聖絶
聖絶(せいぜつ、ヘブライ語: חרם)とは、聖書信仰の立場によって訳された『新改訳聖書』において造られた造語であり、ヘブライ語の訳語としては、一般的な用途に用いることを禁じ、神のために聖別すること、ささげられたもの、奉献物、のろわれたものを意味している[1][2]。ここでは福音派の神学的意味を中心に解説する。キリスト教神学においては旧約と新約の経綸で説明され、イエス・キリストと神の愛が聖絶によって示されている。
批評的聖書学者からは、新改訳はキリスト教護教的な訳であるとして、批判されている[3]。
出エジプト記
出エジプト記22:20は異教の祭儀が禁じられており、全く滅ぼすこと、聖絶が命じられているが、これはもともとのろいの下におくという意味である[4]。
民数記
ジャン・カルヴァンは、民数記21章2-3節の聖絶の誓約は、主に対する敬虔な信仰のあらわれであり、主の助けを祈り求めることであったという。カルヴァンはこの記事は一見残酷に見えるが、イスラエルは神の命令を執行したのであり、破壊と殲滅は正しいことであったと指摘する。のろわれたものとして神にささげられたこの地は、ホルマと呼ばれるようになった。[5]
ヨシュア記
ここで神の敵に囲まれた神の民を助けたのは、イエス・キリストであると信じられている[6]。ヘブル語のヨシュアはギリシャ語のイエスであり、ヨシュアは「旧約聖書のイエス」と呼ばれる[7]。ヨルダン川を渡った時の契約の箱、ラハブの赤いひも、エリコ近くの主の軍の将にイエス・キリストが見出される[8]。ヨシュアに対し、神の自己顕示のことばが使われている。ここは聖なる所であり、罪人であるヨシュアは神の領域に入った[9]。ラハブの赤いひもはキリストの血と解釈される。
先住民は優れた文化を持つ民族であったと考えられているが、宗教的に堕落していたため、神は選民を守るために、彼らを滅ぼすように命じられたのだと受けとめられている。神の民がヨルダン川を渡った奇蹟は、堕落・腐敗した異教民族を征服するための準備であったと信じられる。異教民族を滅ぼす神の命令がくだった理由は、すべての人は罪のために滅ぼされて当然だからであり、イスラエルが選民だったからである。神は彼らを罰するためにイスラエルを用いた。[10]
悔い改めない人の破滅、信仰者へのあわれみ、警告と祝福が示される[11]。エリコはカナンの人への神の審判の行為である[12]。イスラエルにとって聖なる戦いへの参加であり、アナク人に対しては罪への裁きである[13]。
ここにある原則は勇気、敵との非妥協、神への忠信である[14]
イエス・キリスト
イザヤ書34章5節に「見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ」(新改訳聖書)と書いてあるが、イザヤ34:5-8、63:1-6、ヨハネが受けたキリストの啓示19章13節の関連から、イエス・キリストが神の敵を踏み潰し、その返り血を浴びる姿と解釈される。異教的な人物であるエサウを起源とするエドムは、常に神の敵、教会の敵を意味しており、カナンの地、約束の地に入ろうとする時も、その後も神の敵がいた。イエス・キリストの敵はみな霊的なエドムである。[15][6][16]
霊の戦い
これは、現代においては、霊の戦いとして適用される。ただし、霊の戦いについては福音派に議論があり、「霊の戦いに関する聖書的・包括的理解のためのナイロビ声明」が発表されている。[2][17][18]
出エジプト34章、申命記12章の与えられた地における命令は、今日仏壇など異教な偶像を取り除く聖句として適用されている[19][20]。
神の愛
聖絶は神の愛の拡大である[21]。それは、イスラエルの神こそが全地の主であると知るため、また、神の民が汚れた民の汚染から守られるためであり、イスラエルを通して贖い主が来るためである[21]。悪を罰する神は、神を信じる者に対しては限りない愛といつくしみをもって臨むと信じられている[22]。約束の地とは神の祝福であり、アブラハムの子孫であるイエス・キリストが信仰の対象である[23]。
脚注
- ^ 尾山『出エジプト』p.303
- ^ a b 『新聖書辞典』
- ^ 田川建三『書物としての新約聖書』勁草書房、青野太潮『どう読むか、聖書』朝日選書
- ^ 尾山『出エジプト』p.303
- ^ Calvin's Commentaries Numbers 21:1-3
- ^ a b マーティン・ロイドジョンズ『リバイバル』21章「神の敵陣突破」いのちのことば社
- ^ 『ウェスレアン聖書注解-旧約篇2』p.5
- ^ 『聖書の講解』p.130
- ^ 『新聖書注解』p.52
- ^ 『聖書の概説』5章
- ^ 『ウェスレアン聖書注解-旧約篇2』p.20-22
- ^ 『ウェスレアン聖書注解-旧約篇2』p.32
- ^ 『新聖書注解』p.71
- ^ 『聖書の講解』p.138
- ^ ジョナサン・エドワーズ『怒れる神の御手の中にある罪人』CLC出版
- ^ 尾山令仁『ヨハネが受けたキリストの啓示』羊群社
- ^ チャールズ・クラフト『私たちにゆだねられた神の権威』プレイズ出版
- ^ ピーター・ワグナー『地域を支配する霊』マルコーシュ・パブリケーション
- ^ 滝元明『千代に至る祝福-偶像問題とクリスチャンの実際的立場』CLC出版
- ^ 勝本正実『日本の宗教行事にどう対応するか』いのちのことば社
- ^ a b 『ウェスレアン聖書注解-旧約篇2』p.32-33
- ^ 尾山『聖書の講解』p.483
- ^ ジョン・ストット『世界宣教の展望』p.15、いのちのことば社