荒武三省
荒武 三省(あらたけ さんせい、生年不詳 - 天文3年(1534年))は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。通称は藤兵衛、号して花雲軒三省。実名は宗名。子に右京亮宗並。
荒武氏は伊東家中でも落合氏ら譜代家臣とは違い、伊東氏の日向下向時に被官化した「都於郡四天衆」といわれる地侍の家系である。戦国期には奉行や代官を多く輩出したが、とりわけ三省は文武両道の臣として名高く、伊東尹祐の信任を受けて重用された。歌道にも達し、京から下向した飛鳥井雅康(二楽軒)と詠み交わした和歌が残る。
主に庄内北郷氏との合戦で活躍し、永正17年(1495年)には前線の勝岡城主を拝命する。大永6年(1526年)、肥後相良氏に犬童氏の乱が起こると出陣して鎮圧に貢献した。また、天文2年(1533年)、主君の伊東祐充の死去に伴い、その弟の伊東祐武が家老の福永祐炳一族を討ち内乱を起こすと、三省は都於郡を落ちた伊東祐清(伊東義祐)を擁立し、祐武の軍勢を破って自害に追い込んだ。
翌天文3年(1534年)新納院高城の戦いで米良一揆との激戦の末に戦死した。