赤須氏

これはこのページの過去の版です。海衛士 (会話 | 投稿記録) による 2012年7月27日 (金) 00:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

赤須氏(あかすし)は日本氏族のひとつ。

二つ巴(藤姓赤須氏)

清和源氏片桐氏族

藤原姓赤須氏

常陸国の赤須氏は本姓 藤原氏藤原秀郷の五世 太田大夫通延の子 佐都荒大夫通成の三男 彦四郎通頼が久慈郡赤須村に拠り赤須氏を起こすという。赤須城主にして佐都神社長官を務める。家系は佐竹氏に仕える者と同族 小野崎氏に仕える者とかあった[2]。佐竹家臣としては、南高野城主として赤須雅楽介の名が見える[3]。 小野崎氏家臣の赤須氏は小野崎通経により、大森氏瀧氏天龍氏石佐氏波氏茅根氏ともども家老に列している[4]

系譜 彦四郎通頼-兵庫介通俊-兵庫介通郷-兵庫介通景-次郎通胤-次郎太郎通胤

秋田藩の赤須氏

なお、佐竹氏に仕えた赤須氏の中で、佐竹氏の秋田転封に随行し、出羽国に移住した家系が三流あった。

  • 赤須景通流

赤須景通流については同家ゆかりの文書である『赤須新二郎宛義憲之証文写』に詳しい[5]

系譜 赤須景通-賢通-恭通-常通-清通-安通-平馬通賢
  • 赤須通長流

赤須通長流は通為の代に秋田に下向するという[6]

系譜 赤須通長-通為-通定-通安-市右衛門通良
  • 赤須通脩流

赤須通脩流は通国が隠居 佐竹義重に随行し、仙北郡六郷に住み、その子 通胤の代に秋田城下に住むという[7]

系譜 通脩一通清-通兼-通国-通種-治部助高通

水戸藩尊王志士・義民としての赤須氏

脚注

  1. ^ 太田亮上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)24頁参照。
  2. ^ 太田亮前掲書(角川書店、1934年)24頁参照。また、佐竹氏の家臣の記録でも、茅根、赤須、小野崎から分かれると記述されている。詳しくは大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)183頁参照。
  3. ^ 冨村壽夫冨村尚樹共著『 佐竹氏物語 : 史上最長不倒の豪族 』(非売品、2011年)224頁参照。
  4. ^ 太田亮前掲書第1巻(角川書店、1934年)1019頁参照。また、佐竹氏の家臣にまつわる記録でも、茅根、赤須、小野崎から分かれると記述されている。詳しくは大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)183頁参照。
  5. ^ 秋田県立公文書館編『系図目録Ⅰ (PDF) 』 (秋田県、2001年)112頁参照。
  6. ^ 秋田県立公文書館前掲書(秋田県、2001年)113頁参照。
  7. ^ 秋田県立公文書館前掲書(秋田県、2001年)113頁参照。
  8. ^ 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)221頁参照。
  9. ^ 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑2』(新人物往来社、1986年)193頁参照。

参照文献

  • 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)
  • 明石鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑2』(新人物往来社、1986年)
  • 秋田県立公文書館編『系図目録Ⅰ』 (秋田県、2001年)
  • 大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林、1993年)
  • 太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)
  • 冨村壽夫、冨村尚樹共著『 佐竹氏物語 : 史上最長不倒の豪族 』(非売品、2011年)
  • 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)

外部リンク

関連項目