諏訪忠晴

信濃高島藩3代藩主。諏訪忠恒の長男。母は永高院(小喜多氏)。従五位下、因幡守。諏訪氏大祝・当主

これはこのページの過去の版です。211.127.67.208 (会話) による 2014年9月10日 (水) 11:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

諏訪 忠晴(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主諏訪忠恒の長男。

 
諏訪 忠晴
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永16年8月21日1639年9月18日
死没 元禄8年3月2日1695年4月14日
改名 右京(幼名)→忠晴
戒名 乾隆院殿雄巌文頴大居士
墓所 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺
官位 従五位下、因幡
幕府 江戸幕府
信濃高島藩
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪忠恒、母:永高院(小喜多氏)
兄弟 忠晴頼蔭頼久盛條
正室:内藤忠興の養女
忠虎(三男)、頼基(四男、諏訪大社大祝諏方頼隆養子)
テンプレートを表示

明暦3年(1657年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、筑摩郡5000石のうち、弟の頼蔭頼久にそれぞれ1000石ずつ分与したため、高島藩は3万2000石から3万石となった。同年12月27日に叙任する。

藩政においては宗門改め検地を行なって藩政の整備に努めた。また、天和元年(1682年)には高田城在番と高田領内の検地を務めた功績[1]により、天和3年(1683年)7月28日に幕府より恩賞を授かっている。その後も大坂城山里御門番、江戸火消役などを務めた。文化人としても優れており、武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂し、狩野派の絵も良くした。元禄8年(1695年)3月2日に57歳で死去し、跡を三男の忠虎が継いだ。

脚注

  1. ^ 天和元年(1681年)の高田藩松平光長改易後の4年間は1年交代で、近隣の大名2家ずつが選ばれ、高田城に在城で城番を務めた。忠晴の時の相方は同じ信濃国の上田藩主の仙石政明と思われる。