森田必勝
生涯
3歳のときに相次いで両親を亡くす。当時の建設相河野一郎にあこがれて政治家を志す。早稲田大学政治経済学部を受験したが不合格になる。その後2年間の浪人期間を経て1966年早稲田大学教育学部入学。当時の同学部においては珍しい二浪の新入生の為クラス委員に推挙される。空手部入部。この年東京都豊島区にある育誠社という出版社から月刊誌「論争ジャーナル」が出版される。林房雄の紹介で同雑誌の副編集長である万代潔に出逢った作家三島由紀夫は彼を気に入り同雑誌と強い関係を結ぶ。同年11月14日、「左翼に牛耳られた早稲田の正常化を目指す」と標榜する民族派学生組織「早稲田学生連盟」(後の日本学生同盟)の結成に参加。1967年、早稲田大学国防部の結成に参加。この頃三島が祖国防衛隊の構想を持っている事が日学同のメンバーに伝わる。森田の感想は「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」。三島との出会いは同年6月19日銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島と早大国防部との会見においてだと言われるが詳細は不明。『禁色』の美青年南悠一のモデルとなった実在の男性(戦後の一時期,三島と同性愛関係にあった)と森田が瓜二つだったという証言もある(木村徳三『文芸編集者 その跫音』TBSブリタニカ,1982年)。 同年7月2日から一週間にわたって三島と共に陸上自衛隊北恵庭駐屯地へ体験入隊。戦車に試乗。「論争ジャーナル」のメンバーも体験入隊への随行を希望したと言われる。三島,日学同,「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかし三島の「祖国防衛隊」構想を巡って,これに賛成する「論争ジャーナル」と反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じる。直接行動,テロリズムへの憧れをもっていた森田を始めとする日学同内のメンバーは三島と「論争ジャーナル」への接近を深める。1968年10月5日三島は民兵組織を正式に結成。万葉集防人歌「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」より「楯の会」と名づける。1969年2月,森田は日学同を脱退。脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていた為「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。同年9月楯の会の学生長に任命される。1970年6月,三島は決起の具体案を森田,小賀正義,明治学院大学の小川正洋に話す。同年9月神奈川大学の古賀浩靖が計画に参加。そして同年11月25日自衛隊市ヶ谷駐屯地へ。益田・東部方面総監を人質にとり集合した自衛隊員を見下ろす形でバルコニー上から三島演説。決起を迫るが果たせず三島切腹(三島事件)。森田が介錯したものの果たせず剣道居合の経験者であった古賀が介錯。続いて森田が切腹。同じく古賀が介錯。森田の辞世の句「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」25歳4か月の生涯だった。本人は名の【必勝】を【ひっしょう】と呼ぶのを好んでいたという。自決30年後の2000年,出身地四日市に銅像が建てられた。
人物
実兄の森田治は教諭となり、後に県議会議員を務めた。
コカ・コーラが大好物で、ビン入りをラッパ飲みするのが常であったという。