ハンニバル

カルタゴの将軍

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カルタゴの将軍(紀元前247年紀元前183年)。ハミルカル・バルカの長子。第一次ポエニ戦争シチリアローマに奪われると、当時未開であったスペインを制圧し、諸部族をまとめて軍隊を養成。5万の兵と37頭のを連れ、アルプスを越えてイタリアへ進軍し、第二次ポエニ戦争(別名ハンニバル戦争 紀元前218年紀元前201年)を始める。イタリア半島各地でローマ軍を撃破し、紀元前216年カンネーの戦いではローマを完敗させたものの首都ローマに進軍する事は出来ず、イタリア国内では一進一退の硬直状態が続く。カルタゴ政府はこの戦争に対して、初め日和見の立場を取り、ハンニバルは本国との連携や補給をうまく取ることが出来なかった。その間に、大スキピオにハンニバルの本拠地であるスペインを攻略されてしまう。勢いに乗ったローマ軍は、北アフリカへ逆侵攻し、カルタゴ本国での敗戦に狼狽した政府によってハンニバルは本国に召還されてしまう。その後大スキピオにザマの戦い(紀元前202年)で破れ、ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わる。

ハンニバルの最期

第二時ポエニ戦役後、カルタゴはハンニバルが先頭に立って経済建て直しをはかった。 財政再建の為に経費節減による行政改革で国力回復を目指すが、反ハンニバル派は「シリアと内通している」とローマへ訴える。真実は不明であるが、その後ハンニバルはカルタゴを脱出し、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世の許へ走る。

ハンニバルはシリア軍を率いてローマと対峙するが、結局は敗北、ハンニバルは逃亡し、クレタ島、そして黒海沿岸のビティニア王国へと亡命、その後服毒自殺。