリータ・イザベッラ・デステ(Maria Beatrice Eleonora Anna Margherita Isabella d'Este)。

1673年に、当時ヨーク公だったジェームズと成婚した。プロテスタント派とカトリック派の対立が続く中、カトリックである王弟ヨーク公と公妃には風当たりが強かった。兄王チャールズ2世は数多くの庶子の父でありながら嫡出子がなく、ジェームズには既に前公妃アン・ハイドとの間の2女、メアリーとアンがプロテスタントとして成長しており、この2人のどちらかがいずれ女王になることが想定されていた。もしメアリー公妃に男子が誕生すれば、その子が王位につくのが順当であったが、プロテスタントにとってはジェームズとその息子、とカトリックの王が続くことになるという、危機的状況であった。
15歳の若さで40歳の公爵と結婚したメアリーであったが、1675年から1682年までに生んだ1男3女はすべて夭逝し、その後は妊娠の兆候もなくなった。
1685年、兄王を継いでジェームズ2世が即位し、メアリーは王妃となった。
1687年、メアリーの妊娠が発表された。反ジェームズ派からは「クッションを腹に当てて妊娠を装っている」との風評が流された。翌1688年6月10日、王子ジェームズ・フランシス(後の「老僭王」)が誕生したが、「女児を産んだのに男児に取り替えた」と貴族間で噂されたという。
1688年12月12日、ホワイトホール宮殿から王子と共に脱出し、フランスへ亡命した。亡命中は、フランスから丁重に扱われて住居として城が提供された。1692年に王女ルイーザ・マリア・テレーザ (Louisa Maria Teresa Stuart) を出産している。
1701年に王が死亡すると、幼いジェームズにあとを継がせ、ジャコバイトたちの精神的な柱となった。
パリで乳癌のため死去。シャリオーの僧院にあった墓は、フランス革命の最中に破壊された。 Template:Link GA