鶴竜力三郎
鶴竜 力三郎(かくりゅう りきさぶろう、1985年8月10日 - )は、モンゴル国ウランバートル出身で井筒部屋所属の現役大相撲力士。本名は、マンガルジャラビーン・アナンド(モンゴル語キリル文字表記:Мангалжалавын Ананд、ラテン文字転写:Mangaljalavyn Anand)、愛称はアナンダ。身長186cm、体重144kg、血液型はA型、趣味はスポーツ観戦。得意手は右四つ、下手投げ。最高位は東関脇(2009年7月場所)。生まれ育ったのはウランバートルだが、取組前の呼び出しでは父親の出身地であるスフバートルを自身の出身地としている。
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![]() 入場する鶴竜関 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 鶴竜 力三郎 | |||
本名 | マンガルジャラビーン・アナンド | |||
愛称 | アナンダ | |||
生年月日 | 1985年8月10日(40歳) | |||
出身 | モンゴル・ウランバートル | |||
身長 | 186cm | |||
体重 | 144kg | |||
BMI | 39.5 | |||
所属部屋 | 井筒部屋 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 西小結 | |||
最高位 | 東関脇 | |||
生涯戦歴 | 336勝293敗4休(56場所) | |||
幕内戦歴 | 196勝190敗4休(26場所) | |||
優勝 | 三段目優勝1回 | |||
賞 | 技能賞5回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 2001年11月場所 | |||
入幕 | 2006年11月場所 | |||
趣味 | スポーツ観戦 | |||
備考 | ||||
2011年2月13日現在 |
四股名の「鶴」は部屋ゆかりの四股名「鶴ヶ嶺」から、「力三郎」は尊敬する井筒部屋の大先輩・寺尾(現錣山)が新十両場所だけ名乗っていたゆかりの四股名「源氏山」の下の名前に由来する。
来歴
大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに滋しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励み、いわゆる優等生であったが、その裕福な家庭環境から、自宅でNHKの相撲中継も視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志し、花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。しかし諦念しきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の時田一弘会長宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、井筒親方(関脇・逆鉾)に諮って井筒部屋に入門させ、2001年5月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った。
着実に番付を上げて行ったが、なかなか体重が増えず、三段目の下位で苦労した時期もあった。しかし、徐々に体重も増え、三段目の上位でも勝ち越せるようになり2004年7月場所に7戦全勝で三段目優勝を果たし、翌9月場所は一気に幕下14枚目まで番付を上げた。1度は跳ね返されたものの同年11月場所から6場所連続勝ち越しを続け、2005年9月場所では幕下東5枚目で5勝2敗という微妙な成績ながら11月場所には十両に昇進した。しかし十両では軽量が災いしたか成績が伸びず、1場所で幕下に陥落した。翌2006年1月場所に東幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越し、十両に戻った3月場所は3勝6敗から6連勝、9勝6敗と関取として初の勝ち越しを果たした。
その後は勝ち越しを続け、2006年9月場所では西十両筆頭で9勝を挙げ、翌11月場所には新入幕を果たした。この際、同様の地位・成績では極めて異例の東8枚目まで昇進し、その後も勝ち越して西前頭2枚目まで番付を上げた。新十両以来二桁勝利は長らく無かったが、2008年1月場所では11勝を挙げ、初の技能賞を獲得した。2008年9月場所から出身地を父の出身地であるスフバートルに変更した。
2009年3月場所は西前頭筆頭。この場所は、7日目まで2勝5敗だったが、中日から8連勝で10勝5敗を挙げて、3大関を破るなど2度目の技能賞を受賞。翌5月場所は新小結に昇進。この場所は、3月場所と同様に2勝5敗とかなり苦戦したが中日から7連勝して最終的に9勝6敗で終わり、3月場所に引き続き2場所連続で3度目の技能賞を受賞した。翌7月場所は新関脇に昇進したものの5勝10敗と負け越して1場所で平幕へ陥落した。翌9月場所では11勝4敗と好成績を挙げて4度目の技能賞を受賞した。翌11月場所は西関脇に復帰したものの、7勝8敗で負け越しとなってしまった。
2010年に入り、平幕に陥落した後も2場所連続で負け越し調子を取り戻せないでいたが、7月場所で初日から8連勝し、中日には大関琴欧洲を破るなどの活躍を見せた。結果11勝4敗で3場所ぶりの勝ち越し、5場所ぶりの二桁勝利を記録し、5度目の技能賞を受賞した。
2011年5月技量審査場所では西小結の位置で、13勝2敗で優勝した横綱・白鵬に次ぐ成績の12勝3敗という自身最高の成績を挙げて6度目の技能賞を受賞した。翌7月場所では3大関を破る活躍を見せて西関脇(2枚目)の位置で10勝5敗と、三役で2場所連続の二桁勝利を挙げた。
エピソード
主な成績
2011年1月場所終了現在
通算成績
- 通算成績:336勝293敗4休(56場所)
- 幕内成績:196勝190敗4休
- 幕内在位:26場所
- 三役在位:7場所(関脇3場所、小結4場所)
各段優勝
- 三段目優勝:1回(2004年7月場所)
三賞・金星
- 三賞:5回
- 技能賞:5回(2008年1月場所、2009年3月場所、2009年5月場所、2009年9月場所、2010年7月場所)
- 金星:なし
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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2001年 (平成13年) |
x | x | x | x | x | (前相撲) |
2002年 (平成14年) |
西序ノ口32枚目 5–2 |
西序二段97枚目 4–3 |
東序二段74枚目 5–2 |
西序二段32枚目 6–1 |
東三段目70枚目 5–2 |
西三段目40枚目 1–6 |
2003年 (平成15年) |
西三段目76枚目 2–5 |
東序二段4枚目 4–3 |
東三段目87枚目 3–4 |
東序二段5枚目 5–2 |
西三段目70枚目 3–4 |
西三段目86枚目 6–1 |
2004年 (平成16年) |
東三段目25枚目 4–3 |
西三段目13枚目 4–3 |
東三段目3枚目 3–4 |
西三段目17枚目 7–0 |
西幕下14枚目 1–6 |
西幕下35枚目 4–3 |
2005年 (平成17年) |
西幕下27枚目 4–3 |
西幕下21枚目 5–2 |
西幕下12枚目 4–3 |
西幕下7枚目 4–3 |
東幕下5枚目 5–2 |
西十両14枚目 5–10 |
2006年 (平成18年) |
東幕下3枚目 5–2 |
西十両11枚目 9–6 |
西十両8枚目 9–6 |
東十両4枚目 9–6 |
西十両筆頭 9–6 |
西前頭8枚目 8–7 |
2007年 (平成19年) |
東前頭8枚目 6–9 |
西前頭11枚目 9–6 |
西前頭5枚目 6–9 |
東前頭8枚目 9–6 |
西前頭2枚目 7–8 |
東前頭3枚目 4–11 |
2008年 (平成20年) |
東前頭8枚目 11–4 技 |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 8–7 |
東前頭5枚目 7–8 |
東前頭6枚目 5–6–4 |
2009年 (平成21年) |
西前頭8枚目 9–6 |
西前頭筆頭 10–5 技 |
東小結 9–6 技 |
東関脇 5–10 |
西前頭3枚目 11–4 技 |
西関脇 7–8 |
2010年 (平成22年) |
西小結 7–8 |
東前頭筆頭 6–9 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭6枚目 11–4 技 |
西小結 9–6 |
西関脇 7–8 |
2011年 (平成23年) |
西小結 8–7 |
八百長問題 により中止 |
東小結 12–3 技 |
西関脇2 10–5 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
関連項目
脚注
- ^ 「モンゴルのインテリ鶴竜4連勝/秋場所」日刊スポーツ2009年9月17日紙面から
- ^ “Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年9月24日閲覧。