宝田明

日本の俳優 (1934-2022)

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宝田 明(たからだ あきら、1934年4月29日 - )は日本映画俳優タレント声優司会者日本映画の黄金期である昭和30年代、東宝を代表する二枚目スターであった。昭和40年代以降、ミュージカルを中心とした舞台に活動の場を広げ、ドラマやバラエティなどテレビ出演も増えるようになった。昭和39年(1964年)に芸術祭奨励賞、昭和47年(1972年)にゴールデンアロー賞を受賞。これまで出演した映画は200本を越える。

たからだ あきら
宝田明
宝田明
生年月日 (1934-04-29) 1934年4月29日(91歳)
出生地 日本の旗 日本領朝鮮・咸鏡北道
民族 日本人
ジャンル 俳優
活動期間 1954年-
主な作品
映画
ゴジラ』『美貌の都』『青い山脈
小早川家の秋』『放浪記
100発100中』『緯度0大作戦
ミンボーの女』『監督・ばんざい!
テレビドラマ
平四郎危機一発』『五人の野武士
いごっそう段六』『徳川慶喜
私の青空』『聖徳太子
舞台
『アニーよ銃をとれ』
風と共に去りぬ
マイ・フェア・レディ
タイタニック
葉っぱのフレディーいのちの旅ー
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来歴・人物

朝鮮咸鏡北道清津府(現:朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市)生まれ[要出典]。父は朝鮮総督府鉄道技師であったが、2歳の頃に南満州鉄道(満鉄)へ転勤のため、満州へ移る。終戦後、ハルピンから引き揚げ中国語英語を話す。

1953年(昭和28年)、東京都立豊島高等学校卒業後に東宝ニューフェイス第6期生として俳優生活をスタート。同期には佐原健二河内桃子藤木悠、日活に移籍した岡田眞澄がいる。翌年、特撮映画の金字塔である『ゴジラ』で初主演を果たす。長身・美形の二枚目俳優として東宝映画の若手トップスターとなり、数多くの映画に主演した。1959年に、日本人初のミス・ユニバースの栄冠に輝いた児島明子と結婚し、2人の女子をもうけたが後に離婚。長女は1991年に『ジプシー』がヒットした歌手・女優の児島未散

1960年代は、東宝と香港キャセイ・フィルムとの合作映画(『香港の夜』他)で、香港の女優・尤敏(ユーミン)とコンビを組んで、香港、台湾など、アジア地域で絶大な人気を博した。1961年には小津安二郎監督が東宝で撮った映画『小早川家の秋』にも出演している。

特撮(怪獣)映画には『ゴジラ』の翌年の『獣人雪男』以来疎遠だったが、1964年の『モスラ対ゴジラ』の主演で復帰。以後も昭和から平成まで多く出演し、日本の特撮映画に欠かせないスターの一人である。また映画斜陽期以降はミュージカルの世界にも活動の場を広げ、日本におけるミュージカル俳優の草分け的存在でもある。

明るく華やかな雰囲気は日本の男優としては珍重すべきものであり、映画では『100発100中』の、最初からフランス語のセリフで登場し、ヒーローなのか悪人なのか分からないまま終わるキャラクターなど持ち味を存分に発揮している。

また、ミス・ユニバース日本代表選出大会の司会を1991年まで担当していた。

1980年東京都中野区江古田に日本初のミュージカル俳優養成学校、宝田芸術学園を開校(1983年5月末で閉鎖)。

近年は、にやけた気障な二枚目というキャラを逆手に取り、新しい境地を開拓している。

2008年7月29日首都高速道路を制限速度を64km上回る、時速124kmで運転していたとして道路交通法違反容疑で検挙された。この件は同年の10月1日に発覚したが、翌日の会見で「次の現場に行く時に、スピードを出し過ぎることはしょうがない」「素直に2〜3カ月免停されて、講習2日ぐらい行けば、免停期間がまた少なくなるのはいいですよね」「人を殺めたとか、誰にも迷惑をかけたわけじゃない」と謝罪もせずに開き直った態度を見せ、世間の批判を浴びた。

2010年5月30日、東京都北区の交差点で、赤信号のため停止していた男性会社員の乗用車に追突する事故を起こしていたことが翌5月31日に報じられる。「ブレーキを踏むのが遅れた」と話していることから、警察では前方不注意が原因とみて調べている。

出演

映画

テレビ

テレビドラマ

ほか多数

バラエティ

吹き替え

ゲーム

舞台

CM

著書

その他

外部リンク

先代
-
ABC制作・EX系
ミス・ユニバース・日本代表選出大会中継司会者
初代(?-1991年)
宝田明
次代
2代目石田純一
(1992年・1993年)