石母田景頼
石母田 景頼/桑折 景頼(いしもだ かげより/こおり かげより)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。祖は甲斐源氏(武田氏)の流れを組むと伝える伊達家重臣。後に桑折景頼と称す。伊予宇和島藩では筆頭家老(奉行)。
| 時代 | 安土桃山時代から江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 永禄2年(1559年) |
| 死没 | 寛永2年8月12日(1625年9月13日) |
| 別名 | 左衛門(通称)、桑折景頼 |
| 戒名 | 光雲院 |
| 主君 | 伊達輝宗→政宗→秀宗 |
| 藩 | 仙台藩→宇和島藩 |
| 氏族 | 石母田氏→桑折氏 |
| 父母 | 父:石母田光頼、母:桑折景長の娘 |
| 妻 | 桑折宗長の娘 |
| 子 |
娘(沼辺重仲室)、娘(石母田宗頼室) 桑折重長、桑折宗頼 養子:宗頼、桑折定長 |
生涯
永禄2年(1559年)、石母田城で守護代石母田光頼の子として生まれる。伊達輝宗、政宗父子に仕え、多くの戦陣に加わり戦功をたてる。天正18年(1590年)小田原の役の折には二本松城の守備の任にあたった。翌天正19年(1591年)の奥州仕置により政宗が米沢から岩出山に移った時、景頼も伊具郡高倉村荒山城(宮城県角田市)に所替となる。
文禄元年(1592年)、政宗に従い文禄の役に従軍する。従軍中の翌文禄2年(1593年)7月、妻の兄である桑折政長が釜山浦で病死した。政長には嗣子がなく、3歳の娘吉菊1人だけだったため、文禄3年(1594年)正月、政宗の命により景頼の嫡子重長(6歳)が政長の娘吉菊(4歳)に配せられ、桑折家の養嗣子となり桑折重長と称し、桑折家相続を命ぜられる。
文禄4年(1595年)8月、関白豊臣秀次謀反事件に関連し政宗に疑いがかけられ、政宗とその家臣の妻子召し連れ、景頼も京都伏見に上る。そして、政宗家臣19人の連判誓詞文を提出。その後慶長4年(1599年)6月まで京都伏見に人質となる。
同年、政宗の命により、景頼の次女に当時政宗の小姓として仕えていた浦山宗綱を配し、婿養子を命ぜられる。浦山宗綱は石母田宗頼と改称する。宗頼は元は越前朝倉氏家臣の高能正親の3男で、当初は浦山景綱と称し清三郎の通称で小早川秀秋に属していたが(14歳)、謁見したおりに政宗がその父祖の武勇を善とし、秀秋に請い小姓として譲り受けしていた。景綱は宗の字を賜い宗綱と改名した。
慶長5年(1600年)7月、刈田郡白石の役に宗頼と共に従軍する。この時、宗頼は功をあせるあまり城下に近づきすぎ、それを見ていた桑折宗長に鉄砲による危険を諭され、危うく難をのがれることができた。翌慶長6年(1601年)、桑折宗長は老衰になり、孫の重長は幼少(13歳)であったため、景頼は重長の後見を命ぜられ桑折家の陣代となり、桑折景頼と称すこととなった。石母田家は宗頼が家督となり石母田家を継ぐことを命ぜられた。
慶長7年(1602年)頃に次男万蔵が生まれる。後に父と宇和島へ入部、桑折中務宗頼と称した。
慶長15年(1610年)、桑折家を継いでいた重長が22歳で病死する。嫡子国千代はまだ2歳であった。国千代は幼名正二郎、桑折定長となり桑折家を継いでいたが、飯坂の局の懇願により飯坂家を継ぐことを命ぜられ飯坂出雲定長と称し、ここに仙台藩桑折家は廃絶することとなる。
飯坂定長は原田宗輔の妹を妻にしている。妻の祖母は豊臣秀吉の元側室で政宗の側室・香の前である。また、飯坂の局の姉は桑折政長の妻で、吉菊は姪にあたり、飯坂定長はその息子である。
慶長18年(1613年)には国千代の母吉菊が政宗の命により天童重頼へと一人息子を桑折家に残し、再婚命ぜられることとなる。後に2人の娘を産み、1人は伊達宗重の妻となった。
慶長19年(1614年)11月、桑折家の名跡を継いだ景頼は政宗に庶長子の伊達秀宗の後見を命ぜられ、#大坂冬の陣|大坂冬の陣に従軍する。同年12月、大坂冬の陣の和議成立後、政宗は将軍徳川秀忠より伊予宇和郡に領地10万石を与えられることとなった。
慶長20年(元和元年、1615年)3月、秀宗は伊予宇和島藩10万石に封じられ、選抜された56騎の家臣と共に宇和島へ入部する。景頼は政宗に秀宗の後見職を命ぜられ、同年夏に妻と次男の桑折宗頼、娘夫婦(沼辺重仲)ら家臣と共に宇和島に入部し、以後は後見職及び筆頭家老(奉行)として任にあたることとなる。また、同年5月には婿の石母田宗頼が大坂夏の陣に伊達軍に従軍し、道明寺表で戦功をあげている。
元和元年、婿の石母田宗頼が32歳で仙台藩奉行職を命ぜられる。
元和9年(1623年)、秀宗に隠居が認められ、跡目を次男宗頼に継がせ、2年後の寛永2年(1625年)8月12日、宇和島の丸串城で歿す。享年67。法名は光雲院。