忍城
武蔵国埼玉郡忍(現在の埼玉県行田市)に存在した日本の城
構造
近くの利根川を利用した平城。
歴史
戦国時代
1480年頃、地元の豪族であった成田親泰がこの地を支配していた扇谷上杉氏に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。河越夜戦後、北条氏の勢力が関東に及んでくるが、成田氏はこれに反発。1553年に北条氏康が忍城を攻めるが、攻略ならず。
1559年、上杉謙信が関東に遠征してくると、これに恭順。1561年の上杉謙信による小田原城攻めに当時の城主の成田長泰も参加。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められて離反する。1574年には上杉謙信に忍城が包囲されるが、持ちこたえている。
1590年の小田原征伐の際、城主成田氏長は小田原城にて篭城。家臣と農民ら三千の兵が忍城に立てこもる。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(さきたま古墳群)におく。ここで、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定する。石田堤の建設を始める。堤の長さは、28kmにも及んだ。しかし、忍城は結局落城することなく、小田原城が先に落城。結局は開城となり、忍の浮き城の別名が付くきっかけとなる。
江戸時代
徳川家康が関東入府後は、家康の四男の松平忠吉を忍城に10万石で配置。以後、阿部氏が入ると拡張整備が行われ、1702年頃、完成したと考えられている。
忍城の城下町は、中仙道の裏街道宿場町としての機能や、近くの利根川から運ばれる物流路としての機能を持ち栄える。特に江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。
明治時代
廃藩置県の時、忍県の県庁が二の丸に置かれる。その後、廃城となりほとんど破壊されてしまう。
現代
その後は野球場などとして利用されていたが、1987年、御三階櫓などが復元される。また、周囲には土塁の一部が残存している。