日蓮正宗
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日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、日興を派祖、大石寺を総本山とする一派。日蓮系の諸派のなかでは、日蓮本仏論、本迹勝劣などを教義とする富士門流(日興門流)に分類され、「興門八本山」のうち、大石寺に加え下条妙蓮寺の二本山が所属する。
概要
宗祖の入滅の後、六弟子の1人であった日興が七年間、久遠寺に居住した後、初発心の弟子地頭波木井実長が背いたことによって身延を離山、地頭南条時光の招きにより総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたとされる。 日興は大石寺を日目にまかせ、晩年は地頭石川氏の招きにより重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、師弟の教育・指導にあたり、ここで死去した。
大石寺の本末が独立した宗派として日蓮正宗を正式に名乗るのは1912年で、それまでは、
などに参加していた。日興門流(富士門流)の統一教団日蓮宗興門派(本門宗)では、大石寺も含む興門八本山より輪番制で管長が就任し、大石寺からも第55世法主の日布が第4代の管長に、第56世法主の日応が第15代の管長に就任している。しかしながら大石寺とその管長を日興門流の嫡流と位置づける大石寺の主張は他の7本山の受け入れるところとはならず、大石寺は、日蓮宗興門派の発足当初から、大石寺とその末寺のみによる独立宗派の設立を指向した。1900年(明治33年)にいたり大石寺の本末・中末の独立が公許され、日蓮宗富士派として新宗派を発足させた[1]。本門宗から独立した直後より、「能く宗旨・宗体を表す」宗号の再検討が行われ、1912年(明治45年)、現在にいたる日蓮正宗という宗号が政府の認可のもと公称されることとなった[2]。
法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。
教義
勝劣派の教義全般については「勝劣派」を参照。
1279年(弘安2年)の10月12日の宗祖日蓮所顕と伝えられる本門戒壇之大御本尊(総本山大石寺奉安堂に安置)を帰命依止の本尊と定め、宗祖の出世の本懐(ほんがい)であり、宗祖所顕の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅として位置づけている。教義の基本は、正しい本尊(本門戒壇之大御本尊)を信じて自行化他に題目を修行しさえするならば、どんな者でも必ず一生のうちに成仏できる、ということである。また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは「三大秘法の受持」の意である。よって信徒個人レベルにおける戒律の実践は、「一切の謗法を捨てること(=日蓮正宗以外の本尊を拝まないこと)」、「勤行唱題および弘教活動(=広宣流布)を実践すること」で十分である、とされる。すなわち日蓮正宗においては、本尊こそが「三大秘法」の中心として考えられている訳である。
この他に宗派独自の主張として目立つものは、
- 宗祖は、外用としては法華経に予証された末法の世を救う上行菩薩であり、その内証は久遠元初の自受用報身(すなわち御本仏)である。なお、宗祖を「末法の御本仏」とみなし、日蓮大聖人と尊称している。
- 宗祖は、1253年(建長5年)の3月28日に立宗を内示され、4月28日に立宗を宣した。
- 日興は、1282年(弘安5年)の二箇相承にもとづき、宗祖から「唯授一人の血脈相承(ゆいじゅいちにんのけちみゃくそうじょう)」を受けたとされている。以後、第3祖日目、第4世日道、第5世日行と順次に伝えて現法主第68世日如に至っている。
等々の教義があげられる。
現在、所依の経典としては、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・第2祖日興遺文・第9世日有遺文・第26世日寛遺文を正依とし、天台宗系統の摩詞止観10巻および弘決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている。
仏教の基礎である三宝は、以下のように説いている。「末法の三宝とは久遠元初自受用報身如来の再誕、本因妙の教主日蓮大聖人を仏宝、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅を法宝とし、血脈付法の第二祖日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である」 宗祖こそが「本因妙の教主釈尊」であって、インドの釈迦(釈尊)は、法華経を説いて当時の衆生を救済するかたわら、末法における本仏(=宗祖)の出現を予証するために現れた「仮の姿」の「釈尊」(=迹仏)とされてされており、多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。
歴史
日興門流の成立
日興は、宗祖の本弟子六老僧の1人として積極的な折伏に目覚しい成果をあげ、特に駿河において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉幕府内権力者の警戒心を招き、1279年(弘安2年)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。宗祖日蓮滅後、廟所の六弟子による輪番制が敷かれたが、戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。本弟子六老僧の1人の日向の示唆によって地頭波木井坊六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別当職の日興はやむなく身延離山したと、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流では主張している。
日興は 1289年(正応2年)に多宝富士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌1290年(正応3年)、日興は南条時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。日蓮正宗では現在でも、日蓮大聖人の正しい教えが日興 - 日目 - 日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系などの全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(大石寺管長の血脈相承を認めない諸門流)までも、すべて謗法としている。
近世における大石寺の展開
江戸時代、仏教の諸宗派の教学研究の拠点は各本山から檀林にうつった。大石寺は、勝劣派である日興門流の他の本山や日隆門流の各本山とともに細草檀林をつくった。
江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許され、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、将軍家や大名家、江戸時代著しく力の衰えていた皇室・公家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続けた。
日蓮正宗の成立
1868年の明治維新によって、大石寺教団と国家権力との間には新たな緊張関係が生まれた。すなわち、神道の準国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によって「分割支配」をはかる方針を採った。この背景として、日蓮宗管長・新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」を目指す画策もあった。大石寺第54世日胤は、1873年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」を提出し、以降も数度にわたって諌暁を繰り返したが遂に容れられず、結果的に1876年より、興門八本山の他の7山とともに日蓮宗興門派(のち本門宗と改称)の設立に参加することを余儀なくされた。
大石寺とその貫主が「富士門流の嫡統であり、唯一の血脈相承者」であり、ゆえに大石寺を日蓮宗興門派(本門宗)の総本山、その貫主を宗派全体の管長とするべきである、という大石寺の主張は他の7山の受け入れるところとはならず、行政上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、八本山が一年任期の輪番制で務めるという形を余儀なくされた。大石寺からは、1881年-1882年にかけて第55世法主日布が第4代の管長を、1891年-1892年にかけては第56世法主日応が第15代の管長に就任している。
しかし、このような形式は、大石寺派僧俗にとってみれば、大石寺の住職は依然変わりなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などという、信仰上極めて耐え難い異常事態が続くことを意味し、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。しかしその後、第55世日布・第56世日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の七本山に対する破折活動が続けられた結果、ようやく1900年、本門宗からの分離独立が認可されて日蓮宗富士派と公称するようになった。そして1912年6月7日、第57世日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行われた。
大石寺と本末が独立した後の本門宗の7本山とその末寺は、戦前の宗教政策により、1941年にいたり、勝劣派・一致派48本山が三派合同して結成した日蓮宗に参加し、その内部で興統法縁会を組織した。終戦後、7本山とその末寺は、引き続き興統法縁会に留まるもの、日蓮宗から独立して富士門流の新たな宗派の設立に参加するもの、日蓮宗から独立して日蓮正宗に合流するものなどに分かれた。
また、いったん日蓮正宗に合流したのちさらに独立して単立となったり、日蓮宗に復帰したり、正信会住職が日蓮正宗当局より殯斥処分を受けるなどの道をたどるものもあらわれた。
日蓮正宗は、これらの諸寺院とは、教義的にも宗教行為上の交流はないが、学術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺を訪れることがある。
創価学会との関係
1930年(昭和5年)に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させた教義を奉ずる教育団体として「創価教育学会」が設立され、初代会長には牧口が就任したが、日蓮正宗では信徒団体として認めなかった。
このとき牧口は宗門に提出した調書に「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、自分の価値論を実践する一個の独立した団体」と供述している。
太平洋戦争終結後、第2代会長に就任した戸田は、創価教育学会の名称を創価学会と改称し、以後、日蓮正宗も格段に発展することとなった。とりわけ、1960年(昭和35年)の第3代会長池田大作(現・名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会信者の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長らく双方の間には蜜月状態が続いた。1970年代後期の昭和52年路線の教義逸脱問題を経て、1991年11月28日に、日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕の名前で創価学会を破門処分にした。
宗務院録事にも創価学会の組織結成を許可した事実が記載されていないため、日蓮正宗と創価学会は一致派日蓮宗と立正佼成会の関係と同じで、正規の信徒団体とはいえないとも指摘されている。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ指導教師も初めから存在しておらず(宗教法人設立当時に戸田が指導教師とした65世法主日淳はあくまでも戸田個人の指導教師であった)、宗内ではゲスト的に扱われていた。
富士門流寺院の合流と離脱
- 1900年(明治33年):大石寺とその末寺は、富士門流の統一教団本門宗から離脱し、日蓮宗富士派を設立した(1912年に日蓮正宗と改称)。
- 1941年(昭和16年):この年に制定された宗教団体法の圧力により、本門宗は勝劣派の顕本法華宗や一致派の日蓮宗と三派合同をおこない、それぞれの組織を解消して勝劣一致の日蓮宗を新たに発足させた。富士門流寺院は日蓮宗の内部で興統法縁会を組織し、本門宗の前管長由比日光(西山本門寺49世貫主)が初代会長に就任。日蓮正宗は単独で独立した宗派としての地位を維持。
- 1945年(昭和20年):GHQの指令により宗教団体法廃止。
- 1950年(昭和25年) :旧本門宗の本山下条妙蓮寺(興門八本山のひとつ)が旧末寺6ヶ寺とともに日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。
- 1956年(昭和31年):旧本門宗の本山北山本門寺(興門八本山のひとつ)の旧末寺妙泉寺が日蓮宗より離脱して日蓮正宗に合流。
- 1957年(昭和32年):旧本門宗の本山西山本門寺(興門八本山のひとつ)が49世貫主の由比日光の主導により、本山単独で日蓮宗より離脱し、日蓮正宗に合流。塔中・檀信徒の反対派により、日蓮正宗との合併手続きの無効訴訟が起こされる。
- 同年、旧本門宗の本山保田妙本寺(興門八本山のひとつ)と旧末寺の一部(4ヶ寺)、北山本門寺の旧末寺讃岐本門寺などが日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。
- 同年、宮崎県内の富士門流寺院の本山定善寺が旧末寺6ヶ寺とともに日蓮宗を離脱し、日蓮正宗に合流。
- 1958年(昭和33年):定善寺の旧末寺・妙国寺が日蓮正宗より離脱して単立に(1976年、日蓮宗に復帰)。
- 1960年(昭和35年):定善寺の旧末寺・本源寺(経王山)が日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。
- 同年、下条妙連寺の旧末寺忠正寺が日蓮宗を離脱して日蓮正宗に合流。
- 同年、西山本門寺の49世由比日光死去。日蓮正宗は由比日光の後継指名に基づき下条妙蓮寺の前貫主吉田日勇を後任に任命。
- 1975年(昭和50年):西山本門寺の裁判で最高裁判決。信徒側が勝利し、日勇は西山本門寺より退去。西山本門寺は日蓮正宗より離脱し単立寺院に。
- 1982年(昭和57年)、保田妙本寺の旧末寺・本顕寺は正信会会員の住職が日蓮正宗当局より擯斥処分をうけ、日蓮正宗とは絶縁状態に。
- 同年に住職が正信会会員として擯斥処分をうけた寺院が百数十ヶ寺。その大部分は大石寺とともに日蓮宗富士派(日蓮正宗)の設立に参加した寺院や、富士派ないしは日蓮正宗の寺院として建立された寺院である。
- 1993年(平成5年)、保田妙本寺は旧末寺の顕徳寺および遠本寺とともに日蓮正宗より離脱して単立に。
現在の宗門の体制
法主の地位と権限
唯授一人の血脈相承を受けた法主(ほっす)が、日蓮正宗の宗門における僧侶の最高位であり、僧侶の階級は大僧正(だいそうじょう)である。近年の宗規では、法主のみが管長推戴会議の選定を経て宗務行政の長である管長の職に必ず就くことになっている。また法主は総本山大石寺の貫首(住職)をも兼ねている。現在の法主は、第68世早瀬日如である。
次期法主候補者があらかじめ公表されている場合、次期法主候補者は学頭に任じられる。学頭の僧侶としての階級は権大僧正(ごんだいそうじょう)となる。ただし公表されない場合は、学頭は空席のままである。法主の下には若干名の能化(のうけ)が、法主に次ぐ高僧衆として存在し、現在は前法主の日顕を除く10名の僧侶が能化の位にある。
法主の尊称として他の伝統仏教宗派では見られない「御法主日○上人猊下」もしくは「日○上人」が用いられる。生前に退座して隠居した前法主は御隠尊猊下または御隠尊上人と敬称される。 なお、上人の称号は、法主の許可により、能化をはじめ、法主経験者以外の者にも贈与または追贈されることがある。また、日の字がつく法名を日号(にちごう)といい、僧侶には存命中に与えられる。ただし能化(権僧正)以上の高僧しか存命中に公称することは許されない。ただし死後は、やはり法主の許可により、一般僧侶も、また在家信徒にも戒名中に日号がつけられる場合がある。上人号・日号等の授与権は、本尊書写権や教義裁定権と並んで「法主のみの権能」とされている。こういった重要権限の「中央集権」化は、師弟子を正して成仏を期すという考えの表れであり、地元の住職が独自に文字曼荼羅本尊を書写し親しい信徒に下賜することもある穏健派・世俗派の身延系の日蓮宗とは対照的である。
宗務行政
宗務院の事務を総理する長として、管長の職を置く。管長は法主・大石寺住職が兼任する。宗務院は、総本山大石寺境内に置かれている。管長を補佐する宗務総監の指揮監督の下、庶務部・教学部・布教部・海外部・渉外部・財務部の6部門によって宗務行政が分担される近代的事務機構が構築されている。なお、管長・総監に次ぐ役職として重役も設けられており、顧問的役割を持つ。各部には部長、副部長(現在、布教部と海外部、財務部は空席)、主任が置かれており、特に庶務部長は実質的に総監を補佐する立場にある。この他に、僧侶の中から選挙によって議員が選ばれる宗会、綱紀粛正機関である監正会、管長が任命した権大僧都以上の者5名による参議会などの合議システムも導入されている。
宗務院は全国に大布教区と大布教区に統轄される布教区を敷いている。総本山塔中には特別布教区を敷いている。特別布教区の事務は、大石寺内事部において取り扱われている。内事部では法主のもと塔中坊の住職の中から主任理事が1名、執事が1名ないし2名、理事が若干名任命され総本山の寺務の責任者となる。法的に、大石寺の代表役員は法主が務め、主任理事、理事、総代が責任役員となる。
また、主任理事、執事は法主の大石寺住職としての法務を補佐する立場にあり、法主不在の場合代理で法要の導師を務めるなどする。
出家制度
日蓮正宗寺院の住職・主管、副住職・副主管は僧の妻帯が解禁された明治維新以降の伝統仏教でよく見られるような世襲制、家族経営ではなく、ローマカトリック教会同様に管長の辞令により総本山から派遣される極めて中央集権的なシステムとなっている。そのため、短期間で住職が交代したり、2つの寺院の間で住職が入れ替わるということもある。副住職・副主管に関しては、宗規で、住職・主管が教師の中から選び、法主の承認を得て着任する決まりとなっている。したがって、住職は寺院の財産を私的に用いる(相続など)ことは出来ない。
僧侶となる場合、かつては宗内の僧侶が弟子をとることもあったが、現在は得度審査に合格して法主上人の弟子となる。大半の僧侶は少年得度で12歳、小学校卒業と同時に出家する。それ以外の一般得度者(高卒~57歳まで)も随時募集される。出家得度し高校3年生まで総本山大石寺で修業した後、地方寺院(主に本山格寺院や大都市周辺の寺院)で4年程度在勤し、最後に総本山で1年在勤したのち教師補任式をへて教師に補任される(説法を許される)。管長の辞令があれば地方寺院の住職(副住職の場合もあり)として派遣される。一部の僧侶は得度以来総本山で一生を過ごす者もいる。法衣は全階級とも白五条袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると模様が入るなどの違いはある)であるが、袈裟・衣は管長の免許がなければ着用することはできないことになっている。
僧侶の階級
日蓮正宗では僧侶の階級(僧階)は次のようになっている。
- 教師
- 大僧正(法主及び法主経験者)
- 権大僧正(学頭)
- 僧正
- 権僧正
- (これより上が能化となる)
- 大僧都
- 権大僧都
- 僧都
- 権僧都
- 大講師
- 講師
- 少講師
- 訓導
- 権訓導
- 非教師
- 一等学衆
- 二等学衆
- 三等学衆
- 沙弥
それぞれの階位の授与等は内部規定による。
宗門役僧
- 管長 早瀬日如(総本山大石寺住職)大僧正
- 前管長 阿部日顕(前・総本山大石寺住職)大僧正
- 総監 八木日照(東京・法道院主管、法華講本部指導教師)権僧正
- 重役 藤本日潤(東京・常泉寺住職、元・総監)僧正
- 宗会議長 土居崎慈成(東京・妙光寺住職)
- 教学部長 水島公正(所沢・能安寺住職、法華講本部指導教師)
- 布教部長 阿部信彰(東京・常在寺住職、法華講本部指導教師)
- 庶務部長 斎藤栄順(東京・妙国寺住職)
- 海外部長 漆畑行雄(富士宮・本山妙蓮寺住職)
- 財務部長 長倉教明(札幌・日正寺住職)
- 渉外部長 秋元広学(東京・宣徳寺住職)
- 副教学部長 宮野審道(埼玉・啓信寺住職、(株)大日蓮出版代表者)
- 副庶務部長 田中導正(大石寺塔中蓮東坊住職)
- 副渉外部長 梅屋誠岳(藤沢・寿照寺住職)
日蓮正宗の信徒団体
- 法華講
- 法華講は日蓮正宗唯一の信徒団体である。各末寺に檀家グループの○○講(講中)が存在し、この○○講の総称を法華講という。法華講は日常の唱題行や総本山への団参登山を行うものとして、宗史上古来より存在していたが、1962年にこれらの○○講の連合体として日蓮正宗法華講全国連合会(略称全連)が結成されて加盟するようになった。この全連は1967年に日蓮正宗法華講連合会(略称連合会)に改称され、現在に至っている。
- 日蓮正宗の信徒団体を作るには、末寺の住職が信徒団体の指導教師となって信徒団体を作ろうとする代表者と連名で「組織結成許可願」を宗務院に提出し、宗務院での審議を得て日蓮正宗の管長である法主が「組織結成許可書」に署名押印して「組織結成許可書」が交付されて指導教師から○○講に手渡される。これは明治時代からのシステムであるが、第2祖日興の「この法門は師弟子をたゞして仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)の伝統と慣習を踏襲したものであり、「組織結成許可書」に類する江戸期の古文書も残っている。こうして結成された○○講は、日蓮正宗法華講全国連合会に加盟申請書を提出し、総本山内の日蓮正宗法華講全国連合会事務所(通称法華講事務所)で加盟手続きが行われる。よって「組織結成許可願」と指導教師のない団体は日蓮正宗の正規の信徒団体とはいえないことになっている。
- なお法華講では、日蓮正宗法華講連合会発行の大白法(だいびゃくほう)が唯一の機関紙となっている。毎月1日と16日に発行され、定価は100円である。
- 法華講の役員
- 各末寺の法華講の役員には講中の代表者の講頭、副講頭、幹事、会計がいるが、法華講の役員はすべて「組世話役」と定義され、他の寺院に所属する講員に対して指導することは指導教師(住職・主管)に対する越権行為に当たるのでしないことになっている。日蓮正宗法華講連合会には事務機構上、委員長、副委員長、理事、地方部長などの役職があるが、これも「組世話役」と定義され、「連合会」に加盟する各法華講を指導・監督することはない。また名誉職として総講頭、大講頭の称号があるが、信徒を指導することはない。大勢の信徒の前でスピーチをする場合には「挨拶」や「激励」の名目で行う。
- 海外の法華講
- 法華講の役員
日蓮正宗の機関誌(教誌)
- 大日蓮
- 日蓮正宗唯一の機関紙誌(教誌)は大日蓮(だいにちれん)である。時局に応じて号外も発行されている。宗務院録事、総本山録事、宗務広報、法主の説法、布教講演及び論文、総本山の動き、末寺の動き、海外の動き、住職普山の挨拶などが載せられていて、定価は300円である。宗務院録事には、総本山での法要などの達示、住職などの辞令、講中組織結成許可、檀徒団体の法華講の役員の承認、末寺の檀家総代の承認などが掲載されている。総本山録事には、総本山における人事が載せられている。総本山の動きには総本山で奉修された法要など、末寺の動きには末寺で奉修された法要などが掲載されている。1916年創刊。この他、各末寺で寺報が発行されており、大日蓮と末寺の寺報のみが機関誌紙とされている。
日蓮正宗信徒の活動
信徒の修行としては、本尊に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経を読誦すること(自行の題目)と並び、それを他の人に伝える折伏の修行(化他の題目)が基本となる。自行としての日常の勤行は、妙法蓮華経方便品・如来寿量品(長行、自我偈)の読誦、唱題(「南無妙法蓮華経」の題目を唱えること)を基本構成とし、古来からの朝五座・夕三座の格式を守って行われている。総本山への「登山参詣」(総本山大石寺に参詣すること)末寺への参詣は重要な修行として、成仏への功徳を積むことができる行為と考えられている。
日蓮正宗の檀信徒名簿へ登録を受けるためには、末寺において授戒を受け、さらに曼荼羅本尊を下附されなければならない。授戒のみ受けて本尊未下附の者は内得信仰と呼ばれる。
日蓮正宗に対する教学上の批判
日蓮宗の諸派は伝統的に、「本門戒壇の大御本尊=偽作」説と「二箇相承=偽書」説、さらに「三大秘法抄=偽書説」等でこの宗派を批判してきた。しかし、本門戒壇の大御本尊は「日蓮大聖人の魂魄が宿る」とされているため、放射線による科学的な鑑別などは一度行われたことはあるが、二箇相承および三大秘法抄の原本も現在存在しないため、700年にわたる論争に未だ決着はついていないとされる。
また日蓮本仏論の根底にあるのは、法華経本門の経文を解脱益・本門文底の南無妙法蓮華経を下種益として末法において脱益の教えに効果がないとする「種脱相対」の教えであるが、あくまで日蓮の思想は「末法の衆生には先に題目による下種を行い、のちに法華経の経文を学び色読(法華経の教えの実践)することで解脱益を得る」という修行の順序を説いたのであり、日蓮正宗はそのような日蓮の遺文を曲解し、独自の思想を唱えた。
また日興の時代から謗法厳誡の教えを守ってきたと主張しそのことを「富士の清流七百年」と自ら称しているが、実際には浄土宗の檀家である徳川将軍家の庇護を受けその見返りに他宗と合同で法要を行った記録があり、日蓮宗不受不施派や本門仏立宗のような弾圧を受けていないことから、実際に謗法厳誡を強調するようになったのは明治維新以降と考えるのが妥当である。
一方、正信会、創価学会との対立のなかから、法主個人への絶対帰依や権力の集中を指摘する主張が生まれてきた。しかし日蓮正宗側ではこうした主張は成り立たないと主張している。根拠としては、日興遺戒置文などにおいて法主と他の僧侶の関係が示されることで法主として判断の客観性が担保されていることなどがある。このような批判がなされる背景には、日本仏教における伝統宗派の多くは、1970年代以降「下からの近代化」を目指す動きの中で試行錯誤しながら教団体質の民主化を進めてきたのと対照的に、日蓮正宗は伝統的に管長一人に権力をより集中させており中央集権制を維持していることが挙げられる。
独特の仏罰論、死相観に対しては以前より賛否両論がある。つまり、入信しないと不幸になる、入信しないで死んだ人は死体が死後硬直して遺体は重くなる、といった発言による勧誘や、自派に関わる科学的・歴史的な批判は受け入れないが、他宗派を激しく攻撃する際には武器として扱う等、言動は明らかに他の仏教宗派と一線を画し、排他性が強いと批判されることがある。
現在の日蓮正宗と他教団との紛争
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過去においては他宗教は全て謗法・邪宗であると定義し、これらに対する折伏を行ってきている。その意味であらゆる宗教と対立関係にあるといえる。折伏はあくまで常識と礼儀をもって行われるべきものと実は宗祖自身が規定しているが、実質的には誹謗中傷同然であり、寛容と共生の精神に著しくかけるという指摘もある[要出典][誰によって?]。また他教団の教義を十分理解していない状況で発言するため、折伏になっていないとする見方もある[要出典][誰によって?]。現状で「紛争」といえるような対立関係(教義以外についての対立関係)があるのは創価学会や正信会、冨士大石寺顕正会などがあり、特に組織の規模として創価学会が目立っている。
顕正会の前身の妙信講は1974年(昭和49年)、創価学会は1990年(平成2年)(正式な破門は翌1991年(平成3年))にそれぞれ日蓮正宗から破門(特に妙信講は破門よりもさらに重い講中解散処分)されている。
それ以来、両団体は日蓮正宗「からの」攻撃に対する対応、および日蓮正宗「への」攻撃に多くの時間と労力を費やしており、「仏敵を責めること」が重要であるという立場から、とりわけ創価学会は聖教新聞などの機関誌で連日のように日蓮正宗への誹謗中傷を繰り返してきた。中でも前法主の日顕を含む高僧に対しては、一段と激しい批判がなされた。
他にも、横須賀法照寺では創価学会信者が2度にわたって放火で現行犯逮捕されるなど、刑事事件も頻発した。
ただし、学会側も2010年以降は表立った攻撃や批判を縮小する傾向が見られる。それまで聖教新聞の寸鉄欄は5項目中1項目が必ずと言っていいほど宗門を批判する内容となっていたが、現在は学会内部の綱紀や社会治安に関する内容へと変化している。また暴力攻撃も現在では比較的収まってきているが、それでも学会はスパイを送り込むことがあり、宗門側もスパイ行為を恐れ寺院の人の出入りの監視を行っている[要出典]。
日蓮正宗に対する外国政府による評価
- 台湾では、阿部日顕が外省人主体のマスコミにより新聞、TVなど各種媒体で「花和尚」(好色僧)と紹介されたことがある。
- フランスでは、1980年代に「日蓮正宗(創価学会)」の名称でセクトとする報告が国民議会へ提出されたこともあるが、1996年の新しい報告書において該当部分はSGIフランスと書き改められており、日蓮正宗と創価学会を分離した上で判断を下しているが、一部の民間団体では創価学会と同様のセクトと主張する団体も存在する。
- アルゼンチンでは、「日蓮正宗のみが正しい宗教で、他の宗教は邪教」とする基準での評価が、マザー・テレサへの誹謗中傷と判断されたことと、政府の許可を得ずに布教所の開所式を行ったことによって、1998年7月に現地の法人格を抹消されて僧侶も国外退去処分を受けたが、現在は布教所は儀式を奉修して、寺院活動は継続している。大統領令によって1年に亘って公式に活動はできなかったが、「法人取り消し及び活動禁止処分の停止の仮処分」が1999年4月28日に現地裁判所で認められ宗教活動を再開した。その後、アルゼンチン政府は2009年8月10日付で宗教登録抹消処分を撤回し、これを受けて裁判所も同8月27日に関連する訴訟の終結を宣言した。
- ヨーロッパでは元は創価学会の親団体であったということ以外その存在をほとんど知られていない。欧米では日蓮仏教=創価学会という認識が一般的である。創価学会がカルトと同一視されるようになったため、組織的に別のものであることが強調される。他の宗派はすべて邪宗であるとの主張が批判されることもある。
- マレーシアでは仏教団体に関してはこの宗派のみが僧侶の常駐を許可されている。
主要寺院
行事
年中行事・恒例行事(総本山の行事は大石寺の項目を参照)
- 1月1日 元朝勤行
- 正月3ヶ日 新年勤行会
- 1月成人の日 成人式(各寺院で檀信徒に新成人がいない年は行わない)
- 2月3日 節分会
- 2月7日 興師会(開祖・日興の祥月命日)
- 2月16日 宗祖御誕生会
- 3月春分の日 春季彼岸会
- 4月28日 立宗会
- 虫払い法要(宝物がある一部の古刹寺院のみ、大石寺では毎年4月6日、4月7日に営まれる)
- 8月15日 盂蘭盆会
- 9月12日 竜口法難会
- 9月18日、9月19日 寛師会(第26世日寛上人祥月命日)
- 9月秋分の日 秋季彼岸会
- 10月 - 11月 宗祖日蓮大聖人御大会(大石寺では11月20日から11月21日にかけて営まれる)
- 11月15日 目師会(三祖・日目の祥月命日。七五三を兼ねる)
- 11月20 - 21日 宗祖日蓮大聖人御大会(日程は末寺によって違う場合あり)
- 毎月1日 御経日(信徒精霊、先祖供養)
- 毎月第1日曜 広布唱題会(大石寺と全ての末寺で一斉に午前9時からの1時間唱題会)
- 毎月第2日曜 日蓮大聖人御報恩御講(大石寺大坊では13日のみ、一部の寺院では命日にあたる13日にも行われる)
- 御経廻り(春秋の彼岸やお盆に僧侶による檀家回りが行われる)
冠婚葬祭(日蓮正宗の冠婚葬祭は化儀に則って行われるが、地域の風習などで多少の違いがある)
関連項目
外部リンク