諏訪忠恒

江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩2代藩主。諏訪頼水の長男。従五位下、出雲守。諏訪氏大祝・当主

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諏訪 忠恒(すわ ただつね)は、江戸時代前期の大名信濃国諏訪藩の第2代藩主で、初代藩主諏訪頼水の長男。

 
諏訪 忠恒
時代 江戸時代前期
生誕 文禄4年4月4日1595年5月13日
死没 明暦3年9月28日1657年11月4日
改名 竹千代麿(幼名)→忠頼(初名)→忠澄→忠恒
戒名 天久院殿一実要關大居士
墓所 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺
官位 従五位下、出雲
幕府 江戸幕府
信濃諏訪藩
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪頼水、母:本多康重の娘
兄弟 忠恒頼郷頼長頼孚
正室:稲葉典通の娘
娘(山口弘隆正室)、娘(諏訪頼音正室)、忠晴頼蔭頼久盛條、娘(岡田善次正室)
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慶長12年(1607年)、第2代将軍徳川秀忠に謁見して刀などを賜り、元服して忠頼(ただより、初名)と名乗った(「忠」の字は秀忠の偏諱と思われる)。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では信濃国高島城を守備し、翌年の大坂夏の陣では、甲府城守備を任じられた父に代わって大坂へ出陣し、榊原康勝軍に属して、若江の戦い天王寺の戦いで奮戦し、戦後、筑摩郡に5000石を加増されている。

寛永17年(1640年)、父から家督を譲られた。そして藩政に力を注ぎ、新田開発に努めた。明暦3年(1657年)9月28日に63歳で死去。家督は長男の忠晴が継いだ。