横路孝弘

日本の政治家、弁護士 (1941 - 2023)

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横路 孝弘(よこみち たかひろ、1941年1月3日 - )は、日本政治家衆議院議員(10期)。衆議院議長(73代)。

日本の旗衆議院議員 横路 孝弘
生年月日 (1941-01-03) 1941年1月3日(84歳)
出身地 日本の旗北海道札幌市
出身校 東京大学法学部 卒業
学位・資格 法学士
前職 北海道知事
弁護士
所属委員会 衆議院議長
世襲 2世
父・横路節雄(衆議院議員)
選出選挙区 北海道第1区
当選回数 10回
所属党派 民主党(横路グループ
議長就任により会派離脱中
党役職 -
会館部屋番号 衆・第2議員会館516号室
ウェブサイト 横路孝弘ホームページ
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衆議院議員(日本社会党)を5期務めた後北海道知事(第4代、3期)に転じ、再び衆議院議員に復した。

来歴

生い立ち

北海道札幌市に、父・横路節雄、母・美喜の長男として生まれる。節雄は北教組のリーダーから社会党衆議院議員。美喜は、『日本資本主義発達史』の著者である野呂栄太郎の妹である。

中学時代、交通事故で大怪我を負う(そのため卒業まで4年掛かり、16歳で卒業した)[1]札幌西高校に1年1学期だけ通い転校先の都立九段高校卒業。

東京大学法学部卒。大学在学中から江田五月と親友、社青同学生班で活動。また、在学中1965年24歳で司法試験に合格し、卒業後は司法修習生(20期)、弁護士として全道労協の顧問弁護士などを務めた。

政界入り

1969年父の急死により第32回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。日本社会党の「新しい流れの会」幹事を務めるなど若手の論客としてならし、「社会党のプリンス」とよばれた。

1972年衆議院予算委員会沖縄返還にともなう密約を示した外務省極秘電信を暴露した(情報の取得に違法行為があったとして逮捕者が出た外務省秘密漏洩事件)。

北海道知事として

衆議院で当選連続5回の後、1983年4月の北海道知事選挙に周囲から推される形で立候補。田村正敏率いる勝手連による選挙運動で支持を広げ、自民党新自由クラブ、親友江田も属す社民連などの推す前副知事三上顕一郎らを破って初当選した。69年初当選同期で党派・与野党・保革越え親交有す羽田孜農水相が農水官僚荒井聰に道庁への転勤を命じ1987年2期目も自民党など推薦の松浦昭らを退け、1991年3期目は自民党推薦佐藤静雄に100万票以上の圧倒的大差をつけ当選し前出の荒井を知事室長に起用。革新王国といわれる北海道でも前代未聞の大勝であった。

一村一品運動を推進して地域経済の活性化をはかり、第1回アジア冬季競技大会も招致。しかし、地方博ブームにのって行われた1988年の「世界・食の祭典」では90億円という多額の赤字や関係者の自殺などを招き、道議会で問責決議が行われた。道民の間では「ショックの祭典」などと揶揄された。その他カラ出張問題が社会問題化する等財政 悪化の元凶として強い批判を浴びた事もあった。しかしながら依然として当時の無党派層には人気が高く細川政権時代には次の首相候補として上位に名前が出たこともある。

道議会で、自民党議員の質問に対する答弁で「日の丸国旗君が代国歌」と明言し、出身母体の社会党の方針とは異なる内容だったので話題となった(なお、後に衆議院議員として国旗国歌法の採決では反対票を投じている)。同様に、北海道電力泊原子力発電所についても「行政の継続性」を唱えて、反対をしなかった。また歴代の保守系知事がしなかった自衛隊の三軍司令官との会食を行い[2]、道議会での非核三原則決議案については「国が決めているものを地方で決議することに意味がない」と否定[2]、1984年度予算案については野党自民党の要求740項目をほとんど容れた[2]

その他に、道路建設のために小樽運河を埋め立てるかについても争いがあったが、半分を埋め立て半分を保存するということで決着した。

国政復帰

1995年、3期目の任期満了をもって北海道知事を退任。社会党に復党を求められたがこれに応じず、同年第17回参議院議員通常選挙では東京都選挙区で無所属新人見城美枝子海江田万里と共に支援したが見城は落選。旧民主党結成に参加。1996年10月に行われた衆議院総選挙で北海道1区から旧民主党公認で立候補し当選して国政復帰を果たした。以後、2009年総選挙まで5回連続、小選挙区で当選している。(96年当初同区で戦う予定だった自身と69年初当選同期の新進党党首小沢一郎の甥の新人小野健太郎北海道5区の選挙区変更させ非自民で共闘、小野は5区内で先祖代々まちむら農場経営する現職町村信孝に完敗)

鳩山由紀夫民主党代表に就任時、憲法改正発言を行ったとき辞職を促すなど党内護憲派の代表格。旧社会党系議員を中心にしたグループ、「新政局懇談会」(通称・横路グループ)を率い、民主党内で強い影響力を持つ。一方、改憲論者として知られる小沢との連携には小沢自由党民由合併以前の早くから動いていた。2004年には、小沢との間で日本の安全保障、国際協力の基本原則について合意に達し、国連の警察的機能に積極的に貢献するために別組織を作って国際協力を進めるとともに、自衛隊は国土防衛に徹して海外派遣しないことなどを確認した。

2004年年金未納問題の際に5年8か月間未納であったことが発覚した。

衆議院副議長(2005年 - 2009年)

2005年9月の衆議院総選挙後の第163回国会から衆議院副議長を務めた。

衆議院議長(2009年 - )

2009年8月の総選挙にて民主党が圧勝したことを受けて衆議院議長に就任。衆議院の正副議長を同一人物が歴任するのは原健三郎以来20年振りとなる。また、公選知事経験者の国会議長就任は初めてである。副議長時代から議員指名の際、男性議員は「君付け」、女性議員は「さん付け」と使い分けている[3]。9月17日には衆議院議長として、鈴木宗男事件による賄賂罪で一二審で実刑判決を受けて上告中の鈴木宗男を外務委員長に指名した[4]

2010年9月に鈴木宗男の実刑が確定して失職をしたため、野党を中心に鈴木宗男を衆議院外務委員長に議長として起用した横路に対して責任を追及する声が上がった。

人物

日本民主教育政治連盟に所属しており日本教職員組合を支持基盤としている。

かつてMPD・平和と民主運動呼びかけ人や平成維新の会顧問だったことがある。

北海道知事時代は、前述のとおり、大規模イベントの開催に熱心だったが、現在では、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わる[5]など、大規模公共事業に批判的な立場を取っている[6]

外国人への地方参政権付与に肯定的な立場を見せており[7]、韓国政府から感謝されている[8]

日本麻雀連合会総裁を務めている。

所属議員連盟

略歴

経歴

政歴

関連項目

脚注

  1. ^ その後、2010年3月に大怪我を負った箇所が再び悪化して一時入院。退院後もしばらくの間は車椅子のままで議長席に着き、本会議に臨んでいた(議長席の椅子は扉の片隅にしまう)。その際、議長席階段にスロープが仮設され、数名の衛視に支えながら車椅子を押し上げた。
  2. ^ a b c 高畠通敏『地方の王国』岩波同時代ライブラリー、1997年、89-125ページ。
  3. ^ これに対して、副議長の衛藤征士郎は男女問わず従来の「君」付けで通していることが会議録から確認できる。参議院では、副議長の山東昭子が男女を問わず「さん」付けを用いている。
  4. ^ 賄賂罪で一二審で実刑判決を受けて上告中の刑事被告人が国会常任委員長に就任するのは極めて異例。なお、横路の出身政党の民主党は7年前の2002年6月に衆議院本会議で賄賂罪で鈴木宗男が逮捕された鈴木宗男の議員辞職勧告決議の採決を強硬に主張して可決し、9月には証人喚問における鈴木宗男の3つの証言が偽証として議院証言法違反で告発している。
  5. ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会
  6. ^ 市民が質す公開質問会 民主党代表選全候補者に問う 候補者へのアンケート結果
  7. ^ [1]
  8. ^ 聯合ニュース "国会議長が訪日、「韓日が手を取り世界進出を」" (2010/10/12) [2]

外部リンク

議会
先代
河野洋平
  衆議院議長
第73代:2009年 -
次代
現職
先代
中野寛成
  衆議院副議長
第63代:2005年 - 2009年
次代
衛藤征士郎
公職
先代
堂垣内尚弘
  北海道知事  
民選第10・11・12代:1983年 - 1995年
次代
堀達也
党職
先代
結成
民主党総務会長
初代:1998年 - 1999年
次代
廃止