海部俊樹

日本の第76・77代内閣総理大臣 (1931-2022)

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海部 俊樹(かいふ としき、1931年昭和6年)1月2日 - )は、日本政治家財団法人日本ソフトテニス連盟会長社団法人大正琴協会理事長特定非営利活動法人日本ティーボール協会会長。

海部 俊樹
かいふ としき
ファイル:Toshiki Kaifu.gif
海部の肖像写真(首相在任時)
生年月日 (1931-01-02) 1931年1月2日(94歳)
出生地 日本の旗 愛知県名古屋市
出身校 早稲田大学第二法学部卒業
早稲田大学大学院
法学研究科中途退学
前職 政治家秘書
現職 日本ソフトテニス連盟会長
大正琴協会理事長
日本ティーボール協会会長
所属政党自由民主党→)<br />(高志会→)<br />(自由改革連合→)
新進党→)
無所属の会→)
自由党→)
保守党→)
保守新党→)
自由民主党
称号 法学士(早稲田大学・1954年
公式サイト 海部俊樹オフィシャルホームページ
内閣 第2次海部内閣
第2次海部改造内閣
在任期間 1990年2月28日 - 1991年11月5日
日本の旗 第76代 内閣総理大臣
内閣 第1次海部内閣
在任期間 1989年8月10日 - 1990年2月28日
日本の旗 第95代 大蔵大臣
内閣 第2次海部改造内閣
在任期間 1991年10月14日 - 1991年11月5日
日本の旗 第107代 文部大臣
内閣 第2次中曾根第2次改造内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1986年7月22日
日本の旗 第98代 文部大臣
内閣 福田赳夫内閣
在任期間 1976年12月24日 - 1977年11月28日
その他の職歴
日本の旗 衆議院議員
1960年 - 2009年7月21日
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衆議院議員(16期)、文部大臣(第98107代)、内閣総理大臣(第7677代)、大蔵大臣第95代)、自由民主党総裁(第14代)、自由改革連合代表、新進党党首などを歴任した。

略歴

初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。派閥は二階派に属した(最高顧問)。2009年の衆議院解散の時点で、衆議院議員では連続当選回数16回、勤続年数49年と現職トップだった。

政治姿勢

初当選以来、三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。また三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。

三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名される。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。

早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは?」と囁かれた事もある。

代表的な文教族であり、福田赳夫内閣第2次中曽根内閣で文部大臣を務めている。文部大臣時代の業績として、「共通一次試験」の導入があげられる。また「青年海外協力隊」の生みの親のひとりとしても知られている。

総理総裁就任と辞任

 
1989年9月1日ホワイトハウスにてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュ(右から1人目)と
 
1991年7月15日ロンドンで開催された第17回先進7か国首脳会議にて

宇野宗佑第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた。自民党総裁選では海部の他に、林義郎石原慎太郎が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自民党総裁に選ばれた。

参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき、両院協議会にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。

海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などで国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除(リクルート・パージ)し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。第1次海部内閣発足の直後、山下徳夫内閣官房長官の女性スキャンダルが発覚。海部はすぐさま山下を更迭し森山真弓環境庁長官を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させたり、様々な行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指し、1990年の第39回衆議院議員総選挙で大勝する。

党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。」と記されており、自民党幹事長を務めていた小沢一郎は「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方ががよっぽどましだ」と酷評し[1]金竹小と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の加藤紘一山崎拓小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。しかし、圧倒的な世論の支持が海部を守った。首相でありながら実権を小沢や金丸、竹下らに握られ、頼りないイメージが強かったが、湾岸戦争における経済的な協力や掃海艇派遣では驚異的なねばり腰を見せ、法案成立にこぎつけている。このことに限らず、外交面では当時のサッチャー英首相やブッシュ米大統領から絶大な信頼を得ていた。天安門事件後、世界から孤立しかかった中国に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。

海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという[2]。事実であれば、他国の現職首脳が訪中時に自由に行動できるわけもなく、海部による天安門事件の犠牲者追悼は中国政府による了承のもとでの行為だったことになる。

政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で臨む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で内閣総辞職を選んだ。

在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営をなせないままの退陣となったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。在任中の内閣支持率は高い時で64%、退任直前でさえも50%を超えており、煮え切らない不完全燃焼の中での退陣となった。

首相在任日数818日間は日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。

首相在任中の施策

皇室

1990年秋篠宮文仁親王結婚の儀、今上天皇即位の礼大嘗祭等重要な皇室行事が続いたが、海部はすべて問題なくこなした。とりわけ即位儀礼は日本国憲法下初の挙行であったため儀式にも慎重に手が入れられたが、それぞれの儀礼は滞りなく進んだ。今上天皇は儀式にあたりその細かい部分について海部に直接相談したり、二人だけで話し込んだりすることもあった。今上天皇は海部と年齢が近いこともあり話しやすく感じていたようであり、個人的な信頼関係が生まれていたと言われる。

湾岸戦争

資金提供
湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供。しかし、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が無かったが、その後改められた。この施策に関し保守層からは金だけだして人出さない似非国際貢献一国平和主義と罵られ左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した。」と強く批判されるなど左右の知識人から強い批判を浴びた。
PKO法案自衛隊ペルシャ湾派遣
湾岸戦争の停戦後に、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。

自民党離党、自由改革連合代表、新進党党首へ

1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党新党さきがけ自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して離党。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し自由改革連合を結成し代表に就任、新進党を結党し初代党首となる。新進党結党会見では臨席した初代幹事長の小沢一郎に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか」といきりたつ一幕もあった。さらにこの光景が放映されたあと久米宏が「小沢さんが実権を握っているのは皆わかっている」と発言し止めをさした。

この離党に至る海部の動きに対し、元衆議院議長田村元は、かつて海部が師事した三木武夫になぞらえて「三木さんは我々と対立したが偉大な政治家であった。三木さんはあえて茨の道を選んだ。しかし、海部はてんぷらのにおいがするほうへつられて歩いて行った」と酷評している。また、当時の自由民主党幹事長代理野中広務は「元総裁が党を裏切るとは何事」と激怒。自民党本部の八階ホールと総裁室にある歴代総裁肖像画から海部の肖像画のみ撤去させた。更に野中は海部の肖像画の廃棄処分まで指示したが、周囲から「大人げない」とたしなめられ、海部の肖像画は党本部の収蔵庫に保管されることになった。その後、野中と小沢が連携し自自公連立政権が成立し海部も与党へと復帰していくこととなり、野中は海部批判を口にしなくなった。

自民党復党、落選、政界引退

新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。

保守新党に改組して臨んだ2003年第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣の高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。

自民党復党の折には、安倍晋三自民党幹事長(当時)から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。

しかし、院内に銅像が建てられる50年永年在職議員特別表彰を目指し強行出馬した2009年第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で岡本充功に敗れた[3]比例代表は73歳未満と定めた党規に抵触し重複立候補が許されなかったため落選し、同日政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えた事も落選の一因と見られている。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙石橋湛山片山哲両元首相以来46年振り[4]、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。

政界引退後

現在は、日本ソフトテニス連盟会長大正琴協会理事長NPO日本ティーボール協会の会長を務めている。また、中央政策研究所では最高顧問を務めているが、公害被害者を役員に迎え公害問題に取り組んだかは確認できていない。

主な肩書き
  • (財)日本ソフトテニス連盟会長
  • 日本ティーボール協会会長
  • EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問
  • 地球環境行動会議(GEA)最高顧問
  • 中央政策研究所最高顧問
  • 教育美術振興会会長
中華人民共和国訪問

南京大虐殺肯定論者である。2010年に海部は中華人民共和国の招待で訪中の際に南京大虐殺論争に触れ、海部は「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行った。これに対しチャンネル桜水島総が批判していた。

人物・エピソード

ネクタイ

水玉模様のネクタイトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。討論番組そのものでは当時公労協事務局長であった富塚三夫に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった。昭和天皇の大喪の礼でも仄かに水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。

弁論

旧制中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、中央大学専門部法科入学と共に中央大学辞達学会弁論部)に所属し、数々の弁論大会で活躍。同大学卒業後、同郷の代議士河野金昇の書生(議員秘書)を務め、早稲田大学第二法学部(夜間部)へ編入学し、早稲田大学雄弁会に所属。早大在学中は雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りに勤しんだ。学生弁論大会で優勝した折には、審査委員の一人だった早稲田大学の時子山常三郎総長から「海部君(の演説)に勝る者はいない。海部の前に海部なし、海部のあとに海部なしだ」と評されている。同年代の雄弁会仲間には渡部恒三などがおり、この時代に培った人脈が政界入り後に大きな力となって、小派閥の番頭格でありながら首相のポストを得る原動力となった。

29

1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬し一期務めた河野孝子未亡人の後継者として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し、当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービスにしていた。ところが、初当選から29年後の1989年、諸々の条件が重なり、海部は総理大臣に就任した。

ヒューストン・サミット

 
1990年7月9日テキサス州ヒューストンで開催された第16回先進7か国首脳会議にて

1990年アメリカヒューストンで開催されたサミットにおける首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、ブッシュ米大統領・サッチャー英首相・マルルーニー加首相が大爆笑している場面の写真が全世界に配信されたが、一般にはあまり知られていない。

海部によれば、以下のようなやり取りが合ったという。 「とにかく、暑くてね。屋外で記念写真を撮影した時ですが、カナダのマルルーニー首相(当時、以下同)が、「アメリカは田舎だから、暑くてたまらない。カナダはこんなに暑くない」なんて、言っておるんですよ。冗談の好きな男でね。撮影のために並んだら、「暑い、暑い。俺はぶっ倒れる」なんて言うんだ。私はちょうど、マルルーニーの左隣にいましてね。あっち側(マルルーニー首相の右隣)はサッチャー英首相だった。だから「カナダが倒れたら、日本は支えきれないぞ。あっち側に倒れろ、鉄の女になんとかしてもらえ」と言ったんですね。これが、ブッシュ米大統領、サッチャー英首相、マルルーニー加首相の爆笑を誘った」[5]

アニメのモデル

就任中の1991年にTVアニメ「ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え」が放映されたが、その中に登場するゲストキャラクターである「海辺(うみべ)首相」のモデルとなっている。ちなみに海辺首相の口癖は「幹事長とも相談しますが」であり、幹事長の小沢一郎との力関係を揶揄したパロディとなっている。

プライベート

三枝の愛ラブ!爆笑クリニックに首相退任後、夫婦で出演した。

ニックネーム

若年の頃から元首相の三木武夫を政治家として尊敬し親交を持っている関係で、とくに妻の三木睦子からは、いまでも息子のように可愛がられていることは有名で、しばしば「俊樹ちゃん」と呼ばれている姿がTVなどで報じられて、いつしか視聴者の間でも愛称として定着した。

記録的な長寿で話題となった双子姉妹成田きん蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。

長渕の曲「親知らず」の歌詞の中に、ミハイル・ゴルバチョフサッダーム・フセインジョージ・H・W・ブッシュと共に登場する。

家族・親族

関連項目

脚注

  1. ^ 田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号より。小沢一郎の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみになったが、これは、1982年の自民党総裁選挙で田中派が中曽根康弘を支持したときの小沢一郎のコメントであり、海部を指したものではないが、海部を指した発言と誤って伝えられることがある(田原総一朗『テレビと権力』(講談社、2006年、p.267)や淺川博忠『「新党」盛衰史 新自由クラブから国民新党まで』(講談社文庫、2005年、p.229)など)。
  2. ^ サーチナ2010年5月25日配信のインタビュー記事
  3. ^ 連続16選の海部元首相が落選 民主前職に敗れ、愛知9区共同通信2009年8月30日
  4. ^ 首相経験者の落選、46年ぶりYOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日
  5. ^ サーチナ2010年5月21日配信のインタビュー記事

外部リンク

公職
先代
宇野宗佑
  内閣総理大臣
第76・77代:1989年 - 1991年
次代
宮澤喜一
先代
永井道雄
松永光
  文部大臣
第98代:1976年 - 1977年
第107代:1985年 - 1986年
次代
砂田重民
藤尾正行
先代
橋本龍太郎
  大蔵大臣
第95代:1991年(兼任)
次代
羽田孜
先代
梶山静六
  内閣官房副長官(政務担当)
1974年 - 1976年
次代
鯨岡兵輔
議会
先代
田沢吉郎
  衆議院議院運営委員長
第31代:1972年 - 1973年
次代
佐々木秀世
党職
先代
結成
新進党党首
初代:1994年 - 1995年
次代
小沢一郎
先代
結成
自由改革連合代表
初代:1994年
次代
新進党
先代
結成
高志会代表
初代:1994年
次代
新進党
先代
宇野宗佑
自由民主党総裁
第14代:1989年 - 1991年
次代
宮澤喜一
先代
宇野宗佑
自由民主党国会対策委員長
第21代:1976年
次代
安倍晋太郎