セネガル
セネガル共和国(セネガルきょうわこく、フランス語:République du Sénégal)、通称セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接し、ガンビアを三方から囲んでいる。西は大西洋に面する。首都はダカール。フランスと関係が深く、フランコフォニーに加盟している。
- セネガル共和国
- République du Sénégal
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(国旗) (国章) - 国の標語:Un Peuple, Un But, Une Foi
(仏語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念) - 国歌:コラを弾け、バラフォンを叩け
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公用語 フランス語 首都 ダカール 最大の都市 ダカール 独立
- 日付フランスより
1960年4月4日通貨 CFAフラン(XOF) 時間帯 UTC0 (DST:なし) ISO 3166-1 SN / SEN ccTLD .sn 国際電話番号 221
首都ダカールはかつてのパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。また、領域にアフリカ大陸最西端のヴェルデ岬を抱えている。セネガンビア地方には11世紀にイスラームが伝来しており、現在もイスラム協力機構加盟国となっている。
国名
正式名称はフランス語で、République du Sénégal(レピュブリック・デュ・セネガル)。通称、Sénégal。
公式の英語表記はRepublic of Senegal。
日本語の表記は、セネガル共和国。通称、セネガル。
歴史
古代諸王国
旧石器、新石器時代の遺跡が見つかっており、その頃から人類が居住していたこと分かっている。
セネガル川の中流、下流域は9世紀以降、北アフリカ、マグリブ地方のイスラーム王国との交易で栄え、ガーナ王国、テクルール王国、ジョロフ王国が成立した。とりわけテクルール王国にはアルモラヴィド(ムラービト朝)の影響で11世紀にイスラームが伝来し、王侯貴族を中心にイスラーム化が進んだ[2]。その後、マリ帝国(1240年-1473年)の影響の下で、14世紀から16世紀にかけてウォロフ人のジョロフ王国などの勢力が台頭した。
植民地化の進展
公式な記録から判断する限りで、初めて現在のセネガルに相当する地域に訪れたヨーロッパ人はポルトガル王国のディニス・ディアスであり、1444年にこの地を訪れたディニス・ディアスは訪問先のアフリカ大陸最西端の岬をポルトガル語で「緑の岬」(ヴェルデ岬、現在のカーボベルデ共和国の国名の由来となっている)と名付けた[3]。ディニス・ディアスはこの地から若者4人を本国ポルトガルに拉致して通訳として教育し、4人は15世紀当時のセネガンビアの諸王国を記録した1455年のヴェネツィア共和国の商人カダモストの探検を手助けした[4]。
その後ポルトガルに続いてオランダ、イギリスの商人がこの地に進出したが、1659年にフランス王国がセネガル川の中州にサン=ルイ商館を建設し、1677年にゴレ島をオランダから奪取した後、セネガンビア地域にはフランスの強い影響が及ぶようになった[5]。1673年から1674年にかけて、イスラームのマラブー(聖人)がヨーロッパ人や、ヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに対して反乱を起こしている(マラブー戦争)[6]。
サン=ルイ島およびゴレ島は1815年のウィーン会議でフランスの植民地とされた。その後フランスはダカールなどの都市、ダカール港、サンルイ - ダカール間鉄道などの建設を進めた。1848年に奴隷貿易が廃止された。
1854年にフランス軍のルイ・フェデルブ将軍が総督に就任すると、フェデルブ総督は現地の諸王国を征服して1859年にセネガル川流域をフランスの支配下に置いた[7]。鉄道敷設を軸とするフランスの植民地化に対し、カヨール王国(カジョール王国)のラット・ジョール王が抵抗を行ったものの、1886年10月26日にジョール王がフランス軍との戦闘で殺害された後、植民地化は更に進んだ[8]。フランスはこの後1890年よりカザマンス地方の征服を進め、1895年にフランス領西アフリカを確立し、ダカールはその中心地となった[9]。
フランス植民地時代
征服後、フランスは在地の有力者が所有していた奴隷を解放する一方で、イスラームのムリッド教団を通じて農民に商品作物として落花生を栽培させる経済構造を樹立し、フランス化した都市部の「市民」(les citoyens)に本国への参政権を与えつつ、地方部の「従属民」(les sujets)を「原住民法」によって統治する植民地体制を確立した[10]。フランス植民地化でセネガル人は「セネガル歩兵」としてフランスの戦争に動員され、19世紀の西アフリカ植民地化や20世紀の第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争、スエズ戦争などに参加した[11]。
1926年には後に『星の王子さま』の著者となるサン・テグジュペリがダカール - トゥールーズ間の飛行士となった。第二次世界大戦中の1940年9月23日にはヴィシー政権についたセネガル植民地政府軍とイギリス海軍との間でダカール沖海戦が勃発している。第二次世界大戦後が終結し、世界が脱植民地化時代に入ると、1958年11月にフランス共同体内の自治国となり、1959年4月にフランス領スーダン(現マリ)とマリ連邦を結成した。
独立後
1960年4月4日マリ連邦としてフランスから独立し、8月20日にはマリ連邦から分離しセネガル共和国として単独国家となった。9月6日にネグリチュード運動の文学者であり、セネガル社会党 (PSS) を率いたレオポルド・セダール・サンゴールが初代大統領に就任し、アフリカ社会主義を掲げつつもマルクス=レーニン主義からは距離を置いた親フランスの穏健改革路線を採用して1980年12月31日まで長期政権を維持した。サンゴールは自ら国歌「コラを弾け、バラフォンを叩け」の作詞もしている。
1981年1月1日アブドゥ・ディウフ首相が第2代大統領に就任し、ディウフ大統領は1983年、1988年、1993年の大統領選でも勝利した。更にディウフは1982年2月に隣国ガンビアとセネガンビア国家連合を発足させたが、セネガンビア国家連合はフランス領であったセネガルとイギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題、経済格差などの問題で対立し1989年9月にガンビアとの国家連合を解消した。また、ディウフ政権下では1982年12月26日にカザマンス紛争が、1989年から1991年にかけて隣国モーリタニアとの国境紛争が勃発した(en:Mauritania–Senegal Border War)。
2000年3月19日の大統領選決選投票でセネガル民主党 (PDS) のアブドゥライ・ワッド党首が当選(4月1日就任)。4月5日ワッド大統領はディウフ政権で外相などを務めたムスタファ・ニアスを首相に任命(連立政権)。
2001年1月7日、新憲法案が国民投票で承認され、大統領任期を7年から5年に短縮、議会を一院制とし議席数も140から120に削減、さらに女性の土地所有権も認められた。国民議会選挙をめぐって連立与党内での対立が発生し3月3日、ワッド大統領はニアス首相を解任、後任にマーム・マジョル・ボイを任命し、同国初の女性首相が誕生。4月29日の立法議会選挙でセネガル民主党 (PDS) などの政党連合「変革」が120議席中89議席を獲得、進歩勢力同盟 (AFP) は11議席、セネガル社会党 (PSS) は10議席、民主刷新連合 (URD) は3議席を獲得。
2002年5月の地方議会選挙でも、与党連合 (CAP21) が安定した勝利を収めた。これにより、大統領選挙、国民議会選挙に続き、ワッド大統領はセネガル国民からの支持を三度にわたって獲得し、1960年以来40年間続いた社会党政権からの政権交代を完了させ、国内政治を運営する上で安定した政権基盤を築いた。9月26日、ガンビア沖でフェリージョラ号が転覆。事故調査委員会は乗員乗客1,220人のうち、1,053人が死亡したと伝えた。軍が現場に船や飛行機を派遣したのが事故発生から12時間後であり、さらにフェリーは定員550人を大幅にオーバーし、設計も湖での航行用だったため、サンボ国防相とサコ設備・運輸相が10月1日に責任を取り辞任。ワッド大統領は11月4日ボイ首相以下全閣僚の解任を発表。PDSのイドリサ・セック副党首が首相に。 セック首相はワッド大統領の有力な後継者と見られていたものの2004年4月21日解任され、マッキー・サル内務大臣が首相に就任。同年12月10日、死刑制度廃止。同年12月30日、カザマンス和平協定締結。2007年2月25日の大統領選挙でPDSのワッドが再び選ばれた。
また、2004年に前年のセネガル、西サハラ、モロッコに於ける大雨によってサバクトビバッタの大量発生 (2004年)が生起した。
2012年の大統領選挙では、ワッド大統領の対抗馬として立候補したマッキー・サルが3月25日の決選投票でワッドを破り、第4代大統領に就任した。
政治
- 政治体制:共和制
- 大統領:マッキー・サル(Macky Sall、2012年4月2日就任、任期5年、共和国同盟)
- 首相:アブドゥル・ムバイエ(Abdoul Mbaye、2012年4月3日指名)
- 議会:二院制(下院120議席、議員任期5年、上院100議席)
- 主要政党:セネガル民主党 (PDS)、進歩勢力同盟 (AFP)、セネガル社会党 (PSS)、民主刷新連合 (URD)
カザマンス紛争
1982年12月26日、ギニアビサウとの国境地帯にあるジョラ族の多いカザマンス地方(ジガンショール州、セディウ州、コルダ州)の分離独立を進めるカザマンス民主勢力運動 (MFDC, フランス語: Mouvement des Forces Démocratiques de la Casamance) が、ジガンショールでギニアビサウを根拠地に反政府武装闘争を開始。1998年MFDCと政府がガンビアの仲介で和平交渉に入り、1999年12月双方が停戦合意。2001年3月、停戦の再確認や捕虜解放など5項目の和平協定に調印した。
しかしその後もMFDCとみられる武装集団による略奪・襲撃事件が頻発し、2002年1月中旬にはニアン内相がMFDCの指導者と会談。2003年、MFDC事務総長シーディー・バッジ (Sidhi Badji) が死去。和平交渉は継続。2004年12月30日、アブドゥライ・ワッド大統領とMFDC事務総長オーギュスタン・ジャマクヌ・サンゴール (Augustin Diamacoune Senghor) の間で和平合意。
しかし、MFDCの強硬派の一派であるサリフ・サージョの部隊による襲撃事件等が2006年になってからも頻発しており、また、3月から4月にかけ、ギニアビサウ国境地域でギニアビサウ軍との戦闘が繰り広げられるなど、当地方の政治情勢は依然不透明な状況にある。日本国外務省の渡航情報では渡航延期勧告が継続中。
軍事
選抜徴兵制が採用されており、成人男性の選抜者は2年の兵役に服する。陸軍8,000人、海軍600人、空軍800人、憲兵隊5,800人。2002年の国防予算は6,700万ドル。
フランス軍が駐留している(ヴェルデ岬駐留フランス軍)。
国際関係
独立以来親仏路線を維持しており、西側諸国と友好的である。
1982年から1989年まで隣国のガンビアとセネガンビア国家連合を形成していた。
1989年4月に隣国モーリタニアとの間で国境紛争が勃発し(セネガル・モーリタニア紛争)、紛争によって数万人に及ぶ両国の国民が相互に追放された[12]。
また、隣国のガンビアと同じくイスラエルとは激しく対立している。セネガル国民のほとんどが敬虔なイスラム教徒であり、同じイスラム教徒であるパレスチナ人の置かれている境遇に対して非常に同情的だとの背景が存在する。
1962年に日本はダカールに公使館を設立し、以後ODAや青年海外協力隊派遣を通じて交流を行っている[13]。
1996年に中華民国(台湾)と国交を回復するも、2005年に再び中華人民共和国と国交を樹立したため台湾とは断交した。中華人民共和国との国交樹立後、中国人(華僑)の進出が盛んとなり、中国の存在感が増している[14]。
地方行政区分
地理
セネガルはアフリカ大陸の西部に位置する。セネガルの景観は、主に西サヘル特有の砂ぼこりが多く乾燥した平原地帯で占められる。セネガルの標高最高地点は南東部のネパン・ジャハ(581 m)。北部のモーリタニア国境はセネガル川で区切られ、その他ガンビアとの国境はガンビア川(中部)、カザマンス地方にはカザマンス川(南部)がある。首都ダカールは、ヴェルデ岬半島に位置し、アフリカ大陸西端ポイントを擁する。
気候は、熱帯乾燥気候であり、冬の北東からの季節風と夏の南西からの季節風により、季節は乾季と雨季で構成される。平均的にダカールでの雨季は6月から10月で平均最高気温は27℃。ただし、内陸部の気温は沿岸部よりはるかに高く40℃に達することもある。乾季の12月から2月の平均最低気温は17℃。4月から5月にサハラ砂漠から吹きつけるハルマッタンは高温で乾燥しており人々を悩ませる。また、降雨量は南部地域においては多い都市もあり、年間降雨量1,500 mmに達する地域もある。
ダカール市のLes Almadiesは、アフリカ大陸最西端の地。最西端の岬は、HÔTEL DES ALMADIESという名前のホテルのビーチ内にある。
経済
農業の生産品目はピーナッツ、トウジンビエ、綿花、米などであるが、特にピーナッツの栽培は、フランスが植民地時代に持ち込んで栽培を奨励したこともあり、1960年代に独立する頃には労働人口の87%が従事する規模となっていた。漁業は、マグロ、タコ、イカ、かつお、えびが中心であり、これらのほとんどは輸出される。2002年のセネガルの総漁獲量は36万トンであり、このうち4万トンがニシン科の魚であり、加工してケチャと呼ばれ干物として国内市場に流通する。[15]。
鉱業(リン鉱石)と工業は、リン鉱石を原料にする化学工業にて相互関係を持ち、観光、サービス業が主要産業。他の西アフリカ諸国と比べると工業も発達している。貿易赤字や累積対外債務に苦しむが、近年、国際通貨基金 (IMF) と世界銀行が8億ドルの対セネガル債権の免除を発表。
西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)の本部がダカールにおかれる。
西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS)の主要メンバー。
国民
民族
ウォロフ人42.7%、セレール人14.9%、プル人14.4%、トゥクロール人9.3%、ジョラ人5.3%、マンディンカ人3.6%、ソニンケ人(Sarakhole)1.7%、バンバラ族1.3%、ムーア人(Maure)1.0%、Mandjak1.0%、en:Lebou people0.8%、en:Balanta people0.8%、Soce0.6%、Malinke0.4%、Mancagne0.3%、Laobe0.3%、en:Bassari people0.1%、en:Khassonké people、Coniagui、フラニ族、その他[16]1.3%[17]。
言語
フランス語
植民地支配の影響で、現在でもフランス語が公用語となっており、公文書、公教育の場で使われるが、教養層を除いてはフランス語の能力は低く、使用頻度も少ない。しかし民族語にもフランス語からの借用語が少なくなく、民族語の文字表記も現在ではラテン文字であることなど、その影響力はフランス語話者のみにとどまらない。
民族語
現地語として、ウォロフ語、セレール語、プル語、ジョラ語、マンディンカ語などニジェール・コンゴ語族に属する各民族言語があり、とりわけウォロフ語は事実上の共通語として、北部を中心にセネガル全土で通用している。これらの民族語を国語として格上げしていこうという動きもあるが、現実的な施策としては進展していない。民族語の表記法は伝統的にアラビア文字で行われていたが、現在では公式にはラテン文字で表記され、アラビア文字表記は非公式な民間の表記法として存在している。
アラビア語
11世紀に始まったセネガルのイスラーム化の流れは、18世紀から19世紀にかけてセネガル全土に広まった。この影響でイスラーム的知識人階級が植民地統治の直前には既にセネガルに存在しており、彼らによるアラビア語文学が宗教詩を中心として花開いた。セネガルの民族語は伝統的にアラビア文字を使用し、アラビア語の語彙を受け入れてきた。セネガルの各民族に属する庶民も、日々の礼拝やコーランの教育などを通じて、多少のアラビア語の知識を持っている。
宗教
セネガルの人口の94%がイスラーム、5%がカトリック教会を主とするキリスト教、1%が在来の伝統宗教となっている[18]。
11世紀にイスラームがセネガンビア地域の王侯貴族に伝えられた後、イラクのバグダードで生まれたカディリーヤと1780年代にアルジェリアで生まれたティジャニーヤが18世紀から19世紀にかけて庶民に浸透し、本格的なセネガル人のイスラーム化が進んだ[19]。19世紀後半にはカディリーヤの影響を受けたアーマド・バンバ(参照)によってセネガル独自のスンナ派イスラームの宗派である、ムリッド教団(英語版)が生まれた[20]。
現在のセネガルでは、19世紀に現在のマリ共和国でトゥクロール帝国を建国したエル・ハジ・ウマールの宗派だったスンナ派のティジャニア教団と、このムーリディアがセネガルのムスリムの内約9割を占める宗派となっており、特にムーリディアは文化、社会、経済において今日も大きな影響力を持っている。また、20世紀後半のアラブ諸国でのイスラーム復興運動や、1979年のイラン・イスラーム革命の影響を受けて、セネガルでも若年層を中心にイスラーム復興運動が進行している[21]。
都市部のエリートの間では、ムスリムにもクリスマスを祝う習慣があった[22]。
教育
学制は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学4年の6-4-3-4制。義務教育は小学校の6年間と中学校の4年間である。教授言語は小学校からフランス語であり、旧宗主国であるフランスの教育制度を基本的に踏襲している。
2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は39.3%(男性:51.1%、女性:29.2%)である[18]。
国立の高等教育機関としては、シェイク・アンタ・ジョップ大学(1957年創立、旧ダカール大学)、ガストン・ベルジェ大学(1990年創立)、ジガンショール大学(2007年創立)が存在する。フランスとの結びつきが強く、留学生の7割はフランスへ向かう。
文化
食文化
セネガルの主要食物は米であるが、一部地域ではトウジンビエやキャッサバなども主食とされている。 セネガル料理はアフリカ料理の中でも特に洗練されているとされており、他のアフリカ諸国においても多くのセネガル料理店が見られるなど、セネガル料理は人気が高い。肉、魚、野菜などの具材を炒めてからスープで煮こんだのち、同じスープで米を炊きこむベンヌチン(1つ鍋)と、炊いた白米の上に、野菜などを煮込んだソースをかけるニャーリチン(2つ鍋) とに大別される。代表的なベンヌチン料理にはチェブジェン、チェブヤップなどがあり、ニャーリチン料理にはヤッサ、マフェ、スープカンジャ、ンボロヘなどがある。
音楽
セネガルには、マンデ系の民族に伝わる伝統的音楽家の家系グリオが、ジャンベ・サバール・コラ・タマなどを演奏する伝統音楽とグリオによる歌唱が存在する。そうした伝統音楽と現代のポピュラー音楽を融合させたアフリカン・ポップスのユッスー・ンドゥールが、世界的に有名なミュージシャンである。また彼の妹ヴィヴィアンヌ・ンドゥール、オマル・ペン、アメリカ合衆国のラップをセネガル風に解釈してウォロフ・ラップ(en:Senegalese hip hop)を生み出したポジティブ・ブラック・ソウルなどが、アフリカン・ポップスのジャンルで活躍しており、近年はンバラ(Mbalax)と呼ばれるダンス音楽も人気を集めている。
文学
1930年代に詩人のレオポルド・セダール・サンゴールは、フランス語圏アフリカの詩人として、マルチニーク出身のエメ・セゼールと共にネグリチュード運動を牽引した。サンゴールは後にセネガル共和国初代大統領となり、国歌の作詞も行っている。しかし、ネグリチュード運動は西欧化したエリートの占有物であり、庶民にまでは根付かず、後にマルチニークではネグリチュードの限界を超えるべくクレオール運動が生まれた。
独立後の代表的作家としては、独立後のエリートの腐敗を批判し、サンゴール批判も辞さなかったセンベーヌ・ウスマンや、ネグリチュードとヨーロッパ的価値観の差異と矛盾に苦しむ知識人を描いたシェク・ハミドゥ・カン、『かくも長き手紙』で一夫多妻制に苦しむセネガルの女性を描いたマリアマ・バーなどの名が挙げられる。
映画
セネガル出身の著名な映像作家として、フランス語による小説から映像作家に転向し、メッセージ性の強い映画を多く残したセンベーヌ・ウスマンや、庶民の日常を軽快に描いたジブリル・マンベティ・ジョップなどの名が挙げられる。
世界遺産
セネガル共和国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在し、ガンビアに跨って1件の文化遺産が登録されている。
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ニオコロ・コバ国立公園 - (1981年、自然遺産)
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ジュッジ鳥類国立公園 - (1981年、自然遺産)
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セネガンビアの環状列石(ガンビアと共有) - (2006年、文化遺産)
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Jour de l'an | |
4月4日 | 独立記念日 | Fête de l'indépendance | |
春分の日以降の満月の 次の月曜日 |
復活祭 | Pâques | 変動あり |
5月1日 | メーデー | Fête du Travail | |
復活祭から40日後 | 主の昇天 | Ascension | |
復活祭から50日後 | 聖霊降臨 | Pentecôte | |
8月15日 | 聖母被昇天 | Assomption | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Toussaint | 全ての聖人と殉教者を記念する日 |
12月25日 | クリスマス | Noël | イエス・キリスト生誕 |
ヒジュラ暦第3月12日 | 預言者生誕祭 | Mouloud | 預言者ムハンマドのヒジュラ暦による誕生日 |
ヒジュラ暦第9月1日から | ラマダーン | Ramadan | |
ヒジュラ暦第12月10日から | タバスキ | Tabaski |
以上の他にも、イスラム暦による祝日がある。
スポーツ
2002年のサッカー・ワールドカップに出場したことで知られるサッカー好きの国民。セネガルの伝統的相撲ランブ・ジも盛ん。
バスケットボールもアフリカ屈指の強豪であり、日本にもバスケ留学生が多くいる他、代表クラスの選手もbjリーグでプレーしている。
著名な出身者
脚註
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 小川了「イスラームの国セネガル」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、30-31頁。
- ^ 小川了「セネガルはいかに「発見」されたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、18-19頁。
- ^ 小川了「セネガルはいかに「発見」されたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、19-21頁。
- ^ 小川了「フランスによる植民地化はどのようになされたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、22-23頁。
- ^ 小川了「イスラームの国セネガル」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、31頁。
- ^ 小川了「フェデルブ総督が来た」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、217-218頁。
- ^ 小川了「ラット・ジョール王」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、221-223頁。
- ^ 小川了「フランスによる植民地化はどのようになされたか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、24頁。
- ^ 小川了「フランスによる植民地化の完成からセネガル独立への動き」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、25-28頁。
- ^ 小川了「「セネガル歩兵」とはなにか」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、235-237頁。
- ^ 三島禎子「セネガル・モーリタニア紛争」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、107-110頁。
- ^ 正木響「セネガルへの日本の関わり」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、88-93頁。
- ^ 正木響「セネガルへの日本の関わり」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、93-94頁。
- ^ 世界の食文化11アフリカ(小川了 著、農文協)
- ^ ヨーロッパ人及びレバノン人、ベトナム人1%
- ^ 1988年センサス
- ^ a b CIA World Factbook "Senegal"2013年7月31日閲覧。
- ^ 小川了「イスラームの国セネガル」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、30-33頁。
- ^ 阿毛香絵「アーマド・バンバの奇跡」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、224-230頁。
- ^ 阿毛香絵「若者たちと「イスラーム」『セネガルとカーボベルデを知るための60章』小川了編著、明石書店〈エリア・スタディーズ78〉、東京、2010年3月31日、初版第一刷、43-49頁。
- ^ 本城靖久『セネガルのお雇い日本人』 中央公論社〈中公文庫〉、東京、1983年12月10日、初版第一刷、184-188頁
参考文献
- 小川了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』(初版第一刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ78〉、2010年3月31日。ISBN 4-7503-3155-3{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 小林信次郎 著「アフリカ文学――黒人作家を中心として」、岡倉登志編 編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、東京、2002年12月。
- 砂野幸稔 著「アフリカの文化と精神の非植民地化」、北川勝彦 編『「南」から見た世界03 アフリカ──国民国家の矛盾を超えて共生へ』大月書店、東京、1999年3月。
- 砂野幸稔 著「アフリカ文化のダイナミズム」、岡倉登志編 編『ハンドブック現代アフリカ』明石書店、東京、2002年12月。
- 本城靖久『セネガルのお雇い日本人』(初版第一刷)中央公論社、東京〈中公文庫〉、1983年12月10日。ISBN 4-12-201084-5。
関連項目
外部リンク
- 政府
- 日本政府
- 観光