JWA関西

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JWA関西


JWA関西 (ジェイダブリュエーかんさい、1978年(昭和53年)-2008年(平成)は、かつて関西を中心に団体活動を行っていた日本を代表するアマチュアプロレス最大手団体。

昭和50年代頃、プロレス団体と呼ばれる団体は新日本プロレス全日本プロレス全日本女子プロレスの三団体しか存在せず、プロレスラーとは一部選ばれた「恵まれた体格」を 持つ者だけの存在であった。 一部大学でプロレス同好会が活動していたがそれは学園祭等で披露されるあくまでも「余興」的色合いが強く本物のプロレスとは大きく異なるものであった。

そんな中、「常人体格者でもトレーニングを元にスポーツとしてのプロレスを確立し心身を鍛える事ができる。」との信念の元、ファイター藤本氏によりJWAの礎となる「JrNWA」が創立される。 その後、テレビ番組11PM内において関東にて活躍していたビッグ赤平とのライバル対決が実現。これに勝利したファイター藤本とビッグ赤平を頂点としアマチュアプロレス全国統一機構JWAが結成される。 全国統一機構であるがあくまでも各団体独立採算制を取っており、JWA同士での選手交流等もさかんに行われる事となる。最盛期には関西・関東・盛岡・東海の四団体が各地で熱戦を繰り広げていた。

こうした戦いの中「アマチュアプロレス」というジャンルを確立しつつ、その後プロへとステップアップしていった選手・関係者が多い事から、社会人プロレス、学生プロレス、そして、あらゆるインディー・ プロレスすべての元祖、原点であるといっても過言ではない。 アマチュアでありながらプロ選手の試合をも超える数々の名勝負を残し田鶴浜 弘からも高い評価を得ていた。 現在多数の社会人プロレス団体やインディープロレス団体が乱立しているがJWA、中でも最も選手のレベルの高かったJWA関西の活躍無くしては語れない。 ディープなプロレスファンからは「プロ以上 にプロ意識の強いプロレス団体」として一目置かれる存在となった。

1993年にファイター藤本氏が別団体NPWを設立しJWA関東もWINと名称変更。JWA東海は東海プロレスを名乗り社会人プロレス団体として現在も活動中。(名義上JWAを使用してい るが活動内容はチケットの有料化等アマチュアプロレスとは異なる部分が大きい為本来のJWAの意味合いとは異なる)

1998年8月16日には大阪府立体育会館第2球技場において20周年記念大会を開催。当時プロ団体でも集客の難しい時代の中、入場無料とは言えプロ団体を上回る入場者を記録した。

しかし、時代の流れとともにインディー団体の乱立・選手やスタッフの高齢化等の問題が浮上。これ以上試合のクオリティーを下げるべきではないという総括の元、30周年記念大会となる2008年10月26日 大会をもってJWA関西は活動を停止する事となる。 プロ団体でさえ数年、数ヶ月で消えていくこの平成の時代にあって30年という長きにわたりアマチュアでありながらプロレス界に貢献したその功績は大きい。

所属選手・スタッフ

事務局長

・松井雅也

所属選手

・ファイター藤本

・ブロンコ釣田

・ミッキー隼野

・デッキー磯上

・キラー今堀

・バッファロー坂田

・大迫貴史

・レンジャー松永

・大浜克二

・新村一樹

・シュガーウェーブ・ヤス

・原田智也

・中野文武

・レンジャー溝口

・雷電横山

・ミッキー隼野JrCIMA

・安藤雅樹

吉野正人

柿本大地

・伊佐川豊

・鳥居はるみ

レフェリー ・藤原速人

・デッキー磯上

・大浜克二

音響

・白石尚士

リングアナウンサー

・宮脇正次

・牛渡庸仁