織田信長

日本の武将

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織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名三英傑の1人。

 
織田信長
愛知県豊田市長興寺蔵 紙本著色織田信長像[1]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文3年5月12日1534年6月23日[2]
天文3年5月28日[3]など諸説あり。
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
改名 吉法師(幼名)、信長
別名 通称:三郎、上総守、上総介
渾名:第六天魔王[4]、大うつけ、赤鬼
神号 建勲
戒名 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
天徳院殿龍厳雲公大居士[5]
墓所 本能寺大徳寺総見院妙心寺玉鳳院
阿弥陀寺
官位 従五位下弾正少忠正四位下・弾正大弼
従三位参議権大納言右近衛大将
正三位内大臣従二位右大臣正二位
従一位太政大臣、贈正一位
主君 織田信友斯波義銀足利義昭
氏族 織田氏
父母 父:織田信秀、母:土田御前
兄弟 信広信長信勝信包信治信時
信興秀孝秀成信照長益長利
お犬の方お市の方
正室:濃姫
側室:生駒吉乃お鍋の方原田直子
信忠信雄信孝
下記を参照。
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尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀嫡男[6]

室町幕府を滅ぼし、織田政権を確立。豊臣秀吉による豊臣政権徳川家康が開いた江戸幕府へと続く戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の1人であり、強力な中央政権の基礎を築いた人物。

生涯

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国戦国大名織田信秀の次男として、那古野城[7]勝幡城説もある[8])で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名斯波氏被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。

天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという[9]

天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ[10]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一・上洛

当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却した。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長に渡された。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成佐久間盛重佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

道三の死去を好機と見た信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わり、信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。直接手を下したのは河尻秀隆とされている[11]

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長は尾張の国主となった。

永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

桶狭間の戦いから清洲同盟へ

 
桶狭間古戦場、伝説の地
(愛知県豊明市
 
織田信長 銅像
(愛知県清須市、清洲公園)

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻。駿河遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞敦盛』を舞った後[12]、昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)を食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略と天下布武

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江国浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。

永禄9年(1566年)には美濃国の要所である加治田城(佐藤忠能)や加治田衆を味方にし(後に信長の近親、斎藤利治を忠能の養子とした)、中濃の諸城(鵜沼城猿啄城堂洞城関城)を堂洞合戦関・加治田合戦において手に入れ、さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[13]

同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており[14]、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日には、正親町天皇より綸旨を与えられ。上洛の正当性を獲得する[15]

上洛と将軍擁立

 
織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)旗印

中央幕府の情勢

中央では、永禄8年(1565年)、かねてを中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

武田氏との外交

美濃国において領国を接する甲斐国武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

足利義昭上洛の警護

永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した[16]

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。

永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた[17]。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長はに2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。

伊勢侵攻と北畠家簒奪

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長はその日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻、北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲、篭城戦の末10月3日に和睦し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網

 
1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係であった。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし、盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で盟友であった浅井氏に背後を突かれた。挟撃され窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍は、殿を務めた池田勝正・明智光秀木下秀吉・徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。

同年6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど[18]苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に反旗を翻し挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。織田軍は劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した[19]。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。このとき信長は義景に対し「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったという[20]

第二次信長包囲網

 
『織田信長 図像』
兵庫県氷上町 所蔵

元亀2年(1571年)、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると三河国の家康や相模国後北条氏越後国上杉氏と敵対していたが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われた[21]

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継富田長繁毛屋猪介戸田与次郞らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。11月、東美濃の国衆遠山氏は織田・武田の両属関係にあったが、遠山氏の岩村城が攻められるなか、当主の遠山景任が病死する。家督を巡って信長が軍事介入すると遠山氏は武田方に帰属し、武田・織田間の対立が顕在化する[22]

また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。3月25日に信長は三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけたが、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死し、武田軍は甲斐国へ帰国した[23]

室町幕府滅亡と「天下」の継承

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した[24]。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた[25]

天正元年(1573年)8月、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し、長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

9月24日、信長は尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は滝川一益らの活躍で半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、林通政が討死した。

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで義継は11月16日に自害し、三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆の制圧

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された[26]

7月、信長は3万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥る。織田軍の猛攻で大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。

翌天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

長篠の戦い

信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃を行わせるなどし[27]、武田軍に圧勝する[28]

越前侵攻

この頃、前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された[29][30]。越前国は再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた[31]

右近衛大将就任および安土城築城

 
安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県近江八幡市安土町

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に叙任される、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任する。この就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。同日、嫡子の信忠は秋田城介鎮守府将軍になるための前官)に叙任する。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。

11月28日、信長は1週間前に東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する[32]。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

信長は4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した(天王寺砦の戦い)。

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化し[33]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。

天正5年(1577年)2月、信長は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)するが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ[34]、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では織田軍の柴田勝家が、加賀国手取川を越えて焼き討ちを行っている。

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず亀山城・籾井城笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻[35]。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立ったが、天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子上杉景勝上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし織田軍は斎藤利治を総大将に、越中国に侵攻(月岡野の戦い)。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団の編成

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称し[36]、または信長軍・信長機動隊ともいう[37]

尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた[38]。既に織田家には直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

中国侵攻

天正6年(1578年)3月、播磨国別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、また毛利軍が、同年7月、上月城を攻略し、信長の命により放置された山中幸盛尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力の一人であり東摂津に所領を持つ中川清秀高山右近は村重にはつかなかった。

同年11月6日、信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。

天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

11月、信長は織田家の二条の京屋敷(本邸)皇太子である誠仁親王を住まわせることを思いつき、直ちに実行した。

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じた。表向きの理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた(ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。詳細は松平信康#信康自刃事件についてを参照)。また伊勢国の出城構築を伊賀国国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃えと高野山包囲

天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[39]。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。

同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せる。『信長公記』によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、『高野春秋』では荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

武田征伐

天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直飛騨国から金森長近木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国松尾城主・小笠原信嶺江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。

信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。

武田氏滅亡後、信長は戦後処理として「武田狩り」を命じた[40][41][42]。また駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。

本能寺の変

 
『本能寺焼討之図』 楊斎延一(ようさい のぶかず)画(明治時代作成の武者絵名古屋市所蔵)

天正10年(1582年)夏、信長は四国長宗我部元親攻略に、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

3月11日、北陸方面では柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた、としている[43]

5月29日、信長は中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。この際に光秀は部下の信長に寄せる忠誠の篤きを考慮し、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたと言われる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自らを手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという別説がある。また信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明となっている。

平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。

年表

和暦 西暦[44] 月日[44] 内容 出典 年齢
天文3年 1534年 5月12日 那古野城で生誕(勝幡城とも)。 1歳
天文4年 1535年 那古野城主となる。 2歳
天文15年 1546年 元服。三郎信長を名乗る。 13歳
天文18年 1549年 2月24日 濃姫と結婚。 16歳
上総介を称する。
天文20年 1551年 父・信秀の死亡により家督相続。 18歳
天文23年 1554年 本拠を清洲城に移転。 21歳
弘治3年 1557年 11月2日 弟・信勝(信行)を暗殺。 24歳
永禄2年 1559年 2月2日 初上洛、将軍足利義輝と面会。 26歳
永禄3年 1560年 5月19日 桶狭間の戦い今川義元を討つ。 27歳
永禄6年 1563年 本拠を小牧城に移転。 30歳
永禄9年 1566年 尾張守を称する。 33歳
永禄10年 1567年 8月15日 本拠を岐阜城に移転。 34歳
永禄11年 1568年 10月18日 上洛、足利義昭を第15代将軍に就任させる。 35歳
10月28日 従五位下弾正少忠 系図纂要
元亀元年 1570年 3月14日 正四位下弾正大弼 系図纂要 37歳
12月13日 勅命により、浅井氏朝倉氏六角氏と和睦。
天正元年 1573年 4月7日 勅命により、将軍義昭と和睦。 40歳
天正2年 1574年 3月18日 従三位参議
※『歴名土代』では天正2年3月18日に従五位下に叙位。同日、昇殿と記載。
公卿補任 41歳
3月28日 勅許を奉じ、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。
天正3年 1575年 11月4日 権大納言 公卿補任 42歳
11月7日 右近衛大将兼任 公卿補任
11月28日 織田家の家督を嫡男・信忠に譲渡。
天正4年 1576年 本拠を安土城に移転。 43歳
11月13日 正三位 公卿補任
11月21日 内大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正5年 1577年 11月16日 従二位 公卿補任 44歳
11月20日 右大臣。右近衛大将兼任。 公卿補任
天正6年 1578年 1月6日 正二位 公卿補任 45歳
4月9日 右大臣、右近衛大将両官辞任(織田家の嗣子信忠は引き続き従三位左近衛中将)。 公卿補任
天正8年 1580年 3月5日 勅命により、本願寺との講和が成立。 47歳
天正9年 1581年 2月28日 京都内裏東にて京都御馬揃えを行う。 48歳
天正10年 1582年 6月2日 本能寺の変、自刃。 49歳
10月9日 従一位太政大臣を贈位贈官。 大徳寺文書
大正6年 1917年 11月17日 正一位を贈位。

人物

人柄

  • 「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」 という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく松浦静山『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である[45]。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
  • フロイスは信長の人物像を非常に詳細に記している。「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦雲が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」
  • 尾張の僧侶・天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます[12]。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。(信長公記)
  • 天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
  • 信長公記』によれば、浅井久政長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨金箔を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、実際には使用していないらしい(そもそも信長自身は酒を好まなかったという)。髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。
  • 弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、身内にも厳しいともされる。一方、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配している。叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する(比叡山焼き討ち長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚いともされる。
  • 非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
  • 世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していた(京都公家の日記などから)。
  • 長女の徳姫を除くと生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたという見方もある。
  • 尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
  • 『信長公記』に次の様な逸話がある。美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ヶ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と言った。人々は感涙したという。
  • 荒木村重の説得に向かった黒田孝高(官兵衛)が帰還せず同時期に孝高の主君・小寺政職が離反したために同調して裏切ったと判断し、息子・松壽丸(後の黒田長政)の処刑命令を出したものの、後に孝高が牢に監禁されていた事が判明した時には「官兵衛に合せる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後、松壽丸が竹中重治に匿われていた事が分かった時には狂喜し、重治の命令違反を不問にした。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。

苛烈と云われる所業

  • 赤ん坊の頃は非常に癇が強く、何人もの乳母乳房を噛み切ったという逸話がある。家中では乳母捜しに大変苦労したという。なお「生まれた時から歯が生えていた」といった説話は、偉人伝でしばしば見られる。
  • 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。新井白石は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『御湯殿上日記』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。
  • 茶坊主に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。
  • 元亀元年(1570年)5月6日、杉谷善住坊という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、天正元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製ので首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科した。これは信長だけでなく、秀吉が女房衆の1人に[46]徳川家康も家臣の大賀弥四郎に対して行っており、江戸時代公事方御定書には極刑の一つとして紹介されている(鋸挽き)。
  • 天正2年(1574年)の長島一向一揆で、信長が長島城の一揆衆を「偽装和睦で」討った、とする書籍があるが、これは誤訳である。[47]
  • 天正6年(1578年)、畿内高野聖1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。
  • 天正6年(1578年)12月13日、尼崎近くの七松で、謀反を起こした荒木村重の一族郎党の婦女子122人を、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『信長公記』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
  • 天正10年(1582年)4月10日、信長は琵琶湖竹生島参詣のために安土城を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは[48]桑実寺に参詣に行ったり、城下町で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が本能寺の変以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『信長公記』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処した後、そのうち1人か2人は寺に逃げ込んだので、彼女らを受け入れた寺の僧侶らは殺された」とある。[49]
  • 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである(例えば当の比叡山延暦寺も、本願寺を焼き討ちするなどの行動をしている)。
  • 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。豊臣秀吉が天正5年(1577年)に、毛利氏への見せしめとして、備前国美作国播磨国の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は串刺し、女は)した行為[50]武田信玄上杉謙信等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を奴隷として売却すること(ルイス・ソテロ等の日記)や敵方の女性を競売にかけたり(小田井原の戦い)といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。

交友関係

  • 身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。お盆では安土城の至る所に明かりをつけ、城下町の住人の目を楽しませるといった行動から、祭り好きでもあったようである。
  • 上洛以来、朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから、公家とも親交が深かった。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、鷹狩りという趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。
  • 側室は権力の強大さに比べ少ないが、数多くの子をなしている。
  • 戦国武将に両性愛者が多いという説により信長もそうだと見られがちだが、直接的証拠は無い。主に森成利(蘭丸)の逸話によるが、元々織田家は譜代の武将の子を年少より付随させ家臣団の結束を図っていたので、森成利が特別な訳ではない。森成利の親である森可成は信長がもっとも苦戦した時期に戦死しているので、その息子に目をかけていても不思議ではなく、それ以上の関係は証明されていない。後の史料である加賀藩編纂『亜相公御夜話』では、前田利家との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている。

南蛮への関心

  • 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていた。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付け側近にした。
  • イエズス会の献上した地球儀時計地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年(天正13年)であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
  • ルイス・フロイスに南蛮の目覚まし時計を献上された際は、扱いや修理が難しかろうという理由で残念そうに返したという。

文化への関心

  • 囲碁名人という言葉は信長発祥と言われている)・幸若舞を好み、猿楽)を嫌った。幸若舞『敦盛』の「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎。」という一節をよく舞った。[12]
  • 大の相撲好きで、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していた。相撲大会は武士・庶民の身分を問わず参加が可能で、庶民であっても成績の優秀な者は褒美を与えられ、また織田家の家来として正式に採用されることもあったという。また信長は土俵の原型を作ったともいう。
  • 和歌の教養もあり、上京した際にある公家から試され上の句を詠まれた時、即座に下の句を詠んで周囲を感嘆させたほどで、公家との交流に大いに役立った。
  • 茶の湯にも大きな関心を示した。これについて、堺の商人との交渉を有利にするため、茶器を家臣の恩賞として利用するためという説があるが、信忠に家督を譲った際に茶器だけを持って家臣の家に移っている[51]ことから、純粋に好んでいたようである。
  • 三好義継が敗死したとき、坪内某という三好家の料理人が織田家の捕虜となった。信長は坪内に対して料理を命じ、「料理がうまければお前を赦免し、織田家の料理人として雇う」と約束した。翌日、坪内が作った料理を信長が食した時、「料理が水っぽい」として怒り、坪内を処刑しようとした。しかし坪内はもう一度だけ機会が欲しいと頼んだ。二度目に出された料理を信長は褒め、坪内の採用を決めたという。後に、坪内が他の家臣から「最初から二度目の料理を出していたら良かったのではないか」と訊ねられると、坪内は「私は最初、京風の上品な薄味の料理を作ったのですが、信長公はこれを少しもお気に召さなかったので、次に濃い味付けの田舎料理を作ったところ、今度は大層お気に召されました。しょせん信長公は京風の上品な味が分からない田舎者ということですよ」と答えた[52]。ただし、この時期にはすでに信長が上洛して何年も経っていたため、当時の信長が京風の味付けを全く知らなかったかは疑問が残る。むしろ医学的に見れば、武士である信長は若い頃から戦場で多くの汗を流し、平時にも武術の訓練を欠かさなかったため、体力をほとんど使わない京の公家よりも多くの塩分を必要とする体質になっており、必然的に味付けの濃い料理を好む傾向が強かったとも考えられる。
  • 信長は、仮に本能寺の変が起こらなくても塩分の摂り過ぎによる脳溢血心筋梗塞によって早期に死亡していた可能性が高いとする説もある。。信長は普段、「あつめ汁」と呼ばれる味噌汁の一種や「大根のふと煮」などといった庶民的な料理を好んで食したが[要出典]、これらには塩や尾張産八丁味噌が多量に使われていて、「あつめ汁」の塩分濃度は普通の味噌汁の2倍以上も高いなどの特徴があり、信長の1日の塩分の摂取量は約50g(通常の成人男性の理想摂取量は1日10g以下)にも達していたという[53]。ただし、個人の塩分摂取量はその人物の体質や生活、また時代によってヒトの体質も変わるので、適量が異なり、確定的には判定しがたい。

肖像画

 
イエズス会の画家ジョヴァンニ・ニッコロen)による信長の肖像画1583- 1590年頃作成)
  • 信長の肖像画としては、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)[54]、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像[55]、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)などが、信長の肖像画として伝えられている。
  • このほか、ヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画が描かれていたともされるが[56]太平洋戦争時の空襲により焼失している。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた(ひげ)などが特徴である。ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けは無い。
  • 青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で[57]、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。

政策

天下布武

 

訓読すれば「天下に武を布(し)く」となり、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印章を用いている。「武力を以て天下を取る」と解釈し、天下統一の意志を示すものとして理解される。「武家の政権を以て天下を支配する」と解釈することも多い。一方で、中世後期において「天下」とは室町将軍の管轄する畿内の領域を意味し、畿内領域のみの支配を意図したとする説もある。

宗教政策

  • 宗門は法華宗を公称していたが、一向一揆や延暦寺に対する政策や、安土城の石垣に地蔵仏や墓石を用いたこと、ルイス・フロイスの記載などから唯物論的思考法を身に付け、当時の僧侶についてはその横暴を非難し、キリスト教の宣教師を誉め、神仏の存在や霊魂の不滅を信じることはなかったとされる。ただし、織田信長が仏教勢力に対して厳しい姿勢で臨んだとする史料のほとんどは、仏教勢力と対立関係にあったイエズス会のものであることに注意する必要がある。さらに、信長が一向一揆を滅ぼそうとしたとする史観は、江戸時代に本願寺教団によって流布されたものであるとの研究もある。
  • また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教道教儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。
  • あるキリシタンの家臣(馬廻)が愛人と同居している事を知ると、教えに従っていない事を指摘し、宣教師たちが彼を咎めた事を知ると非常に喜んだ。この家臣が再び愛人と同棲すると、俸禄を没収し追放した。(フロイス日本史)
  • 安土城内に信長に代わる「梵山」と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝するよう言ったと伝えられる(『日本史』)。この自己神格化については、朝廷(天照大御神)と仏教勢力への対抗や、後に家康が自分を東照大権現として祀らせている事との関連など学説が数ある一方、フロイスの記述は信長死後で、フロイス以外の史料に見ることができないため、信憑性について疑問視する説もある。

朝廷政策

信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人立花京子らが本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど論争が活発になっている[58]谷口克広は、各説を以下のように分類している[59]

以下、論点と双方の説について述べる[60]

正親町天皇の譲位問題

天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。

  • 対立説(朝尾、今谷、奥野、藤木ら)の解釈では、信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立したとされる。また朝尾は、誠仁親王への譲位と足利義尋足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶したとみている。
  • 融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、天皇が譲位を希望しながら、信長の経済的事情により実現しなかったとみる。これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった[61]。天皇の譲位は、信長の経済的助成によりはじめて可能となる。天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。

天正9年京都御馬揃え

信長が天正9年(1581年)に行った京都御馬揃えについて、

  • 対立説(朝尾、今谷、立花、藤木ら)では、織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であったとされる。朝尾、今谷らは、譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力とみ、立花は左大臣推任への圧力とする。
  • 融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには太閤近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があったとする。橋本は、織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するためとし、堀は誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、信長が安土城で行わせた大規模な左義長を再現したとみる。

信長と官職(三職推任問題)

信長は尾張時代には上総介を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って官を得た父信秀とは対照的である。信長は、将軍義昭の追放後、天正2年に参議に任官、のち従二位右大臣に昇進。しかし天正6年に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。

天正10年(1582年)5月、武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代・村井貞勝の間で信長の任官について話し合いが持たれた。この際、信長が征夷大将軍太政大臣関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって論争がある(三職推任問題)。信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長の本心は不明である。

信長の官位奏請
信長の家臣のうちで正式に叙位任官された者はそれほど多くなく、修理亮(柴田勝家)や筑前守(羽柴秀吉)など従五位前後のものに留まった。また一族でも嫡子・信忠は従三位近衛中将まで昇ったが、その他の者の官位も高くはなかった。一方で、徳川家康佐竹義重といった同盟大名や家臣への官位奏請も行っている。

その他関連史料

  • 正親町天皇はある時、信長に対して左義長(火祭り)を共に見物することを誘った。「お湯殿の上の日記
  • 正親町天皇は信長が行った馬揃えを照覧し、「今度のことは筆にも言葉にも尽くしがたく唐の国にもないでしょう」と仰せになり、信長は「忝ない」と御礼を言上した。この時、天皇の皇子誠仁親王は、女房衆に紛れ、御忍びで馬揃えを見物した。「立入左京亮入道隆佐記
  • 誠仁親王は信長が死んだ際、自分はどうするべきか(信長の後を追って)切腹するべきかどうかを、明智光秀に質問した。「フロイス日本史
  • 誠仁親王の子、後陽成天皇は、直筆で総見院(信長の法名)と書いた額を、信長を弔う仏殿に恩賜した。「阿弥陀寺由緒之記録
  • 内裏で長年、御蔵職を務めた立入家は、その功績を評価しない徳川将軍に対し、「かつて信長公は、我家の天皇家への忠勤を高く評価して下された」と記し、不満を訴えた。「立入家文書」 

商業政策

商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要な関所を撤廃して経済と流通を活性化させた(当時は寺社も関所を持って税金を取り立てており、これが仏教勢力との対立にもつながっていると思われる)。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。

人事政策

  • 基本的に他家と比較して重臣の権限や裁量余地が大きい。柔軟であると同時に体制・統治に関する成文が非常に少なく一面では杜撰とも言える。
  • 能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。しかし、佐久間信盛には19ヶ条の折檻状を出し、それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。
  • 佐久間信盛や林秀貞ら譜代家臣および安藤守就の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。
  • 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった「名器と称される茶道具」を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある(従来なら、土地の加増のほうが茶器よりもはるかに価値のあることのはずである)。
  • 宣教師と共にやってきた外国兵を受け入れ、能力の優れている者は出身を問わず自らの兵として登用していた。また、前記の通り誰でも参加できる相撲大会をたびたび開催し、武士・庶民の身分に関係なく成績の優秀な者を織田家の家来として登用していた。
  • 人事においては厳しい一面があったとされるが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せているところがある。また、彼が追放した佐久間信盛・信栄に関しては、信盛の死後、信栄の帰参を許したことから、信栄が反省したと判断したのかは不明だがその動向を気にしてはいたようである。
  • 信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森成利(蘭丸)といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中重治黒田孝高は信長の家臣だったが、実際には秀吉の寄騎であり実質的には陪臣であった。考高は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういった者がいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因の一つとも言われている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。ちなみに、日本においては軍師自体存在していない(中国の制度である)ので、竹中重治が軍師であったというのは後世の創作であり、正確な役割としては参謀だったと思われる。
  • 戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は、信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背いた者はほとんど見受けられない。
  • 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。その上、信長は存命中、勝家に対し越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。
  • 二条城築城のとき、信長は自ら工事現場の監督を担当していた。このとき、人夫が女性にちょっかいを出していたのを見て、有無を言わさず首を刎ねたという(ルイス・フロイスの『日本史』)。
  • 永禄6年(1563年)7月、信長は突然、居城と家臣の屋敷を二宮山に移すと宣言した。大半の家臣はいきなりの命令であり、しかも山深い山間部への移転であったから不満を抱いたが、信長は「お前の屋敷はここ」と次々と決めていってしまった。だがそれから数日後、信長は家臣に改めて居城を小牧山に移すと宣言した。家臣団は小牧山なら二宮山ほど山間でなく清洲にも近かったため、大喜びして賛意を示したという。小牧山も当時は犬山城の織田信清と対立していたために反対意見もあったが、信長はこうすることで反対意見を巧みに封じたのである(信長公記)。

戦略

  • 戦略としては、入念な準備を行い相手の力を削ぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、桶狭間の戦いに代表されるような敵の意表をつき寡兵で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を警戒した武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応し、贈り物を欠かさないなど外交的に下手に出ることも忘れなかった。信玄・謙信も信長へは単独では挑まず、周囲と協力して当たった。しかし、後述のように時には寡兵による戦闘を行っており、時機を考慮し遅れた援軍を待たずに交戦するなど臨機応変に対応している。
  • よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで、武田征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。
  • 個人的な武勇にも優れていたと言われる。桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは大将でありながら自らが先頭に立って、奮戦しているほどである。大名自身が最前線に立って戦うことは異例であった。
  • 信長の軍団は機動力に優れており、例えば六条合戦では、本来なら3日はかかる距離を2日で(しかも豪雪の中を)踏破し、摂津に対陣している間に浅井・朝倉連合軍が京都に近づいた際にも、急いで帰還して京都を守り抜いている。部下の秀吉も、いわゆる「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いなどで高い機動力を見せている。

内政

  • 敵大名や一揆衆や自らの配下には苛烈であった信長だが、地味な内政や民心掌握に敏腕を発揮しており、信長が支配下に置いた尾張・美濃などの多くは信長によって終生、善政が敷かれていた。桶狭間の戦いにおいても信長が勝利することができたのは、領民の支持があったからだとされている。相次ぐ戦乱で荒廃した京都の町人たちも、銭一文でも掠奪した者は斬首する(一銭切り)といった厳正な信長の統治に対しては歓迎したという。織田軍の足軽が道を行き交う女性に絡んでいるのを見かけた信長が、京都の治安を乱す行為をしたとして自身で手討ちにしたという挿話もある。また、本能寺の変の後に、明智光秀についた国人層が少なかったことも、これを裏付けている。
  • 楽市楽座は信長が最初に行なった施策と言われることが多いが、実際には近江南部の戦国大名であった六角定頼(信長に滅ぼされた六角義賢の父)が最初に行なった施策である。しかし信長も、楽市楽座を大規模な施策とし、さらに琵琶湖などを中心とした流通による商業発展を目指すなど、やはり先見性のある内政を行なっていたと言える(流通による商業政策が重視され始めたのは江戸時代後期であり、それまでは年貢が重視されていた)。
  • 道を整備し道標代わりに一里毎に木を植える(一里塚)などといった街道整備を手掛けている。これにより、自軍の行軍速度が速くなり、関所の撤廃と合わさって様々な地から人の往来がしやすくなり、商業が活性化するといった効果をあげた(他国では、敵の行軍速度も速くなるという短所もあったのでなされなかった)。
  • 信長が公認した枡のそれぞれに焼印や花押を押すことによる単位の統合、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令したりと、社会・経済の基盤を安定させる政策を行った。

実現されなかった計画・構想

信長が構想していた計画・予定が、関連諸史料から読み取ることができる。

中国・九州平定計画
天正10年(1582年)5月17日に羽柴秀吉の援軍要請に応じて明智光秀や池田恒興、高山重友、中川清秀ら畿内の諸大名に動員令を出し、中国の毛利氏、九州の大名も屈服させる予定でいた[62]
四国平定計画
三男の信孝を三好康長の養子にして四国に渡海させようとしていた[63]。5月7日付の信長の朱印状には、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えようとしていた。伊予国土佐国に関しては、信長は四国平定後に戦後処理として淡路まで赴き、その際に残り2カ国の仕置も決める予定であった[64]
大陸侵攻計画
信長は日本を統一した後、対外出兵を行なう構想を持っていた。フロイスによれば信長は「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考え[65]」を持っていた。なお堀杏庵『朝鮮征伐記』では、秀吉が信長に中国・朝鮮方面への出兵を述べたと記されている。
その他
  • 信長は本能寺の変のほぼ1ヶ月前に征夷大将軍太政大臣関白の三職推任を受けている(三職推任問題)が、フロイスは「予(信長)がいる処では、汝等(イエズス会宣教師ら)は他人の寵を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏(=天皇)である」と記述しており、信長は足利義満のように自ら天皇になろうとしていたのではないかと見られる記述がある。

後世の評価

死後、約50年経過した頃の評価としては、

  • 「信長は勝って兜の緒を締める方で、余勢で一気に押さない方だった」「信長の因果は即座に現れ、岩村の城衆や甲州の高僧を焼殺したすぐ後に、自らも焼殺された」(大久保忠教三河物語』)
  • 「信長は(光秀に)城を与えたら首を切られた」「与えれば破られる(裏切られる)ことを信長は知らなかった」(竹中重門[66]
  • 「信長卿は非常に義理堅い人だった」(神戸良政[67]

などがある。

江戸時代においては小瀬甫庵の『信長記』によって知られたが、『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉に比べると、庶民の間での評価はそれほど高くなかった。明治以降は信長が行った御料所回復等の事蹟が勤皇家としての評価につながり、明治2年(1869年)に明治政府は織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が東京の自邸内と、藩内にある舞鶴山に織田信長を祀る社を建立した。この時信長を祀る社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治13年(1880年)には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された[68]

戦後になると、信長の政治面での事蹟が評価され、改革者としてのイメージが強まった。またルイス・フロイスが記した『日本史』の研究が進み、比叡山焼き討ちや自己を神とする行動や「(信長が)自ら手紙に第六天魔王と記した」[4]という記述から「無神論者」、「破壊者」といったイメージが生まれ、1990年代には軍事・政治面で西洋に先駆けた発想が見られた事などが指摘され、そこから、信長がさらに存命すれば世界史的にも多大な影響があったのではないかという見方が生じ、その設定を利用したフィクション作品が数多く生まれている。 後の天下人である秀吉・家康が信長の臣下[69]であったことからその影響は計り知れず、日本史上、極めて重要な人物である。秀吉も家康も、後継者にそれぞれ織田の血を引く者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。

系譜

「織田は越前に在り。平氏の子孫、織田明神の神主となる」と江戸時代初期の史料には記されている[70]。これによると織田氏平氏で、元来神社の宮司をしていたことが窺われ、福井県丹生郡越前町織田にある劔神社の関係から古代豪族の忌部氏とも考えられる。

また織田氏藤原氏も自称し、越前に地盤を築いた後、守護大名斯波氏に従って尾張に派生した。朝倉氏とは当初からのライバル関係。祖父信定から古渡城主で父の信秀の代で守護代を務める本家と同等に渡り合える力を持った。

先祖
兄弟


姉妹
  • 正室:濃姫斎藤道三の娘)
  • 側室
    • 生駒吉乃生駒家宗の娘、織田信雄の母、信長公記では正室として記載がある文献もある)
    • 興雲院(お鍋の方、織田信吉と信高と於振の母)
    • 原田直子(織田信政の母)
    • 阪氏(織田信孝の母)
    • 土方氏(織田信貞の母)
    • 慈德院殿(織田信忠の乳母)
息子


庶長子とされる信正は存在を疑問視されることも多い。


養女
猶子
一門衆


家臣

他に有力重臣として佐藤忠能斎藤利堯大島光義西尾光教九鬼嘉隆細川藤孝荒木村重池田勝正松永久秀筒井順慶森長可毛利長秀西美濃三人衆加治田衆などもいる。

墓所・霊廟・寺社

 
本能寺廟(本能寺 信長公廟)
 
安土城廟(安土城址 織田信長公本廟)
 
中京区廟所(京都市)
  • 「信長公廟」:京都市中京区本能寺[71]にある石造宝篋印塔入母屋造の廟屋。
  • 「織田信長公本廟」:京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺にある石碑。当時の住職清玉が本能寺の変直後に家臣が信長の遺体を火葬した場に遭遇しその遺骨と後日入手した信忠遺骨を寺に葬ったと伝える。秀吉に遺骨の差し出しを求められており、信憑性が高い。
  • 「織田信長墓所」:高野山奥の院の五輪塔。明治以後忘れ去られていたが、1970年に再発見。
  • 京都市北区大徳寺塔頭の総見院の五輪塔。一周忌に秀吉が建立した寺院といい、遺骸が見つからなかったため、木像を2体造り、1体を火葬して1体を総見院に安置したという。名称は信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌居士」による。
  • 「織田信長公本廟」:安土城二の丸跡
  • 「織田信長公御分骨廟」:富山県高岡市の高岡山瑞龍寺にある石造宝篋印塔。
  • 「織田信長父子廟所」:岐阜県岐阜市の神護山崇福寺の石碑。市指定史跡。信長の側室お鍋の方が遺品を贈り、位牌を安置したという。
  • 「信長公廟」:愛知県名古屋市中区の景陽山総見寺の石造宝篋印塔。子、信雄が清洲城下に菩提を弔うために立てた寺院。清洲越しにより名古屋に移る。
  • 「織田信長供養塔」:愛知県清須市の興聖山総見院
清洲越しで名古屋に移った34年後、総見寺跡に再建立された寺院。
  • 「織田信長信忠公供養塔」:大阪府堺市の南宗寺本源院
  • 明治時代には、信長を主宰神とする建勲神社が東京と天童に創建された。
  • 越前二の宮 剣神社」:福井県越前町(旧・織田町):信長は織田家発祥の地として氏神の社と崇め、神領を寄進し神社を保護した。[72]
  • その他、各地に供養塔・伝承を持つ旧跡がある。
    • 岐阜市若宮町の橿森神社では、信長が美園で開いた楽市楽座市神が橿森神社の御神木に祀られたという伝えがある。
    • 愛知県清須市清洲古城跡に信長を祀る神明造の小祠がある。
    • 「南蛮寺の鐘」:京都市右京区にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭寺院、春光院所蔵。(南蛮寺は信長が京都に建てたキリスト教会堂。)
    • 天正寺:山崎の戦い後、秀吉は信長を弔うため、京都船岡山に寺建立を計画、天正寺という寺号を朝廷から賜るが、天正16年(1588年)、建立責任者の蒲庵古渓が秀吉の怒りを買って追放、建立には至らなかった。のちに建勳社の社地として船岡山が選定された。
    • 伝織田信長の首塚:静岡県富士宮市西山本門寺: 第18世住職、日順上人の父、原宗安(原志摩守)が本能寺の変の際、戦死した自分の父原胤重と兄原清安(原孫八郎)の首と本因坊算砂の指示で信長の首を本門寺まで持ち帰り柊を植え首塚に葬ったという。

脚注

  1. ^ 家臣余語正勝が天正11年6月2日1583年6月21日)に寄進したもので、戒名は通常「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには総見院以前のものと思われる「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。
  2. ^ ルイス・フロイス説「フロイス日本史」より
  3. ^ 寒川辰清説「近江国與地史略」より
  4. ^ a b フロイスがイエズス会に送った書簡によると、武田信玄が送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、返書として「第六天魔王」と署名した手紙を送ったというもの。ただし、これに関する日本側の史料は無く、比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた信玄が天台座主を自称した史料はない。
  5. ^ 天正10年9月11日柴田勝家妙心寺で百ケ日法要を挙行したときの戒名。阿弥陀寺清玉上人命名の流れをくむもの。
  6. ^ 異母兄が2人いるとする説がある。この説は小和田哲男によるもので、『武功夜話』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。
  7. ^ 国史大辞典』 織田信長の項目 吉川弘文館。一般的には那古野城生まれを定説とするが、織田信秀の那古野城奪取をめぐって異説も存在する。
  8. ^ 尾州古城志
  9. ^ 「国友鉄砲記」より。正徳寺での会見には、兵に鉄砲500丁を持たせていったと「信長公記」にあり、これが国友村から購入した鉄砲だという可能性もある。
  10. ^ 信秀の葬儀において祭壇に抹香を投げつけたというエピソードが残っている。このような行為におよんだ理由は、うつけ者を装うため、葬儀を政治的に利用した信勝への抗議など諸説あるが、いずれも推測の域を出ていない。後年の創作という意見もあるが、1次史料である信長公記にまで書かれているため、全くの創作とは考えにくい。
  11. ^ 信長公記では、河尻と青貝という2人の家臣が、フロイス日本史では信長が直接殺したことになっている。
  12. ^ a b c 幸若舞の敦盛は口伝で伝えられていたために、長らく節回しや詳細な振り付けが不明となっていた。そのため、映像作品などでは謡曲の敦盛で代用されていた。しかし、近年になって幸若舞の敦盛も復刻されている。(詳細は敦盛 (幸若舞)を参照)
  13. ^ 出典:『信長公記
  14. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、105頁
  15. ^ 今谷明「戦国大名と天皇」講談社学術文庫、203頁
  16. ^ ただし、六角氏嫡流は別にあり、嫡流の六角義秀六角義郷は信長に庇護されたとする異説もある。
  17. ^ 信長公記によれば、当時、岐阜から京都までは3日はかかったという。
  18. ^ 諸説・異論あり。
  19. ^ 林屋辰三郎『天下一統』中公文庫、143頁
  20. ^ 大久保忠教の記した『三河物語』による
  21. ^ 近年では元亀2年の信玄による三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2009)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007)。
  22. ^ 武田氏の岩村城攻めにおいて、東美濃侵攻を担当したのは武田家臣の秋山虎繁(信友)で、遠山景任の後家であるおつやの方(信長の叔母)が信長の五男・坊丸(後の織田勝長)を養子にして城主として抵抗するなか、虎繁はおつやの方に対して虎繁に嫁することを降伏条件に提示し、岩村城は開城し坊丸は甲斐国に人質として送られたとする伝承があるが、文書からは確認されない。
  23. ^ 元亀年間に行われた武田氏の遠江・三河への侵攻や信長との対立は「西上作戦」と通称され、背景には信玄の上洛が前提とされていたとする説があるが、近年はその実態や意図・さらには室町将軍論の観点から織田政権確率過程における政治的意義などについて議論が拡大・活性化している(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波新書、2007年)、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴辻俊六「武田信玄の上洛戦略と織田信長」『武田氏研究』第40号、2009
  24. ^ 室町幕府の滅亡により、室町将軍は天皇王権を擁し京都を中心とする周辺領域を支配し地方の諸大名を従属下におき紛争などを調停する「天下」主催者たる地位を喪失するが、信長は「天下」主催者としての地位を継承し、以降は諸大名を従属・統制下におく立場であったことが指摘されている(神田千里「織田政権の支配の論理に関する一考察」『東洋大学文学部紀要』2002、同『戦国乱世を生きる力』中央公論社、2002)。
  25. ^ ただし、朝廷では既に元亀3年の段階で改元を決定しており、同年3月29日には信長と義昭の下に使者を送っている(『御湯殿上日記』)。だが、義昭は改元に消極的であり、信長の17か条の詰問状でも批判の1つに挙げられている。信長は改元を支持することで、消極的な態度を見せる義昭排除の正当性を得るとともに、朝廷の望む改元を実現させることによって自己を室町幕府に代わる武家政権のトップとして朝廷に認めさせたとする評価がある(神田裕理「織豊期の改元」『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』校倉書房、2011年)。
  26. ^ このとき、信長は正親町天皇に対して「蘭奢待の切り取り」を奏請する。これは、信長が正親町天皇と密接な関係にあるということを諸国に知らしめるためであったといわれているが、天皇はこれを勅命をもって了承したという。これを契機に、信長の実力が朝廷からも認められていることを知った諸大名、特に奥州からは信長に対して誼を通じる使者が増えたと言われている。
  27. ^ 信長公記』による。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人。ただし、この部隊以外の部隊が所有した火縄銃の数は不明。また、徳川方の鉄炮衆もいる。さらに、鳶ヶ巣山砦攻撃別働隊には馬廻鉄炮衆五百が付けられている。いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説もある。
  28. ^ この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
  29. ^ このとき、信長は村井貞勝に対して、越前府中の凄惨なありさまを書状で「府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候 見せたく候」と書き記している。
  30. ^ このとき従軍した前田利家の所業を記した石版も残っている。「一揆おこり そのまま前田又左衛門殿一揆千人ばかり生け捕りさせ候なり 御成敗は はっつけ 釜煎られ あぶられ候 かくのごとくに候 一筆書きとめ候」。
  31. ^ このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたと言われている。
  32. ^ 「安土」という地名は信長が命名したとも(「細川家記」)、元々あった地名だとも言われる。
  33. ^ 信長は武田信玄の要請で武田と上杉謙信との和睦を仲介していたが(甲越和与)、元亀3年(1572年)10月信玄は信長への事前通告なしに織田・徳川氏領へ侵攻し、信長と武田氏は手切となり、上杉氏との共闘をもちかけている。謙信はこれに応じているが積極的に連携することはなく、武田氏で勝頼への当主交代が起こると和睦をもちかけている。
  34. ^ 本願寺攻めに協力する誓紙を出させたが、人質の提供は無かった
  35. ^ 織田軍は手取川において1,000人余が討死し渡河の際にも多数の行方不明者を出した(手取川の戦い)というが、戦果を喧伝した謙信の書状以外に史料がなく、戦いが起こったかどうかは不明である。
  36. ^ 無論当時にはそのような名称は無かった。
  37. ^ 藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁
  38. ^ 藤木久志「天下統一と朝鮮侵略」講談社学術文庫、40頁
  39. ^ 「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ …(中略)… あり難き次第にて上古 末代の見物なり」(信長公記
  40. ^ 信長の命令に承服しがたいものがあった徳川家康や一部の織田重臣は、武田遺臣を匿ったという。武田氏滅亡・本能寺の変後に武田遺領は徳川家康が確保し武田遺臣の多くは徳川家臣団に仕官しているが、彼らはこの時の「武田狩り」から匿われた遺臣の末裔であるという。
  41. ^ 俗説ではあるが、最後の武田攻めの際、明智光秀が「ここまで来られて、我々も骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたともいわれている。
  42. ^ 織田軍が武田遺臣を匿った塩山恵林寺を攻略した際、恵林寺の住職・快川紹喜が放った「心頭滅却すれば火も自ら涼し」という言葉は現在にまで残っている。
  43. ^ この時の献立は「天正十年安土御献立」『続群書類従』に記録されているが、この時の献立は前年の家康接待(饗応役は不明)の際の献立(「御献立集」)のと比べて遜色の無い点が指摘される(江後迪子『信長のおもてなし』2007)
  44. ^ a b 1582年10月14日以前はユリウス暦、1582年10月15日以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  45. ^ q:時鳥#川柳
  46. ^ フロイス日本史より
  47. ^ 「御侘言申し、長島明け退き候」とあるだけで、許したとは書いていない(他の箇所の「侘言」に対しては許した旨が書いてある)。またそれ以前に、降伏する場合は「(信長に対して)忠節を尽くす」と書いてあり、この「侘言」が降伏に当たるかどうかも怪しい。
  48. ^ 安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある
  49. ^ 「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章より)
  50. ^ 同年12月5日の羽柴秀吉書状
  51. ^ 信長公記より。
  52. ^ 『武辺咄聞書』より。『常山紀談』にも同様の記事が見られる。
  53. ^ 学校法人茶屋四郎次郎記念学園が行った料理再現による[要出典]
  54. ^ 文化庁オンラインに画像と解説あり[1]
  55. ^ 山本英男 「大徳寺所蔵の狩野永徳筆織田信長像について ─修理で得られた知見を中心に─」、『京都国立博物館學叢』所収、2011年。なお、大徳寺とその塔頭総見院には、共に束帯姿の信長像がある。
  56. ^ 織田信長画像(天童市三宝寺蔵)
  57. ^ 比較資料:1 E0 m#脚注・出典
  58. ^ ただし、今谷は「朝廷黒幕説」については全面的に否定しており、桐野も「朝廷黒幕説」をのちに撤回している。
  59. ^ 出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328
  60. ^ 出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 103-141頁。
  61. ^ 天皇の譲位には、新帝践祚までの諸儀式、退位後の仙洞御所の造営、そのための移転(仙洞御所は通常は洛中に広範な敷地を要するために、周辺の公家の屋敷や寺院の移転を伴う)費用など莫大な経費を必要としていた。つまり、当時の譲位は天皇の個人的な意思だけでは実現せず、莫大な経費を負担できる権力者が必要であった。羽柴(豊臣)秀吉は仙洞御所造営の功労を表向きの理由として関白に昇っている。
  62. ^ 「今度間近に寄合ひ候事、天の与ふる所に候間、御動座なされ、中国の歴々討果し、九州まで一篇に仰付らるべきの旨上意「信長公記」巻15」
  63. ^ 「三七郎殿(=信孝)、阿州三好山城守(=三好康長)の養子として御渡海」と石山本願寺顕如の右筆・宇野主水の日記より。
  64. ^ 「其儀、淡州(淡路国)に至れり時に申し出すべき事」(信長公記)
  65. ^ ルイス・フロイス 日本史 第55章
  66. ^ 豊鏡
  67. ^ 勢州軍記
  68. ^ 同位階を贈られたのは現時点では信長が最後となっている
  69. ^ 家康は同盟者であるが、実質的には信長の方が勢力・立場的にも上であった
  70. ^ 勢州軍記
  71. ^ 本能寺の変で焼失後、場所を移して再建。
  72. ^ http://tutuji.com/tsurugi/index.htm

参考文献

関連事項

史料

行事、祭礼

関連作品

小説
  • 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
  • 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
  • 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
  • 『炎の柱 織田信長<上・下>』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
  • 国盗り物語司馬遼太郎、1967年。
  • 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
  • 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
  • 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
  • 下天は夢か津本陽、1989年。
  • 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
  • 『織田信長<全六巻>』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
  • 『鬼と人と<上・下>』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
  • 『炎の人 信長<1~6>』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
  • 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
  • 『信長燃ゆ<上・下>』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
  • 信長の棺加藤廣、2005年。
漫画
映画
テレビドラマ
ゲーム

関連項目

外部リンク

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