日本のゲイ文化

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ゲイ文化(げいぶんか)とは、ゲイ(男性同性愛者)間の交流や文化をいう。ここでは日本のゲイ文化について触れる。

概略

日本では奈良平安時代には寺院における僧と稚児の男色(稚児愛・少年愛)が既にあり、江戸時代には武士同士の男色は衆道と呼ばれて盛んだった。それ以降は和歌などで同性への思慕が読まれたり、僧と稚児、公家と稚児の男色を描いた絵巻や春画などもあった。江戸時代には若衆歌舞伎男色を売る「陰間茶屋」が栄え、また男色を描いた小説も多く存在した。

戦後のゲイ文化は芸能やゲイバーゲイ雑誌などと共に発展した。60年代半ば頃から新宿2丁目にゲイバーが増え始め、ゲイ・タウンが形成されていく。2丁目コミュニティーの一部では一種のゲイ文化ともいえるオネエ言葉などが使われた[1]。1989年以降はゲイナイトと呼ばれるクラブ文化(後述)が産声を上げ、その中で「ドラァグクイーン」や「GO GO BOYS」なども生まれた。ゲイファッション(後述)にはニチョカジやコテコテファッション、レザーが基調のハードゲイ・スタイルなどがある。ゲイ雑誌ではゲイ小説ゲイ漫画、ゲイヌードグラビアが掲載され、多くのゲイ作家が生まれた。

クラブカルチャー

生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカニューヨークのゲイ・シーンであり、客層はゲイの黒人などマイノリティが主流であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っており、こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどがあった。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJ、ラリー・レヴァンである。

現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らプロデューサーとして、ダンスのためだけに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。

やがてゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるSoul Trainの人気が沸騰した影響で、ほぼ同時多発的にディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、大都市のみならず全米でディスコ・クラブが登場し、一般人が押し寄せるようになり、ヒットチャートの上位を独占するようになる。しかし粗製濫造された質の低いレコードや流行の一過、また中核を担ったゲイ音楽シーンがエイズにより壊滅的な被害を受けたことにより、ディスコ・クラブという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉により再びアンダーグランドな物へと回帰し、現在のクラブ音楽へと変貌していく。

日本では、アメリカのゲイ・シーンの影響をどれだけ受けていたかは別として、1970年代頃からゲイディスコがオープンし始める。それより前の60年代もダンススペースを設けたゲイバーがあった可能性はあるが、検証されていない。日本のゲイにとってもゲイディスコは踊りを楽しむだけではなく、出会いや発展の場でもあった。以下では日本におけるゲイディスコブームについて記す。

1970~1980年代前半 -日本のゲイディスコブーム

1966年には2丁目のゲイクラブ「NEW SAZAE」は既に開店しており、後にゲイディスコミュージックのスーパースター「ヴィレッジ・ピープル」や「クイーン」のフレディ・マーキュリーも来店した[2]

1976年に開店した美輪明宏の「クラブ巴里」、伊藤文学の「談話室 祭」が入った新宿5丁目靖国通り沿いの瀟洒な白いビル、Qフラット[3]の地下には 「ブラックボックス」という70年代としては最も進んだ異色のゲイディスコがあり、ゲイや外国人、パンク風スタイルの若者が集まった。通常のディスコと違い入場料は男性のほうが安かった。この頃、伊勢丹裏の「ツバキハウス」(ノンケ中心)も全盛で、常連は2つの店を往来していた。「ツバキハウス」では当時、歌舞伎町で最も有名だったニューハーフが始めたとされる「オネエウォーク」といわれる独特のダンスが生まれたといわれる。

また2丁目には「MAKO」や、雑誌などでよく取り上げられていた「フルハウス」、「ブギーボーイ」もあった。MAKOは小さいビルの3階にあった店だったが、若いゲイがこれほど多く集まった店は当時はなく、満員電車並の混雑を見せ、店内に入れない客は階段や路上をウロウロした。「MAKO」は後に隣のビルに移ってMAKO2となり、元の場所はゲイバーになったが、移転先のMAKO2は盛況だったが1985年5月、突然閉店した[4] 。2丁目のゲイディスコの運命は、皮肉なことに、異性愛女性客が増えると必ず潰れていった[4]。客のメインとなるゲイ男性客が離れてしまうからだ[4]

大阪には堂山に1978年頃オープンした「パイプライン」があり、その前には大阪ゲイディスコの草分け的な「ウォーム・ガン」があった。1980年代頃は「クリストファー」というゲイディスコが有名で、当時の大阪のゲイの若者の多くは「クリストファー」でデビューした[5]

この頃の新宿2丁目のゲイディスコを知る手がかりとして、比留間久夫が1984年頃に書き始めた小説「YES・YES・YES」がある。その中には「文化祭の模擬店のようなチャチな照明と安っぽい装飾でこしらえられた店で…平日の夜中だというのにたくさんの若い男の子がいた…ここは発展場というところなんだろう…皆、壁やカウンターに寄り掛かりながらも、また狭いダンスエリアでひび割れた鏡に自分を映し、何かに憑かれたように踊りながらも、その目は何かに焦がれるように間断なくあたりを徘徊している…」という趣旨のことが書かれている。

又1985年に売専バー“K”で男娼をしていたストレートの男性は「2丁目の“S”という老舗ゲイディスコは…調度品といえば天井に小さいミラーボールがついているくらいなのだが、何といってもそこにいる人が凄かった。インディアンみたいな小太りのおっさんやトシちゃんみたいな美少年が踊り狂ってるわ、キリストみたいな外人がボーっとしてるわ、ミック・ジャガーに似た歯の抜けた店員らしき男がハイキックバリバリで踊り狂ってるわ、背の高いマッチョの店員が踊り狂ってるわ、外人のモデルっぽい男女がチチクリ合ってるわ、サラリーマンみたいのが寝てるわ、僕は酔っ払ってビックリしてるわ、で正しくタイやヒラメがヒラヒラしているような感じだった。ちょっとカッコよくいうと“S”は混沌としていた」といっている[6]

バブル期以降 -ゲイナイト-

このようなゲイ・ディスコはそれまでもあったが、1989年に日本初の一般向けクラブでの「ゲイ・ナイト」が開かれる。ユキ・インターナショナル代表の加藤ユキヒロらがニューヨークのクラブカルチャーを吸収して持ち込んだもので、1989年の5月13日に花園神社裏の「ミロス・ガレージ」(現「クラブワイヤー」)で記念すべき第一回目が行われ、以後は毎週土曜日に、合計106回開催された。このパーティーはゲイだけではなく当時のハウスクラブ文化の草分けでもあった。
1991年には1000人規模の大バコ(大規模)クラブとしては初のゲイナイト「THE PRIVATE PARTY」が芝浦「GOLD」で始まり、1995年7月まで毎週第一日曜日に開催された。開催日には2丁目から芝浦直行のバスが出るほどだった。

大阪でも1991年に大バコ系の「ゲネシス」でゲイナイト「THE PRIVATE PARTY」が開始された。以上のイベントはユキ・インターナショナルによるものだったが、以後はその他のオーガナイザーによる定期的な大バコ系ゲイナイトが各所で開催されていく。

名古屋でもクラブカルチャーは花開き、1983年頃から「ハーフボーイ」というバーで不定期にDJパーティーが行われるようになり、これが名古屋ゲイナイトの走りになる。92年になると「BARアテネ」(現ATHENE女神)主催の「Super Boys Night」が3回まで行われた。その後オーバーワークプロダクジョンによって大規模ゲイナイトが催され、96年に名古屋「King & Queen」で行われたゲイナイトには500人以上を動員した[7]

東京ではGOLDの他にも、西麻布「イエロー」、芝浦「オー・バー」、スポーツジム系野郎ノリを生んだ日比谷「ラジオシティ」、歌舞伎町「CODE」、同「LIQUIDROOM」などでも大バコゲイナイトは開催され、2丁目界隈を超えて広がりをみせた。2丁目には伝説的なゲイナイト向け常設クラブ「デライト」が94年にオープンした(97年閉店)。

ゲイナイトはそれまで比較的少人数だったゲイの集まりを、一気に数百~千人単位の規模に押し上げた[8]

現在

1989年以降20年以上の歴史を持ち、90年代半ば頃からは「リーマンナイト」「髭ナイト」「ジャニ系ナイト」「デブ専ナイト」など様々なゲイイベントが開かれてきたが、90年代後半頃からは一般向け大規模クラブでのパーティーと、小規模でテーマ性を重視したパーティーに2極化している[8]。また東京圏では月に数多く開かれているが、近年では北海道から沖縄まで、全国で開催されるようになっている。東京では、国内のみならずアジア各国から毎回3千人を集めるモンスターパーティー「Shangri-La@ageHa」(通称アゲハ)が「ageHa@studio coast」で開催されている[9]

内容

内容は、踊りや出会いイベントが主で「ゲイ・ハント」とも呼ばれる。店内はお立ち台があるなどストレート向けクラブと変わらず、ドリンクと軽食などがつく。イベントの種類により、合間に「GO GO BOYS」や「ドラァグクイーン」などのショーが行われることもある。出会いイベントでは入店すると番号の書かれたカードを首から下げ、タイプの男性の番号を投票用紙に書いて収集箱に投入し、マッチングが行われ、人気上位者も発表されたりする。個人間で連絡先を教え合うこともある。フライヤーが2丁目などに事前に配布され、それを持参すると割引が適用される。参加費はイベントにもよるが3000~5000円が多い。

音楽的特徴

ハウスミュージックは元々、シカゴのゲイディスコ「ウェアハウス」発祥であるが、ゲイナイトならではの特色にはオネエハウス(オネハ)と呼ばれる、女性ボーカル(ディーバ)の歌が入っているアッパーなボーカルハウスが好まれることがある。

ゲイ・ファッション

ゲイの服装はノンケより数年流行が早いとも言われている[10]
多くのゲイはストレートの男性と変わらない格好をしているが、より男性性を強調した男性らしい格好や、90年代にモード系といわれたようなコテコテファッション、敢えてスポーティーさ、或いはイモっぽさを演出した格好(ニチョカジ)をするゲイもいる。デフォルメされたものの中には「ドラァグクイーン」や「GO GO BOYS」などクラブ文化などから生まれたものや、レザーが基調のハードゲイ・スタイルなどもある。

女装をするニューハーフや女装家もおり、女装も広義のゲイファッションの一部ともいえるが、女性ファッションである。また近年のニューハーフにはヘテロ女と変わらない自然な女装をする人もおり、女たちのファッションリーダーになっている人もいる。

ゲイ文学

男性同性愛を取り上げた文学は多く、江戸時代では、平賀源内の『根無草/根南志具佐』や『乱菊穴捜』、上田秋成『雨月物語』に収められた『菊花の契』、『青頭巾』などがあった。

戦後は、三島由紀夫の『仮面の告白』、『禁色』、『愛の処刑』、中上健次の『異族』、『奇蹟』、両刀の男娼を描いた『讃歌』(90年)などがある。1989年には比留間久夫の新宿2丁目を舞台にした小説『YES・YES・YES』が文芸賞を受賞し、週刊誌などで大きな話題になった。比留間久夫の2作目でゲイとニューハーフを描いた『ハッピー・バースデイ』(90年)も話題を集めた。又エドマンド・ホワイト『ある少年の物語』、『美しい部屋は空っぽ』、パトリシア・ネル・ウォーレン『フロントランナー』など、海外のゲイ小説も91年ころ邦訳された。

ゲイ映画

一般の映画で同性愛をテーマにした作品は、日本メジャー映画初のゲイフィルムと呼ばれる木下恵介監督の「惜春鳥」(1959年)、三島由紀夫原作「肉体の学校」(1965年、木下亮監督)、ピーター主演「薔薇の葬列」(1969年、松本俊夫監督)があり、数は少なかったものの欧米のメジャーゲイ映画と同時期か、それより早く登場していた。

1990年代以降になるとゲイ映画が比較的多く制作され、橋口亮輔監督のようにゲイであることをカムアウトして映画を制作する人も登場した。1980年代にはイギリスのゲイ映画のアナザー・カントリーモーリスもミニシアター系で上映され話題になった。90年代以降は海外のゲイ映画も続々公開された。

ゲイ雑誌

ゲイ雑誌参照

ゲイポルノ系

ゲイポルノ小説

ゲイ雑誌ではゲイポルノ小説(ホモ小説)が定番の一つで、多くのゲイ小説家を輩出した。ゲイ雑誌「さぶ」では林月光のイラストや小説、なかたあきら沢井新一らの小説が人気を博した。

ゲイ漫画・写真・ゲーム

ゲイ雑誌ではゲイ漫画やゲイヌードグラビアが掲載され、田亀源五郎山川純一木村べん麻生寛ら多くの著名なゲイ漫画家やイラストレーターらを生み出した。海外では黒人男性を撮り続けたゲイ写真家・メイプルソープが有名である。

メサイヤ制作のコンシューマーゲーム超兄貴』シリーズに登場するキャラクターアドン」「サムソン」「バラン(同社制作ラングリッサーⅣで登場)」の名称は、国内で販売されているゲイ雑誌から引用されていると思われる。

ゲイポルノ映画

1982年に日本初のゲイ・ポルノ映画が公開された。

テレビとゲイ文化、そしてオネエ・タレント

日本では1950年代に美輪明宏がスターになっており、その後も1960年代末にデビューしたカルーセル麻紀ピーターが続いた。吉野のママこと吉野寿雄も、高倉健が主演した網走番外地 (東映)シリーズに度々脇役出演していた。1970年代末にはお茶の間の情報番組におすぎとピーコが登場し、1990年代には美川憲一が再ブレイクした。 1993年には、日本初の本格的な連続ゲイドラマ「同窓会」が日本テレビでゴールデンタイムにおいて全国放送。「同窓会」放映時は新宿二丁目を閑散とさせた。ドラマ内でゲイの苦悩や新宿二丁目が描かれたことにより各方面に多大な影響を及ぼした。その後、2000年代のKABA.ちゃんマツコ・デラックスなど、テレビにおいてゲイを公言する芸能人が多く登場した。彼らは音楽や演劇などの芸能、ファッションやコスメの分野など多方面で活躍している。ゲイの社会的認知を向上させたという功績がある一方、いわゆる「オネエキャラ」の人間がゲイを代表するかのようなイメージに抵抗感を示すゲイも多い。

1980年代頃まではメディアに登場するのは女装系のゲイが殆どで、女装しないゲイはおすピーくらいしかいなかった。おすピーは非女装ゲイの中でも特にオネエ度が高いゲイであり、女装をせず、しかも男性としてのアイデンティティを持ちながら男性を愛する非オネエのゲイは日本社会で可視化されていなかった[11]。それが、1990年代頃からテレビドラマ「同窓会」を始めとするメディアでゲイブームが起きて、ゲイの中でもマジョリティーである男性的なゲイも少しずつではあるが取り上げられるようになってきている。

脚注

  1. ^ 実際はオネエ言葉を使わないゲイの方が多い。
  2. ^ 2011年12月24日放送アド街「新宿2丁目 Xmas SPECIAL」[1]
  3. ^ 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室祭,ネット版伊藤文学のひとりごと「祭の幕は上がった」[2]
  4. ^ a b c 「以上の出典は「オトコノコのためのボーイフレンド:ゲイ・ハンドブック」P81ゲイシーン③「クルージングゾーン①スナック、ディスコ」(1986年発行少年社・発売雪淫社)」
  5. ^ 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫社)ゲイニューウェーブ・関西ゲイ情報より。
  6. ^ 別冊宝島124「SEXというお仕事~ボクが売春夫になった理由~」
  7. ^ バディ1997年4月号「WALKIN BADI26名古屋」
  8. ^ a b 「バディ1998年5月号「同じゲイなら踊らにゃソンソン」
  9. ^ シャングリラ オフィシャルサイトより。
  10. ^ Badi1997年4月号「ノンケの1996年は、ゲイの1993年」より。
  11. ^ コイトゥス再考#20「伏見憲明・越えがたきジェンダーという背理」。

関連項目