常ノ花寛市
常ノ花 寛市(つねのはな かんいち、1896年11月23日 - 1960年11月28日)は、岡山県岡山市出身の元大相撲力士。第31代横綱。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。
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![]() 常ノ花寛市の肖像画 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 常ノ花 寛市 | |||
本名 | 山野辺 寛一 | |||
愛称 | 御神酒徳利 | |||
生年月日 | 1896年11月23日 | |||
没年月日 | 1960年11月28日(64歳没) | |||
出身 | 岡山県岡山市 | |||
身長 | 178cm | |||
体重 | 112kg | |||
BMI | 35.35 | |||
所属部屋 | 出羽ノ海部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、右四つ、寄り、櫓投げ、上手投げ、足癖 | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第31代横綱 | |||
生涯戦歴 | 263勝81敗8分10預66休(49場所) | |||
幕内戦歴 | 221勝58敗8分6預66休(34場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝10回 十両優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1910年1月場所 | |||
入幕 | 1917年5月場所 | |||
引退 | 1930年10月場所 | |||
引退後 | 第2代日本相撲協会理事長 | |||
備考 | ||||
2013年7月1日現在 |
来歴
入門~初土俵
1896年11月23日に岡山県で生まれるが、出生時で既に体重が5kgに達していたことで怪童として評判になった。山野辺少年はとても利発で、12歳の時に大阪で大火事があった際に被災者支援として子供相撲大会を自ら企画・開催し、純益を義援金として大阪へ送ったほどである。これを知った大日本帝国陸軍の一戸兵衛(明治神宮宮司、のちに陸軍大将)が、法律関係の仕事に就いていて常陸山谷右衛門を贔屓にしていた父親を介して紹介し、13歳で出羽ノ海部屋へ入門した[1]。1910年1月場所で初土俵を踏む。
順調に昇進~第一人者
決して力が強いわけではなく、栃木山守也よりは重いといっても細身で軽量なので、1917年5月場所で新入幕を果たしても横綱はおろか三役定着すら期待されていなかった。しかし、生来の負けん気の強さに加えて稽古熱心で、さらに数多くの稽古相手に恵まれた環境と常陸山の厳しくも熱心な指導によって順調に出世した。1920年5月場所には大関に昇進するが、稽古中の負傷によって全休。次の場所では9勝1敗、その次の場所は10戦全勝で初優勝を果たし、通常なら横綱へ昇進する成績だった。しかし、横綱には大錦卯一郎・栃木山守也が存在しており、横綱は西ノ海嘉治郎に先を越された。この悔しさを教訓にさらに稽古を繰り返し、1924年5月場所で横綱へ昇進、1926年1月場所には2度目の全勝優勝を果たした。
大坂相撲との合併が行われたあとの1927年1月場所は不振によって、大坂相撲から編入した宮城山福松に優勝を奪われたが、3月・5月・10月場所といずれも10勝1敗で三連覇を果たし、1928年5月場所は3度目の全勝優勝を果たして第一人者の地位を不動のものとした。1929年9月場所には優勝したものの8勝3敗の成績で「3つも負けた者に天皇賜杯とは不敬」とする声が上がった。このため「3敗以上した場合はたとえ優勝しても賜杯の贈呈はしない」と規定が改定された[2][3]。
突然の引退~理事長就任
しかし、さらなる飛躍が期待されている最中の1930年5月場所途中、突然の現役引退を表明した。引退後は年寄・藤島を襲名すると、講談社から優勝力士に銀杯を贈りたいとの申し出があった。協会はこれを断ろうとしたが、藤島はこれに目をつけて「雑誌社も報道機関であるから相撲振興のために進んで受けるべきだ。不況の角界を再興させる道だ」と説得、申し出を受けることが決定した。
1932年1月6日に勃発した春秋園事件では、協会の使者として春日野と共に天竜三郎の説得にあたるなど、事件の完全収拾に全力を尽くした。この事件によって出羽海・入間川・高砂が引責辞任すると、春日野・立浪・錦島と共に取締に就任、1944年には元力士としては初となる第2代の相撲協会理事長に就任した。1949年には出羽海を継承して蔵前国技館を建設する(1954年竣工)など、戦後間もない東京で大相撲復興の基盤を築いた。
1956年には、完成して間もない蔵前国技館で赤い綱を締めて、露払いに千代の山雅信、太刀持ちに時津風を従えて還暦土俵入りを行なった。現役理事長としての還暦土俵入りは史上初だった。
自殺未遂事件~死去
1957年に、国会の衆議院予算委員会で日本相撲協会の在り方が追及されて改革を迫られたが、神経を磨り減らしたのと強い責任感から、同年5月4日に蔵前国技館内の取締室にガスを充満させ、鎧通しを用いて腹と首を割って自殺を図った。発見が早かったため一命は取り留めたが、現役理事長の自殺未遂事件を重く受け止めた協会は出羽海理事長の退任と相談役への就任を決め、後任の理事長として時津風を据えた。
この後も日本相撲協会で隠然たる勢力を持ちつつ部屋の力士の養成に注力したが、1960年九州場所(11月場所)千秋楽翌日の11月28日、二日市温泉の旅館で胃潰瘍のため急死した。同年12月10日には勲三等瑞宝章が追贈され、同年12月26日に協会葬で送られた。
人物
右差し得意の速攻相撲で猛突っ張りもあり、櫓投げを得意とするなど取り口は派手なものだった。吉野山要次郎を苦手としており、1927年1月場所では手も足も出ないまま一気に押し出されたのを始め、1928年10月場所と1929年1月場所はいずれもうっちゃりで連敗している。
優勝10回(全勝3回)、昭和に入って年4場所に増えたことも関係するが、初めて優勝回数を2桁に乗せた力士だった[4]。
「相撲往来」「力士時代の思ひ出」「近代力士生活物語」「私の相撲自傳」「近世大関物語」など多数の著作があるように、達筆でも知られた。[5]亡くなる直前には後継者として九重を指名する遺言を遺したとされたが確証がなく、武蔵川が継承したことで九重独立騒動へつながった。そのため、遺族は九重を支持していた。
戦中・戦後の困難な時代に辣腕を振るって協会の発展に尽力した反面、その独裁的な傾向を非難する者も少なくなかった。自身の子飼い弟子であり後に部屋付の九重に帯同して九重部屋の横綱となった北の富士が自著で語るところによると、出羽ノ花と比べて吝嗇の傾向があり常ノ花が部屋の師匠を務めていた頃は部屋の食糧事情も充実していない部分があったという。
エピソード
- 常陸山は常ノ花に大きな期待をかけていた。ある日の稽古後、常陸山は常ノ花を自室へ呼ぶと弟子を殴るための愛用のステッキを差し出して「いつかこれをおまえに譲りたい。でも横綱になるまではやらんぞ」と言った。これは、常ノ花が横綱になれる男と見込んで出世を楽しみにしていたと共に、将来的には部屋を継承してほしいと考えていたと推測できる。常ノ花は、常陸山の没後に横綱へ昇進したために譲り受けたかは不明だが、「出羽海」は継承しているために部屋継承の点では常陸山の願いは叶えられたことになる。
- 引退時、NHKアナウンサーだった松内則三は「いつまでも ふくいくと咲け 常ノ花」と一句詠んだ。
- 常ノ花の死因は胃潰瘍と発表されていたが、実際にはフグ中毒であったと言われる[要出典]。
- 1986年6月、妻・静代と長男・行也が、出身地の岡山市に御下賜杯優勝模杯(天皇賜盃のレプリカ)をはじめとする品を郷土資料として寄贈した[6]。
主な成績
- 通算成績:263勝81敗8分10預66休 勝率.765
- 幕内成績:221勝58敗8分6預68休 勝率.792
- 横綱成績:131勝31敗3分1預54休 勝率.809
- 大関成績:52勝13敗4分2預10休 勝率.800
- 通算在位:49場所
- 幕内在位:34場所
- 横綱在位:20場所
- 大関在位:8場所
- 三役在位:3場所(関脇3場所、小結なし)
- 各段優勝
- 幕内最高優勝:10回(うち全勝3回)(1921年5月場所、1923年5月場所、1926年1月場所、1927年3月場所・5月場所・10月場所、1928年5月場所、1929年5月場所・9月場所、1930年3月場所)
- 十両優勝:1回(1917年1月場所)
場所別成績
春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1910年 (明治43年) |
(前相撲) | x | (前相撲) | x | ||
1911年 (明治44年) |
東序ノ口16枚目 2–3 |
x | 東序二段98枚目 2–2 (1預) |
x | ||
1912年 (明治45年) |
東序二段62枚目 3–2 |
x | 西序二段30枚目 4–1 |
x | ||
1913年 (大正2年) |
西三段目38枚目 4–1 |
x | 西三段目8枚目 2–2 (1預) |
x | ||
1914年 (大正3年) |
西幕下60枚目 4–1 |
x | 西幕下32枚目 3–2 |
x | ||
1915年 (大正4年) |
西幕下19枚目 4–1 |
x | 西十両14枚目 3–1 (1預) |
x | ||
1916年 (大正5年) |
西十両5枚目 2–3 |
x | 西十両11枚目 2–2 (1預) |
x | ||
1917年 (大正6年) |
東十両5枚目 優勝 7–2 |
x | 西前頭12枚目 6–3 (1預) |
x | ||
1918年 (大正7年) |
東前頭4枚目 5–4–1 |
x | 東前頭筆頭 8–1–1 旗手 |
x | ||
1919年 (大正8年) |
東関脇 6–3–1 |
x | 東関脇 7–2 (1預) |
x | ||
1920年 (大正9年) |
西関脇 6–1–1 (1預)(1引分) |
x | 西大関 0–0–10 |
x | ||
1921年 (大正10年) |
西大関 9–1 |
x | 東大関 10–0 |
x | ||
1922年 (大正11年) |
東大関 7–2 (1預) |
x | 西大関 5–4 (1引分) |
x | ||
1923年 (大正12年) |
東大関 4–4 (2引分) |
x | 西大関 9–0 (1預)(1引分) |
x | ||
1924年 (大正13年) |
西大関 8–2 |
x | 東横綱大関 5–2–1 (1預)(2引分) |
x | ||
1925年 (大正14年) |
東横綱2 0–2–9 |
x | 西横綱2 3–1–6 (1引分) |
x | ||
1926年 (大正15年) |
西横綱 11–0 |
x | 東横綱 0–0–11 |
x | ||
1927年 (昭和2年) |
西横綱 7–4 |
西横綱 10–1 |
西横綱 10–1 |
東横綱 10–1 |
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1928年 (昭和3年) |
東横綱 0–0–11 |
西横綱 10–1 |
西横綱 11–0 |
西横綱 9–2 |
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1929年 (昭和4年) |
東横綱 4–4–3 |
東横綱 0–0–11 |
東横綱 10–1 |
東横綱 8–3 |
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1930年 (昭和5年) |
東横綱 8–3 |
東横綱 10–1 |
東横綱 5–4–2 |
東横綱 引退 –– |
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各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1918年1月、5月、1919年1月、1920年1月、1924年5月の1休は相手力士の休場によるもの
脚注
- ^ 山野辺少年が入門した前日には、同じ出羽ノ海部屋に大錦卯一郎が入門していた。
- ^ このためか、これ以後は千代の山雅信が12勝3敗で優勝する(1950年1月場所)まで3敗の優勝者は出ていない。15日制以降では勝ち越し5点(10勝5敗)での幕内最高優勝は2013年3月場所までの時点でいない。
- ^ 15日制における最低成績での幕内最高優勝は栃東知頼(1972年1月場所)・武蔵丸光洋(1996年11月場所)の11勝4敗だが、勝率で換算した場合は8勝3敗:.727、11勝4敗:.733となって優勝の最低勝率記録となる。
- ^ しかし、年2回あった関西場所での最高成績力士には優勝額贈呈が行われなかったこともあって、4回は後年の追認による(賜杯は東京場所と同様に贈呈されていた)。そのため当時は新記録として認識されず、後に双葉山定次が10回目の優勝を果たした時にはタイ記録ではなく、「太刀山峯右エ門・栃木山守也の9回を抜く新記録」と報じられた。
- ^ なお、妻の山野辺静代も「すもう―常ノ花と私」という著作を残している。
- ^ 岡山シティミュージアム・デジタルアーカイブ「郷土岡山が生んだ名横綱常の花」 プロフィール