藤井斉
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少佐。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者である。
海軍兵学校入校まで
長崎県平戸に生れる。本籍は佐賀県。父は炭鉱主であったが事業に失敗し、藤井は祖父、次いで親族の山口半六に引き取られ養育を受けた。山口は孫文の革命運動に協力した人物であり、藤井は大きく影響を受けたといわれる。佐賀中学を卒業するにあたり、山口は藤井に外交官を勧めたが、海軍士官の道を選ぶ。面接試験は佐賀県庁で行われ、面接にあたった海兵教官は藤井の人物に感嘆したという。[1]学科試験に合格し、藤井は海軍兵学校(53期)に進む。席次は3番であった。
海軍兵学校生徒
藤井が入校した頃の兵学校はワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された時期であった。52期生は236名であったが、53期生は62名である。同期生に伏見宮博信王、戦後海将となる福地誠夫らがいた。入校後の藤井は勉学に力を入れることは無かったが、目立つ存在であった。同期生の小手川勝彦と大アジア主義を唱えて問題になり、兵学校側は退校させることを考慮している。退校を免れた藤井であったが、時の軍令部長・鈴木貫太郎が来校した際、軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行った。こうした中、藤井の母校佐賀中学出身の生徒を中心に藤井に共鳴するものが集まっていった。兵学校の休暇中は東京に行き、大川周明、安岡正篤らの知遇を得ている。1925年(大正14)年7月海軍兵学校を卒業。席次は27番であった。
海軍士官
艦船勤務
「磐手」乗組みとして遠洋航海に参加。帰国後「由良」乗組みとなり、翌年12月海軍少尉に任官した。1928年(昭和3年)6月「扶桑」乗組みを経て、同年12月海軍中尉に進級し第13駆逐隊附となった。
霞ヶ浦航空隊
1929年(昭和4年)11月、第20期飛行学生となり霞ヶ浦海軍航空隊に赴任。司令は小林省三郎少将であり、末次信正とともに藤井が最も信頼する海軍軍人であった。教官には後に神兵隊事件に関与する山口三郎、終戦時の厚木航空隊司令小園安名らがいた。この時期に井上日召、橘孝三郎、権藤成卿らと交わりを持つ。
戦死
大村航空隊附を経て、1931年(昭和6年)12月海軍大尉に進級し「加賀」乗組みとなり、第一次上海事変に出征。「加賀」攻撃隊の第二小隊長機操縦員であった藤井は上海上空で撃墜され戦死した。
青年将校運動
藤井は青年将校の間で高まっていた国家革新運動の海軍側の指導者であった。王帥会を組織して同志の獲得に努め、会員は20名[2]程であった。この王帥会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものであった。藤井は西田税が組織した天剣党に加盟し、陸軍青年将校との連携を取っていた。十月事件[3]への参加も考えていたが、橋本欣五郎らに不信を抱き途中で離脱している。
1930年(昭和5年)にはロンドン海軍軍縮条約に反対し、財部彪海軍大臣が軍縮会議から帰国し、東京駅に着いた時に『売国全権財部を吊迎す』と書かれたノボリを掲げたのは藤井である[4]。その後も『憂国慨言』と名づけた冊子を海軍部内に配布し謹慎7日の処分を受けた。藤井は意に介さず、右翼と結び海軍省や濱口雄幸内閣の揺さぶり工作を行った[5]。
藤井に影響を与えた人物に、大川、井上日召、権藤成卿らがいた。北一輝ともつながりはあったが、農本自治社会を唱える権藤に共鳴していたという。また井上の所在していた大洗の護国堂を頻繁に訪れ議論を重ね、盟約を結んだ[6]。なお井上の兄は1924年(大正13年)に行われた、日本初の雷撃機の襲撃訓練中に殉職した海軍士官であった。
藤井は大川から革命計画を聞かされ勇躍していたという。その内容は満州で支那人を利用して日本人を数名殺害させ、日中間の対立を起こすことで国家に混乱を発生させ、それに乗じ議会を襲撃し革命を成し遂げるというものであった。[7]この革命計画に激怒した井上は叱責し、藤井は面目を失ったという。
藤井は国家組織を改造すためには指導者層の変革が必要であるとし、実力行動を考えるようになる。井上から四元義隆を通じて1932年(昭和7年)2月の決起を伝えられ、藤井は同意を与えていた[8]が1月に発生した上海事変に出征することとなり、実力行動に移ることなく戦死した。
藤井の戦死は2月5日であったが、井上を中心とした血盟団事件は2月9日の井上準之助暗殺で始まった。海軍側の同志であった三上卓、古賀清志らは5月15日犬養毅首相を総理官邸において射殺した(五・一五事件)。