伽耶

朝鮮半島の古代国家連盟

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伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

伽耶
伽耶の地図、4∼5世紀終わり頃
各種表記
ハングル 가야
漢字 伽倻、加耶
発音 カヤ
ローマ字 Gaya
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呼称

加羅はまた加耶とも呼ばれる。たとえば、「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[1]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている[1]

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[2]

宋書』では「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑[4]801年成立の『通典[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。19世紀初頭の清で編纂された『全唐文』では加耶という表記が用いられている。[要検証]

720年に成立した『日本書紀』では加羅任那が併記される[6]。日本の歴史学でも、加羅と加耶が併記される[7][8][9][10]

概要

三韓の一つの弁韓を母体とする。

三国史記』『三国遺事』などの文献史料では3世紀までは伽耶諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測している。1世紀中葉に狗邪韓国(金官国)(慶尚南道金海市)を中心とした弁韓諸国と呼ばれる政治集団群が出現し、これら諸集団間の統合が進行して3世紀には前期伽耶連盟が成立したとしている。

4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓辰韓は自立して百済新羅を形成したが、その間にある弁韓の諸国は国家形成が遅れた[11]。倭国(日本)の圧迫を受けたためとされている(『広開土王碑』『宋書』倭国伝[11])。『日本書紀』ではこれを任那とし、倭に従属した政治的統合体で、倭の出先機関(任那日本府)の存立を記述している[11][12]

5世紀初めには金官国の勢力は衰え、5世紀後半には北部の大伽耶国(慶尚北道高霊郡)を中心にした後期伽耶連盟が形成されたとされる。

6世紀には強国となった新羅や百済の攻撃を受け、一国づつ滅亡し、次第に勢力が弱くなった[13]。加羅諸国は、512年に4県を百済が併合し、532年には南部の金官加羅国が新羅に投降、また562年には洛東江流域の加羅諸国を新羅が併合したことで、加羅は滅んだ[11]

倭国および任那との関連

伽耶地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族、または倭人系百済官僚などが当地で軍事的・経済的影響力を有していたことが有力視されている[12][14]。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで[15]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。404年には倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵攻したので敗退させた[16]

また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見されている[17]。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の西隣であり、金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[18]。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア全体でも日本とミャンマーに限られること[19]や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[20]ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。


 
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 任那
伽耶

42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗
918-

高麗
武臣政権
1170-1270
高麗
征東行省
1270-1356
高麗
-1392
李氏朝鮮
1392-1897
大韓帝国
1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮
1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

井上秀雄は、任那日本府は『日本書紀』が引用する『百済本紀』における呼称であり、『百済本紀』とは百済王朝が倭国(ヤマト王権)に迎合的に書いた史書だとの主張に基づいて、従来の研究の否定を試みている[21]、任那日本府について近代での朝鮮総督府のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団としている[21]三国志『魏志』韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする[21]。『百済本紀』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国(ヤマト王権)とを結びつけたのであり、任那日本府とヤマト王権は直接的には何の関係も持たないとする仮説を打ち出した[21]

任那とは伽耶諸国の任那加羅(金官加羅・駕洛国[22][23])の勢力範囲を指し、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある[24]

歴史

辰韓諸国と弁韓諸国

朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道大邱慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。

朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。1世紀中頃になると社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。また、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件に恵まれていた。

駕洛国(金官伽耶)

2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)でああった。金官伽耶は、自身を盟主として前期伽耶連盟[25]を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争った。前期伽耶連盟の文化中心は金海・咸安を取り囲んだ慶尚南道海岸地帯であり、現在も貝塚土坑墓などの遺跡が散在している[26]

4世紀初に至り高句麗楽浪郡帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼすようになった。さらに4世紀中頃になると百済も朝鮮半島南端まで影響力を及ぼす。また新羅も辰韓の盟主として独自の勢力を固めていた。伽耶は楽浪との交易断絶で打撃を受けたが、百済と商業交易を引き続き行った。このころから、百済・倭国と関係を深め、倭国の軍事力を利用するために倭国の外交機関が設置されていたとする説がある[24]

倭国と高句麗の戦争

4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[27]393年には倭が新羅の王都を包囲する[28]397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[29]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[27]400年には倭が新羅の王都を占領していた[27]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[27]402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる[27]

405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭の朝鮮半島への影響力が伸張していた。なお三国史記ではこの時期の伽耶に関する直接的記述は空白となっている。

日本書紀では、厳密な実年代の特定は困難ながらも、神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありしひのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。

後期伽耶連盟

この呼称も文献史料には一度も出現せず、考古学の知見に文献史料を統合した現代的概念である。

高句麗の遠征を受けていったんは勢力が縮小した伽耶地域は、5世紀に入って再び成長し始めた。西部慶尚道内陸地方の高霊・居昌山清・咸陽・南原などの勢力は急速に発展し、先進地域から脱落した慶尚南道海岸地帯の金海・咸安泗川などの勢力も復旧の動きを見せていた。このような中、新羅は5世紀前半に高句麗の干渉を排除して百済と和親を結んだが、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済を撃って首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させ、新羅はこの機会に秋風嶺を越えて西方に進出するなど国際環境が大きく変動した。 5世紀後半には旧伽耶地域の小国の間に伽耶の再統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成した。479年南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのはこの高霊地方の大伽耶国と考えられている。[30]

大伽耶を中心にした後期伽耶連盟は、481年には高句麗・靺鞨の新羅侵入に対して百済と同盟して援兵を送るほどに成長した。その後、百済ととが河東を交易場に利用しようとすると、大伽揶は百済と小白山脈を境界とし軍事的に対峙するようになった。百済が卓淳国・多羅国などへ進出しようとしてくると、大伽耶の異脳王は国際的孤立から脱するために522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を実現して安定をはかった。しかしこの同盟の後に新羅は却って伽耶諸国に攻め入り、532年に金官伽耶が新羅に服属してしまい、百済に救援を求めることとなった。百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して伽耶諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に伽耶諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が伽耶諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして伽耶南部地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると、新羅の優勢が決定的となり、562年には盟主の大伽耶(高霊)が新羅に投降したことで、伽耶諸国は新羅領に組み入れられることとなった。[31]

伽耶諸国

駕洛国(金官伽耶)

駕洛国、もしくは金官伽耶・金官加羅・任那加羅[24]ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衝王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官伽耶の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。

駕洛国の歴代王については、朝鮮の君主一覧#駕洛(本加耶・金官伽倻)を参照。

大伽耶

金官伽耶もまた大伽耶(大駕洛)と称されていたように、大伽耶の表現そのものは固有名詞ではなく、伽耶諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡[32])が、一般的には大伽耶を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉王』(惱窒朱日ㆍ內督朱智)が大伽耶の始祖、弟『惱窒靑裔』(首露王)が金官伽耶の始祖であるとしており、新興の大伽耶がそれまでの盟主であった金官伽耶を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。

田中俊明によれば、『南斉書』に見える加羅国王荷知は高霊の伽耶王嘉悉王に当たると考えられている。

大伽耶の歴代王については、朝鮮の君主一覧#大加耶(高霊伽耶)を参照。

その他の伽耶

伽耶連盟の盟主となったとされる金官伽耶・大伽耶(伴跛)だけではなく、阿羅伽耶(安羅)(慶尚南道咸安郡)、古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがあった[33]。それ以外での小国としては、多羅(慶尚南道陜川郡)、卓淳(慶尚南道昌原市[34])、己汶(全羅北道南原市)、滞沙(慶尚南道河東郡)等が挙げられる。

これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されている[17]。(→後述

伽耶の言語

伽耶の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。伽耶語について具体的に記述したものとしては、『三国史記』巻44・斯多含伝に「栴檀梁城門名。加羅語謂門為梁。」とあるものが唯一の例である。「梁」は新羅語の訓読字で「tur(tol)」と読むことから、加羅語(伽耶語)では門のことを「tur(tol)」と言ったことがわかる。李基文は本例を日本語の「to(戸・門)」や満州語の「duka」と結び付け、高句麗語ら夫余系言語の影響を示唆している。

その他では、『三国史記』の伽耶地域の地名表記から伽耶語を再構する試みも行われている。李基文は、「玄驍県、本推良火県。一云三良火。」(巻34)から「推」の訓「mir」に基づき数詞「mir(三)」を、「漆隄県、本漆吐県。」(同)から普通名詞「to(堤)」を、それぞれ再構し、前者については高句麗語及び日本語と、後者については高句麗語と、それぞれ結び付けることができるのではないかと指摘している。

伽耶研究史

第二次世界大戦以前の日本における伽耶諸国の研究については、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部を支配するための出先機関であるとする前提に立つものであった。任那日本府の解釈に沿って日本府を合理的に説明しようとする姿勢から抜け切ることができなかった。そのような解釈は明治期の那珂通世菅政友らの研究から見られ、津田左右吉を経て戦後に末松保和『任那興亡史』において大成された。その反動として戦後の研究では、日本の出先機関が存在したことを否定しようとする姿勢が強く、現代的政治的欲求からみた解釈に左右されることが多かった。

1970年代以降には洛東江流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに、過去の政治的欲求に基づく解釈から解放された議論が盛んとなった。

1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見[17]を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されており[24][35]、引き続き考古学的調査による解明が待たれている。

脚注

  1. ^ a b 上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年,39-41頁
  2. ^ 永楽10年(400年)条
  3. ^ 438年条には「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記
  4. ^ 翰苑』新羅条で「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。
  5. ^ 通典』辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている
  6. ^ 『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。欽明天皇23年の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
  7. ^ 武田幸男氏『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社,1997年,354頁以降)
  8. ^ 末松保和『任那興亡史』吉川弘文館(増訂1971年)
  9. ^ 井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫,105-107頁,140頁ほか
  10. ^ 上垣外憲一『倭人と韓人』 講談社学術文庫2003年
  11. ^ a b c d 浜田耕策「加羅(から)」
  12. ^ a b 菊地照夫「日本府」
  13. ^ 宋讃燮、洪淳権(著)「概説 韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)(世界の教科書シリーズ(9))」藤井正昭(訳)ISBN 978-4750318424
  14. ^ 朝鮮学会編 『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)
  15. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  16. ^ 井上秀雄「古代朝鮮」講談社学術文庫、2004年,85頁
  17. ^ a b c 1983年に慶尚南道松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査で、松鶴洞一号墳に関しては築成時期の異なる3基の円墳が重なったもので、前方後円墳ではないと判明した。沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』。これまで全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」
  18. ^ 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」。他韓国報道等の資料[1][2]
  19. ^ 門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社
  20. ^ 早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会
  21. ^ a b c d 井上2004 pp.106-107.
  22. ^ 古代日本語においては「韓」の訓として「から」を用い、またの事を「おおから」と呼んだ事から、外国を意味する普通名詞としても「から」の言葉が使われるようになった。奈良時代より朝鮮半島との関係が絶たれ唐が唯一の外交相手国となったため、平安時代以降は、もっぱら「唐」の訓として「から」が使用されるようになった。室町時代後期に南蛮貿易を介して新たな文物が日本に来るようになってからも、「からいも」などのように外国一般を指す語として使われており、現在に至っている。
  23. ^ 「唐(から)」と「呉(くれ)」の語源
  24. ^ a b c d 吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。
  25. ^ この呼称は文献史料には出現せず、近年の歴史学における新しい概念である。
  26. ^ 韓国の旅-金海博物館-
  27. ^ a b c d e 広開土王碑
  28. ^ 三国史記
  29. ^ 三国史記
  30. ^ 伽羅(高霊)
  31. ^ 大伽耶王陵展示館
  32. ^ 伴跛の現在地はかつては星州郡だと考えられていた。
  33. ^ ダイダラボッチとは古代日本語でいうと
  34. ^ 卓淳の現在地はかつては大邱広域市だと考えられていた。
  35. ^ 朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。また、田中俊明は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。

参考文献

  • 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1972年。 
    • 井上秀雄『古代朝鮮』講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0 
  • 鈴木靖民『伽耶はなぜほろんだか 日本古代国家形成史の再検討』(増補改訂版)大和書房、1998年3月。ISBN 4-479-84047-8 
  • 武田幸男編 編『朝鮮史』山川出版社〈新版世界各国史 2〉、2000年8月。ISBN 4-634-41320-5 
  • 朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』講談社〈講談社選書メチエ 398〉、2007年10月。ISBN 978-4-06-258398-5 
  • 森公章『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社〈講談社選書メチエ 132〉、1998年6月。ISBN 4-06-258132-9 
  • 吉田孝『日本の誕生』岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1 
  • 田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った』吉川弘文館、1992年8月。ISBN 978-4642081368 

関連項目

外部リンク