シンエイ動画

日本の東京都西東京市にあるアニメ制作会社

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シンエイ動画株式会社(シンエイどうが、英語表記:SHIN-EI ANIMATION Co., Ltd.)は、アニメーションの企画・制作を主な事業内容とする日本の企業である。日本動画協会正会員。

シンエイ動画株式会社
SHIN-EI ANIMATION Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
188-0011
東京都西東京市田無町3丁目9番21号
設立 1976年9月9日(シンエイ動画株式会社として)
業種 情報・通信業
法人番号 9012701002249 ウィキデータを編集
事業内容 アニメーションの企画・制作
代表者 代表取締役会長 楠部三吉郎
代表取締役社長 岩永惠
資本金 100,000,000円
発行済株式総数 160,000株
売上高 3,408百万円(2010年3月期)
従業員数 73名(2010年現在)
決算期 6月
主要株主 株式会社テレビ朝日 100%
関係する人物 楠部大吉郎(創設者)
外部リンク http://www.shin-ei-animation.jp/
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概要

 
シンエイ動画旧社屋。通称「ドラえもんビル」。窓側にはドラえもんが陣取っている。

代表作に、テレビアニメドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『あたしンち』(テレビ朝日系)を中心に、劇場用長編アニメ『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』シリーズがある。また動画工程のみを他のアニメ会社から請け負う事業も行っている。テレビ朝日とは、資本提携関係にある。シンエイ動画は、1965年に設立された有限会社エイプロダクション(通称・Aプロダクション)がその前身である。Aプロダクションは東京ムービーと業務提携し、その制作担当として活動していた。

社名の由来

「シンエイ」の由来は、楠部大吉郎によると、「新生Aプロ」、「しいAプロダクション」という意味であり、新鋭という意味だとは説明していない[1][2]。発足時にシンエイ動画役員を務めた大塚康生も、自身の著書で新生Aプロという意味だと記している[3]。しかし、設立時のメンバーの一人である別紙壮一は新Aという意と新鋭をかけたと証言している[要出典]。公式サイトでは「新しいAプロ=『新A』」、そして「アニメ界の『新鋭』でありたい」と伝えている[4]。新しく作られたロゴタイプは、シンエイの「A」に漫画風の頭と手を付けた、マスコットキャラクターの様なデザインとなっている。このキャラクターの名前は「エーちゃん」である[5]。キャラクターデザインは、大塚康生[6]

沿革

Aプロダクション時代

Aプロダクション(以下Aプロ)の名前の由来は、「最初の文字であるA、エースという意味などで何となくつけた」というのが、創立者・楠部大吉郎の弁である。

テレビアニメの黎明期に、人形劇団出身者によって創立された東京ムービーが、テレビアニメ『ビッグX』で経営危機に陥り、その失敗を踏まえて制作体勢を整えようとした。そこで当時の東京ムービーの社長であった藤岡豊が、東映動画(現・東映アニメーション)から独立したアニメーター、楠部大吉郎に声をかけたのが創立のきっかけだった。そして楠部は、東映動画の新人アニメーターだった芝山努小林治に声をかけ、少し遅れて椛島義夫森下圭介の2人が楠部らに合流して、計5人が創立メンバーとなり、Aプロは渋谷区代々木にその拠点を構えた。

東京ムービーは営業を担当し、Aプロは制作担当として業務提携(資本提携は無し)という形をとった。そして、楠部の弟である楠部三吉郎は東京ムービーに入社し、制作管理スタッフとして兄の大吉郎を支えた。やがて東映動画も劇場長編アニメから新人を中心としたテレビアニメ制作へと方向転換を始めると、東映動画の長編スタッフ、中堅のスタッフが続々とAプロへ移籍して来る。これら移籍組の小山礼司吉田茂承大塚康生宮崎駿高畑勲小田部羊一らと、定期採用で育成された当時の新人、中村英一といったアニメーターや演出家が、東京ムービーの代表作である『オバケのQ太郎』『巨人の星』『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』『ど根性ガエル』『天才バカボン』など、数多くの作品を手掛けた。

作画、演出スタッフの他に美術部門、仕上げ部門も擁して、最盛時にはテレビアニメ5作品の同時制作を誇っていた。しかし、1974年に楠部大吉郎が病気で1年間療養したこと、さらに東京ムービーの藤岡が日本市場への関心を失い、アメリカ市場開拓のために奔走しているうちに、東京ムービー製作作品の本数が減少した。こうした背景と、経営の危機を迎えたことで、実制作のみの体制に限界を感じた楠部は、自社で企画・制作をする会社にする為に、1976年の『元祖天才バカボン』を最後に東京ムービーとの提携を円満解消して独立。こうしてAプロは、1976年9月9日に社名を「シンエイ動画株式会社」に変更、改組した。

シンエイ動画時代

こうして再出発したシンエイ動画は、社屋を田無市(現在の西東京市)北原町へと移転、その際には仕上げ部門を切り離し、作画スタッフも大幅に削減して、経営をスリム化している。このときに独立した作画スタッフが設立したのが亜細亜堂、あにまる屋(現・エクラアニマル、設立は1982年)などのスタジオである。なお、小山礼司が率いた美術部門は、小山が独立した形で早くに廃している。そして東京ムービーに在籍していた楠部三吉郎は、専務取締役としてシンエイ動画へと移籍。兄の大吉郎と共に経営を支えた。又、Aプロからシンエイ動画として独立した記念として、東京ムービーが持っていた『ドラえもん』の映像化権を、藤岡から譲渡されたという逸話がある[3]

東京ムービーから独立後のデビュー作は、PR用の短編映画『草原の子テングリ』(1977年)。しばらくは他社のグロス請けなどをこなしたのち、1979年には事実上の失敗作とされていたテレビアニメ『ドラえもん』を苦心の末、再びアニメ化にこぎ着ける。このシンエイ版『ドラえもん』の成功が、シンエイ動画の経営を支えた。

そして業務拡大のため、1982年には社屋を田無市南町に移転。そして1980年代を中心に数多くの藤子不二雄作品や『月刊コロコロコミック』連載作品などを中心に、次々とアニメ化。これらはテレビ朝日系を中心に放映され話題となった。1992年には田無市本町(現:西東京市田無町)に現在の社屋を新築し移転。この青い塗装のビルは、同社の経営を支えた『ドラえもん』に感謝を込め『ドラえもんビル』という愛称がある。この同年にはテレビアニメ『クレヨンしんちゃん』がスタート。社会現象に至るヒット作となる。2003年1月には、テレビ朝日がシンエイ動画の10%のを引き受け、両社は資本提携する。2009年4月より、テレビ朝日がシンエイ動画の株式の大半を取得し、テレビ朝日の連結子会社になった。[7]。新社長は岩永惠に、楠部三吉郎は代表取締役会長へ就任した。2010年10月15日、楠部三吉郎が保有する株式をテレビ朝日が追加取得したことにより、テレビ朝日の100%子会社となった[8]

2009年11月には旧社屋の北西方向、東京都道5号新宿青梅線旧道(青梅街道)沿いに新社屋を落成。入居を開始した。旧社屋はしばらく空きテナントとなっていたが、2011年から社団福祉法人檸檬会がビルを買い取り、「レイモンドほいくえん」に転用された。

劇場アニメ

シンエイ動画に改組してからの事実上の劇場デビュー作は、1980年3月公開の『ドラえもん のび太の恐竜』である[9]東宝の配給で同時上映は、『モスラ対ゴジラ』だった。東宝の番組ラインとしては、1978年まで学校の休み期間中に上映していたゴジラ映画と短編のテレビアニメ数本を上映する東宝チャンピオンまつりの流れを汲むもので[10]、当初は長編ではない予定だったが、原作者の藤子・F・不二雄から「僕の中では90分ないと映画とは呼べない」という要望を受けてオリジナルの新作長編映画として制作された[11][12]。これが興行的に当たり、好評であったため、以後、短編~中編の藤子作品の併映作と共に、毎年3月の春休み映画として『ドラえもん』の劇場版が上映されるようになった。1980年代に多く行われていた藤子アニメ三本立て興行は、1990年代以降、影を潜めた。しかし、『ザ・ドラえもんズ』といった30分の短編と長編『ドラえもん』のセットは2004年まで続いた。映画『ドラえもん』シリーズは、2005年からのテレビシリーズ全面リニューアルの影響でその年は作られず、2006年から再び上映されるようになった。また、これを機に短編作品は作られなくなった。

『クレヨンしんちゃん』もテレビシリーズがヒットしたため、急遽『クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王』が作られ、1993年夏に映画初登場。これもヒット作となり、1994年以降は毎年春にシリーズ上映されている。

また、1981年夏の『21エモン 宇宙へいらっしゃい!』と『ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ』の同時上映、2003年冬の『あたしンち』は、シリーズ上映の予定があったとされる。前者はシリーズ化されればドラえもんをサブに置き、他の作品をメインに上映する形になる予定であった。

これまでシンエイ動画制作の劇場アニメは、テレビシリーズの映画化が中心だったが、2007年の『河童のクゥと夏休み』(監督・原恵一)は、改組後初めての劇場オリジナル作品となった。

デジタルアニメ(CG)

CGにおいては、比較的早いうちから特殊効果として部分的に使用していた。それまでCGは殆ど外注であったが、1990年代に入ると、堤規至(元アニメーター)を中心にCGI班を立ち上げ、シンエイ動画社内でも制作されるようになった。1990年代後半から始まったアニメ業界のデジタル制作の波が押し寄せる中においても、基本的にはセルアニメでの制作を堅持し続け、デジタルはあくまでも部分的使用に留まっていた。 そして『ジャングルはいつもハレのちグゥ』(2001年)でフルデジタル制作を本格的に開始。その流れに伴って他の作品も2002年以降、デジタルでの制作へと完全に移行した。また、2005年以降は地上デジタル放送対応に伴い、全てのテレビ作品がハイビジョン制作されるようになった。

作品履歴

Aプロダクション時代

テレビシリーズ

※「パーマン」「怪物くん」「ウメ星デンカ」はスタジオ・ゼロと交代で制作。

劇場映画

シンエイ動画時代

/tテレ朝チャンネルの「シンエイアニメシアター」での放映実績のある作品。

テレビシリーズ
TVスペシャル
OVA
Webアニメ
劇場映画
その他
  • 草原の子テングリ (1977年、桜映画社) ※雪印乳業のPR用映画。原案:手塚治虫
  • ドラえもん 勉強部屋のつりぼり (1978年) ※パイロット版。後に特番でテレビ放映。雑誌「ぼくドラえもん」の付録DVDに収録
  • ドラえもん ケンちゃんの冒険 (1981年、全国心身障害児福祉財団)※ホール上映。後に特番でテレビ放映
  • 交通安全だよドラえもん (1981年、防災アニメ
  • 交通安全でござる忍者ハットリくん (1983年、防災アニメ)
  • 交通安全でござる忍者ハットリくん[パートII] (1989年、防災アニメ)
  • エスパー魔美 パイロット版 (198?年) ※予告でいくつかのシーンが使用された
  • 財津和夫「それがボクのおとうさん」 (1997年、NHK「みんなのうた」)
  • いこいーな「西東京市誕生10周年事業のマスコットキャラクター」(西東京市と共同デザイン)

関連人物

アニメーター・演出家


その他


参考資料

  • アニメージュ』(1985年1月号、徳間書店) - Aプロダクション特集。楠部大吉郎インタビュー。
  • 大塚康生『作画汗まみれ 増補改定版』徳間書店、2001年
  • 大塚康生『リトル・ニモの野望』徳間書店、2004年
  • 「楠部大吉郎ロングインタビュー」『キネマ旬報別冊 動画王 Vol.07』キネマ旬報社、1998年
  • 「近藤喜文さんがAプロで過ごした青春時代」『アニメージュ』徳間書店、1998年4月号
  • 大塚康生、森遊机『大塚康生インタビュー アニメーション縦横無尽』実業之日本社、2006年

脚注・出典

  1. ^ 『アニメージュ』1985年1月号、徳間書店。楠部大吉郎インタビューでの本人の証言。
  2. ^ 『アニメージュ』2000年5月号、徳間書店(小黒祐一郎「第19回 渡辺歩」『この人に話を聞きたい アニメプロフェッショナルの仕事 1998-2001』飛鳥新社、東京、2006年、312ページ頁。ISBN 4-87031-758-3 )。シンエイ動画社員の渡辺歩が楠部から説明されたという証言。
  3. ^ a b 『リトル・ニモの野望』p.55。
  4. ^ 会社沿革」 シンエイ動画公式サイト
  5. ^ キクちゃんとオオカミ ブログパーツ シンエイ動画公式サイト
  6. ^ 「草原の子テングリ デラックス版」特典映像インタビュー「「草原の子テングリ」のできるまで」の大塚康生自身による発言。
  7. ^ シンエイ動画株式会社の株式取得による連結子会社化のお知らせ」 テレビ朝日 IRニュース、2008年10月2日
  8. ^ シンエイ動画株式会社の100%子会社化のお知らせ」 テレビ朝日 IRニュース、2010年10月6日
  9. ^ Aプロ時代には東宝チャンピオンまつりで上映された短編の『パンダコパンダ』シリーズがある。シンエイ動画になってからも1977年に21分の『草原の子テングリ』があったが、PR映画であり一般の配給網には乗らなかった。
  10. ^ 「スクリーンにかかったテレビアニメーション 東宝チャンピオンまつり」『キネ旬ムック 動画王 Vol.7』キネマ旬報社、1998年、p131
  11. ^ 白石雅彦編著『平成ゴジラ大全1984~1995』双葉社、2003年、p38
  12. ^ 原恵一、浜野保樹編著『アニメーション監督 原恵一』晶文社、2005年、p31

関連項目

外部リンク