西岡常一
西岡 常一(にしおか つねかず、1908年(明治41年)9月4日 - 1995年(平成7年)4月11日)は、宮大工。

人物
奈良県斑鳩町法隆寺西里出身。祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁であった。
幼少期は、祖父に連れられ法隆寺の佐伯常胤管主に可愛がられ、「カステラや羊羹を常胤さんからようもろうたことを覚えています。」[1]などの記憶があるなど、棟梁になるべく早くから薫陶を受けていた。
斑鳩尋常高等小学校3年生から夏休みなどに現場で働かされた。「・・そのころの法隆寺の境内では、西里の村の子供たちの絶好の遊び場で、休日にはよく『ベースボール』をして遊んだものだが、夏休みにみんなの遊んでいる姿が仕事場から見えたりすると、『なんで自分だけ大工をせんならんのやろ』と、うらめしく思ったこともある。」と述懐している。[2]
1921年生駒農学校入学、父は工業学校に進学させるつもりであったが祖父の命令で農学校に入学することになった。一方在学中は祖父から道具の使い方を教えられるなど、大工としての技能も徹底的に仕込まれた。
1924年卒業後は見習いとなる。1928年大工として独立し、法隆寺修理工事に参加する。1929年1月から翌年7月まで舞鶴重砲兵大隊に入隊し衛生上等兵となる。除隊後の1932年、法隆寺五重塔縮小模型作製を行うが、このときに設計技術を学ぶ。1934年(昭和9年)には法隆寺東院解体工事の地質鑑別の成果が認められ、法隆寺棟梁となる。
戦火の拡大と共に、西岡自身も戦争に巻き込まれていく。1937年8月、衛生兵として召集、京都伏見野砲第二十二連隊を経て、翌歩兵第三十八連隊、歩兵第百三十八連隊機関銃部隊に入り中国長江流域警備の任務につく。このとき軍務の傍ら中国の建築様式を見て歩き、自身の知識に大いに役立った。1939年除隊。以降、1941年満州黒龍江省トルチハへ、1945年には朝鮮の木浦望雲飛行場へと二度にわたる応召を受け、陸軍衛生軍曹になり終戦を迎える。その間も戦中期の法隆寺金堂の解体修理を続けていた。
戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた袴、羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐する如く、[3]生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなった。一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けるが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ1956(昭和31)年法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。さらに1959年には明王院五重塔、1967年から法輪寺三重塔(1975年落慶法要)、1970年より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛ける。これらのプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立があったが、西岡は一歩も引かず自論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる。」と畏敬を込めて呼ばれていた。
特に薬師寺金堂再建に関しては『プロジェクトX』(日本放送協会)で取り上げられて紹介されている。また途絶えていた「ヤリガンナ」などの道具の復活を行う。
飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなど「最後の宮大工」と称された。文化財保存技術者、文化功労者、斑鳩町名誉町民。また、西岡棟梁の唯一の内弟子が小川三夫である。
1995年、癌で死去。
祖父の薫陶
祖父西岡常吉は、後継者たる男子に恵まれず(長男は夭折)、次女ツギの婿養子に二十四歳の松岡楢光を迎えて弟子に仕込んだ。やがて両者の間に長男が生まれると大いに喜び、自身の「常」の字をつけて「常一」と命名した。祖父としては普通に接し、菓子をすぐ与えたり、いたずらをしても厳しく注意することもないなど、非常に甘いところもあったが、常一が四歳のころから法隆寺の現場に連れて行って雰囲気に慣れさせ、小学校に上がると雑用をさせたが、その時の祖父は別人のように厳格になった。以降、祖父は婿の楢光と常一とを将来の棟梁として育成すべく尽力することになる。特に常一には徹底した英才教育を行い、常一自身にとって貴重な財産となっていくのである。
- 見習いの時から祖父常吉に、厳しく仕込まれた。「・・・おじいさんが、ぴっちりと仕込んでくれたんです。とにかく厳しかったです。・・・口笛は吹いてはならんとか、半てんの帯はきちんと結べとか言いました。だらしないのはいかんのでしょうな。」[4]などの生活態度や、法隆寺は皇族を初めとする賓客が来るという理由から礼儀作法なども教えられた。
- 祖父の意見で、渋々農学校に入った常一は学習意欲に欠け農場の果実を無断で食べたりして怠けていたが、実習を重ねるうちに興味を持ち成績も上がっていった。「(肥料を)どのくらいの分量を、いつ、どの時間に施すかは、自ら体験しながら、自分で考える。種をおろす、芽が出る、葉やつるが育ち、実りがある・・・・。それがだんだん面白くなってきた。・・・『土の命』を知ることであった。そのためにこそ、祖父は私を農学校にやったのだが、それが本当にわかったのは、のちのことである。」[5]と述懐するように、祖父は生命の尊さと土の性質によって生命も変化することを学ばせようとしたのであり、農学校時代は将来の棟梁としての必要な資質を涵養する時期となった。果たして、後年になって原木の見極め方や地質調査などで農学校時代の知識が大いに役立ち、常一は「三年間の農業教育のおかげやと思います。」[6]と祖父や当時学校関係者に感謝していた。
- 農学校を卒業した常一に、祖父は一年間の米作りをさせた。常一は学校で教えられた通りに行ったが祖父は誉めるどころか、他家の農家よりも収穫が低いことを指摘し「本と相談して米作りするのではなく、稲と話し合いしないと稲は育たない。大工もその通りで、木と話し合いをしないと本当の大工になれない。」と諭した。[7]
- 祖父はまず見本を示し、後は一切教えず、自身で何回も試行錯誤させて覚えさせる方法であった。厳しく叱責することもあったが、評価するのも上手く「わたしに直接誉めないのです。母親に『常一は偉い奴や。わしが言わん先にこういうことをしおった。』といいます。母親が喜んで、わたしに話してくれます。間接的に誉めるんです。」[8]夜は、常一身体をマッサージさせながら大工としての多くの知識を教えた。
- ヒノキなどの原木の見極め方や地質調査の技術など生駒農学校で学んだ技術は、後々になって役に立った。西岡は「三年間の農業教育のおかげやと思います。今になって、はじめてじいさんの真意がわかってきたということですわ。」と晩年に述べている。[9]
- 祖父は、幼い常一をよく奈良の寺院を見に連れて行き、基本を学ばせた。薬師寺の東塔では西塔の礎石跡の水たまりに映るのを示し「これはなあ。水鏡の塔というてな。五重塔がこの水に映ってゆらゆら揺れた姿を実際につくらなはったんや。ようおぼえとき。」と教えた。後年、常一は薬師寺伽藍復元工事を担当する際、「その塔がどういう因縁か知らんけど、こういうふうにさせてもらえるということになって、もうありがたいことやと思いましてな。」と深い感慨を述べている。[10]
学者との対立
現場でたたき上げた豊富な経験と勘は、寺院再建の際に大いに活用された。多くの学識関係者が持論を述べても、堂々と反論し、そのたびに衝突を繰り返した。常一は「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする。」[11]と述べて、学者の意見を机上の空論扱いして歯牙にもかけなかった。
古代建築学の泰斗、藤島亥治郎(東京大学工学部名誉教授)や村田治郎(京都大学工学部名誉教授)らが創建時の法隆寺金堂の屋根は玉虫厨子と同じ錏葺きであったという説を指示していたが、西岡は解体工事の際に垂木の位置と当て木に使われていた釘跡を発見して入母屋造りと判断し、双方の論争にまで発展したが、結局は釘跡が決定的な証拠となって入母屋造りと判明した。後、西岡は「ありがたい釘穴やなあ。」と述べていた。[12]
法輪寺三重塔再建では、竹島卓一(名古屋工業大学教授)と大論争になった。竹島教授は法隆寺大修理の工事事務局長で、西岡とも面識があり、中国古代建築の専門家としての知識を生かして三重塔の設計を行ったが、常一は設計図に鉄骨を補強に使用することに猛反対した。初めは法輪寺住職井上慶覚の仲介で両者の関係は穏便になっていたが、井上の死後、対立は激化した。竹島は常一の力量を認めながらも将来飛鳥時代方式の建築技術の断絶を恐れ、後世にわかりやすい江戸期の技術を採用する考えであったが、常一は江戸期の鉄を補強したやり方は却って木材を痛め寿命を縮めるとして否定、双方が現場で感情的な口論となる事態となり、果てには新聞紙面で論陣を張るまでに至った。もっとも西岡は「あの人は学者としてちゃんとした意見を主張してはるわけですわ。」[13]と、竹島には敬意を示している。結局、最低限度の鉄骨使用ということで折り合いがついたが、青山茂は「非常に気持ちのいい論争」[14]と評しているように双方とも正論を吐き、情熱を傾けた事件であった。
エピソード
- 職人肌の強面であったが、優しい面も持ち合わせており周囲の人々に慕われていた。弟子の一人建部清哲は、初対面の時薬師寺の塔の図面を一週間貸してほしいと懇願すると、はじめ「門外不出のもんやから貸すことはできん。」と断っていた西岡が、建部の残念そうな表情を見て「お前、本当に一週間で返しにくるか。」と聞き、建部は「もちろんです。」と答えた。西岡が「そうか。」と言って図面を渡すと、建部はその優しさに感激し、家族を連れて奈良に住むことを決めた。[15]
- 後輩への教え方は祖父常吉と同じで、厳格な姿勢で臨み、教えたりすると甘えてしまって身に付かないから「何、甘えてんねん。自分で考えはなれ!」と突き放していた。だが、相手が考えに行き詰まってしまった時にはさりげなくヒントを与えたり、「わしが一切の責任持つさかいにやってみなはれ。」と励ましたり、寺院建築を全く知らない大工にも「ぼちぼちやりはなれ。要領よく覚えたらすぐに忘れるからな。とにかく基本をしっかりおぼえるこっちゃ。そしたら後はいくらでもおぼえられる。」[16]と激励したり、弟子が若干の寸法を間違えていても気にかけずに「ええやろ。」と済ませるなど、硬軟を上手に使い分けた方法であった。
- 修行時代は母ツギによく叱責された。深夜まで図面の勉強をして朝早く起きるのだが、どうしても寝坊してしまう。すると「親やおじいさんより後ろから出ていくとはどういうことや!おまえはいつからそんなえらくなったんや。もっと早う起きろ!」と怒鳴られ、常一は仕事場に駆け出していった。[17]
- 衛生兵時代は、小柄な事もあって威厳をつけるために一時期口髭を生やしていた。また満州に駐屯していた時は、大工だったことが縁で営繕の仕事も命じられ、腕の良さに経理担当の将校から褒められたこともある。西岡が設計して部下の大工を使っての仕事であったが、豚小屋を作ったこともあり、「神社仏閣以外の建物を・・・手がけたのは、後にも先にもこれだけである。」[18]と述懐している。
- 1945年8月15日、常一は朝鮮南部の木浦にある望雲飛行場で衛生曹長として警備防衛に就いていた。昭和天皇の玉音放送が流れると、普段威張っていた将校たちは放心状態となり、師団司令部からの終戦報告書提出の命令が出ても書くこともできなかった。ために、常一は、報告書を書くよう命じられ、一時間くらいかかって「八月十五日、終戦の詔勅を拝す。全軍、粛として声なし・・・」から始まり日本再建を誓う内容の文を書いた。これを読んだ将校から職業を聞かると「大工です。」と答え、相手を驚かせた。後年、この有様について「星は上やけど、人間はなっとらんな。」と常一は述懐している。[19]
- 終戦直後の生活難の時代、息子たちが友人と草野球をするためにグローブを買ってほしいとねだると、西岡は「お前、今の日本の現状を見よ。遊んでいる暇はないやろ。みんな腹すかしてるんやから、鍬持っていけ。たまには天秤棒でこやしをかついでいけ。それが今の日本のスポーツや。それで鍛錬せい。」と叱った。[20]
- 「古代の釘はねっとりしとる。これが鎌倉あたりから次第にカサカカして、近世以降のはちゃらちゃらした釘になる。」[21]というような独自の感覚による表現を用いて建築、道具などを批評していたが、分かりやすく核心を掴んだものであった。
- 法隆寺の金堂壁画焼損では、佐伯管主の管理責任が問われ、文部省は残った壁画を取り外して東京に保存する方針を出した。「壁画がなかったら魂抜かれる。法隆寺ではなくなる。」管主の悲壮な願いを聞いた西岡は単身文部省に乗り込み、居丈高に拒否する官僚に向かい「私はどうしても強行するなら、今いる五十人の大工が集まって、運び出すのを止める。」[22]と強硬に反対した。その甲斐あってか、壁画は法隆寺収蔵庫に保存されることとなった。
- 家庭では亭主関白で雷親父として恐れられていたが、夜遅く浅野清の下宿に子供を連れて迎えに来た妻にねぎらいの言葉をかけたり[23]、子供と添い寝しながら「旅笠道中」を子守歌代わりに歌うなど[24]優しい心根を見せる時もあった。西岡自身法隆寺の事で頭がいっぱいで「躾が大事という事もあるけど、子供をようあやしてやるちゅうよな、気持ちのゆとりがありませんでしたな。」と述懐している。[25]それでも、晩年はすっかり好々爺となり孫に自動車を買い与えたりしていた。[26]
略歴
著書
脚注
- ^ 西岡・青山茂「斑鳩の匠 宮大工三代」p・20
- ^ 「宮大工棟梁 西岡常一 『口伝の重み』p・15
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠 宮大工三代」p・57
- ^ 西岡常一「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」p・156
- ^ 「宮大工棟梁。西岡常一 口伝の重み」P・19
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠 法隆寺三代」p・26
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・21~23
- ^ 西岡常一「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」p・157
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠 法隆寺三代」p・26
- ^ 西岡常一・高田好胤・青山茂 共著「蘇る薬師寺西塔」p・101~103
- ^ 西岡常一・松久朋琳「木のこころ・仏のこころ」p・199
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠・宮大工三代」p・105~106
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠 宮大工三代」p・125
- ^ 西岡・青山「斑鳩の匠 宮大工三代」p・125
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・147
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・160
- ^ 長尾三郎「古寺再興」p・90
- ^ 「宮大工の棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・53
- ^ 「宮大工の棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・58~61
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・227
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・158
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・69
- ^ 長尾三郎「古寺再興」p・138~139
- ^ 長尾三郎「古寺再興」p・200~201
- ^ 長尾三郎「古寺再興」p・200
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・237
- ^ 西岡常一「木に学べ 法隆寺と薬師寺の美」p・8
- ^ 長尾三郎「古寺再興」あとがき p・332
- ^ 長尾三郎「古寺再興」p・127
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・42
- ^ 「宮大工棟梁・西岡常一 口伝の重み」p・232
テレビ番組
- 「そして、風が吹いた 幻の金堂 ゼロからの挑戦」(第25回 2000年10月17日放送)