蛭子能収

日本の漫画家、タレント (1947-)

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蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本漫画家イラストレーターエッセイストギャンブラータレント俳優映画監督ファザーズコーポレーション所属。長崎市立長崎商業高等学校卒業[1]。代表作は『地獄に堕ちた教師ども』・『私はバカになりたい』・『家族天国』など。

蛭子 能収
本名 蛭子 能収
生誕 (1947-10-21) 1947年10月21日(78歳)
日本の旗 熊本県牛深市(現天草市
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
タレント
俳優
映画監督
活動期間 1973年 -
ジャンル ガロ系
ヘタウマ
不条理漫画
代表作地獄に堕ちた教師ども
私はバカになりたい
公式サイト 蛭子能収 OFFICIAL WEB SITE
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蛭子能収
生年月日 (1947-10-21) 1947年10月21日(78歳)
言語 日本語
出身 劇団東京乾電池
事務所 プロダクション人力舎

ファザーズコーポレーション
活動時期 1987年 -
現在の代表番組 ローカル路線バス乗り継ぎの旅
過去の代表番組 笑っていいとも!
スーパーJOCKEY
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!
作品 著書『ひとりぼっちを笑うな』
公式サイト 蛭子能収オフィシャルブログ「エビスのシネマミシュラン」
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経歴

昭和22年熊本県牛深市(現天草市)生まれ[2]長崎県長崎市戸町育ち[1]少年時代貸本漫画誌『影』や『街』を愛読しており、山森ススム辰巳ヨシヒロの劇画を好んで読んでいた。映画にも関心を持ち、勅使河原宏監督の『砂の女』など前衛映画も勧んで鑑賞した[3]

中学2年生の時に、不良グループに強制的に入らされ、いじめを受けていた。使い走りや持参した弁当をご飯と梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、学校で事件が起こると濡れ衣を着せられていた。家に帰るとノートに嫌な相手を殺す漫画を描いて学校の不満などを発散させていたという[4]

高校時代には美術クラブに所属。横尾忠則宇野亜喜良粟津潔に影響を受ける。グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に看板店に就職。当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたと言い、看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加する。看板店には4年半勤務し、看板設置などをしていたが[5]、漫画サークルで青林堂の『ガロ』と出会い、つげ義春の「ねじ式」に感銘を受け、「大阪万博を見に行く」と嘘をつき1970年に無断で上京する。

上京後は出版社や映画会社に勤めようとするが高卒のため断られ、再び看板屋の職に就く[6]。看板屋では「執拗に怒鳴りつける先輩の同僚」のしごきに耐える寮生活を送り、憤慨した蛭子は「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画を描くなど、創作活動に当時の不満をぶつけていた。この「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画は、1974年に『ガロ』誌上で発表した「仕事風景」で確認できる。また、この頃から日本アート・シアター・ギルド(ATG)などの前衛映画を数多く鑑賞し、映画監督に憧れてシナリオ学校に1年程度通っていた時期もある[6] が、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な日々を過ごしていたという。

ほどなく映画監督の夢を挫折、青林堂に漫画の持ち込みを始める。投稿1作目の「狂気が彷徨う」は余りにパンクな内容のためか落選した[注釈 1]が、2作目で長井勝一に見出される。その後、『月刊漫画ガロ1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」でプロの漫画家としてデビューした[2] が、青林堂の慢性的な経営不振により原稿料は出なかった。このデビュー作は、パチンコは出てこず、「パチンコに行こうとしてもパチンコに行けずに百貨店を彷徨う男」を描いた奇妙なストーリーに仕上がっており、実際に見た夢に創作を交えて漫画にしている。

私生活では、1972年に長女が生まれ、同棲していた女性と結婚する。しかし、金銭的には困窮しており、ちり紙交換の職に就くが、1974年に長男が生まれたのを機に有限会社ダスキン練馬セールスマンの正社員になる。夫婦共働きで生計を立てるが、子供の給食費すら払えない不遇の時代を送る。サラリーマン時代は、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でした。」と述懐している。

漫画で収入を得られず、デビューから2年程で沈黙期に入るが、1970年代末に高杉弾山崎春美らの依頼により、自動販売機用成年雑誌JAM』にて再デビューする。ニューウェーブ漫画家の一人として『ガロ』以外に官能劇画誌などの媒体へも進出。つげ義春前衛映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画や暴力的なモチーフを多用するダークな前衛漫画を描くようになる。また、推理作家吉村達也の初期のサラリーマン小説にも挿絵4コマを書いている。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。

1982年、初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されるのを期にダスキンを退社して漫画家として独立する。その一方で、劇団東京乾電池柄本明から劇団のポスターを依頼され、劇団に出入りするようになる。その後、柄本からの依頼で劇団東京乾電池の公演「台所の灯」(1987年5月15日こまばアゴラ劇場上演)に端役として出演する。それがフジテレビ横澤彪プロデューサーの目に留まり、1987年に『笑っていいとも!』に文化人枠でレギュラー出演する。俳優として舞台活動もこなし、テレビドラマ「教師びんびん物語II」への出演を皮切りにテレビ番組に本格的に進出し、特異なキャラクターを活かした芸能活動に比重を移して数多くのバラエティ番組に出演している。特にタレントとしての代表作であるテレビ東京系のバラエティ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズでは、リーダー役の太川陽介やゲストの女性タレントと共に日本各地の路線バスを乗り継いでいき、行き当たりばったりの珍道中を展開している[7]。数多くのテレビ番組に出演する一方で、タレントの仕事はあくまでアルバイトとしている。

2003年短編映画「諫山節考」で映画監督としてデビュー。この作品は元々シンガーソングライター諫山実生プロモーションビデオとして作られたものである。監督第2作目は2007年の『歌謡曲だよ、人生は』の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」(脚本も兼任)。

2008年には『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャーでもある特殊漫画家・根本敬からの依頼で、漫画共作ユニット「蛭子劇画プロダクション」を結成。メンバーは、蛭子能収(社長)、根本敬(チーフアシスタント)、マスク・ベビー安部慎一

2011年には、故郷・長崎の長崎歴史文化博物館において初の個展「えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会-」が開催された。

2014年には、エッセイ『ひとりぼっちを笑うな』を上梓。本書では「小さな頃から“分相応”的なものに自分らしさを感じ、“他人に害を与えない”ことを一番大事に考えてきた。友達だって少ないかもしれないけれど、別に悪いことでもないと思う。」と述べている。この「内向的な人間のための幸福論」として刊行された本書は文筆業では蛭子最大のベストセラーとなった。

青林工藝舎から刊行されている特殊漫画雑誌『アックス』にて「隔月蛭子劇画プロダクション社内報」を連載中。

漫画家として

自由な創作が行える青林堂発行の『月刊漫画ガロ』や青林工藝舎発行の『アックス』など、芸術志向のアングラ雑誌にシュールな漫画作品を寄稿している。

ガロ系」と呼ばれる日本のオルタナティブ・コミックの作家のなかでも、特殊漫画家の根本敬鬼畜系漫画家の山野一AV監督平口広美と並び、極北に位置する最も過激な作風の漫画家であった。

根本敬[8]山田花子[9]大槻ケンヂ[10]花くまゆうさく[11]福満しげゆき[12]遠藤ミチロウ[13]武内享チェッカーズ[13]巻上公一ヒカシュー[14]柄本明[15] などに多大な影響を与え、1980年代サブカルチャー界を席巻した事でも知られるが、単行本は絶版などで手に入りにくい。漫画家としての蛭子能収を山田花子は「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価している。

かなり独特の絵柄と他の追従を許さない不条理な世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれた徹頭徹尾不条理な世界で右往左往する不特定多数の人物を描いた因果で陰鬱なナンセンス漫画」というようなものになる。作品全体には、ある種の緊張感が漂っており、登場人物は尋常でなく汗をかきながら悪夢としか形容出来ない不条理な世界を彷徨い、背景にはストーリーに関係なくUFOドクロ舞台装置として置かれ、無意味に大量の人が死んだり、女の裸が脈絡なく出て来たり、意味のない掛け合いが続いたり、オチの無い結末を迎えるなど狂気に満ちた内容からメジャー誌での連載経験は皆無に等しく、主な活動の場はマイナー誌がほとんどである。

自由な創作が行えるアンダーグラウンドには思い入れがあり、「暗いジメジメしたところのほうがやはりおもしろいですよ。そんなジメジメしたところでしか出ない美しさというものがアンダーグラウンドにはあるんです。それは本音の美しさですね。あっちのほうは飾られた美しさです。オレはやっぱり地下活動、アンダーグラウンドが好きですね。」と述べた一方で、「アンダーグラウンドから脱出して、あっちのほうへ行きたいという気持ちもありますからね。ただ、そういうのが描けないし、正直に言うと日の当たる場所は飽きますね。」とも述べている[16]

漫画を描く際は、自分が見た夢をもとに漫画にするという特殊な手法で描いている(同じガロ系作家のつげ義春ねこぢるも同様な手段で漫画を描いていた)。しかし後に夢をあまり見なくなってからは、何となくネタを絞り出すようになったという[17]

「夢をもとに漫画を描く」という創作方法は、つげ義春の「ねじ式」に大きな影響を受けており、「オレが漫画家になろうと思ったきっかけは、20歳のときに見た、つげ義春の「ねじ式」。不思議でヘンテコな世界だけど、芸術作品のようなマンガに衝撃を受けて、オレも描いてみたいと。それまではピストル殺人事件など素直な漫画を描いてたけど、この漫画を見てからはわけのわからない漫画を描くようになりました。それでようやく漫画で食えるようになったのは、30歳半ばのころ。ずっと漫画家になりたいとコツコツやってきたから、「生きがい」は見つかったと思いますよ。テレビの仕事は儲かるけど「やりがい」はありません。「ねじ式」のような作品を描いてみたいから、今でも原稿料が出ない雑誌[注釈 2]でも連載を持っているんです。」と、人生を左右する程の衝撃を「ねじ式」から受けた事を述べている[18]

漫画では本心を描くので、怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」と話しており、「漫画の中でなら自由に人が殺せるんですよ」とも語っていて、実際の人物に配慮して特定できないように描いている[19]。その一方で、「滅多に怒らないし、そもそも感情を表に出すのは恥ずかしいことだと思っているので、怒っても顔には決して出さないようにしてるんです。言うまでもなく喧嘩は殺し合いに発展するから絶対にしない。もちろん不満は常にありましたから、すべてを漫画で発散していました。」と述べている。

漫画家活動初期は、そのキャラクターが知られていないこともあり、「難解な前衛漫画を描く得体の知れない謎の天才漫画家」として、同業者である根本敬やマニアックな読者に、「もしかしたら美大くずれの物凄いインテリなのかもしれない」「この人は天才なのかキチガイなのか。あるいはその両方か。」と恐れられていた逸話がある[20]。根本敬が『ガロ』のパーティー会場で蛭子と初めて会った際の印象を「描いてる漫画と実際のギャップが本当に凄かった。本人が現われる以前に漫画的に見て、どういう人だろうって想像する時の蛭子さんと、実際に会った時に、やたら腰の低いペコペコばかりしている人畜無害そうなおっさんが実は蛭子さんだったというね。」と回想している。

官能劇画誌『漫画大快楽』元編集長の菅野邦明も、漫画の不条理な内容から「蛭子能収という人はキチガイなのだろうか?」と怖がっていたという。インタビューの中で菅野は「蛭子さんに仕事を依頼したい一方で、最初は本人に会いたくなかったですね。やっぱりこの人キチガイじゃないかと思ってて。ちょうどその頃、あるパーティーに蛭子さんが渡辺和博さんと一緒に来てたんです。そこで紹介された蛭子さんは、作品からは想像もつかない、礼儀正しく大人しい人でびっくりしました。」と漫画と本人の落差に衝撃を受けたことを述べている。

しかし、蛭子の言う「素人の時代」の波に乗り、気付いたらテレビに出始め「正体不明のカルト漫画家」から「さえない天然おじさん」として世間一般に認知されるようになると、描いている漫画と本人とのギャップのせいか、本業であるはずの漫画が売れなくなってしまったという[21]。根本敬も、「もっぱらアーティストとしての評価はおざなりで、特異なテレビタレントとして名高いが、それを惜しむ声も高い。しかし、肝心のアーティストとしての高い評価には本人はあまりにも無自覚であり無防備である。」と述べている。

漫画家が本職ということになっているにも関わらず、「漫画を描くというのは結構難しく面倒なもの。テレビ出演のギャラと比べても漫画の原稿料は格段に安い。私は漫画家ではあるが、毎日仕事があるわけではない。(2008年当時)今はタレントとしての収入で生活している状況なのである。だからテレビの仕事をいつでも待っているのだ。逆にテレビの仕事がないと苦しいかな?」と、倉田真由美との共著[22] において語った。倉田いわく「蛭子さんなんて漫画は全収入の1割以下じゃないだろうか」[23]

不条理漫画を一貫して描いてきたが、インタビューで「周りが深読みしてくれてるだけで、私の漫画は意味がない。」と述べている[24]

人物

  • 『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャー[25]の特殊漫画家・根本敬は、蛭子の本質を無意識過剰と自著「因果鉄道の旅」で述べており、「蛭子さんに意見をするのは愚かなことである。何故なら蛭子能収は蛭子能収という宇宙に住む蛭子能収という宇宙人だ。たかが漫画如きが、つまる、つまらないといった次元の話は蛭子宇宙の内部では全く問題にならない。」とも語っている[26]。美術評論家の野々村文宏も「すべての自称芸術家は社会的にもうひとつの顔としての“世間体”を演出している。ところが一介のダスキンのセールスマンとしての蛭子能収には、まったくといって良いほどこの“世間体”が欠落していたし、もともと蛭子能収という人格のなかには“世間体”を作り出すこころのメカニズムが欠如していたかもしれないのだ。市民生活のなかに芸術家の顔を持ち込めなかったのはこのためである。」と解説している[27]
  • テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
  • キノコ雲観賞用の無公害原爆というものを考えて漫画にしたことがある。
  • 12歳の時、修学旅行で彼の寝小便を心配して姉がついて来た事がある[1]
  • 「生きる目的は死なないこと」と述べており、「殺されないために嫌われないように生きてきたつもりです。」とコメントしている。
  • 小学生に上がっても母親のおっぱいを飲み続けていたので、「今で言うマザコンだったのかもしれない」と述べている。
  • 2子の父親であるが子供に興味がなく「子供は好きではない」「子供と二人きりになると気まずい」「子供の成長に興味がない」と公言しており、4人の孫を持つ祖父でもあるが「孫の名前が覚えられない」など、孫にも興味がない[30]
  • タバコとお酒は全くやらないが、自他共に認める無類のギャンブル好き(後述)。
  • テレビに出て顔が広まると、見ず知らずの他人から嫌がらせ行為を受けるようになったという。蛭子によると「日常的にいたずら電話されたり、歌舞伎町でも不良に絡まれたり、競艇場でいきなり頭を叩かれたり、家の玄関にうんこを投げ入れられたこともありましたよ。俺、芸能人の中でも特に絡まれやすいみたいで……。だから本当はテレビに出たくないんですよ。社交的なのが本当に苦手なんで、芸能界の人との付き合いも苦痛で……。ホントは変装なんかせず堂々と顔を晒して歩きたいんだけど。」とタレントとして顔が売れた事の悲哀を述べている[31]
  • 月に何日か妻から「よっちゃんデー」をもらい、その日は自由に好きなことができる。平和島競艇場にもよく行く。いい子でない時は「こよっちゃんデー」になり、半日ほどになる[32]
  • イベントなどで歌うように要請されると、いつも「ヨイトマケの歌」を歌う。高田渡のドキュメンタリー映画『タカダワタル的』の中にも、蛭子が熱唱する姿が収録されている。

発言・思想

  • 「他人に迷惑をかけない範囲で自由に生きること」を信条にしており、息子や娘にも「人はそれぞれ自由に生きればいい」として放任主義を取っていた。戦争に関しても「戦争ほど個人の自由を奪うものなんて、他にないんですよね。誰かの自由を強制的に奪うようなものは、いかなる理由があっても断固として反対です。」と自論を述べ、否定的な意見を持っている。
  • 『蛭子能収のゆるゆる人生相談』という企画で、「“誘われても断れる友達”以外は必要ない」と答えており、「自由であることを第一に考えていると、友だちはいい存在である一方で、時には自由を妨げる存在にもなる。むしろ友だちがたくさんいると面倒くさいと感じることも多々あるくらい。」と友達観に対して独自の持論を述べており、[33]現代の「人付き合い」の風潮に疑問を投げかけている一方で集団行動などの“群れ”にも懐疑的な立場を取っており、「集団では個人の自由がなくなり、リーダーの命令を聞かないと叩かれる。自分で正しい判断ができなくなる。」と述べている[34]。その一方で「趣味を共有するグループ」など、限られた目的を持ったグループには肯定的な立場を取っている[35]
  • 仕事観について、「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「漫画で食えない人は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら、立派なことをしようと力まない方がいい」という持論を持っており、テレビの仕事でも心がけていることについて、「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと。仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです。」と述べている[36]
  • いじられキャラとしてバラエティ番組に出演することが多く、「温厚そうで気が弱く人畜無害なおじさん」として出演者にいじられても笑っている印象で知られるが、本人は依頼された仕事は嫌な事でも絶対に断らない主義である。これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという[7][37][38]。また、いつも笑っているのは、「子供の頃から自然に身についたもの」としており、「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか。言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね。」と理由を述べた[39]
  • 職業差別には否定的な意見を持っており、「この世にはありとあらゆる職業があって、誰かしらがそれをこなしているわけだから、 仕事に上下の差をつけるという考えが間違っているのだ。人に必要とされるものに差別があってはならないとオレは思う。」と述べている[40]
  • 「本当は自分の顔とか姿を人前に晒したくない」と述べており、「最初に舞台に出たのは柄本明さんから「出てくれ」って頼まれたから。オレはホントは出たくなかったんですよ。それからテレビの依頼も来るようになって…。だけど、人から頼まれたことを断るのもイヤなんですよ。仕事にしたって、せっかく頼まれたら普通断らないでしょ。ホントは一般の人に埋もれて普通に過ごしたかったんですよ。」と顔が知れ渡った事には否定的なコメントを寄せている[41]
  • 「思ったことは正直に口にしてしまう」と自認しており、大林素子に褒め言葉で「セックスしたことある?」と尋ねた際は、何故か困った顔をされたという[42]。自著エッセイでも「自分の意見にウソをつかない」という理由から「公明党宗教政党」「いじめ自殺に追い込んだ子供たちは死刑にすべき」との持論を正直に述べたことがある[43]
  • 漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いがコメディー番組などのテレビで大いに受けるところとなった。」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした。だって、それではウソになってしまうから。それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためにはそれしか手段がなかったんです。」と述べている。
  • 今までにタレント業で10億円以上稼いでおり、漫画でも月50万円の収入があるが、「あくまで貧乏人の振りをしている」と述べていおり、ラジオパーソナリティ伊集院光にも「貧乏人を装って必要以上にヘコヘコして笑われるように持っていってるところがありますね。そうすれば視聴者は自分より下の奴がテレビに出てるって安心するんですよ。金持ちだと思われると妬まれたり、恨まれたりして大変でしょ。」と個人的に話したことがある。テレビ東京系バラエティ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の20回記念番組収録後の記者会見に出席した際にも、「オレは割りと計算高い男なんだよ」と発言したことがある[注釈 3]
  • 死生観について、「自分が亡くなったら食べてもいいし葬式で笑われても構わない。もう骨なんてそこらへんの土手にでも捨ててくれて構わないですよ。正直墓なんかもいらないです。死んだらもう自分としては意識がないんだから何もしてくれんでもいいですよ。親族たちも悲しんでくれんでいいです。悲しがってもらってもオレにはわからないんだから全然必要ないですね。」とコメントしている[44]
  • 裁判員制度について「行くのがめんどくさいから反対」という本音を語っている[45]
  • 浮気する男性に対し「家に帰れば嫁さんとタダでヤレるのに(浮気する)理由がわからない」と批判的な意見を持っている[46]
  • 「幸せな家庭は他人に見せつけないほうがいい、不幸な人が傍からジーっと見ているから」といった持論を持っており、幸福そうな路傍の人達が通り魔に惨殺される漫画を描いたこともある[47]
  • 「寝たきりになったら他人に迷惑をかけてしまう」という理由から日本尊厳死協会に入っている。
  • アンガールズ田中卓志が「スベっているのに仕事が急激に増えた。」と悩んでいた頃に蛭子に相談したところ、蛭子は、漫画の原稿を間違えて他誌の編集部へ送った経験を述べた。蛭子によると、「数日が過ぎてから、“競艇雑誌“にエッチな漫画を、“エッチな雑誌“に競艇の漫画を”あべこべに送ってしまったことに気づいたけど、結局どちらの編集部からも『漫画の原稿、うちのじゃないですよ。』と言われず、そのまま雑誌に掲載されて、その後もこの件について、どこからも何も言ってこなかった。誰も俺の漫画なんか見ていない。」と田中に述べ、「だからさ(田中君が悩むほど)世の中の人は田中君のことは見てないから気にせずやったら良いよ。」と励ました[49][50]
  • 楽屋挨拶はしない立場を取っており、楽屋では漫画を描いたり競艇の予想をするなど、気ままに過ごしていた。そのため「礼儀知らず」と責められた経験があるというが、本人曰く、「あいさつという行為そのものが、逆に相手の迷惑になってしまうんじゃないかって考えてしまうんです。別に礼を欠こうと思ってそうしているわけじゃないし、むしろ相手の貴重な時間を奪ってしまうことが怖い。」とエッセイで独自の自論を述べている[51]
  • 温厚でのんびりしたような性格に見えるがとてもせっかちである。蛭子曰く、「ちょっとでも暇な時間があったら、好きなことをぱっとやる。ちょっとの時間でも自分の好きなことをする。無駄には使わない。自分で何がしたいか解らないと、ただボーッとしているだけになっちゃう。だから自分のしたいことを考えないと。それを持っていない人はやはりちょっとおかしいですよね。一人でいられないから、人に流されて、人に使われるようになっちゃう。一生、人に使われて終わるんじゃないかと思いますよ。」とコメントしている[52]
  • 「人間のエゴイズム」に苦しみ、24歳の若さで自殺した後輩漫画家の山田花子について、雑誌に寄稿した「追悼文」の中で、「芸術を志している人が死を選ぶ時、それは命を賭けた最大の芸術を慣行したということになるのではないかと思うのです。彼女は最大の芸術を完成させ、死霊になって私達が驚く様子を見て笑っているのではないでしょうか。」と評価した[53]
  • 芸能人ではビートたけしを最も尊敬しており、「いつも自分の思った事を説得力を持った上で自由にコメントしている。芸にしても時に滅茶苦茶なことをわざとやったりして、とっても自由。さらに、自分の好きな映画も撮って、国際映画祭で賞もたくさんもらっている。類い稀な才能に溢れた凄い人だと思います。でもなにより尊敬するのは、芸能界の大御所であるにも関わらず、いつだって謙虚なところかもしれない。憧れの存在です。」と述べている[54]

恐怖伝説

事実無根の“恐怖伝説“がインターネット上で数多く流布されており、「父親は漁師で、縄に絡まった仲間の手を鉈で切り落としたエピソードに蛭子は(父を)尊敬したと語っている」「かつて朝鮮半島軍事境界線を訪ねるツアーに参加し、いつものクセでシリアスな場面で笑ってしまったため、警備の米兵に殴られた」「死産した最初の子供がホルマリン漬けの標本になっている」「避妊せずセックスして中絶する」「蛭子さんを悪く言うと呪われる」「実の息子を漫画で丸焼きにした」「テレビで臆することなくバカチョンカメラと発言したことがある」など枚挙にいとまがなく、蛭子に対する誹謗中傷がインターネット上で日常的に行われている。

かつてウィキペディアにも出典不明で数多くの噂が事実として掲載されていたが、噂の大部分は蛭子の知人らが面白半分で流したものであった事が判明している。自身のインターネット上で展開されている事実無根の“恐怖伝説“に関して蛭子本人は「父と釣りに遊びに行って小指を怪我した話などが誇張されたり間違ったりして伝わってるみたいですけど、まったく気にしませんね。だってオレの事をタダで宣伝してくれるんですから。それをテレビ局の人が見て次の仕事につながるかもしれない。」と述べ、「噂はどう転ぶかわかりません。逆に楽しんでいればいいんです。」と一蹴した[55]。実際に、蛭子の噂を聞きつけた勝俣州和TBSテレビバラエティ番組水曜日のダウンタウン』に「蛭子能収を超えるクズそうそういない説」として検証企画を持ち込みオンエアされるなど、蛭子の思い描いた「計算通り」の結果となっている。

ギャンブル

  • 無類のギャンブル好きで競艇から麻雀パチンコカジノまでオールラウンドにこなす。妻とラスベガス旅行中もカジノにはまった。丁半チンチロリンなど大衆博戯も得意領域である。競馬は得意領域ではないためスポーツ新聞の予想を頼りにしている。競馬にのめり込まない理由として「動物に興味がない」「動物に癒されたことはない」「人と動物は気持ちが通じ合わない」「気持ちが通じ合うとすれば、それは人間の思い込み」と独自の倫理観を展開している[56]
  • 「高校生はパチンコ禁止」という高校のルールを守り、高校の卒業式終了と同時にパチンコ屋に直行した。全国民の中で、高校卒業後、最速でパチンコ屋へ行ったのは自分ではないかと回顧している[57]
  • これまでにギャンブルで1億円以上負けている[58]。ただし、借金は一銭も無く、「“借金してギャンブル”は確実に地獄行き」とも述べている。
  • 2006年8月には大村競艇場で「蛭子能収杯」という一般戦の冠レースが開催され、初日の10 - 12レースは蛭子自らが番組編成に当たった。競艇選手以外の個人名の冠レースは、この蛭子能収杯が競艇史上初。また、2008年からは、大村競艇場で開催されたオール女子戦(2008年と2009年は女子リーグ)のサブタイトルとして「真夏の女王蛭子能収杯」が付けられ、「蛭子ドリーム」と名づけられた初日の12Rのドリーム戦は、蛭子自らメンバー選定、番組編成に当たっている。
  • また、2008年から、多摩川競艇場にて「多摩川蛭子カップ」という一般戦の冠レースが開催されている。ここでも初日の後半2レースで蛭子自ら番組編成に当たっている。
  • 競艇以外の公営競技では1996年ばんえい競馬のイメージキャラクターを務めていた。
  • 1998年11月に、東京都新宿区歌舞伎町の麻雀店で麻雀賭博の現行犯で逮捕、約4か月の間タレントとしての活動を自粛した。その際に、「自分があんな(あの程度の安い)レートで警察の御用になるんだったら、東尾なんか懲役ものじゃないのか」と語っていたという[59]。「図に乗っていたので、ここで一度落とされて良かった」と回想している[60]
  • 本人をモチーフとしたパチンコ台「CR蛭子能収」「CR蛭人」(高尾より発売)も登場した。

家族

最初の妻との間に儲けた1男1女の父。[61]

愛妻家として広く知られており、「人間って誰かを幸せにしたり喜ばせるために生まれてくると思ってるんですよ。で、一番身近な誰かって、結局は家族でしょう。女房は俺を幸せにするために生まれてきた。そして俺は女房を喜ばせるのが運命だった。そういうことではないですかね。」と前妻と死別した際に述べたことがある[62]

奥さんと仲の良い秘訣については「一緒の布団で寝ること」とのことで「激しい夫婦ゲンカをしても、同じ布団で寝れば肌も触れ合う。そうすると自然と仲直りしているんですよ。」と語っていた[63]。そんな不遇の時代を支えてくれた最初の妻は2001年肺高血圧症で逝去。前妻の死によって「寄り添う相手の居ない本当の孤独」に襲われたことを述べている。

寂しさのあまりマネージャーや周囲の女性に必死でアプローチをかけたが、すべて失敗したという。その2年後の2003年4月に雑誌・女性自身の企画のお見合いパーティーで19歳年下の女性と知り合い、3年半に及ぶ交際の末、2007年1月に再婚。再婚を機に、それまで住んでいた埼玉県所沢市を離れ新居を構えた。

両親は徳島県海部郡日和佐町(現・美波町) 出身[64]。父親は漁師[65]

長男・蛭子一郎(1974年 - )はKID所属の元ゲームプログラマーで、現在はノイジークローク所属のサウンドデザイナー[66]。かつて『スーパーJOCKEY』の熱湯風呂に親子で入らされたこともある[67]

故郷に対する想い

海と山と島の自然が見える故郷・長崎には思い入れがあり、実家があった場所に女神大橋の橋脚が完成したことについて、「自然の中に鉄骨がある風景はあんまり好きじゃない。島がいっぱいあって、夕日がきれいな景色とかは、ずっと大切にしてほしい。」とコメントしている[68]

笑い上戸

子供の頃から笑ってはいけない場面で笑ってしまい(笑いのツボが多少ズレているとのこと)、国語の時間で教科書を朗読する際にも必ず笑ってしまい、ほかの生徒達が面白がって笑ってくれても、段々と白けていき、静かな教室で自分の苦しい笑い声と先生の怖そうな顔が目立って冷や汗をかいたという。歯医者や目医者でも笑ってしまい、歯医者で顔を真っ赤にして涙を流しながら金具を口に入れて治療を受けた際に、看護婦に「痛かったですか?」と勘違いされた。目医者でも「笑ってはいけない」と治療に望むも、目医者が目薬を注す時に間違えて頬にポトンと一滴落としてしまい、思わず二、三分間、笑い続けてしまったという。親戚が亡くなった際も、同じ親戚の女の子と爆笑しながら、葬式の一番後ろに着いて回ったこともある。この時から「親の葬式の時は果たして笑わないでいられるだろうか。どれ程、深刻ぶる事が出来るのだろうか。」と常に悩んでいたという[69]

出演するテレビ番組でも、悲しい場面で笑ってしまい、生放送だったため、CMに切り替えられたことがある[63]きたろうは以前に蛭子と共演した際、蛭子が「きたろうさんが刑事役をやるのがおかしい」と笑ってばかりでNGを連発してしまい、ひどい目に遭っている[70]。競馬馬のテンポイントの感動シーンでも、ひとり爆笑して雰囲気を壊したことがある[71]

知人の葬式でも「笑ってはいけないシリアスなシーンにいる自分が滑稽」ということがおかしくて笑ってしまい、自身のファンクラブ会長の葬儀に参列し、棺の中に自著『なんとなくピンピン』が収められているのを見て笑いが止まらなくなり、会葬者をあ然とさせ、連れだされた逸話がある[72]。中でも逸見政孝の追悼番組出演を依頼された際、出掛けようとしたらこの悪い癖のために拒否されたこともあった[73]。また、ビートたけしの母が1999年に亡くなった際に葬儀に参列し、ニヤニヤ笑っていたため北野家の遺族達を激怒させたと言う[72]。また、自身の母親の葬式でも終始笑顔で、親類にたしなめられたという。27年ぶりに再会した実兄も葬式を笑顔で過ごし、葬儀終了後に2人でパチンコに出掛けたという。蛭子曰く「それほど他人に興味がないので悲しい気持ちになれない。結婚式も葬式もパーティも『式』そのものがすごく苦手」と述べている[72]。ただし、最愛の元妻が死去した時は涙を流して悲しんだ[72]。後に「その時に生まれて初めて本当の孤独というものを知ったのかもしれない。」と述べている[74]

作品

漫画

※現在多くの作品が、紙媒体で入手困難

  • マン[75](1970年)
  • 帰り道はきつかった(1970年)
  • 恐るべき美声年(1970年)
  • 狂気が彷徨う(1973年 未発表)
  • パチンコ(デビュー作。1973年『月刊漫画ガロ』8月号掲載。『なんとなくピンピン』に収録)
  • 地獄に堕ちた教師ども(1982年 青林堂 全国書誌番号:83026137 ASIN B000J7GCVU ※絶版)(電子書籍で復刊)
    • 地獄に堕ちた教師ども
    • 勝手にしやがれ
    • 仕事風景
    • 疲れる社員たち
    • 愛の嵐
    • 超能力
    • 真夜中のパーティー(『ガロ』以外の媒体に初めて描いた作品。1981年『漫画ピラニア』掲載)
    • 仁義なき戦い
    • 地獄のサラリーマン
  • 私はバカになりたい(1982年 青林堂 全国書誌番号:83026156 ASIN B000J7GCR4 ※絶版)(電子書籍で復刊)
    • 知識人のレポート
    • 僕の村は平和だった
    • 勉強する乙女たち
    • ペニスに死す
    • 不確実性の家族
    • 私はバカになりたい
    • 食生活と人間
    • 普通の人々
    • マッチ売りの主婦
    • 競艇時代
    • 芸術家は怒った
    • 少女の秘密
    • サラリーマンは2度イライラする。
  • 私の彼は意味がない(1982年 青林堂 全国書誌番号:83026155 ASIN B000J7GCRE ※絶版)(電子書籍で復刊)
    • 私の彼は意味が無い
    • 旅芸人の記録
    • ピラニアボーイ
    • 恐るべき関係
    • そして誰も考えなくなった
    • 少女地獄
    • 豚男ジャパニーズ
    • 地下鉄のサンバ
    • 私は少女に軽蔑されたのだった
    • 安定と人間
    • 少女死すべし
    • 日本春歌考
    • 警察官の仕事
    • 狂気こうもり人間
  • 私は何も考えない(1983年 青林堂 全国書誌番号:84033742 ASIN B000J777U0 ※絶版)(電子書籍で復刊)
    • 密室殺人事件
    • 悪徳の栄え
    • 私は真剣な話しが嫌いだ
    • 明るい町
    • わからなくっても大丈夫
    • サラリーマン教室シリーズ
    • 腐れる主婦
    • チンポ屋ケンちゃん
    • 私は昔痴漢だった
    • 最後の異常者
    • 去年マリエンバードで
    • 続去年マリエンバードで
    • 沈黙
    • 私は何も考えない
  • なんとなくピンピン(1983年 青林堂 全国書誌番号:84011658 ASIN B000J7AEWS ※絶版)(電子書籍で復刊)
    • 謙虚に行こうぜ!!
    • 犯され上手
    • 史上最低のセックス
    • なんとなくピンピン
    • 地獄のサラリーマンPart2
    • スチャラカ社員
    • 禁じられた遊び
    • 怪しい女
    • 太陽は傷だらけ
    • 女のいない街
    • パチンコ
    • 忘れられた人々
    • 骨正月
    • 怪奇正常学園
  • 失われた世界(『月刊漫画ガロ』1984年11月号 - 1985年5月号連載)
  • ゲイジュツ魂(1984年 青林堂 全国書誌番号:85009460 ASIN B000J72C28 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • お隣さん(1985年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0140-9 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • サラリーマン危機一発(1985年 河出書房新社 ISBN 978-4-3097-2502-4 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 狂ったバナナ-シュール・ド・エロ(1985年 辰巳出版 ASIN B00SMPTS0I ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 実験電車-シュール・ド・エロ(1985年 辰巳出版 ASIN B00SMQ9YRE※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 超短編傑作漫画集(1985年 宝島社 ISBN 978-4-8806-3087-8 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 馬鹿バンザイ(1986年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0152-2 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 家族天国(1986年 双葉社 ISBN 978-4-5759-3028-3 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 好青年の異常な行動(『月刊漫画ガロ』1987年6・8月号掲載)
  • 死んでも笑へ!!(1987年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0173-7 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 明るい映画館(1987年 白泉社 ISBN 978-4-5921-3108-3 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 日本の友人(1988年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0177-5 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 長崎物語(『月刊漫画ガロ』1988年6月号 - 8月号連載)
  • 私立探偵松尾(『月刊漫画ガロ』1988年10月号 - 1989年10月号連載)
  • 蛭子能収の人生日記(1989年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0187-4 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • イカすバカウマ天国(1990年 白泉社 ISBN 978-4-5921-3137-3 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 笑う悪魔の黙示録(1990年 マガジンハウス ISBN 978-4838701568 ※絶版)
  • 不条理でポン(宝島社)
  • 蛭子ファンクラブ(1992年 宝島社 ISBN 978-4796604291
  • 蛭子漫画(1993年 辰巳出版 ISBN 978-4-8864-1102-0 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • これは何だ!えびすよしかず作品集(1996年 日本文芸社 ISBN 978-4-5370-9665-1 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 黒いギャンブラー(1996年 竹書房 ISBN 978-4-8124-5014-7 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 私立探偵エビスヨシカズ(1997年 ブルースインターアクションズ ISBN 978-4-9383-3929-6 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 俺は大丈夫(2001年 青林堂 ISBN 978-4-7926-0339-7 ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 蛭子能収コレクション(2004年 マガジンファイブ ※絶版)(電子書籍で復刊)
  • 隔月蛭子劇画プロダクション社内報(2009年 - 青林工藝舎

個展

  • えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会- (2011年長崎歴史文化博物館) 初の個展であり、故郷長崎で開催された。旧作・新作と共に彼のアート作品も展示された。

著書

この他、1994年8月に出版された朝伊達宙也の『マンガ麻雀入門』(永岡書店:刊 ISBN 978-4-5222-1235-6)の監修及び本文解説文章執筆や本書内の写真出演もしている。

作詞

  • ムーンライダーズ「だるい人」(アルバム「Don't trust over thirty」収録)
  • 鈴木慶一「人間の条件(ちょうけん)」(アルバム「THE LOST SUZUKI TAPES」収録)
  • 蛭子能収「切り裂きジャップ」(アルバム「HAVE A NICE DIE!」収録)

ジャケットイラスト

出演作品

テレビドラマ

バラエティ

映画

Vシネマ

アダルトビデオ

  • えびすさんが見てる

ゲーム

CD

PV

CM

脚注

  1. ^ a b c 漫画家 蛭子能収さん(62)”. 長崎新聞 (2010年2月9日). 2015年3月28日閲覧。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "nhk110213"が異なる内容で複数回定義されています
  2. ^ a b 『くらたまのえびす顔』(ゴマブックス)著者紹介より。
  3. ^ 『蛭子能収コレクション (映画編)』(マガジン・ファイブ、2004年)-「砂の女」の章より。
  4. ^ 蛭子能収のたまには日の当たる世界で笑いたい
  5. ^ 蛭子能収さん - インタビュー ? ひと ?”. どらく DORAKU (2007年9月25日). 2010年5月7日閲覧。
  6. ^ a b 蛭子能収 インタビュー”. バイトル. 2015年3月28日閲覧。
  7. ^ a b 【第1回】僕が最近感じることと本を書いた理由”. CAKES (2014年8月26日). 2015年3月28日閲覧。
  8. ^ 根本は蛭子が世間一般に認知される以前から、蛭子の動向を観察しており、エビス・ウォッチャーの第一人者としても知られ、蛭子の本質(無意識過剰と評したこともある)をつかんでおり、「テレビで見た世間の人は、表面だけ見てだまされている」と語っている。また、2008年には、蛭子劇画プロダクションという蛭子との漫画共作ユニットを結成。雑誌の企画でそれぞれの画風・作風を真似て競作するなど、関係は深い(根本いわく蛭子は根本の漫画を「読んでくれてない」そうだが)。
  9. ^ 『自殺直前日記』(太田出版)157頁より「蛭子さんや根本さんは天才。自分が描けないことを描いてくれる作家は勇気がある。真にカッコいい(尊敬&崇拝)。私もこーゆー風になりたいと思っているので、無意識に真似して世に出てきた。根本先生、ジョージ秋山先生、蛭子先生、丸尾先生は他人(読者)を全然気にしていない。生身の自分をさらけ出している。勇気がある。私もそうなりたい。でも自分の恥ずかしい部分を認めたくないので描けない。偽物の作家は自分の願望を描いているだけ。こうでありたい自分の姿を描いている。ヒーローを求めている。情けない。私もこれからは、もっと勇気を出して描いていこう。」と日記に書き残しており、彼女が崇拝していた根本敬や蛭子能収の作品のように、「非情に徹して我が道を行く」に徹しきれなかった事を生前述べている。
  10. ^ かつて「俺が音楽でやりたいと思ってたこと全部やられてた。」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
  11. ^ 遠藤ミチロウのカセットブック『ベトナム伝説』に掲載されていた蛭子の漫画を読み、大きなショックを受けて漫画家を志した事を述べている。
  12. ^ 僕の小規模な失敗』(青林工藝舎)第2話「まんが道失敗!!の巻」より「あんなスゴイマンガを連載する雑誌ってあるのだろうか…?」と大きな衝撃を受けた事を述べている。
  13. ^ a b 蛭子にイラストや漫画の仕事を依頼していた。
  14. ^ 蛭子の単行本『私はバカになりたい』と同名のシングルを1983年に発表した際に、蛭子にジャケットのイラストを依頼した。蛭子によるジャケットとヒカシューによる独特な曲調が相まって強烈な印象を植え付けた。
  15. ^ かつて、劇団東京乾電池のポスター仕事を依頼していた。また、蛭子が芸能界デビューする直接的なきっかけを作った事でも知られる。蛭子の原作を周防正行がドラマ化した「サラリーマン教室」(1986年7月27日放送)にも主役として出演したことがある。これは蛭子が芸能界デビューする以前のドラマ作品であり、原作者である蛭子本人はこの作品には出演していない。
  16. ^ OGな人びと | できれば日の当たる場所へ…。華やかな世界に背を向けているわけじゃない。
  17. ^ 「もう漫画家はやめてもいいかな」――蛭子能収“ひとりぼっち”哲学に迫る(2)”. 新刊JP (2015年1月19日). 2015年3月28日閲覧。
  18. ^ 蛭子能収(漫画家)さんと読む『ねじ式』”. ブック・アサヒ・コム (2014年9月21日). 2015年3月28日閲覧。
  19. ^ 日刊サイゾー、2009年4月26日『えびすビンゴ』出版記念インタビュー、蛭子能収流・今を生き抜く処世術
  20. ^ 浅草キッド著『みんな悩んで大きくなった』より
  21. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』より「笑い話じゃなく、それはもう死活問題です。一時期よりもファンはすっかり減ってしまって、あの時は本当に困りましたよ。」と述べている。
  22. ^ 倉田真由美&蛭子能収『くらたまのえびす顔』(ゴマブックス 2008年)より [要ページ番号]
  23. ^ 倉田自身は「まだ漫画収入の方がそれ以外よりも多い」とのこと。
  24. ^ 「実話ナックルズ 漫画BAD 2 ミリオンムック」(ミリオン出版)『不道徳漫画列伝 第2回 社会の異常性を描く天才 蛭子能収』183頁より。2015年3月10日発行
  25. ^ 他にも、みうらじゅん水道橋博士伊集院光吉田豪が蛭子ウォッチャーであることを公言している。
  26. ^ 根本敬『人生解毒波止場』(洋泉社 2001年)あとがき
  27. ^ 蛭子能収『サラリーマン危機一髪』(河出書房新社 1985年)巻末の解説より
  28. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 『群れず』に生きる」の中「いじられキャラになる」より。
  29. ^ 蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』5頁より
  30. ^ 【エンタがビタミン♪】「実は子供嫌い」「孫の名前を覚えてない」。おじいちゃん失格? の蛭子能収。”. Techinsight (2011年9月4日). 2015年3月28日閲覧。
  31. ^ 蛭子能収、ボートレース場で頭を叩かれるなど危険な目に|女性自身 2015年5月17日
  32. ^ TVでた蔵「2013年6月3日放送 徹子の部屋」”. ワイヤーアクション (2013年6月3日). 2015年3月28日閲覧。
  33. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「友達はそんなに大切?」 女性自身 2014年7月23日
  34. ^ 朝日新聞デジタル 2014年6月26日
  35. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 群れずに生きる」の中「趣味のグループは楽しい」より。
  36. ^ 蛭子能収「芸能界メッタ斬り」毒舌バクロ|日刊大衆 2015年4月28日
  37. ^ 世間が思ってるほど「クズ」じゃない!?蛭子流「幸福追求のための哲学」とは?”. LOFT (2015年2月2日). 2015年3月28日閲覧。
  38. ^ バックナンバー 2014年10月11日”. ブラマヨとゆかいな仲間たち アツアツっ! 番組公式サイト (2014年10月11日). 2015年3月28日閲覧。
  39. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第二章 『自己主張』はしない」の中「わざと隙を見せる術」より。
  40. ^ 蛭子能収『こんなオレでも働けた』より
  41. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』発売記念 蛭子能収インタビュー
  42. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「結婚しないの?と言われ…」WEB女性自身 2015年3月9日
  43. ^ 蛭子能収『正直エビス』(新宿書房 1996年)より [要ページ番号]
  44. ^ OGな人びと|暴言爆弾の絨毯爆撃!
  45. ^ 週刊SPA!』2009年4月7日号「今さらながら裁判員制度に大反対!!」
  46. ^ 男がみんな浮気するわけではない!絶対浮気をしない男の特徴”. ぐるなびWEDDING (2014年1月22日). 2015年3月28日閲覧。
  47. ^ 漫画にも「幸福そうに見える家族や恋人同士を次々と襲っては自分の不幸を他人にも押し付ける意地汚い連中がウヨウヨしている。一寸でも幸福そうなところを見られたら全員惨殺と言うことになる」という台詞が登場している。
  48. ^ 漫画家蛭子能収を再評価せよ!
  49. ^ 「世の中の人は田中君のこと、そんなに見てないよ。」悩みを打ち明けたアンガ・田中に、蛭子能収が出した驚きの答え
  50. ^ 「オレでいいのかな…」蛭子能収の人生相談がスタート【蛭子能収】 女性自身 2637号ニュース 2014年6月12日
  51. ^ 蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』85頁~89頁より
  52. ^ 2015年1月24日 読売新聞
  53. ^ 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号「山田花子に捧ぐ」の中「それでは山田花子さん、さようなら。」より
  54. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第三章 すべては自由であるために」の中「芸能界で好きな人」より。
  55. ^ 光文社『蛭子能収のゆるゆる人生相談』158頁~159頁
  56. ^ 女性自身2638号「蛭子能収のゆるゆる人生相談」より
  57. ^ 蛭子能収のうきうきギャンブラー人生 初めてのパチンコ ガイドワークス
  58. ^ 蛭子能収のうきうきギャンブラー人生 一億円も負けてる私… ガイドワークス
  59. ^ やくみつるの著書『やくみつるの故意死球』(ドリームクエスト 1999年)より [要ページ番号]
  60. ^ NHK『立川志らくの演芸図鑑』(2012年10月21日放送)ゲスト出演時 [出典無効]
  61. ^ 蛭子能収のゆるゆる人生相談「結婚相手に子どもが…」”. 女性自身 (2015年1月2日). 2015年3月28日閲覧。
  62. ^ 『ヘタウマな愛』ベストセラーズ発行 (2002年7月)
  63. ^ a b 週刊文春 2002年9月12日号 144~148ページ『阿川佐和子のこの人に会いたい(452)』
  64. ^ TVでた蔵「2012年1月21日放送 土曜イベントアワー」”. ワイヤーアクション (2012年1月21日). 2015年3月28日閲覧。
  65. ^ くじ引きたさで駄菓子屋へ 蛭子能収“ギャンブル熱”の原点”. 日刊ゲンダイ (2014年9月15日). 2015年3月28日閲覧。
  66. ^ スタッフ紹介”. ノイジークローク. 2015年3月28日閲覧。
  67. ^ 週刊読売 1999年12月19日号 78~80ページ『家族の風景(46)蛭子能収(前)』
  68. ^ 長崎新聞』2010年2月9日「故郷への提言 本県出身著名人に聞く」より
  69. ^ 蛭子能収『私はバカになりたい』(青林堂/昭和57年3月20日初版発行)174~175頁 あとがき「私のイヤーな性格について暴露する二、三の事柄」より
  70. ^ 過去のラインアップ(「第39回」参照)”. 本番前@控室(BS11)番組公式サイト. 2015年3月28日閲覧。
  71. ^ TVでた蔵「2014年7月20日放送 さんまのスーパーからくりTV」”. ワイヤーアクション (2014年7月20日). 2015年3月28日閲覧。
  72. ^ a b c d 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第一章 群れずに生きる」の中「葬式が〝喜劇〟に見えてしまう」より。
  73. ^ 2014年10月19日(日)「お笑いワイドショー マルコポロリ」)”. gooテレビ (2014年10月19日). 2015年3月28日閲覧。
  74. ^ 『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)-「第四章 『孤独』と『死』について」の中「本当の『孤独』を知った前妻の死」より。
  75. ^ 1970年に発表された同人誌。『地獄に堕ちた教師ども』オリジナル版のほか、商業誌未発表作品『帰り道はきつかった』『恐るべき美声年』掲載。その他に冨永佳宏、勇村良興が寄稿。数冊だけ現存が確認されている。

注釈

  1. ^ この落選した漫画は、「同棲している女を男が大した理由もなく電気コタツのコードで首を絞めて殺すだけの漫画」と蛭子は述べている。また、惨殺シーンを総ページ数からあり得ないページ数を割いており、総ページ数は18ページで惨殺シーンが10ページも占めている。これはジョン・ウェインの西部劇『アラモ』の後半1時間が、ほとんど殺戮シーンであったことに衝撃を受け、惨殺シーンを1ページで済ませるのでなく迫力を出すため10ページぐらい割いてじっくり殺すようにしたという。しかし、その一方で「そういうシーンって描くと途中で自分でもイヤになるんです。殺しのシーンを長々と書くのは精神的に耐えられなくなる。」とも述べている。
  2. ^ 『ガロ』に寄稿した漫画は青林堂の経営悪化が原因で原稿料が全く支払われなかった。『ガロ』の後身にあたる青林工藝舎発行の『アックス』でも、出版社の経済的な事情から「原稿料ゼロ」の状態が続いている。
  3. ^ 1982年の単行本『私はバカになりたい』のあとがきでも「頭が悪いくせに計算高い」と述べている。
  4. ^ 個性派アーティストによるトリビュートアルバム。参加アーティストは蛭子能収、大槻ケンヂ、ビル+戸川純ATTACK HAUS犬神サーカス団みうらじゅん、THE DIGITAL CITY JUNKIES、スハラケイゾウ+ノイズわかめ、大正九年、スラングブギー、山本精一、毒医患、コバルト、四日市ぜんそく、nhhmbase、ED WOODS、GREEN MILK FROM THE PLANET ORANGE、ロリータ18号、ブラジルUFO、オナニーマシーン
  5. ^ 『ガロ』の漫画家仲間による自主制作映画。物語らしい物語はほとんどなく、蛭子がバケツに入った豚の臓物を団地の砂場に出して汚しては水で洗う、という繰り返しの映像が1時間も続くアバンギャルドな内容となっている。監督兼撮影はAV監督でもある漫画家の平口広美。ラストは蛭子と根本と平口の食事風景が映し出され、映画は終わる。現在も映像を個人的に所有している根本によって上映会が行われた事がある。

外部リンク

蛭子能収公式サイト
解説・インタビュー