新羅

古代朝鮮の王朝

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新羅(しらぎ[1]/しんら、紀元356年[2]- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。

新羅

ファイル:三国時代の地図、6世紀後半
各種表記
ハングル 신라
漢字 新羅
発音 シルラ
日本語読み: しらぎ
ローマ字 Silla
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7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。

歴史

『三国史記』の新羅本紀は「斯蘆(さろ)国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。


 
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 任那
伽耶

42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗
918-

高麗
武臣政権
1170-1270
高麗
征東行省
1270-1356
高麗
-1392
李氏朝鮮
1392-1897
大韓帝国
1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮
1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。

太平御覧』で引用する『秦書』には、377年前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。

また、広開土王碑中原高句麗碑により、時期によっては倭や高句麗によって一定の支配を受けていたことも明らかとなっている。2011年8月23日には、韓国の仁川都市開発公社ユン・ヨング博士により、新しく見つかった『梁職貢図』の新羅に対する題記に、新羅が倭の属国であるという一節が見つかったことが明らかになっている[3][4]

また、『梁書』新羅伝には「新羅者、其先本辰韓種也。其人雜有華夏、高麗、百濟之屬(新羅、その先祖は元の辰韓(秦の逃亡者)の苗裔である。そこの人々は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人々が雑居している)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。

中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[5]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している[6]。なお、『後漢書』辰韓伝[7]、『三国志』魏書辰韓伝[8]、『晋書』辰韓伝[9]によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」との記述がある[10]水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている[11]

帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」及び「辰韓」も参照のこと

当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。

6世紀中頃に半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐を支援し唐軍とともに戦った(羅唐同盟)が、その後、百済の旧領の全土と高句麗の南半分から唐軍を駆逐し(羅唐戦争)朝鮮半島をほぼ統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

中国の書物の伝える新羅建国

隋書東夷伝によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて金真平に至った・・・。その先には百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するのに困って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、困って百済を襲い、迦羅国に附庸となった。

建国神話

 
千里馬。大陵苑(テヌンウォン)、天馬塚(チョンマチョン)から出土、5-6世紀頃、国立中央博物館所蔵、慶州

三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今~)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。

朴氏初代の朴赫居世(パク・ヒョッコセ)
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「バク(=朴)」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある[12]。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍が現れ、その右脇から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は王妃に迎えた。当時の人々は赫居世と閼英(アルヨン)とを二聖と称した。
昔氏初代の昔脱解(ソク・タレ。第4代脱解尼師今
倭国東北一千里のところにある多婆那国[13]の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝(アヒョ)夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
金氏始祖の金閼智(キム・アルチ。第13代味鄒尼師今の7世祖)
脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。

赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており[14]、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。

日本側伝承では、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされるなど、新羅との関わりには触れられていない。しかしアメノヒボコ伝承や出雲神話などに早い時期から倭と新羅との関わりが暗示されている。王家の初代昔氏は諸説あるものの現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域から船で渡ったと見る向きが多く。その後、日本に渡ったとされ天之日矛に登場した王子はこのうちの但馬に腰をおろしている。

上代

長らく高句麗に従属していたが、5世紀中頃からはその支配下から脱却しようとして高句麗とも争うようになった。一方で辰韓諸国に対する支配力も高め、伽耶諸国の領有をめぐって百済とも対抗する姿勢を明らかにし、三国が相競う様相を示した。6世紀になると智証麻立干法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては564年北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年南朝にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王と連携(麗済同盟)したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は643年善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。

中代

 
新羅の冠

武烈王の即位から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。 即位後と結んだ(羅唐同盟)新羅は唐の援軍と共に金庾信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼし、663年に白村江にて倭国の水軍を破り(白村江の戦い)、668年高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。

その後、旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、670年から争った(羅唐戦争)が、676年に唐軍を半島から追い出し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。

半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる[15]732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。

統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。

天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。また、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本[16]は激しい反感を持ち、その様子は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張(新羅が属国であるにも関わらず日本に非礼であるためとしている)に伺える。

国家レベルでの関係は緊張したが民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。

下代

780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。この780年代から新羅滅亡までの期間を下代と呼ぶ。

この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に破れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす様になる。822年には熊州で新羅王族の金憲昌が、825年には、その息子の金梵文が反乱を起こしているがいずれも鎮圧。841年には、清海鎮(全羅南道莞島)で張保皐が反乱を起こしたが、暗殺されている。しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。

その中でも有力な勢力であった農民出身の甄萱892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。その中で後高句麗の武将であった王建918年に弓裔を追放して建てた高麗が勢力を伸ばし、935年に最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順したことにより新羅は滅亡した。

歴代王については 朝鮮の君主一覧#新羅を参照。

上代では新羅の王族は姓が一定していない。初代赫居世(ヒョッコセ)居西干、4代脱解(タレ)尼師今、13代味鄒尼師今となっており、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がそれぞれ始祖説話を持っている(詳細については既述)。13代金味鄒は金閼智の子孫とされているが、後になってこの金閼智の子孫を称する一族が金氏王統となり、統一新羅王朝に於ける唯一の王族となった。

三国史記では法興王の時代521年に中国南朝に使を遣わした新羅王は、姓は募、名は秦と伝えられる。564年北斉に使を遣わした新羅王は金真興であった。募という姓は慕韓とも書かれる馬韓のことで、新羅王家が百済系だという「隋東藩風俗記」の伝承が史実であることを示している[要出典]。新羅は532年金官国の王である金仇亥を降し、536年に初めて国号を立て建元元年とし、545年には初めての国史を編纂、554年には百済の聖王管山の戦いで殺し、562年に加耶国を征服して任那を完全に併合した。その2年後の564年に金真興(真興王、チヌン王)が現れるので、金姓は金官国の王家の姓を百済との絶縁の象徴として採用され、金氏の系図もこの頃造られたものであろう[要出典]

ただし、統一新羅王朝末期には、52代孝恭王に子がいなかったために朴景暉が推戴されて王位を継承(53代神徳王)し、その後55代景哀王までの3代は朴氏王統となる。なお、新羅最後の王(第56代)敬順王の姓は金氏であり、新羅は王位が金氏王統に戻ってから間も無く滅亡したことになる。

新羅の王(君主)を表す称号としては『三国史記』には居西干(コソガン)、次次雄(チャチャウン)、尼師今(イサグム)、麻立干(マリッカン)の固有語由来の表記が見られ、第22代の智証麻立干の代で王号を「王」に定め、の制度が始まったとされる。また、中原高句麗碑文や『日本書紀』には寐錦、蔚珍鳳坪碑文には寐錦王、迎日冷水碑文には葛文王、『太平御覧』で引用する『秦書』には楼寒(これについては麻立干に相当すると考えられる[要出典])などの表記が見られる。

六部

建国神話に現れる辰韓の六村はのちの新羅六部であり、王都金城(慶州市)に居住してそれぞれ自立的な政治的集団として存在していたが、王都外部に対しては王京人として結束して優位性を保ち続けた。新羅が周辺諸国を取り込んで領域を拡げていく過程で、これら六部の優位性を維持するために、元来は六部の内部的な身分制度が拡大していき、骨品制が成立したものと考えられている。第3代の儒理尼師今9年(32年)に、元の六村に対して部名を改めるとともに姓を下賜したと伝えられているが、『三国史記』と『三国遺事』との間でも伝える内容が異なっており、姓の表記については高麗の前半期に整備されて付加されたとする見方もある(→井上訳注1980 p.54)。

元の村名 比定地(いずれも慶尚北道慶州市 『三国史記』に見える部・姓 『三国遺事』に見える部・姓
閼川・楊山村 塔里方面または川北面東川里方面 梁部・李氏 及梁部・李氏
突山・高墟村 南山里~皇南里または西岳里~塔里方面 沙梁部・崔氏 涿部・鄭氏
觜山・珍支村 内東面普門里方面または内東面南部~外東面 本彼部・鄭氏 本彼部・崔氏
茂山・大樹村 慶州面忠孝里方面または牟梁川流域 漸梁部(牟梁部)・孫氏 漸梁部(漸涿部、牟涿部)・孫氏
金山・加利村 川北面東川里または内東面普門里、または川北面西部~見谷面 漢祇部・裴氏 漢岐部(韓岐部)・裴氏
明活山・高耶村 見谷面または内東面南部・陽南面 習比部・薛氏 習比部・薛氏

政治機構

官位制度

三国史記』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代儒理尼師今の9年(32年)に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代法興王の18年(531年)に宰相に相当するものとして「上大等(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった金庾信を遇するものとして、第29代武烈王(金春秋、キム・チュンチュ)の7年(660年:この年百済を滅ぼす)には伊伐(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに武烈王の息子の第30代文武王(金法敏)の8年(668年:この年高句麗を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。

新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、真徳女王の代になって651年には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の中侍が上大等に代わって政治体制の要となった。

京位は首都金城に居住する六部のための身分体系でもあり、これに対して地方に移り住んだものに対しては外位という別途の身分体系を併せ持っていた。しかし百済・高句麗を滅ぼした後、両国の遺民を取り込みに対抗していくため、京位・外位の二本立ての身分制度を再編することに努めた。673年には百済から帰属してきた者のうち、百済の2等官の達率の場合には、金城に移住した者に対しては京位10等の大奈麻に当て、地方に留まった者には外位4等の貴干を当てた。翌674年には外位を廃止して、京位に一本化した。さらに唐との戦闘を終えて684年報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾した後、686年には高句麗人に対しても官位(京位)を授けた。このときには高句麗の3等官の主簿[17]に対して京位7等の一吉を当てた。このようにして、百済・高句麗両国の官位体系の序列を格下げした形で新羅の身分体系に組み入れることによって、それまで三国独自に展開されていた身分体系が新羅の政治秩序のもとに一本化され、統一国家としての内実を整えることに成功したと考えられている。

骨品 外位 等級 京位 読み(日本語/韓国語) 別名と備考(※)
真骨 1 伊伐飡[18] いばつさん/イボルチャン 伊罰干(イボルガン)、于伐飡(ウボルチャン)、角干(カッカン)、角餐(カッチャン)、舒発翰(ソバラン)、舒弗邯(ソブラン)
2 伊尺飡 いしゃくさん/イチョッチャン 伊飡(イチャン)
3 迊飡 そうさん/チャプチャン 迊判(チャッパン)、蘇判(ソパン)
4 波珍飡 はちんさん/パジンチャン 海干(ヘガン)、破弥干(パミガン)
5 大阿飡 だいあさん/テアチャン 大阿飡以上の官位は真骨だけが任じられ、他の宗族は任命されない。
六頭品 6 阿飡 あさん/アチャン 阿尺干(アチョッカン)、阿餐(アチャン) ※重阿飡(チュンアチャン)から四重阿飡(サジュンアチャン)までの4階層が設けられた。
嶽干 7 一吉飡 いつきつさん/イルギルチャン 乙吉干(ウルギルガン)
述干 8 沙飡 ささん/サチャン 薩飡(チャルチャン)、沙咄干(サトゥルガン)
高干 9 級伐飡 きゅうばつさん/クッポルチャン 級飡(クプチャン)、及伏干(クッポッカン)
五頭品 貴干 10 大奈麻 だいなま/テナマ 大奈末(テナマル) ※重奈麻(チュンナマ)から九重奈麻(クジュンナマ)までの9階層が設けられた。
選干 11 奈麻 なま/ナマ 奈末 ※重奈麻(チュンナマ)から七重奈麻(チルチュンナマ)までの7階層が設けられた。
四頭品 上干 12 大舎 だいしゃ/テサ 韓舎(ハンサ)
13 舎知 しゃち/サジ 小舎(ソサ)
一伐 14 吉士 きつし/キルサ 稽知(ケジ)、吉次(キルチャ)
一尺 15 大烏 だいう/テオ 大烏知(テオジ)
彼日(ピイル) 16 小烏 しょうう/ソオ 小烏知(ソオジ)
阿尺 17 造位 ぞうい/チョウィ 先沮知(ソンジョジ)

ハングル表記についてはko:신라의 관직を参照。

地方

 
九州と五小京の位置

九州

6世紀以来、新羅は一定の領域に州を設けてその下に郡・村を置き、州には軍主を、村には道使を派遣し、さらに在地の有力者を村主に任命して地方を掌握しようとする、州郡制ともいうべき独自の地方統治を行なっていた。三国統一を果たした7世紀後半からは村を県に改めて、州・郡・県とする支配方法(日本の国・郡・里制に相当)に切り替わっていった。州には都督、郡には郡太守、県には県令を中央から派遣し、さらに州・郡に対しては外司正という検察官を別途派遣する二重化を図った。第31代の神文王の687年には九州が完成し、州治が地方統治の拠点となるとともに、旧三国のそれぞれを三州とすることで、三国の統一を改めて印象付けることに成功したとみられている。

旧領 創設時点 九州完成時点(687年 景徳王による
改称(757年)
備考・異称・移転(州治)
州名 州治の現在地名 創設年 州名 州治の現在地名
高句麗 悉直州 江原道三陟市 505年 河西州 江原道江陵市 溟州 何瑟羅州[19]
新州 京畿道広州市 553年 漢山州 京畿道広州市 漢州 南川州(利川市
比列忽州 北朝鮮の江原道安辺郡 556年 首若州[20] 江原道春川市 朔州 達忽州(高城郡)・牛首州
百済 所夫里州 忠清南道扶余郡 671年 熊川州 忠清南道公州市 熊州 686年泗沘州を郡に、熊川郡を州とした[21]
発羅州 全羅南道羅州市 671年?[22] 武珍州 光州広域市 武州 686年に発羅州を郡に、武珍郡を州とした[21]。また、武珍の別名に「奴只」がある。
完山州 全羅北道全州市 685年 完山州 全羅北道全州市 全州 下州との混乱・誤記あり[23]
新羅 上州 慶尚北道尚州市 525年 沙伐州 慶尚北道尚州市 尚州 甘文州(金泉市)・一善州(亀尾市
下州 慶尚南道昌寧郡 555年 歃良州 慶尚南道梁山市 良州 比斯伐州・大耶州(陜川郡)・押督州(慶山市
居烈州[24] 慶尚南道居昌郡 685年 菁州 慶尚南道晋州市 康州 685年、居烈州から菁州を分割設置。

五小京

新羅は一貫して首都を金城(慶州市)に保ち続けて遷都をしなかったが、領域の拡大に伴って王都が南東辺に偏りすぎていることが課題となっていた。軍政的側面の強い州郡制の整備と平行して、6世紀中頃よりかつての敵国の地に小京が副都として設けられた。小京に対しては中央から仕臣・仕大等が派遣されて地方行政支援の役割を担うとともに、王都金城の貴族や住民が移住させられて新羅文化の各地への普及が図られた。これら小京は685年に五小京として整い、九州の州治とあわせて地方統治の徹底がなされたと見られる。

設置時の小京名
(かっこ内は景徳王による改称)
設置年次 元の地名 現在の地名 所属州
国原小京(中原京) 557年真興王18年) 高句麗:国原城 忠清北道忠州市 漢州
北原小京(北原京) 678年文武王18年) 高句麗:平原城 江原道原州市 朔州
金官小京(金海京) 680年(文武王20年) 金官郡(金官伽耶国都) 慶尚南道金海市 良州
西原小京(西原京) 685年神文王5年) 百済:娘臂城 忠清北道清州市 熊州
南原小京(南原小京[25] 685年(神文王5年) 百済:古龍郡 全羅北道南原市 全州

文化

4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する[26]。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族匈奴鮮卑など)の影響が強かったことを示している。

脚註

  1. ^ 当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」現代韓国語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。日本では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。
  2. ^ 当然ながら、韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた紀元前57年説を採用している。この点について、日韓歴史共同研究委員会の日本側メンバーである井上直樹は、報告書で、「新羅の場合も『(中学校用)国史』『(高等学校用)国史』ともに紀元前57年とする。これは『三国史記』に基づいたものであるが、『三国史記』が当該期の政治的意図から新羅中心に編纂され、新羅の建国時期を意図的に高句麗以前に設定したと考えられていることを前提とすれば、その内容を史実かの如く、教科書に記載するのは問題であろう」と批判している[1]
  3. ^ '양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼 聯合ニュース. (2011年8月23日). 2011年9月25日閲覧。
  4. ^ 續修四庫全書 子部 芸術類藝 NAVER. (2011年8月23日). 2011年9月25日閲覧。8行目から「斯羅國本東夷辰韓之小國也魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也或属韓或属倭國王不能自通使聘」とあり、倭國の属国であったことがわかる。
  5. ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院『朝鮮日報』2007年6月4日
  6. ^ ああ、高句麗東亜日報 2007年8月18日
  7. ^ 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
  8. ^ 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。)
  9. ^ 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。(辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似していめので、あるいはこれを秦韓とも言う。)
  10. ^ 『北史』新羅伝
  11. ^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  12. ^ 金素雲「三韓昔がたり」
  13. ^ 昔脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
  14. ^ →武田編著2000 pp.73-74
  15. ^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲沿海州を含めた領域としている。しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
  16. ^ 『隋書』倭国伝は、新羅が倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している。
  17. ^ 主簿は厳密には高句麗の3等官という序列ではないが、主簿に続けて高句麗官位と新羅官位の対比を記した『三国史記』職官志下の記述から、3等官に相当すると見られている(→武田編著2000 pp.94-95)。あわせて高句麗#官制を参照。
  18. ^ 「飡」の文字について、書籍では「飡(にすいに食)」とするものが多いが、朝鮮の金石文では「(さんずいに食)」とするものが多い。(→井上訳注1980、p.35)『三国史記』の底本については、奎章閣韓國學研究院の影印本が「飡(にすい)」とし、慶州重刊本(1512年)を1931年に影印とした古典刊行会本(学習院東洋文化研究所の学東叢書本)が「(さんずい)」としている。
  19. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  20. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。また、牛首州の別名として「烏根乃」の記述がある。
  21. ^ a b 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  22. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  23. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  24. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  25. ^ 景徳王によって改めて南原小京と改称されたわけではない。他の小京は『三国史記』地理志の各条に改称記事が見られるが、南原小京のみ改称の記事が見られない。
  26. ^ こうした6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ製のものが極端に多いことに注目して、新羅は北方の遊牧民経由でローマ帝国の文化を受け入れていた古代国家であるとする説もある(→由水2001)。

関連項目

参考文献

外部リンク

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