ポーランド分割

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ポーランド分割は、ポーランドの領土が1772年1793年1795年の3回にわたって周囲の国に奪われたことを指す歴史用語。

経緯

  • ポーランドはヤゲウォ朝1386年-1572年)の断絶後、選挙王政が行われるようになったが、外国の干渉と貴族間の争いが頻発するようになり、国力が衰えた。
  • ロシアエカチェリーナ2世は、アウグスト3世が死んだ1763年ごろから、親露派の貴族を王位につけるなどさまざまな内政干渉を行うようになった。
  • プロイセンフリードリヒ2世は、ロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒。オーストリアを誘ってポーランド分割を提唱すると、エカチェリーナ2世もこれに応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。
  • ポーランドは、第1回分割後、新憲法の制定や、選挙王政から世襲王政に改めるなどの改革を行う。
  • フランス革命が起こって西欧諸国の関心がそちらに集中すると、プロイセンはロシアを誘って第2回ポーランド分割を行った(1793年)。オーストリアは、マリー・アントワネット がオーストリア王家の血を引いていた関係から、フランス革命に巻き込まれてしまい、第2回分割には参加できなかった。
  • ポーランドの愛国者コシューシコは義勇軍を結成してロシア軍と戦ったが敗れた(1794年)。
  • 1795年、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国は、第3回ポーランド分割を行い、ポーランドの残った領土をすべて奪いつくし、ポーランドは滅亡した。
  • ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後のことである(1919年)。

後に独ソ不可侵条約の秘密協定により、第二次世界大戦勃発時に、ナチス・ドイツとソビエト連邦によって再びポーランドは分割される。