堺事件
堺事件(さかいじけん)は、慶応4年(1868年)に和泉国堺で起きたフランス水兵殺害の責を負って土佐藩士が切腹した事件。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)とも呼ばれる。

経緯
発端
攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス副領事ヴィヨー一行は大阪から兵庫の領事館への帰路、陸路を伝って堺に寄ろうと紀州街道を南下した。外国事務局からその通報の無かった警備隊長箕浦猪之吉、西村佐平次ひきいる土佐藩兵は同日昼ごろこれを阻み、大和川にかかる大和橋で引き返させた。
事件の概要
同日午後三時ごろ、領事一行を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスは堺港に入り、湾内を測量、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた箕浦、西村らは帰艦を諭示させたが言葉が通じず、藩兵は水兵を連行しようとした。水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとしたため、土佐藩側は咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。
死亡したフランス人は11名いずれも20代の若者であった。
- シャルル・P・アンドレ・ギヨン 第一級見習士官 22歳
- ガブリエル・M・ルムール 第一級一等水兵 28歳
- ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ 機関運転手 24歳
- オーギュスト・ルイ・ランジュネ 三等水兵 22歳
- ラザル・M・ボベス 三等水兵 22歳
- ピエール・M・モデスト ニ等水兵 27歳
- アルセーヌ・フロミロン・ユメ 三等水兵 23歳
- ジャン・マチュラン・ヌアール 三等水兵 22歳
- ジャック・ラヴィ 三等水兵 22歳
(以上9名は3月8日死亡)
- ヴァンサン・ブラール 三等水兵 20歳
- フランソア・デジレ・コンデット 水兵希望 23歳
(以上2名は9日死亡)
埋葬
彼ら11名は神戸居留地外人墓地においてロッシュ、パークスのほかオランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬された。ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには「補償は一層公平に少しも厳しくないことなく行われる。ここに余は、フランス皇帝陛下の名において諸君に誓うものである。皆の死の報復こそ、将来我らが、我が戦友が、我が市民が、諸君が斃されたごとき残虐なる行為から逃れると望むことの方法で実施されよう。」という復讐を誓った激烈な一文が込められていた。
波紋
事件発生の報は翌2月16日の朝には京都に届いた。山内容堂は、2月19日早朝、たまたま京都土佐藩邸に滞在していた英国公使館員ミットフォードに、藩士処罰の意向をフランス公使に伝えるように依頼した。この伝言は淀川を下り、夕刻には大坂へ戻ったミットフォードにより、兵庫に滞在するフランス公使レオン・ロッシュに伝えられた[1]。
ロッシュは、同じく2月19日、在阪各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は和泉国・摂津国の間にあったから、明治政府は憂慮し、イギリス公使ハリー・パークスに調停を求めたが失敗、22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされるが、捕縛ではなく発砲による殺傷を目的とした野蛮な対応に外国は震撼した。
判決
土佐藩は警備隊長箕浦以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。一方朝廷の岩倉具視、三条実美らフランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者を数を減らすように要求。結局、政府代表の東久世通禧らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下二十人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。
まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、現在の大阪府大阪市西区にある土佐稲荷神社で籤を引いて決めた。
死刑となった顔ぶれは以下の二十名である。
- 箕浦猪之吉 25歳
- 西村佐平次 24歳
- 池上弥三吉 38歳
- 大石甚吉 35歳
- 杉本広五郎 34歳
- 勝賀瀬三六 28歳
- 山本鉄助 28歳
- 森本茂吉 39歳
- 北代健助 36歳
- 稲田貫之丞 28歳
- 柳瀬常七 26歳
以上が切腹した。(数字は亨年)
- 橋詰愛平
- 川谷銀太郎(恩赦直前の1868年9月5日病死)
- 金田時治
- 竹内民五郎
- 岡崎栄兵衛
- 土居八之助
- 横田辰五郎
- 垣内徳太郎
- 武内弥三郎
川谷以外は恩赦八士と呼ばれた。
執行
2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った[2]。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長デュプティ=トゥアール(Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。
後始末
2月24日、外国事務局総督山階宮晃親王は、大阪鎮台外国事務兼務伊達宗城を伴ってフランス艦に行き、謝意を表し、償金15万ドルを交付した。
その後
処刑を免れた橋詰愛平ら9人は、土佐の渡川(四万十川)以西の入田へ配流され庄屋宇賀佑之進預けとなり、その後明治新政府の恩赦により帰郷した。自刃した土佐藩士は妙国寺内にあつく葬られ、遭難したフランス人の碑も神戸市立外国人墓地に建てられた。