大島康徳

日本のプロ野球選手、野球指導者、解説者 (1950-2021)

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大島 康徳(おおしま やすのり、1950年10月16日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手内野手)・プロ野球監督野球解説者

大島 康徳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県中津市
生年月日 (1950-10-16) 1950年10月16日(75歳)
身長
体重
182 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手左翼手
プロ入り 1968年 ドラフト3位
初出場 1971年6月17日
最終出場 1994年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

  • 日本ハムファイターズ (2000 - 2002)

来歴・人物

現役時代

高校入学まで野球経験はない。今津中学時代はバレーボールをやっており、大分県選抜チームのレギュラーだった。また、相撲が強かったため相撲部に助っ人で参加することもあった。相撲の大会を観戦に来ていた中津工業の小林監督が惚れ込み、本人は当初、乗り気でなかったもののスパイクとグローブをプレゼントされたのをきっかけに同校に入学。野球部ではエース、4番打者として活躍する。1968年中日ドラゴンズ(少年時代は阪神タイガースが贔屓のチームだったという)の入団テストで本多逸郎の目に留まり合格、同年秋のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡され、更に当時の監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた。

入団からしばらくは二軍暮らしだったが入団3年目の1971年に、助っ人外国人の故障で一軍初出場。翌年外野手のレギュラーとなるが、まだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。8年目の1976年代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。翌年も調子を持続させ、三塁手のレギュラーとして打率.333、27本塁打1979年には30本の大台を越える36本塁打。1983年に再び36本塁打を放ち本塁打王に輝く。

輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎた[1]他、守備に難があったためである。殊勲打を打っても失策でふいにしてしまうことが多々あった。中日ファンであったイチローは少年時代に、大島が三塁手から左翼手にコンバートされたのを知った時、もうすぐ引退かと思ったという[2]。当時チームメイトだった星野仙一も、「宇野は捕れば安心できたけど、大島は捕球しても審判がアウトを宣告するまでまったく安心できなかった」と述べている[3]

1985年西武ライオンズからトレード要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる[4]。しかし1987年オフ、星野仙一監督のチーム改革により、田中富生大宮龍男との交換で日本ハムファイターズ曽田康二とともに移籍。すでに37歳であったが、日本ハムでは一塁手としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、1990年8月21日の対オリックス・ブレーブス戦で通算2000本安打を達成。39歳10ヶ月での達成は当時最年長記録だった。さらに到達までに要した試合数2290は、プロ野球史上1位であり、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成も史上初であった[5]

1994年、代打起用がメインだったものの43-44歳にして.323の高打率を記録したが、同年オフ就任した上田利治新監督の構想から漏れ現役引退。現役26年は工藤公康(29年)、山本昌2012年時点で29年)、野村克也(27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。

ベストナインを1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは大島と松原誠の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて王貞治を上回ったにもかかわらず、その王にタイトルを持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った山本浩二盗塁王松本匡史、最多安打の田尾安志)。

引退後

1995年からNHK野球解説者、東京中日スポーツ評論家。2000年から2002年まで日本ハムの監督を務めた。監督としては熱血漢で知られ、瞬間湯沸かし器とまで言われたが、監督時代には巨人監督の長嶋茂雄を意識した所作及び指導方法が珍プレーとしてテレビで紹介された。

2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の打撃コーチに選ばれ、準決勝ではイチローを3番打者にするなどの打順変更を王貞治監督に進言した。日本の優勝後、大島は「昔からオリンピックに出場するのが夢だったんだ」と金メダルを首に掛けられた瞬間から人目を憚らず号泣していたという。

2009年現在は再びNHK野球解説者・東京中日スポーツ評論家として活躍している。

プロ野球マスターズリーグに、名古屋80D'sersの選手として在籍している。背番号は中日時代の5日本プロ野球名球会が主催する野球教室で着るユニフォームの背番号は、日本ハム時代に2000安打達成して名球会入りしたことから11である。

稲尾和久(中日と名球会で同僚だった)と同郷のため、稲尾には「ヤス」と呼ばれては可愛がられていたという。

私生活では30代半ばまで独身を通していた(大島の実家が早くに父・兄を失い大島が母の扶養をしていた)が、郭源治の紹介で10歳年下の客室乗務員をしていた女性と結婚。息子が2人いる。

2010年にファイターズの始球式をした際は2010年仕様、背番号「11」のユニフォームで登場した。

本人の公式ブログでは野球のことから家族のこと、ドラマの感想やファンであるSMAPの話題まで内容が幅広い。

現役時代・監督時代あわせて通算5回の退場処分の経験がある。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971 中日 74 266 241 25 49 4 1 7 76 22 11 3 3 0 21 0 1 80 5 .203 .270 .315 .585
1972 124 437 387 51 89 14 2 14 149 38 9 7 5 2 41 3 2 79 9 .230 .306 .385 .691
1973 117 368 316 42 76 11 0 13 126 42 10 10 7 1 43 1 1 72 5 .241 .332 .399 .731
1974 112 294 256 37 66 17 1 11 118 46 1 7 2 3 27 2 6 42 6 .258 .339 .461 .800
1975 91 183 162 22 45 8 1 4 67 23 1 2 2 2 17 1 0 45 2 .278 .343 .414 .756
1976 123 280 251 33 63 12 1 11 110 33 2 2 0 2 26 1 1 68 7 .251 .321 .438 .760
1977 126 491 433 64 144 15 1 27 242 71 6 11 2 1 52 3 3 74 12 .333 .407 .559 .966
1978 98 410 352 50 99 11 0 15 155 47 1 5 0 5 47 0 6 64 8 .281 .371 .440 .811
1979 130 559 501 95 159 33 1 36 302 103 1 7 0 7 46 4 5 87 12 .317 .376 .603 .978
1980 108 398 358 47 90 6 1 18 152 46 6 1 0 4 31 1 5 65 9 .251 .317 .425 .741
1981 130 548 468 69 141 22 2 23 236 81 7 1 0 4 68 9 8 71 11 .301 .396 .504 .900
1982 124 466 416 43 112 14 0 18 180 60 5 3 0 3 44 3 3 60 9 .269 .341 .433 .774
1983 130 543 473 69 137 13 1 36 260 94 7 1 2 3 64 5 1 69 12 .290 .373 .550 .923
1984 130 551 471 75 132 15 1 30 239 87 7 7 1 4 73 0 2 73 14 .280 .376 .507 .884
1985 101 396 339 48 90 15 0 23 174 56 2 3 1 5 49 2 2 66 9 .265 .357 .513 .870
1986 110 380 339 37 88 9 1 20 159 45 1 0 0 2 37 3 2 68 4 .260 .334 .469 .803
1987 111 313 283 31 76 12 1 15 135 49 0 0 2 2 25 1 1 46 9 .269 .328 .477 .805
1988 日本ハム 130 535 492 48 136 26 1 15 209 63 2 0 0 3 39 0 1 67 21 .276 .329 .425 .754
1989 130 540 461 52 122 26 0 18 202 59 5 4 1 7 69 4 2 66 18 .265 .358 .438 .796
1990 110 417 360 43 96 17 1 11 148 50 2 1 1 4 51 2 1 68 16 .267 .356 .411 .767
1991 120 463 403 35 101 18 1 10 151 61 1 0 0 8 51 0 1 62 15 .251 .330 .375 .705
1992 98 269 236 24 61 7 0 5 83 28 1 0 1 2 30 1 0 44 7 .258 .340 .352 .691
1993 47 47 42 0 11 4 0 0 15 8 0 0 0 0 5 0 0 8 3 .262 .340 .357 .698
1994 64 73 65 2 21 1 0 2 28 22 0 0 0 0 8 0 0 18 6 .323 .397 .431 .828
通算:24年 2638 9227 8105 1042 2204 330 18 382 3716 1234 88 75 30 74 964 46 54 1462 229 .272 .350 .458 .809
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2000年 日本ハム 3位 135 69 65 1 .515 4.5 177 .278 4.70 50歳
2001年 6位 140 53 84 3 .387 24.5 147 .256 4.79 51歳
2002年 5位 140 61 76 3 .445 28.0 146 .247 3.86 52歳
通算:3年 413 181 225 7 .446 Aクラス1回、Bクラス2回

※1 2000年は135試合制、2001年と2002年は140試合制。

※2 2002年、4月3,4日の出場停止2試合(2勝0敗)は通算成績に含まない。監督代行は高代延博

タイトル

  • 本塁打王:1回 (1983年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1979年) ※1994年より表彰

表彰

記録

  • 1イニング2本塁打:2回 (1972年8月2日、1977年8月9日)
  • 5試合連続本塁打 (1979年10月8日 - 10月17日)
  • シーズン最多代打本塁打:7 (1976年)
  • 最年長満塁本塁打:43歳6ヶ月 (1994年5月4日)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1977年、1979年、1983年、1984年)
  • 1000試合出場:1980年4月12日(214人目)

背番号

  • 40 (1969年 - 1976年)
  • 5 (1977年 - 1987年)
  • 11 (1988年 - 1994年)
  • 77 (2000年 - 2002年)
  • 87 (2006年WBC

関連情報

現在の出演番組

脚注

  1. ^ 「スポーツカードマガジン」のインタビューによると「若い頃は遊びの方が楽しく4打席立つと集中力が続かなかった」という理由だった
  2. ^ 2006 ワールド・ベースボール・クラシックでの発言
  3. ^ 2006年7月19日の阪神巨人戦を解説した際の発言
  4. ^ これは当時の西武が、田淵幸一山崎裕之の引退により右の主軸を務められる打者を欠いていたためであり、実際、前年限り日本ハムで引退しコーチとして西武に移籍していた井上弘昭が現役復帰している。なお、中日と西武の間では後日田尾安志大石友好杉本正とのトレードがまとまっている。
  5. ^ 【8月21日】1990年(平2) プロ22年生大島康徳 最長2290試合目の2000本安打 - Sponichi Annex

関連項目

外部リンク