御釜神社
御釜神社(おかまじんじゃ)は、宮城県塩竈市中心部の商店街にある神社である。当社は鹽竈神社の境外末社であるが、「塩竈」と言う地名の由来となった「神竈」が安置され、毎年7月には鹽竈神社例祭の神饌を調進する特殊神事「藻塩焼神事」が行われるなど、鹽竈神社の末社でも特別な位置にある。鹽竈神社別宮と同じ祭神である鹽土老翁神を祀っている。
| 御釜神社 | |
|---|---|
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鳥居 | |
| 所在地 | 宮城県塩竈市 本町6-1 |
| 位置 | 北緯38度18分58.44秒 東経141度01分4.35秒 / 北緯38.3162333度 東経141.0178750度 |
| 主祭神 | 鹽土老翁神 |
| 創建 | 不明 |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 主な神事 | 7月4日~6日 藻塩焼神事 |
歴史
安永3年(1774年)から天明8年(1788年)の間に書かれたとされる『別当法蓮寺記』[1]によると、当社創建の時期は不明であるが、社殿は宝暦7年(1757年)に建て替えたのだと言う。御釜神社には、4口の竈が安置されており、『鹽竈社神籍』[1]によれば、この竈は神代において鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた時のものであるとしている。この説に従えば、御釜神社の草創は神代と言うことになる。1300年頃の作とする『遊行聖人縁起絵』[2]には塩竈津の風景に2口の竈が描かれており、この頃には既に塩竈のシンボルとして認識されていたと思われる。
上記の製塩伝承から当社の祭神は鹽土老翁神とされるが、『宮城県神社名鑑』[3]では祭神を鹽土老翁神、奥津彦神、奥津姫神の3神としている。
古代、陸奥国の国府兼鎮守府の多賀城が創建された頃、御釜神社において、この竈を使って塩作りが行われた。当時は、国府津の塩釜港が町の中心部まで入りこんでおり、塩作りに用いる海水を簡単に採取することができた。この古代製塩は、現在も続く、鹽竈神社例祭に神饌を調進する特殊神事「藻塩焼神事」に面影を見ることができる。
『鹽竈社址審定考』[4]によれば、鹽竈神社は元々この地にあり、仙台藩初代藩主政宗が慶長12年(1607年)に現在の一森山に遷座させたとしているが、『鹽竈神社』[5]では、この説は信じがたいと述べている。慶長年間に先立つ留守顕宗の時代に鹽竈神社は野火のため炎上し、棟札から天正年間に再興されたことが分かっているが、留守文書中の『一宮鹽竈神社手記』に「顕宗公御代野火ニテ一宮御炎上、鹽竈御山近辺野火御禁制」とあり、鹽竈神社は平地の御釜神社付近ではなく御山にあったことが伺える。
大塚徳郎氏の著した『塩竈神社史』[6]では御水替神事の様子から、御釜神社は鹽竈神社の竈神または大炊神の性格を持った竈殿ではなかったか、と考察している。即ち御釜神社は、元来は神饌が作られていた竈殿で、後に地主神が鹽土老翁神と考えられ、この神が塩を作って民に教えたと言うことになり、竈殿の機能も失われて、竈殿の釜だけが鹽土老翁神が塩を焼いた竈として残り、御釜神社として祭られたのではないか。そしてこの竈を鹽竈神社の神体と見たり、御釜神社が鹽竈神社の故地とする誤解も起こったのではないか、と考察している。
『別当法蓮寺記』[1]によれば、御釜神社には御釜太夫1名が置かれていたが、社家社僧が輪番によって奉仕していた鹽竈神社の社務には出仕せず、御釜神社の諸事に勤めることとされていた。また、『塩竈神社史』[6]によれば、御釜太夫の鈴木筑前家は「肝入」[7]も輩出した塩竈検断家(検断は村方の役職)と一族であったと言う。「留守分限帳」では町在家とされていたが、寛永21年(1644年)の知行目録では社人となっている。
仙台藩四代藩主綱村治世の記録である『肯山公治家記録』や『塩竈町方留書』[8]には、竈の水色の変化によってト占が行われていたことが記録されている。『塩竈町方留書』[8]の記録によれば、少なくとも寛永13年(1636年)からト占が行われており、その後も竈の水の変色が幾度もあったとされる。竈の水の変色は吉事あるいは凶事が起こる前兆と言われており、変色があった際は別当法蓮寺から仙台藩に届け出ることになっていた。
松尾芭蕉が『奥の細道』の旅を行った際には、当社に立ち寄ったとされる。『奥の細道』の旅に随伴した河合曾良の『曾良旅日記』[9]によれば、元禄2年(1689年)5月8日未の刻に2人は塩竈へ到着。塩竈のかまを見物後、その夜は法蓮寺門前に宿を取ったと記録している。
現在、御釜神社の規模は小規模になってしまったが、鹽竈神社と同様、塩竈市の歴史を語る上で欠かすことのできない重要な神社である。
祭事
毎月の祭祀
- 6日 月次祭
藻塩焼神事
画像は、広げたホンダワラの上から神職が潮水を注いでいるところ。
毎年7月10日に鹽竈神社例祭が執り行われるが、その際、3座の神前に御供えする神饌を調進するため、7月4日~7月6日の3日間に渡って藻塩焼神事(もしおやきしんじ)が当社で行われる。いつ頃から始まった神事か不明であるが、その起源は古代まで遡るものと考えられており、古代の一連の製塩に関する行事を現代に伝えるものとなっている。神事は藻刈、御水替、藻塩焼の3つの部分から成っており、宮城県の無形民俗文化財に指定されている。
- 7月4日 藻刈
- 7月5日 御水替
- 午前10時、当社に奉告の祭典を行った後、松島湾の釜ヶ淵に小船を出す。船上で儀式を行い、満潮時の海水を汲み帰って神竈の柵内に置く。午後5時より旧来の神竈の水を新桶に汲み取って残水を去り、竈の内外を藤蔓で洗浄してから、汲み帰って来た潮水を竈に入れる。
- 7月6日 藻塩焼例祭
- 神竈と同形に作った塩焼竈の上に竹で編んだ棚を置き、4日の藻刈により刈り取って来たホンダワラを広げる。その上から潮水を注いで竈の中に鹹水を蓄え、時間をかけて煮詰める。できた荒塩は採集して、まず御釜神社の神前に供え、10日に鹽竈神社の3座の神前に御供えする。
- 7月7日 牛石藤鞭社祭典
文化財
- 神竈
透塀の中に4口の神竈が安置されている。内部の撮影は禁止だが、拝観料を納めれば神器を見ることができる。
- 『鹽竈社縁記』[10]によれば、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に、両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり現地の人々に製塩を教えたとし、その竈が今も在ると言う。『別当法蓮寺記』[1]には、4口のうち「御臺の竈」と名付けられたものが、神が愛でたものと伝えられて来た、との記載がある。
- 『塩竈町方留書』[8]によれば、4口の竈の大きさは、それぞれ以下のとおりである。
- 『別当法蓮寺記』[1]によれば、この竈は昔7口存在したとの言い伝えがあると言う。それによれば、赤眉と言う者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠くに持ち去ることができなかった[11]。そのため3口は、当地の野田、松島湾の海中、加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたと言う。当地の野田にあると言う1口は、田の土中にあると言い、その地を釜田と言う。(現在の宮城県塩竈市野田、JR東北本線の塩竈陸橋下あたりと言われる。)耕すものが田に不浄を入れると祟りがあるとされ、収穫の後、初穂を持って先ず鹽竈神社に供えるのが慣わしと言われる。松島湾の海中にある1口は御水替の際に海水を汲む釜ヶ淵に沈んでいると言われる。最後の1口は加美郡四釜(現在の宮城県加美郡色麻町)にあると言う。この地は昔、坂上田村麻呂が東征の際に鹽竈神社を勧請し、戦勝の神徳を崇めた地でもあると言う。昔あった竈の数には異説があり、『鹽社由来追考』[1]では鹽竈神社14末社と同じ数の14口があったとする説を、『奥羽観蹟聞老志』[12]では6口あったとする説を紹介している。
- 能因法師の歌枕に、鹽竈神社の竈は坂上田村麻呂の東征の時に58,000人の兵糧を炊いた竈であるとの記述があるが、『鹽社由来追考』[1]では鹽竈神社にそのような証跡は無く、誤説を以って書いたのではないかとしている。
- 前述のように竈の水の変色でト占が行われており、『塩竈町方留書』[8]の記録によれば、寛永13年(1636年)2月上旬から変色があった際は、初代藩主政宗が病気になり、祈祷を行なったが同年5月24日に亡くなったと言う。その後、竈の水は元の澄んだ色に戻ったとされる。『塩竈町方留書』[8]の記録によれば正保2年(1645年)、万治元年(1658年)、万治3年(1660年)、寛文10年(1670年)~同11年(1671年)、延宝3年(1675年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)、貞享2年(1685年)にも竈の水の変色があったと言う。
- 牛石
- 『別当法蓮寺記』および『鹽社由来追考』[1]によれば、鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた際、塩を運ばせた牛が石と化したと言う。神竈より巽の方角に50歩ほどの人家の裏、土中に背のみが見え、知らずに不浄を為すと祟るので柵で囲っている、と記録されている。これを信じる家には疫病を入れず、人の手足の煩いを除き、牛馬の病を癒すと伝えられている。
- 文化10年(1813年)再刻改の『牛石明神』図の説明書きによると、御釜神社に近い町家の裏、小池の中に在り、常には水が多くてわずかに背のみが見える、毎年7月6日にその水をさらう事があり、その奇絶なる姿を見ることができるとしている。現在も境内にある牛石藤鞭社の脇、柵に囲まれた池の中に、水が澄んでいればその背を見ることができる。
- 『奥鹽地名集』には、和賀佐彦と言う神が7才の子供の姿となって塩を載せた牛を引かせたが、この牛が石と化したと言う異説が記載されている。
境内外社
- 牛石藤鞭社(うしいしふじむちしゃ)
脚注
- ^ a b c d e f g h i 志波彦神社鹽竈神社社務所編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月に所収。
- ^ 山形県 光明寺蔵
- ^ a b 宮城県神社庁 編 『宮城県神社名鑑』 宮城県神社庁 1976年1月 より。
- ^ 『鹽竈社址審定考』は 神道大系編纂会 編 『神道大系 神社編27 陸奥国』 神道大系編纂会 1984年3月 に所収。
- ^ 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月 より。
- ^ a b 大塚徳郎 『塩竈神社史』は、塩竈市史編纂委員会編 『塩竈市史 別編』 国書刊行会 1982年9月 に所収。
- ^ 「肝入」は百姓の中から村方役職に任命された者で、現在の行政機構で言えば村長の職務がこれに近い。
- ^ a b c d e f g 『塩竈町方留書』は、明和の頃、「肝入」の留書類の中から注意すべき事項や興味がある事項を抜書きしてまとめた書物。塩竈市史編纂委員会編 『塩竈市史 資料編』 国書刊行会 1982年4月 に所収されている。
- ^ 『曾良旅日記』は、萩原恭男 校注 『おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道管菰抄』 ㈱岩波書店 1991年12月 に所収。
- ^ 『鹽竈社縁起』は鹽竈神社所蔵。その内容は 神道大系編纂会編 『神道大系 神社編27 陸奥国』 神道大系編纂会 1984年3月 にも所収されている。
- ^ 『奥羽観蹟聞老志』では、盗人が6口あった竈のうち2口を舟に載せて盗もうとしたが、手足が麻痺したので、恐れをなして竈を海中に投げ捨てた、との話を紹介している。
- ^ 佐久間義和 編 『奥羽観蹟聞老志』 宝文堂出版販売 1972年10月 より。
参考文献
- 志波彦神社鹽竈神社社務所 編 『鹽竈神社史』 志波彦神社鹽竈神社社務所 1930年12月 (『別当法蓮寺記』 『鹽竈社寶物記』 『鹽竈社神籍』 『鹽社由来追考』を所収している)
- 宮城郡教育会 編 『宮城郡誌』 名著出版 1972年6月
- 佐久間義和 編 『奥羽観蹟聞老志』 宝文堂出版販売 1972年10月(1928年刊の復刻)
- 田辺希文 編 『封内風土記』 宝文堂出版販売 1975年11月
- 宮城県神社庁 編 『宮城県神社名鑑』 宮城県神社庁 1976年10月
- 塩竈市史編纂委員会編 『塩竈市史 別編』 国書刊行会 1982年9月
- 塩竈市史編纂委員会編 『塩竈市史 資料編』 国書刊行会 1982年4月 (『塩竈町方留書』を収録している)
- 神道大系編纂会 編 『神道大系 神社編27 陸奥国』 神道大系編纂会 1984年3月
- 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 ㈱白水社 1984年6月
- 萩原恭男 校注 『おくのほそ道 付 曾良旅日記 奥細道管菰抄』 ㈱岩波書店 1991年12月
- 鹽竈神社博物館 編 『「伊達治家記録」鹽竈神社関係史料』 鹽竈神社博物館 1995年1月
- 押木耿介 『鹽竈神社』 ㈱学生社 2005年6月(1972年刊の再版)