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東慶寺 | |
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山門。江戸時代には街道に面して大門があり 現在の山門は中門で男子禁制の結界だった。 | |
所在地 | 神奈川県鎌倉市山ノ内1367 |
位置 | 北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 / 北緯35.3352444度 東経139.5456306度 |
山号 | 松岡山 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
寺格 | 鎌倉尼五山二位 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 1285年(弘安8年) |
開基 | 北条貞時、覚山尼(開山) |
正式名 | 松岡山 東慶総持禅寺 |
別称 | 縁切寺、駆込寺、駆入寺 |
札所等 |
鎌倉三十三観音32番 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉10番 |
文化財 | 木造聖観音立像・初音蒔絵火取母・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)他 |
東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。 山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。 寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼(かくさんに)と伝える。 現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった。 また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。
歴史
鎌倉時代
東慶寺に残る「相州鎌倉松岡過去帳」(以下過去帳と略)によれば、「開山潮音院覚山志道和尚」とある[1]。 覚山尼は秋田城介安達義景の娘で母は北条時房の娘。 鎌倉幕府の8代執権北条時宗の夫人であり9代執権北条貞時の母になる。 1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)付衣し、覚山志道大姉と安名した[2]。 寺伝によれば時宗死去の翌年、1285年(弘安8年)に9代執権北条貞時を開基、覚山尼を開山として建立したとある[3]。 ただしそう伝える東慶寺の古文書は江戸時代のものであり、鎌倉時代のものは残っていない。 現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である[4]。
鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は古文書ではなく鐘の銘文である。 鎌倉幕府滅亡の前年1332年(元徳4年)に東慶寺の大鐘が完成している[注 1]。 銘文によると、その大鐘の檀那は北条時宗と覚山尼の間に生まれた北条貞時の妻・覚海円成尼である。覚海尼は覚山尼と同じ安達氏の出であり覚山尼の姪でもある。 その銘文には四世住持果庵了道尼の名がある。 銘文には住持比丘尼の他に、首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の二名の名が見える。南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧[5][6] であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。 このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、北条得宗家所縁の尼寺であったことは確実とされる。 この四世住持の出身は不明であるが北条氏の俗縁にあたる人と見られている[7][8]。 なお、「鎌倉物語」には頼朝の伯母の美濃局の創建で、覚山尼によって禅宗に改められたという伝があるが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない[9]。
南北朝時代
東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代に「後醍醐天皇姫宮、入当山薙染受具、応永三丙子八月八日巳刻入寂」[10]、つまり後醍醐天皇の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」[11] ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。 用堂尼は兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された二階堂の地(当時東光寺、現鎌倉宮周辺)を東慶寺が領有していたのはその為という。 護良親王の墓所・理智光寺等は少なくとも江戸時代には東慶寺が管理しており、明治時代の鎌倉宮創建に際してその土地を寄進している。 ただし東慶寺の「過去帳」および「由緒書」は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない。
室町から戦国時代
同寺は1515年(永正12年)に火災があり、本尊の墨書銘に「本尊計出候、菩薩座光取出」とあるので、それ以前の古文書のほとんどはその際に焼失したと思われる[12][13][注 2]。 「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状である[14][15][注 3]。 五世用堂尼以降の室町時代の住持は16世までは過去帳に名前のみ記されているだけで、出身も没年も不明である。 寺以外の文書からは室町時代には鎌倉尼五山第二位とされていたこと、代々関東公方、古河公方の娘が住持となっていることがわかる。 1454年(享徳3年)の「鎌倉年中行事」には「太平寺長老公方様姫君」とともに「松岡長老」が正月にまだ鎌倉に居た関東公方足利成氏に謁することになっており、「松岡長老」が誰かは判らないものの関東公方家の女性であろうといわれている[16]。 「足利系図」によれば16世は古河公方足利政氏の娘であり足利成氏の孫にあたる[17]。
17世旭山尼は過去帳によると足利義明の娘である。 足利義明は足利政氏の子で「小弓公方」を自称して古河公方と対立し、後北条氏と戦い戦死した。 その旭山尼は1557年(弘治3年)に示寂とある[18][19]。 この17世旭山尼の頃の古文書は東慶寺に現存する。 17世旭山尼の姉は尼五山第一位太平寺の住持青岳尼であったが、安房の里見義弘に連れられて本尊を持って出奔し、義弘の妻となった事件があった。 当時鎌倉を領していた北条氏綱が東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼[注 4] に里見氏との交渉を依頼し、取り返した太平寺本尊がいま東慶寺宝蔵にある聖観音立像(重文)である。 なおこの事件により太平寺は廃寺となりその仏殿は後に円覚寺に移された。 現在の国法舎利殿である。
18世瑞山尼は足利政氏の長男で足利義明の兄にあたる古河公方足利高基の娘[20]
であり、示寂は1588年(天正16年)6月10日である。
19世瓊山法清尼[注 5]
は小弓公方足利義明の子足利頼純の娘[21]
であり、17世旭山尼や太平寺最後の住持青岳尼の姪にあたる。
18世瑞山尼死去の後、後任を安房の足利家に求めたときの北条氏直の1588年(天正16年)の東慶寺宛印判状が残るが、「あわの国にゆうちゃく(幼弱)の御かた」とあり、示寂の1644年(寛永21年)まで56年間あるので、かなり幼い頃に東慶寺住持となったと思われる[22]。
寺領
鎌倉時代には北条氏の、室町時代には関東公方、戦国時代には後北条氏の庇護を受けているが、徳川家康以前の寺領についてははっきりしない。 鎌倉時代については全く判らない。 室町時代には関東公方足利氏満の下総国東庄小南郷の勝福寺への寄進状[23] が東慶寺文書に有るので、勝福寺の寺領を東慶寺が引き継いだとも推測できるが詳細は不明である。 北条氏綱の書状には上総国君津郡萬里谷のことが出てくる[24]。
徳川家康以前に寺領の貫高が出てくる文書は天文年間の山内荘内の3ヶ所、東慶寺門前、舞岡、野庭の寺領である。 1533年(天文2年)8月17日の北条氏政印判状[25] によると野葉郷(現神奈川県横浜市港南区の野庭)は106貫367文。 同日の前岡郷(現横浜市戸塚区舞岡)についての氏政印判状[26] によると前岡郷は216貫753文で、合計すると323貫文となる。 このうち公事免や神田などの除田畠が61貫500文あるが、一方で検地による増分が約171貫文あり「此増分、御寺へ御寄進之由」とある。 これとは別に鎌倉尼五山第三位の国恩寺の寺領の一部、東慶寺門前の3貫40文を東慶寺蔭凉軒に安堵する1547年(天文16年)の北条氏直印判状が残る[27]。 国恩寺はそれ以前に廃寺になって少なくともその一部が東慶寺の寺領に組み込まれたらしい。 1551年(天文20年)には東慶寺住持17世旭山尼が「いんりょうへ」として蔭凉軒要山尼に「先々の如く」と安堵する黒印状[28] も残る。 東慶寺の寺領の全容が判明するのは徳川家康の関東入りを待たなければならないが、そのときには下総国東庄小南郷も、上総国君津郡萬里谷も、山内荘の舞岡も野庭も出てこない。
1590年(天正18年)に後北条氏を下した豊臣秀吉に寺領を安堵[29] される。 関東で太閤検地が行われるのはその後である為に貫高・石高は明示されていないが「検地による出分をも領知せしむ」とある。 その翌年の1591年(天正19年)に関東移封時後の徳川家康が出した寺領寄進状には「先例の如く」二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文[30][31] とあり、この合計112貫380文を石高に換算すると450石となる[32][注 6]。 この寺領は、鎌倉の寺院では[注 7] 円覚寺の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺96貫よりも多い。 建長・円覚以外の鎌倉五山は浄智寺6貫140文[33]、寿福寺5貫200文[34]、浄妙寺4貫300文[35] と二桁も違う[注 8]。 なお臨済宗以外では、日蓮宗関東総本山の本覚寺12貫、浄土宗鎮西派大本山の光明寺10貫までがかろうじて2桁以上でありそれ以外は一桁である[36]。 この東慶寺の寺領は江戸時代を通してほぼ維持されるが、明治維新の上地(あげち)でその殆どを失う。
千姫と20世天秀尼
江戸時代には、豊臣秀頼の娘の天秀尼が、千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。なお、この天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による[37]。
天秀尼の薙染
東慶寺の「由緒書」には「大坂一乱之後、天樹院様(千姫)御養女に被為成、元和元年権現様依上意当山江入薙染、十九世瓊山和尚御附弟に被為成」[38] と記されている。 東慶寺の由来書に「薙染し瓊山尼の弟子となる。時に八歳」[39]とあり、また霊牌(位牌)の裏にも「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。 このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。 従って、出家は大坂落城の翌年の1616年(元和2年)、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。 出家後の名は天秀法泰[注 9]。
瓊山(けいざん)尼は前項で触れた東慶寺19世の瓊山法清であり、小弓公方足利義明の孫で父は足利頼純ある。 その妹の月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り家康の娘正清院に仕えていた。 東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」[40] とする。 断絶間際の関東公方家を、古河公方足利義氏の娘・足利氏姫(足利氏女)と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝を結婚させて、実高5千石ながらも10万石の格式の大名(喜連川藩)として存続させたのはこの月桂院の働きかけによる。 なおこの月桂院が開いた月桂寺は18世紀に東慶寺と喜連川藩の仲裁役として登場する。
千姫の仏殿寄進と徳川忠長屋敷の移築
天秀尼が20世住持となった時期は1634年(寛永11年)以降、1642年(寛永19年)までの間である。1634年(寛永11年)以降というのは、東慶寺に伝える棟板の墨書銘からである[注 10]。 ここに「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主」とあるので[41]、当時20代なかばであった天秀尼はまだ20世住持にはなっていなかったことになる。 「蔵主」(ぞうす)は禅宗寺院の住持を支える役職のひとつ[注 11] である。
この棟板の墨書銘には住持の19世瓊山法清尼と弟子の天秀法泰尼の他に歴史上有名な女性が二人登場する。 千姫と、当時の将軍徳川家光の乳母・春日局である。 東慶寺の寺例書にはこのときに「駿河大納言様の御殿御寄付・・・客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有[42]」とあり、このとき裏方として話を主導したのが春日局であろうと思われている[43] (実際棟板の裏に名乗官として春日局の名があり、その下に鎌倉大工の名がある)。 この寄進は当時の東慶寺の景観を一新するもので、千姫を通じた天秀尼と徳川家との強い関係を物語っている。 「駿河大納言」とは家光や千姫と同様に淀君の妹崇源院を母にもつ徳川忠長であり、1633年(寛永10年)12月6日に28歳で切腹。その屋敷の一部が解体されて翌年東慶寺に寄進されたということになる。 なお、客殿(書院)、方丈の他に、街道に面した大門もこのとき徳川忠長の「御殿」から移築されている。
文書により一定しないが「由緒書」にはその他に仏殿、蔭涼軒の建物も「駿河大納言様御殿を引きせられ[44]」とあり、「新編相模国風土記稿」にもそのときの仏殿は「駿河亜相忠長卿の旧館を移し賜ひ、寛永11年10月御建立あり、其時の棟板を蔵せり」[45][注 12] とある。 その仏殿(現在重要文化財)は1907年(明治40年)に横浜の三溪園に移築され現存する。 その旧仏殿は1956年(昭和31年)に修理が行われ、その報告書は「仏殿の建立年代は詳ではない」とした上で「形式手法上、室町時代に属する」と述べている。 おそらく1515年(永正12年)の大火災[注 13] 後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないか[46] というのである。
それに対して鎌倉禅宗建築史の第一人者である関口欣也は、忠長卿の旧館を移したものは客殿と方丈。 棟板は新築の仏殿のもの、1956年(昭和31年)の修理工事報告書にある「形式手法上室町時代」は様式論であり明確な根拠がある訳ではない。 室町時代の要素も一部にあるが更に詳細に見るとやはり近世の特色を見せており、寛永11年という時代にふさわしいとする[注 14]。 先々代住職井上禅定も平成7年の著書ではこの関口説に基づく書き方をし[47]、 西和夫も関口説を支持[48] しており、現在では関口説が定説となっている。 なお、現在の旧仏殿の屋根は茅葺の寄棟造であるが、1839年(天保10年)の「相中留恩記略」の境内絵図には寄棟造よりも格式が高い入母屋造に書かれており、「修理工事報告書」でも建立当初は入母屋造であって、現在の状態は後世の改修と推察している[49][注 15]。
豊臣秀頼菩提の雲版
天秀尼の20世住持就任を1642年(寛永19年)以前とするのは、父秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために「天秀和尚」が鋳造したとの銘文のある雲版が残されており、そこに寛永19年の日付があることによる。 「和尚」は住持であることを示している。 先代の瓊山尼はこの頃存命であったが、この時点では隠居していたことになる。 雲版(うんばん)は、禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。 鐘板(しょうばん)、打板(ちょうばん)、更に火版、長板、斎板などの別称がある。 青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である[注 16]。 日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。
会津四十万石改易事件
天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に1639年(寛永16年)4月16日に始まる会津騒動、会津四十万石加藤明成改易事件がある。 天秀尼と会津四十万石改易の関係を記した史料は1716年(正徳6年)に刊行された「武将感状記」[50]という逸話集である。
それによると、会津四十万石の加藤明成の家老・掘主水が主君明成と対立して脱藩し、妻子を鎌倉の東慶寺に預け、自身は高野山に逃げた。 加藤明成は家臣を東慶寺に差し向け、掘主水の妻子を捕縛したのかしようとしたのか、それに対して天秀尼は「大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へ」[51] これによって会津四十万石は改易になったと。 この「武将感状記」の記述が正しいとすれば、そこに伝える「比丘尼の住持大いに怒りて」は、掘主水が加藤明成に殺された1641年(寛永18年)以降、改易される1643年(寛永20年)までの間となる。 ただしこの話が記されている「武将感状記」は『雨月物語』まがいの話まであり全体としては信憑性に疑問があり、これだけで会津四十万石は改易と天秀尼の関係を史実とすることはできない。 ところが掘主水の妻は確かに東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えてその助命を実現したこと、掘主水の妻は事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、前住職井上禅定師の頃に明らかになった[注 17]。 天秀尼はこの件で昭和55年に「神奈川県百傑」[52] に選ばれている。
天秀尼の示寂
左が台月院の宝篋印塔
天秀尼の示寂は、霊牌、および墓碑により1645年(正保2年)2月7日 であり、37歳の若さで死去したことが判る。 その十三回忌に千姫は東慶寺に香典を送っている。 天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。 側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。 天秀尼の死去の約半年後である。
東慶寺の前住職井上正道は「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」と推測しているが、寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている。 歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例である。
天秀尼以降の住持
21世永山尼
天秀尼の示寂の後約25年は住持不在であった。 と言っても蔭涼軒、海珠庵等の塔頭に尼は居たが、その格式故に誰でもという訳にはいかない。 代々の住持は関東公方足利氏の娘であり、17世旭山尼、18世瑞山尼、19世瓊山尼の頃は足利氏は実力は衰えてはいても「公方」、「御所」の娘である。 19世瓊山尼も先述の棟板墨書銘に「住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚」と「関東公方家」を名乗っている。 天秀尼は「右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女」であるので格式は十分であったが、それらに劣らぬ者となると適格の女人が得られず寺社奉行も困却する[53]。
19世まで代々住持を出していた足利氏は古河公方、小弓公方に分裂していたが、先の瓊山尼の妹月桂院の奔走により、古河公方足利義氏の娘足利氏姫と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝の結婚によりかろうじて一本化され、喜連川家として存続していた。 この喜連川家は御所号まで許された徳川幕府下で他に例をみない実高5千石の特殊な藩である[注 18]。 その喜連川藩が蔭涼軒や海珠庵等東慶寺の塔頭の尼を経由して幕府寺社奉行に請願して、天秀尼の示寂の後10年後に喜連川尊信の娘が17歳で入寺する[54]。 21世永山尼として住持となったのはそれから15年後の1669年(寛文9年)である[55]。
22世玉淵尼
永山尼の示寂後約21年間再び住持不在となった。 1728年(享保13年)に高辻前中納言の息女が最後の住持予定者として入山するが、このとき古例を踏んで一旦喜連川茂氏の養女となり、そのうえで東慶寺に入っている[56]。 この高辻前中納言息女が22世住持玉淵尼となったのは1737年(元文2年)であるが、元々病弱であったらしく、住持となって直ぐに京へ戻っている[57]。 以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいないかった。
蔭涼軒の院代時代
蔭涼軒
東慶寺には時代により複数の塔頭があったが蔭凉軒(いんりょうけん)はその筆頭であり、西堂の法階をもつ重職である[注 19]。 先に太平寺本尊・聖観音立像を取り戻す交渉を行った蔭凉軒要山尼が出てきたが、その要山尼が大永年間(1521-1528年)頃に開いた。 要山尼は道号に「山」がつくことから足利氏の出身と推定されている[58]。 天秀尼示寂後の無住持時代は蔭凉軒五世法孝尼が院代(住持代行)を勤めている。 東慶寺に徹宗法悟尼像が残るが、この徹宗尼は21世永山尼の姪(妹天野氏室の娘)であり、蔭凉軒の庵主[注 20] になった。 この蔭凉軒徹宗尼は永山尼の示寂後に院代を勤め、伯母の十三回忌に泰平殿を建立する[注 21]。 そして22世玉淵尼の帰京後も院代を勤めた。 以降明治に至まで蔭凉軒の庵主が院代を勤めている。
寺役人
・喜連川代官
寺役人とはあまり聞き慣れない言葉だが、近世において比較的大規模な寺領をもつ寺社は、領主として領民支配を行い年貢をとっており、その為の統治機構を有している。 その頂点はもちろん住持であるが、実務は代官、寺侍・寺役人と称する俗人が行っている。 東慶寺もほぼ500石という領地を持っており、御所寺という格もあって寺役所があり寺役人を置いていた。 寺役人の出身は判るものと判らないものがあるが、身分としては武士身分である。 東慶寺では不明であるが、やはり寺役人を置いた出羽国宝幢寺の例[59] では「武門役服」である継袴の着用が認められ「士分」・「徒士」・「足軽」という武家の階層に当てはめれば「士分」に相当する。
この永山尼入寺のときに喜連川藩より飯島左衛門重貞が付人として来た。これが喜連川藩から差し向けた最初の寺役人である[60]。 永山尼は1707年(宝永4年)に示寂するが、喜連川藩は13回忌まで「霊供等世話致し度段」と永山尼の付人代官飯島覚右衛門を東慶寺に残し、13回忌が終わってもそのまま寺役人を東慶寺に置く[61]。 喜連川藩は家格は高くとも実際には5千石の小領主であり、約500石の東慶寺を差配することはかなり旨い話である[62][63]。 1787年(天明7年)に蔭涼軒法清尼等が、この喜連川藩の寺役人が東慶寺の収支を牛耳り横領を働くと円覚寺に訴え、円覚寺は寺社奉行に伺い、月桂寺[注 22] が中に入って調停し、喜連川の代官は引払いとなった[64]。
・円覚寺被官
その後は円覚寺差配のもとに蔭涼軒主が院代として寺務執行し、寺役人は円覚寺紹介の被官が務めるが、そのあとも寺役人の不法はたびたび続いた。 5年後の1793年(寛政5年)には寺役人が境内[注 23] の松杉等の大木を盗伐し隣の浄智寺側に落とした事件があり、院代蔭涼軒は四人の寺役人に「遠慮(免職)申付け」たが、円覚寺が詫びを入れて張本一人のみの免職に止め、円覚寺役者[注 24]と院代蔭涼軒の名をもって、残る三人の寺役人に17ヶ条の申し渡しをしている[65]。
東慶寺の寺役人は元々は円覚寺の縁で東慶寺に勤めた者だがこの頃には院代+円覚寺vs寺役人の対立で暗雲低迷する[66]。 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼は寺役人の横暴に嫌気がさしたのか、寺の御朱印を持って円覚寺に駆け込んでしまい、その後円覚寺に寺の御朱印を預けて実家の旗本大久保家[注 25] へ戻ってしまうという事件があった[67]。 このとき東慶寺には蔭涼軒の他に清松院、永福軒という2つの塔頭があったが既に無住であり、東慶寺には住持ばかりか一人の庵主もいなくなってしまう。 清松院の留守番に老尼がひとりいただけである。 もはや寺とは言い難いが、しかし寺役人が東慶寺とその寺領を支配しており、翌1803年(享和2年)に寺役人は円覚寺と院代の不法を寺社奉行へ訴え出る[68]。 簡単に云うと東慶寺の御朱印を寺役人に戻せというものである。 「享和の訴訟」といわれる。 この裁判は寺社奉行阿部播磨守の屋敷で奉行列席の元で行われ、その尋問に寺役人は満足に答えられず「恐れいるばかりでは相済まぬ、返答致せ!」と寺社奉行脇坂淡路守[注 26] に詰問され[69] 寺役人は敗訴となる。ただし寺役人は東慶寺を追放された訳ではなく「右御達の趣逐一承知仕り万事御山の御指図に随ひ取計可仕候」と一札を取られて寺役人を続けている[70]。
院代法秀尼
その後、1808年(文化5年)に水戸藩の姫法秀尼が蔭涼軒主・院代となっている[71][注 27]。 水戸藩の姫ならば住持でも良さそうなものだが、そこが東慶寺の特殊な格式である。 この年に水戸藩の史館で『東慶寺考』を編纂して寄進している[72]。 また水戸藩の後ろ盾で、1834年(天保5年)頃寺社奉行脇坂淡路守[注 28] に貸付所の許可願いを出して許され、1836年(天保7年)には江戸にも支所を設けている[73][注 29]。 東慶寺の寺役所にお白洲が出来たのはこの頃と思われる。 このお白洲は縁切取り調べに対するものではなく東慶寺領の支配者としてのものである。 また次ぎの章で触れる縁切寺法、その手続きもこの院代・蔭涼軒法秀尼の頃に整備された[74][75]。 示寂は1852年(嘉永5年)である。
縁切寺法
東慶寺の縁切寺法をコンパクトに紹介している。
東慶寺は、近世を通じて群馬県の満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていた。 この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる明治5年(1872年)まで続く。 東慶寺の「由緒書」には「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり[76]」 とある。 しかしこれには確証が無く[77]、 先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする[78]。 後で触れるが三ヶ年は江戸時代初期からの社会通念であり東慶寺に限ったことではない。 この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。 また「由来書」には「寺入女の三ヶ年は不憫にて用堂尼(五世住持の皇女)以来出入三年満二十四ヶ月と限った」とあるが、これも先々代住職井上禅定は「あとからそういうふうに権威づけたんじゃないか」とする[79]。 後述するが「出入三年満二十四ヶ月」の確実な前例は1688年(貞享5年)2月14日の幕府の判決である。それ以前には無い。
中世の結婚・離婚
中世[注 30] を通じて結婚・離婚という概念があったのは「イエ」を確立していた上層・中層階級だけである。 その上層階級の頂点貴族社会においても、結婚とは男が決まった女の処へ通い、その家に住み着くことであり、逆に離婚は夫がその妻の家に帰らなくなることだった。 芥川龍之介の短編小説『芋粥』の原作は『今昔物語集』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」[80] という藤原利仁の若い頃の話である。 利仁は「芋粥を腹一杯食ってみたい」と云った先輩の五位殿(侍階級の下級貴族)を敦賀の自分の家は連れていくが、その家は有仁という「勢得ノ者」の家で、利仁の妻はその娘だった。 同じ『今昔物語集』第28巻1話 には「近衞舎人共稲荷詣、重方女値語」[81]がある。 茨田重方は妻帯者だったが、仲間とともに稲荷詣に行く道で美しそうな女性を見つけ一生懸命口説く。 しかしそれは重方の妻で[注 31]、 逆上した妻は往来の真ん中、夫の同僚達の見ている前で夫の髷を掴み「山も響くばかりに」ひっぱたいて「今日から私のところへきたら、この神社の神罰が当たろうぞ」「来たら、必ずその足をぶち折ってくれる」と[82]。 茨田重方は実在の人物であり武官である[83][注 32] 。
平安時代と鎌倉時代は、政権は大きく変わったが社会風俗としてはほぼ同じである。
鎌倉時代には公的な世界でも女性の地頭が居たり訴訟の当事者としても女性が多数登場する[84][85]。
それでも中世の初頭から鎌倉時代を経て室町時代末期に下がるにつれ、公的な世界からは女性が徐々に排除されていくが[86]、
しかしその中世の中で女性の地位が最も低下していた戦国時代、1562年に日本に来て35年間日本に住んでいたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日本覚書にはこういう記述がある。
「(ヨーロッパでは・・・)男のほうが妻を離別する。日本ではしばしば妻たちのほうが夫を離別する」[87][注 33]。
しかしそれも上層・中層階級においてである。
近世・江戸時代の離婚
江戸時代より前の庶民(下層階級)には離婚という感覚は無い。 そもそも男女が夫婦として同じ家に住み、協力して家業、例えば農耕に励み、子供を育てて家を継がせるという「イエ」の概念が一般庶民にまでは浸透していなかった[88][注 34]。 それが名主や豪農ですらない一般の農民・庶民にまで浸透していったのは江戸時代初期の婚姻革命によってである[89]。 結婚・離婚について「タテマエの世界」が出来たのも江戸時代になって徳川家康が儒教を取り入れて以降であった。 儒教での「女はかくあるべし」が「女三界に家なし」な『女大学』であり、儒家の目からすれば、妻が夫を嫌って別れたいなど不届千万。 男子禁制の東慶寺が夫から逃れる為に駆け込むことを受け入れるなど言語道断。 太宰春台などは「誰か松ヶ岡を淫婦の叢林にあらんずと謂ふや」[90] とまでいう。
多くの実例から石井良助の夫専権離婚説を覆し、江戸時代の離婚の実態を明らかにした。
江戸時代の離婚は「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた」と良く云われる。 それを象徴する昔の学術用語が石井良助の「夫専権離婚」説[91] である。 そう思われた理由のひとつは当時の「例文集」の定型文言にある離婚理由の「我等勝手に付」である。 夫は勝手に妻を離婚出来たと。 しかしこの「我等勝手に付」の「勝手」の意味合いは現在の印象とは少し違い「都合により」ぐらいの意味である。 そして具体的な理由は書かないのを良しとするという現れである[注 35]。 現在では百科事典でも「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」[92] とされる[注 36]。 妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうではない。 最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものであるが、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁である[93][注 37]。 また近年十日町市で1856年(安政3年)の「妻の書いた離縁状」も発見されている[注 38]。 話がつきさえすれば離婚できた。 問題は話がつかなかった場合である。
縁切寺三年勤の背景
江戸時代の「律令要約」[注 39] には妻方からの離婚に関して5つの条項がある[94]。 そこに共通するものは「三、四年過ぎ」というキーワードであり、例えば「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、例え嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」である。 この判例は「公事方御定書」でも踏襲されている。 江戸時代中期以前に「3年も別居していればもう夫婦ではない」という社会通念が成立していたと言える。 妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への駆込3年奉公があった。 どのような場所かというと代表的には武家屋敷である。尼寺も勿論、普通の寺である場合もある[95][96]。 関所に駆け込んだ例もある[97]。 要するに「夫の手に負えぬ」、連れ戻せぬ、少なくとも庶民にとって「権威のある場所」であれば良かった。 そこに3年間奉公していれば結婚は時効となる。 あるいは夫方を呼び出して「別れてやれ!」と云ってくれる。
東慶寺も江戸時代初期にはそうした「夫の手に負えぬ場所」のひとつであった。 ただし元禄時代の「盤珪禅師法語」に「女人問、女は業ふかき者にて高野山または比叡山などの貴き山へは結界とて上る事を得ず。 師曰、鎌倉に比丘尼寺あり、是は男結界也」[98] とあるように、男子禁制の代表として知られ[99]、 かつ会津四十万石改易事件にも見られるように、その「男結界」は大身の大名すらはねのけるほどである。 庶民の夫にとっては並みの「手に負えぬ場所」ではない。
しかし江戸時代中期に幕府は武家屋敷への駆込みを抑制したらしく、「縁切奉公」先の多くは「駆込は迷惑だから」「風俗よろしからず」と受け付けないことを表明する。 年代としては1704年(宝永元年:前橋藩[100]) から1786年(天明6年:小諸藩[101]) 頃である。 それらは関東近国の親藩・譜代であったが、遠く九州の外様大名である熊本藩でも縁切3年奉公の慣行があり、それが1773年(安永2年)の達しで禁止される[102][注 40]。
縁切寺三年勤と言っても、東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であった。 1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に、不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるというものがあり[103] その前例を踏襲したものと思われる。
離縁状
ここでは「離縁状」に統一するが、「去状(さりじょう)」、「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、「縁切状」、「手間状」と呼ぶこともある。 最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだが[104]、 写しなら1686年(貞享3)のものが福井で見つかっている[105]。
小田原藩では離縁には証文を必要とするというお触れが1669年(寛文9年)にあった。 「向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・これ以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候[106]」と。 このときの小田原藩主稲葉正則は1657年(明暦3年)から老中で、さらに老中首座から後に大政参与にまで登った大物である。 この方針は幕府の方針だった可能性もある。 この当時の幕府の法令(御触れ)は諸藩に伝えられ、特に親藩・譜代ではおおむね右へならえする。 ただし年代を超えて一貫したものではなく正式な記録としても蓄積はされていない。 それは徳川吉宗による享保の改革の目玉のひとつ、1742年(寛保2年)の公事方御定書を待たなければならない[107]。 1684年に京都で刊行された用文章(実務文例集)『願学文章』にはすでに「離縁状」の雛型が載っている。
縁切寺への幕府の態度
江戸時代ほどホンネとタテマエの落差が激しい時代は無かったと云われる[108]。 例えば妻の不義密通など言語道断であり「公事方御定書」の下巻「御定書百ヶ条」では「死罪」[注 41]。 夫が妻と間男を重ねて4つにしても(つまり二人とも殺しても)お咎めなしてある。 しかし密通がバレてもほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」つまり示談による離婚になっている[109]。 夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだという[110]。
しかし幕府奉行所のお白州までくるとそこはタテマエの世界である。 江戸時代初期には妻が夫を嫌うこと自体が不届とされて、1662年の判決においては「髪を切ってでも離婚したい」という妻の訴えを拒否している。 妻が縁切りを求めて東慶寺に駆け込むと言う事自体も嫌忌した[111]。 1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駈込に対する幕府の判決に「不届きではあるが足掛け三年の間比丘尼を務め、東慶寺から離婚の旨訴え出れば離婚だけは認めるが妻の再婚は認めない」というものがある[112]。 縁切寺三年勤と言っても東慶寺では足かけ三年、実24ヶ月であったが、それはこの前例を踏襲したものと思われる。 「公事方御定書」以前であるので、判決にバラツキはあるが徐々に軟化していったらしいこと、特に「妻の再婚は認めない」という部分が消えてゆくことが後の「律令要約」を見るとわかる。
東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後であることが寺役人が1745年(延享2)に寺社奉行に提出した寺例書でわかる。そこにはこうある[113]。
以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す。
永井伊賀守とは永井直敬であり、寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間である。 趣旨は1669年(寛文9年)の小田原藩のお達しと同じである。 足掛3年経っても夫が納得せず「出入りに及ぶ(訴え出る)」ことがあったので、そのような遺恨を残さぬように縁切奉公・寺法離縁の場合も夫から離縁状を取れと今でいう行政指導が有ったということである。 この古文書から、東慶寺が離縁状をきちんと取りだした時期と、それ以前おそらく17世紀後半から「駈込み」を受け入れていたこと、さらに幕府・寺社奉行がそれを承認していたことがわかる。 東慶寺も1720年頃には幕府、特に江戸町奉行の反感を買うが、これは妻の駆込み後、直ちに飛脚が離縁状を請求したことが反感を招いたという[114]。
「律令要約」に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」と書かれたのは1741年(寛保元年)である。 1688年(貞享5年)の幕府の判決にあったような「妻の再婚は認めない」という部分が無くなっている。 1762年(宝暦12)には「縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る」との寺社奉行所の発言が満徳寺関連文書に以下のように記録される[115]。
右二ヶ寺(東慶寺と満徳寺)公儀より仰せ出されはこれなく候えども、古来より寺法右の通りにてこれあり候間、縁切せ然るへき由、尤も都(すべ)て尼寺右の通りにて申す訳にてはこれなく候。
更に後の時代には、あわや縁切寺法の断絶かという場面が幕府の一喝で救われたということもあった。 先にも触れたが 1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼が寺の御朱印を円覚寺に預けて隠居し実家へ戻ってしまう。 東慶寺を預けられてしまった円覚寺は、当分の間、東慶寺の縁切寺法を中止すると決めてしまった。 このとき寺社奉行の松平周防守(浜田藩主)が円覚寺の僧を呼び出して役人に叱責させた記録が円覚寺に残る。 そこには「欠入(駆込)寺東慶寺に限り候に、それ(駆込)を断り候はば、円覚寺より日本中へ触差出候様可然」と[116]。 この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ!」との叱責に慌てた円覚寺は縁切寺法の継続させることにしたという一件である。 また、東慶寺の縁切寺法に従わない、寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅すというようなバックアップも行っている。
東慶寺の寺法手続き
以下はあくまで江戸時代後期の院代法秀尼の頃で、手続きが整備された段階の話である。 この時期は東慶寺でも、もうひとつの縁切寺である満徳寺でも、ほとんどは「内済離縁」である。 事例は様々で、夫が反省して復縁した例、夫が嫌いな訳ではないけど姑がなどというのもある。
・身元調べ・女実親呼出
駆け込みがあると即座に入寺させるのではなく、御用宿(東慶寺では三件あった)へ預け、まず「身元調べ」を行い「女実親呼出」となる。 この呼出状は妻の実家の名主に届けられる。 出頭した親に対し娘に復縁を勧めさせる。 どうしても別れたいとなれば、親に夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝える[117]。 「女実親呼出」を受けた駈込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともある。 離婚に不承知だった夫も、東慶寺に駈込まれたとなれば勝ち目はないと諦めることが多い。
・出役達書
駈込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合、それ以降が満徳寺と大きく違う。 東慶寺では寺役人を夫方名主宅に出張させるが、その前に飛脚が「出役達書」(でやくたっしがき)[注 42] を夫方名主宅へ届ける。 内容は「誰々妻の駈込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しである。 今風に言えばただのアポ取りだがその差出人は松岡御所の役所である。 多くの場合菊桐御紋の御用箱に入れて届けられる。 飛脚も心得ていて、抵抗するとこの後どんな大変な目に遭うかと云い内済離縁を薦める。 「出役達書」で厄介事に巻き込まれた夫方名主も必死で内済離縁の仲介をする。 この効果は絶大でほとんどはこの段階で内済離縁が成立する[注 43]。 半強制だが形式上は内済離縁(示談)であるので駈込女は寺に入ることなく、御用宿から実家に帰れることが出来た。
・出役・寺法離縁
それでも離縁状を書かないと、本当に「出役」となる。 これ以降が「寺法離縁」である。 東慶寺の寺役人が寺法書を持って夫方名主宅へ出向き「寺法書」を名主に渡す。 名主側のマニュアルにも、万一菊桐御紋の文箱が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫に離縁状を書かせるべしと書いてある例がある[118]。 相手が松岡御所では勝ち目は無いし厄介ごとが長引くと大変だという訳である。
寺役人が出向くということは「駈込んだ女房は東慶寺が預かり、確実に三年(足掛け)は寺から出さない」というである。
おまけに「菊桐金紋の御所寺の寺法である、御所の書式に従って離縁状を書け!」と。
それでも離縁状を書かないと寺社奉行吟味となり、奉行所は強情な夫には「仮入牢」で脅す。
幕府を頼れるところが東慶寺・満徳寺とその他の「夫の手に負えぬ場所」の最大の違いである。
恐れ多い「寺法書」は夫が書いた「寺法離縁状」とともに返すのが決まりだから、夫がそれを書かない限り名主宅におかれる。
名主にとっては頭痛の種である。
満徳寺と違うところは、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって駈込女房には渡されず、足かけ三年24ヶ月後にやっと駈込女房は離縁状を手にして誰と結婚してもよいことになる。
一方、夫は離縁状を書きさえすればすぐに誰と再婚してもよい。
以下に今東慶寺に残る中で最古の寺法離縁状をあげる。
1738年(元文3年)のものである[119]。
□は虫食い等で不明な部分である。個々に若干の文言の違いはあるが、概ね同一の書式に従う。
寺法離縁の場合は書かなければならないことが多いので三行半には収まらない。
差上候証文之事
一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之
御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知
仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付
以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも
□差構無御座候 為後日証文差上ケ□
如件
元文三年三月卄七日 笠間村
鎌倉松ヶ岡 当人 十兵衛(印)
御所様 組合 (四人略)
御役所 名主 市左衛門(印)
上記のように東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。 東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。 離婚妻に渡されるからである。 上記とは別の離縁状だが、離婚妻に渡された書写添書の離縁状が一通発見されている。 添え書きは以下の通りである[120]。
右本文之通り六右衛門□差出候、本書先例之通り
当山江取置、写書相渡し申候、以上
当寺役人
幸田弥八郎(印)
この古文書は1856年(安政3年)の「信州の駆け込み女てる」の事例[121] であり、東慶寺宛の離縁状の書写添書を離婚妻に渡すことが先例であったことを初めて明らかにしたものである[122]。 「てる」の実家は信州筑摩郡堀之内村の名主を何代にもわたって勤めた高70~80石の豪農であり、その本棟造の屋敷は重要文化財に指定されている。 「てる」の夫は記録に残る限りでは「妻の実家の金だけが目当ての性悪な夫」であり、この夫婦は江戸に出ていて、そこから東慶寺に駆込んだ。 この一件は東慶寺側と女の実家側の双方に残り、事件のほぼ全容が明らかになっている。 この夫婦の江戸の住まいは夏目漱石の父、馬場下横町の名主小兵衛配下の友七店である。 夫は「古来御免の寺法」に従わず、寺社奉行に召し出されるという難事件であった。 「てる」は24ヶ月の縁切奉公のあと実家に戻り、その後東慶寺に鑿子(きんす)を寄進している[123]。
出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公
史料の残る駈込の中で駈込女の出身地の集計をとると、圧倒的に多いのは江戸で140件、江戸以外の武蔵国では多摩郡45件、当時武蔵国で現在神奈川県の橘樹郡27件、久良岐郡21件、現在神奈川県の相模国では鎌倉郡38件、三浦郡45件、高座郡55件、その他現千葉県北半分の下総国14件である[124]。 最も遠いとされる信州の1件は、駈込女の実家が信州で実際に駆け込んだのは江戸からであるので江戸にカウントした。 どこからの駆け込みでも受け入れたが実際には神奈川県、東京都、千県葉の範囲である。 距離と人口が関係しているのか、東慶寺のある相模国でもほとんどは東部であり西部からは少ない。 小田原藩領内からは一人もいない。 1866年(慶応2年)の2冊の日記帳等によるとこの一年間縁切駈込38件で内済離縁25件、寺法在寺中の者4人で殆どは内済離縁になっている。 駈込女の年齢は平均29歳(最低20歳、最高54歳)で、裁決の日数は平均して11日である[125]。
駈込女は寺に入ると言っても出家する尼になるということではない。 24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。 ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定が書いている[126]。 1821年(文政4年)の寺法書の規定には「髪切候事」というのはあるが[127] 形式的にちょこっと切るぐらいと思われている。 もうひとつの縁切寺、群馬県の満徳寺へ駆け込む女の図があるが、寺の中に居る駆込女は長髪のままである。 頭を剃る訳ではない。 東慶寺の規定に「頭を剃る」というケースがひとつだけある。 それは寺法離縁で三年勤め中の女が脱走し捕まった場合で、「頭を剃って丸坊主にし、素っ裸にして追い払う」とある[128]。 ただしこれは脅しで書かれたものか、本当に実行されたのかは不明である。 少なくともその実例は今に残る古文書には記録されていない。
駆込三年勤めの女はタダで実24ヶ月暮せた訳ではない。 駆込女の三格式というのがある[129]。
- 上臈衆格は御仏殿に花をあげたり、来客があれば挨拶に出るとか、院代の側近くに仕える。奥女中、上女中のようなものである。
- 御茶の間格は座敷とか方丈の掃除、食事の調味、来客のときはお給仕をするなどである。
- 御半下格はご飯を炊いたり洗濯をしたり、庭の草取りもするいわば下女である。
冥加金によりそれが決まり、1838年(天保9年)の記録では上臈衆格は15両、御茶の間格は8両、御半下格は4両で、その他扶持料が月に2分2朱、24ヶ月で15両になる[130]。 これは上臈衆格と思われるが、上臈衆格は24か月で合計で30両を収めることになる。 大店の商家の娘、豪農の娘なら実家も支払うことができるが、一般庶民にとっては右から左へという額ではない。
明治以降
尼寺・縁切寺法の終焉
明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される[131]。 最後の院代順荘尼を描いた1897年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に・・・総門山門はもとより方丈脇寮諸社なと 朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある[132]。 順荘法孝尼は1902年(明治35年)78歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。 そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。 なお、明治10年代には庫裡が山内村の小学校になった。 これが現在の小坂小学校の前身のひとつである。
尼寺終焉後の住職
1903年(明治36年)、後に円覚寺管長となる古川堯道(ぎょうどう)が男僧の第一世住職となる。 その2年後の1905年(明治38年)に円覚寺管長で建長寺管長も兼務していた釈宗演が管長を辞して東慶寺の住持となり、その頃鈴木大拙がしばしば訪れ、夏目漱石も訪れる。 釈宗演は1919年(大正8年)に61歳でこの寺で亡くなる。 その後佐藤禅忠が住職となる。 1923年(大正12年)9月の関東大震災で鐘楼を除く全ての建物が倒壊したが、書院、本堂等を再建した。 1935年(昭和10年)本堂の再建と同時に53歳で亡くなる[133]。 そのあと隣の浄智寺住職・朝比奈宗源が東慶寺住職を兼務し、昭和16年に佐藤禅忠の弟子であった井上禅定が住職となる。 この井上禅定の頃に、釈宗演の遺言であった松ヶ岡文庫を鈴木大拙の蔵書をベースに、財界人の寄付も仰ぎ設立する。 尼寺東慶寺の遺産として二階堂に山林を持っていたが、永福寺跡のススキ野も東慶寺が所有しており、それが鎌倉市に買い上げられたときにその代金でこれも釈宗演の遺言であった松岡宝蔵を建てたという[134]。 井上禅定は1971年(昭和46年)から3年間円覚寺派宗務総長として管長朝比奈宗源を補佐し、1981年(昭和56年)8月より浄智寺住職に転じて、東慶寺住職には子息の井上正道が就任する。 井上禅定は2006年(平成18年)1月、95歳で亡くなる。 歴史に詳しく 『鎌倉市史・寺社編』の東慶寺の項は井上禅定の『駆入寺』を下敷きにしている他、1964年の円覚寺編『円覚寺史』の共著者でもある。
文化財
木造聖観音立像(重文)
木造聖観音立像はもともとは鎌倉市西御門にあった太平寺(尼五山の第一位、廃寺)の本尊。 鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)の作。 像の表面には土紋(どもん)装飾が残っている。 土紋装飾は落雁の様に花や葉の型に詰めた粘土を貼り付けるもので南宋伝来の装飾技法である。 日本では鎌倉時代後期から南北朝時代ぐらいの鎌倉、あるいはその文化圏にしか見られない。 かなり剥げ落ちてはいるが、切金(きりかね)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けてあるところもある。 常設で宝蔵に安置されている。
初音蒔絵火取母(重文)
初音蒔絵火取母(はつねまきえ ひとりも)は室町時代の作。 「火取母」はおおまかに云えば香炉であるが、平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。 江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。 この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた[135]。 「初音」とは源氏物語の巻名である。 「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。 本作品をはじめ東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。 豊臣秀頼娘天秀尼の所持とも伝えるがそれぞれの由来は不明である。
毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展に展示される。
葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)
葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ)はいわゆる「南蛮漆芸」の遺品。 「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、鎖国以前にはヨーロッパからの注文で大量に作られていた。 ただしこれがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない。 「新編相模国風土記稿」の東慶寺寺宝の中には出てこない[136]。 先々代住職井上禅定は「恐らく異教の器物故手にふれず故意に書き上げなかったものであろう」と想像する[137]。 もっともそこに寺宝としてあげられたのは香合、香炉を中心とした8点だけである。 またキリスト教の禁が解けたあとの1903年(明治36年)東慶寺「什器控」には「ぶどう模様丸弁当箱」とあり、キリスト教のミサの道具とは認識されていなかった。 そう認識されたのは1936年(昭和11年)に漆工研究家の吉野富雄がこれを見つけた[138]とき以降である。
今日本にある「南蛮漆芸」は一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。 かつては宝蔵に常設であったが、文化庁の指導で毎年秋に2ヶ月間開かれる東慶寺伝来蒔絵展のときのみ展示されるようになった。 (ただし2013年の蒔絵展では修復中の為展示されていない。)
東慶寺文書(重文)
東慶寺文書 は773通20冊(附:文箱1合、鏧子1口)からなる。 古いものでは鎌倉公方足利氏満の寄進状を始め、足利成氏書状、足利政氏印判状などがある。 同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書は良く残っている。 中には旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える後北条氏の北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。 江戸時代については千姫侍女書状十通の他、縁切関係では1866年(慶応2年)の2冊の日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。
1905年(明治38年)の東京帝国大学史料編纂掛(現東大史料編纂所)の調査では1690年(元禄3年)以来の日記数十冊、1733年(享保18年)を始め十数冊の駆入書留他大量の古文書の存在が確認されていたが[139]、 関東大震災やあるいは混乱時に屑紙として襖屋に渡るなどして、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった。 他に郷土史家の小丸俊雄が入手した170通の旧蔵文書があり、現在鎌倉国宝館に収蔵されている。 その一部は『鎌倉市史・史料編』 に収録されているが、全体は『縁切寺東慶寺史料』にある。 ただし東慶寺に残る文書は相当傷んでいるものもあり、東慶寺では2013年時点でその修復を計画し基金を募っている。
木造水月観音菩薩半跏像
木造水月観音菩薩半跏像は神奈川県指定文化財で、水月堂に安置する。 かつては南北朝から室町時代頃のものとみられていたが近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。 文化財指定名称では「半跏像」とあるが右足先を左腿に乗せていない。 一般的な仏像と異なり南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。 同じような姿態の像は画像では建長寺の白衣観音画像、横須賀清雲寺の本尊滝見観音像(重文)があるがこれらは南宋から鎌倉にもたらされたものであり、こうした姿態の像は京都でには残らず、鎌倉時代後半の鎌倉周辺にしか残っていない[140]。 東京国立博物館東洋室長の浅見龍介は、もしこの像が最初からこの寺にあったのであれば開山覚山尼にかかわる遺品である可能性もあるとする。 銅製の冠、胸飾などは後世補われたものである。 毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。
木造観音菩薩半跏像
木造観音菩薩半跏像 は鎌倉市指定文化財である。 鎌倉時代・14世紀。 写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。 髻頂上の飾り、両手首先、左目の上瞼、下に踏み下げる左脚とその周囲の垂れる衣は後世補修されたものである。 金沢区富岡の慶珊寺に明治維新後の廃仏毀釈で鎌倉の鶴岡八幡宮十二坊より移された十一面観音がある。 胎内の銘文により1332年(正慶元年)の仏師院誉作と判明しているが、これと極めて良く似ている[141]。
境内
鐘楼
山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼がある。 現在の鐘楼は大正5年のもの。 関東大震災で唯一倒れなかった建物である。 梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残る。 東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。 現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。 「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺のものであったことが判る[142]。 それが何故ここにあるかだが、玉舟和尚の「鎌倉記」や、水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志」には、東慶寺の寺領であった二階堂永安寺跡より農民が掘り出したという[143]。 同様の記述は「新編相模国風土記稿」にもある [144]。 永安寺(ようあんじ:廃寺)は瑞泉寺門前右側の谷戸にあった足利氏満の菩提寺であり、足利持氏が永享の乱のときこの寺に幽閉され、更に攻められて自害し寺は焼けたと伝える。 それらの事から足利氏満が没した1398年(応永5年)12月以降、菩提寺として建てられた永安寺に補陀落寺から移されたと推測されるが定かではない。
書院
山門を潜り、鐘楼を通り過ぎた右側に書院の中門があり、その中の大きな建物が書院である。 以前は1634年(寛永11年)の徳川忠長屋敷から移築された建物であったと思われるが、関東大震災で倒壊する。 倒壊直後の写真[145] では屋根は茅葺であった。 現在の書院は以前とほぼ同じ間取りで大正末に再建されたものである[146]。 以下中世の建築用語を用いるが、玄関を上がった「中門廊」は2つの出入り口を持ち、その先北側[注 44] に「公卿の間」がある。 その西側、「広庇」(縁)沿いに「次ぎの間」「上座の間」が繋がる。 上座の間の天井は今は十六菊花紋の格子天井であり、以前は菊・桐の紋であったという[147]。 その「上座の間」に向かって左側にお殿様(徳川忠長)が太刀持ちの小姓を従えて座っていてもおかしくない「上段の間」がある。 「広庇」に相当する南側と西側の廊下は、倒壊前は雨戸だったというが[148]、今は僅かに波打つ大正ガラスのガラス戸が入っている。 書院から本堂、更に水月堂へと渡り廊下で繋がっている。 東慶寺では様々な文化的イベントを行っているが、講演会はこの書院を用いることが多い。
本堂
書院の門の先の同じ右側の中門の奥が本堂である。明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」[149]という状態であった。 その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する[150]。 その頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があり、後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して本堂とする[151]。 しかしこれも1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊する[152]。 このとき本尊両立の文殊・普賢も消失している。 現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたものである。 本尊は釈迦如来座像。 寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘がある。 それによって1515(永正12年)に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判った。
水月堂
本堂にほぼ接した左側が水月堂である。 元は加賀前田家の持仏堂であったが、1959年(昭和34年)にこちらに移築し、水月観音菩薩半跏像を安置する[153]。 水月堂とはその水月観音菩薩像からである。 この水月堂が出来るまでは水月観音菩薩像は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に寄託されていた。 この持仏堂の仏壇は元々丸窓であったが、水月観音の大きさにちょうどピッタリで、水月観音菩薩像の為にあつらえたかのようである。 水月堂の前には作家の田村俊子や湯浅芳子の仲間であった山原鶴(号宗雲)の茶室松寿庵があり、本堂前から扁額が見える。
寒雲亭(茶室)
書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。
寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。
ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖[注 45]
は持ち出すことができたが、茶室は表裏両千家共にすべて焼失している。
従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。
京都の裏千家今日庵にも寒雲亭が再建されている。
東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家[注 46])
に移築され、その後、鎌倉材木座の堀越家[注 47]
を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである[154]。
千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある[155]。
垣根の外から見える外壁に「寒雲」の扁額が見えるがそれとは別のものである。
1994年(平成6年)に改修工事を行った[156]。
茶室は八畳の下座床[注 48]
で、書院造りだが床の間と付書院を分けて格式を和らげている。
炉は出炉[注 49]
で、露地に面して貴人口を開ける。
天井は真行草の三段構えで貴人席の上が竿縁天井、その向いが平天井、縁側の下座が船底天井と3種類に分かれている。
現在では月例の月釜、武者小路千家流の体験茶道、同略盆点前教室、志野流の体験香道その他がここで開催される。
白蓮舎(立礼茶室)
本堂の門前の先に青銅の金仏があり、道はそこから若干右方向に曲がるが、その金仏の左正面が茶室・寒雲亭の中門である。 その門の手前を右へ行くと菖蒲畑の左側に見えるのが立礼の茶室白蓮舎である。 普通にお茶室というと「にじり口」から入る広くて4畳半、狭いと2畳に床の間で作法が大変というイメージ[注 50] が一般的だが、こちらのお茶室は立礼席(りゅうれいせき)と言って敷き瓦を敷いた土間に椅子にテーブルでかなりの広さがある。 立礼席は明治5年に裏千家11代玄々斎が外人を意識して考案したものでその後多くの流派に広がった。 立礼席は各流派の門人の為のお茶会でない限り、一般には作法をさほど気にしないでも済む略式ととらえられている。 普段は法事を行う際にその檀家の為などにに用いられるが、年に2回、梅の頃と花菖蒲の時期には茶店として一般に公開される。 梅は境内に沢山あるが白蓮舎のガラス戸の前の紅梅の古木は見事で、お茶菓子はその木の紅梅をイメージした生菓子が出される。 花菖蒲は宝蔵側からは少し距離があるがこの白蓮舎からは眼の前である。この季節の生菓子は紫の花菖蒲をモチーフにしている。 また様々なイベントのメイン会場、サブ会場としても用いられる。 挿し花体験教室や写経会もここで行われる。
松ヶ岡宝蔵
かつてはこの場所に方丈があったという。1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリートの土蔵様式で新築された[157]。 木造聖観音立像(重文)は受付の左側、階段下のスペースの壁面に安置されている。 階段を上がると展示室であり、縁切状、東慶寺縁切寺法手続きの解説図は常設だが、特別展として縁切寺の今昔展、東慶寺二十世天秀尼展、東慶寺仏像展(毎年春)、東慶寺伝来蒔絵展(毎年秋)、木下春展、禅僧の画いた達磨展などがこれまで行われている。
庭園の花
- 春(2~4月)
東慶寺は梅が沢山あることで有名であるが、その梅が終わると山門を潜ってすぐ右側、鐘楼の向かいの彼岸桜が見事であり、浄智寺のタチヒガンよりも少し早い。 それが終わると本堂中庭の枝垂桜、それより僅かに遅れて本堂の門と寒雲亭の門にはさまれた枝垂桜。 更に遅れて山門左のウコン桜・書院の八重桜が咲く。
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参道の紅梅白梅
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白蓮舎からの紅梅
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山門脇の彼岸桜
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本堂門前の枝垂桜
- 梅雨(5~6月)
アジサイの季節は黒姫アジサイに始まり、額アジサイ、柏葉アジサイその他が続くが、同時に白蓮舎前の花菖蒲の他、宝蔵から墓地に向かう右側壁面一杯に岩タバコが咲く。 岩タバコそのものは鎌倉では珍しくは無いが岩肌一面にというのは例を見ない。 岩タバコとほぼ同時に本堂裏には岩がらみがこれも壁面一杯に咲く。 本堂裏は通常は立ち入れない処だが、その時期には時間を限って縁沿いに本堂裏まで入れる。 岩がらみは山奥に自生するもので、それでも広い壁面一杯にというのは例を見ない。 なお近年、宝蔵の裏にも岩がらみが伸びており、これは時間制限無く見ることが出来る。
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白蓮舎からの菖蒲
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席からの花菖蒲
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岸壁の岩タバコ
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本堂裏の岩ガラミ
- 秋(10~12月)
宝蔵前の秋桜がピークを迎える9月から杜鵑がちらほら咲き出すが、見事な群生となるのは10月である。その次ぎに竜胆の花が地面を這い、そして紅葉が始まる。 鎌倉の紅葉は山間部に比べると条件が悪いが山門前、本堂中庭、それより遅れて奥の墓地の紅葉が見頃となる。
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杜鵑(ホトトギス)
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竜胆(リンドウ)
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本堂の紅葉
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墓地の紅葉
墓地
- 歴代住持の墓
歴代住持の墓は岩タバコの岩壁の直ぐ先の石段の上にある。 石段は新しいものと、すり減った古い石段の2つがあるが、新しい石段の上が皇女用堂尼の墓であり、柵で囲われ宮内庁が管理している。 墓は矢倉の中にある(画像:中央奥)。 古い石段を登ると正面が天秀尼の墓で一番大きな無縫塔である。 右には用堂尼の矢倉と並んで開山・覚山尼の矢倉がある(画像:左奥)。 ただし覚山尼は円覚寺の今日庵の夫時宗の傍に葬られたのでここは供養塔である。 天秀尼の無縫塔の左には前述の台月院の宝篋印塔があり、その更に左には21世永山尼の無縫塔がある。 尼寺住持の墓はそれだけである。 左手前に並ぶ無縫塔は蔭涼軒院代の他、塔頭の庵主の墓で、一番左端(画像:右手前)が最後の院代順荘尼の墓である。 この順荘尼が明治35年に亡くなって以降男僧の寺となった。 釈宗演以降の男僧の墓は天秀尼、永山尼の無縫塔の後方にある。
- 著名人の墓
当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、檀家の墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨[注 51]、 川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。 また、前田青邨の筆塚、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。
交通・拝観等
- JR横須賀線北鎌倉駅下車徒歩3分(地図)
- 3~10月:8:30~17:00 11~2月:8:30~16:00 拝観料200円
- 松ヶ岡宝蔵:9:30~15:30 入館料300円 月曜日は休館(ただし祝祭日の場合は開館、年末年始に休みあり)
- 水月観音拝観は毎年春に行われる東慶寺仏像展のときは松ヶ岡宝蔵で拝観できる。
その他の時期はメールで問合せの上予約。
脚注
- ^ この大鐘は現存するが東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある。(鎌倉市史・寺社編 pp.342-343、鎌倉市史・考古編 pp.306-312))
- ^ 「菩薩座光」は現存する水月観音菩薩かもしれないが不明である。
- ^ ただしそこでは寺ではなく17世旭山尼を指して「御しょ様」と云っており、「御所」が皇女用堂尼に由来するものなのか、関東公方家の姫君に対する御所号なのかは判然としない。 なお、北条氏綱も氏康も「御しょ様」、「東慶寺長老」に直接手紙は出さず、形式的な宛名は「東けい寺(改行字下)侍者御中」または同「いふ侍者御中」である。 「いふ」は「衣鉢」であり、今は「いはつ」と読むが、書状には「いふ」と平仮名で書いている。 宛名の「東けい寺」は「寺」ではなく「住持」「長老」を指す。 「東けい寺衣鉢侍者」とは「御しょ様」とまで言われる高貴な長老の身近く仕える尼僧である。 目上の者に直接手紙を書かず、その従者に「こうお伝え下さい」と書くのが平安時代以来の貴族社会の礼儀作法である。 寺を指して御所と呼ぶ最初のものは江戸時代になってから、天秀尼の示寂よりも後の無住持時代である。
- ^ 蔭凉軒という名は足利氏にとっては由緒のあるもので、京都の相国寺では将軍足利義持(よしもち)が参禅聴講のために総説した小御所的存在だった。 後には軒主が将軍の宗教行事の披露奉行を行った。 1435年(永享7)から1493年(明応2)までの断続的な記録が「蔭凉軒日録」として残る。 要山尼は東慶寺・蔭凉軒の最初の庵主であり、古文書を見る限り若い住持御所様の後見人、実務の長のように見える。 北条氏綱の書状から推測する役目、後北条氏と戦闘状態にあった安房の里見氏と交渉出来る立場と、号に「山」が付くことなどから、公方の娘ではないにしても関東足利氏の一族である可能性が高い。
- ^ 「瓊山」(けいざん)が号、「法清」が諱である。瓊山尼と呼ばれる方が多いが、法清尼と書かれることもある。 東慶寺で号に「山」が付く尼は足利氏の出と見てほぼ間違いはない。
- ^ なお、この時代は土地の収穫高を石高ではなく通貨単位の貫を用いる貫高制であり、後北条氏は田1段あたり500文、畑は1段あたり150-200文を標準として、100文を米1斗2-4升に換算したと一般に云われる。 1貫は1000文であるので米1.2~1.4石、田1町あたり6石~7石となる。 ただし貫高にも普通の貫高と永楽銭ベースの永高があり、『鎌倉市史』は25貫文100石相当、つまり1貫を4石として東慶寺の寺領を450石とするが、時代により地方により換算レートは一定しないので、後北条氏の云う貫高と家康寄進状にある貫高を単純に比較して良いのかどうかは不明である。 なお、「北条氏政印判状」(鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号328 「北条氏政印判状」 pp.339-340)に前岡郷から「此内前々納所御寺へ参分」として51貫300文を米223俵とあるので明治時代のレートで1石を2.5俵とすれば90石弱、1貫は1.7石となるが、当時俵にどれだけの米を詰めたのかも不明である。
- ^ 鶴岡八幡宮は源氏を名乗る徳川家にとっては特別な意味を持つので840貫と飛びぬけているが。
- ^ 平均的農家の年貢のベースとなる表高は約10石であるので6貫~4貫とは農家2軒分の年貢しかないということになる。
- ^ 天秀が号、法泰が諱であり、その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。
- ^ 詳細は天秀尼の千姫との関係を示す物を参照。
- ^ 首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である(関口欣也1997 pp.71-72)。 ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。
- ^ この棟板が千姫、天秀尼、春日局の名が記された先の棟板である。 「駿河亜相」の「亜相」とは大納言の唐名であり、「駿河大納言」という意味である。 棟板は江戸時代後期には仏殿から外されて保管されていたということになる。 ということは「新編相模国風土記稿」が書かれた1841年(天保12年)以前にこの仏殿の屋根の改修工事が行われたということである。 後述する入母屋造から寄棟造への改修がそれに該当しよう。
- ^ 「修理工事報告書」はこれを1509年(永正6年)と記し、現在も「仏殿」の説明文には1509年とあるがこれは誤りである。 (鎌倉市史・寺社編 pp.345-346、 および鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326)
- ^ 江戸時代の鎌倉大工の作風を見ると、17世紀中期をやや下る頃まで室町末風で保守的な傾向があるという(関口欣也1997 p.146)。
- ^ 創建が江戸初期であるのでその入母屋造屋根は現円覚寺舎利殿のようなこけら葺、檜皮葺であった可能性もあるが史料はない。 中世では屋根葺工法の中で檜皮葺が最も格式の高い技法である。 一般に檜皮葺から瓦葺、そして茅葺へと移る。現在では瓦葺より茅葺屋根の維持の方が大変だが、江戸時代にはそちらの方が維持は楽であり、建長寺では1837年(天保8年)に法堂(はっとう)を瓦葺から茅葺に改めるための勧進まで行っている(関口欣也1997 p.162)。 檜皮葺から銅瓦葺に改めた例では鶴岡八幡宮の文政再建がある(関口欣也1997 p.168)。 国宝正福寺地蔵堂も茅葺になっていたものを1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺(柿葺)に直している。 そのときにこの地蔵堂が1407年(応永14年)と判り、そこから円覚寺舎利殿の創建年代が判明したという経緯がある。 その改修工事の際1811年(文化8年)の墨書名も発見されており、茅葺への改修はそのときと思われる。
- ^ この雲版は鎌倉市文化財になっている。
- ^ 詳細は天秀尼の会津四十万石改易事件を参照。
- ^ 詳細は喜連川藩を参照。
- ^ 西堂は他のそれなりの格をもつ寺院の住持を勤めた者で、その寺の前住持を東堂と称するのと対語となると一般に説明されるが、東慶寺においては蔭凉軒主が他の尼寺の住持であったことを示す記録は無い。 従ってここでの意味は住持ではないが住持格。 住持の弟子である都寺・監寺などの知事、首座・書記・蔵主など頭首の上位という意味になる。 他の塔頭の庵主の法階は概ね首座か都寺である。
- ^ 庵ではなく軒であるがここでは一般名称の庵主を用いておく。 徹宗法悟尼像は1735年(享保20年)に90の賀を祝った記念に書かれたものと思われる(井上禅定1995 p.179)。
- ^ そのときの扁額は徹宗尼の筆であり今も残る。泰平殿は元太平寺本尊の聖観音立像(現重文)を納めた。 泰平殿は太平寺に由来する。 この泰平殿は中門(現在の山門)の石段の右にあったが、近代に現在の宝蔵前、菖蒲畑の位置に移築し本堂としたが関東大震災で倒壊する。
- ^ 先に登場した19世瓊山尼の妹月桂院開基の寺
- ^ 鎌倉の寺はおおむねそうだが東慶寺も山に囲まれた谷戸にありその尾根までが境内である。
- ^ 住持でなく事務方の長。 ただし後に住持となることが多い。
- ^ 大久保彦左衛門の子孫である。
- ^ 寺社奉行は定員は4名前後。 この時も4名でありこの裁定には4名とも列席している。 原則として一万石以上の譜代大名であり阿部播磨守は武蔵国忍藩10万石の大名。 脇坂淡路守は播磨国龍野藩5万1千石の藩主である。 寺社奉行は勘定奉行や江戸町奉行とは格が異なり、老中ではなく将軍直轄で奏者番を兼任する幕臣エリートの出世コースである。 この二人はいずれも後に老中になっている。 寺社奉行は自邸が役宅となる。
- ^ これは東慶寺に残る古文書からではなく、同じ鎌倉の尼寺で水戸藩と関係の深い英勝寺の記録による。
- ^ 脇坂淡路守は2度寺社奉行を勤め、後に老中となっている。
- ^ お寺が金融業というと現在の感覚では奇異な感じを受けるが、こうした例は中世からあり江戸時代の鎌倉の他の寺院にも例がある。
- ^ 中世の範囲は教科書的には支配者の交代を基準として鎌倉時代に始まり、室町時代をはさんで戦国時代までとするものが多いが、歴史学者の中では農民に対する支配制度、風習などの観点などから、律令制が空洞化した後の「王朝国家体制」を中世の始まりとしたり、中央公論新社の『日本の中世』シリーズのように11世紀半ば過ぎからとする意見も多い。 従ってここでは平安時代後半も含めて中世として扱う。
- ^ 実はこのとき重方が口説いていたのは自分の妻で、顔を隠していたのでそれに気づかなかった。 そうと知らずに重方は「つまらない女房はいるにはいますが、そいつの顔は猿のようで、心は行商女も同然の賤しさ」「そんなつれないことを聞かせないでください。 ここからすぐにお供をして、女房のところへなんか二度と足を踏みいれますまい」という。
- ^ 近衞府生であって貴族では無いが、天皇の行幸や高官の外出時の警護の際には騎乗を許可され前駆する立派な武官である。
- ^
省略せずにこの項を記せばこうなる。
「(ヨーロッパでは)堕落した本性にもとづいて男のほうが妻を離別する。日本ではしばしば妻たちのほうが夫を離別する」。
フロイスはイエズス会の宣教師でありカトリック教会は離婚を認めない。
「堕落した本性にもとづいて」にはそういう背景がある。
それに関連してこういう記述もある。
「ヨーロッパでは妻を離別することは罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では望みのまま幾人でも離別する。彼女達はそれによって名誉も結婚(する資格)も失わない」。
当時のカソリックは離婚して再婚すると教会法上の重婚状態とされ、その罪のため聖体拝領を受けることが出来ない。
他にはこういう記述がある。
「日本の女性は処女の純血をなんら重んじない。それを欠いても名誉も結婚も失ないはしない(結婚できる)」 「日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、一人で行きたいところに行く」。 「日本の女性は夫に知らさず、自由に行きたいところに行く」。 「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。 ただしこういうことも書いている。 「われわれにおいては女性が文字を書く心得はあまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる」。 - ^ 「実現出来なかった」という方が適切かもしれない。
- ^ これを最初に指摘したのは穂積重遠であり、その後高木侃が詳細に論証した。(高木侃1999 p.84)
- ^ 「形式上妻は夫から離縁状を受理」の良い例に婿養子の離縁状がある。 養子縁組の解消権は養父にあり、養父が養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消される。 しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされた。 これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責された。 「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるが、無理やり書かされる離縁状でも、その文言は「此度我等勝手に付、離縁致し」なのである。(高木侃1992 pp.60-61)
- ^ もうひとつの実例は「此度我等勝手ニ付、不縁之義」の次の行に「任其意(その意の任せ)と書かれた三下り半もある。 これは「妻の勝手」(離婚要求)であったことを示す(高木侃1999 p.96)。
- ^ これは妻と夫が互いに離縁状をしたためている。 内容からは2年前に養子となった夫が病のため婿養子としての勤めが果たせなくなったからというものであり、妻側は百両の「離別之験」を夫に渡している。
- ^ 離縁に関する限り「公事方御定書」はここにある判例をほぼ踏襲している。
- ^ なお、「駆込は迷惑だから受け付けない」と表明したところは、以降全くの門前払いだったのかというとそうではなく、縁切奉公は受付ない代わりに妻実家方、夫方の名主を呼び出して「夫に縁切状書かせろ!」と命ずる。 江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいる(長田かな子2001 p.128)。「夫の手に負えぬ場所」は江戸時代を通じてそれなりに機能していたといえる。
- ^ 「死罪」は死刑の中でも重く、死体は山田淺左衛門が刀の試切りに使う。 更に死体は埋葬されず取り捨てられる(長田かな子2001 pp.194)。
- ^ 「他行止達書」(たぎょうとどめたっしがき)ともいい、意味としてはこちらである。 この日は他所へ行かずに家に居ろと。
- ^ このとき夫方は2通の離縁状を作成し、1通は妻に、もう一通はその写しとして東慶寺に差し出す。 この2通とも現存する例が1例だけある。 写しの方は東慶寺旧蔵文書(小丸文書)で、もう一通は研究者の高木侃が古書店から入手した。 同じ筆跡で字配りも同じである。 違うところは、東慶寺に差し出す写しに良質の紙を使い、妻に渡した原本は横帳の白紙を用いていており、折り線や綴じ穴が残っている(高木侃1992 p.132-136)。
- ^ 実際には北西だが厄介なのでここでは建物の正面を南側とみなし、正面側の玄関から上がった先なので北ということにする。
- ^ 狩野探幽作の「八仙人の手違い」。 今は裏千家今日庵の寒雲亭にある。
- ^ 裏千家は千利休から5代目(裏千家としては2代目)にあたる常叟宗室以降、幕末に至るまで茶道指南として久松家に仕官していた。
- ^ 堀越宗円は女流茶人として有名で、女性として初めて「老分」となる。 老分は裏千家の重要役職で、各時代の財界人・文化人で、茶道に造詣の深い者が任ぜられる。
- ^ 下座床(げざどこ)は、亭主が茶をたてる点前座の後方に床の間を設けたもの。
- ^ 出炉(でろ)は点前畳(点前座の畳)に接した隣の畳に炉を切ること。 点前畳に切った炉を入炉と呼ぶ。
- ^ 利休の作とされる妙喜庵の待庵は二畳という狭小な茶室ということで有名だが、実際には4畳半を中心として、寒雲亭の様に8畳の茶室もあり広間と呼ばれる。
- ^ 前田青邨の墓は横浜市の總持寺にもある。
出典
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