佐治敬三

日本の実業家

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佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年11月1日 - 1999年11月3日)は、日本実業家。元サントリー会長。

経歴

家族・親族

佐治敬三は工学者平賀譲の三女と結婚したが、長男の信忠を出産直後に妻が21歳で早世。その後元住友銀行頭取・大平賢作の娘と再婚した。先妻との間に生まれた信忠はサントリー代表取締役社長を経て、現在は会長を務める(サントリーは現在でも非上場企業であり、同族経営である)。また後妻との間に生まれた娘はチェリスト堤剛に嫁いだ。

エピソード

  • ACジャパン(旧:公共広告機構)の発起人として知られる。文化事業にも多く取り組んでいた。
  • ダイキン工業3代目社長の山田稔森下仁丹2代目社長の森下泰とは親友だった。佐治は森下の葬儀委員長を務めて、告別式で弔辞を読んでいる。上記を含めた多くの実業家や、他に文化人との親交も多い。
  • 宝塚歌劇団の創団歌としても名高い「すみれの花咲く頃」を愛唱していたことで知られる。
  • 大相撲・若貴兄弟のタニマチとして知られ、若乃花夫妻の媒酌人を務めたり貴乃花を自社製品のCMに起用したことがある。兄弟の父親である貴ノ花も藤島親方時代の1980年代前半に自社製品のCMに起用されており、おそらく兄弟の角界入り前から縁があると思われる。
  • サントリーホール設計に際して、ホール形式(ヴィンヤード形式)の決定は、ヘルベルト・フォン・カラヤンの助言を受けた佐治がその場で発した「ほな、そうしましょ」の一言で決まった[2]
  • 文化貢献の一方、東北熊襲発言では佐治の見識を疑われる事態となった。

著書

  • 『へんこつなんこつ――私の履歴書』日本経済新聞社、1994年
    • (新装版『へんこつなんこつ――私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2000年、『私の履歴書・経済人』第29巻、日本経済新聞社、2004年)

脚注

  1. ^ 敬三は自伝(「へんこつ なんこつ 私の履歴書」)などで佐治家を「母方の縁者」としているが、母である鳥井クニは香川県の下級士族、小崎家の出であって、佐治家と小崎家には関係はない(「佐治敬三 夢、大きく膨らませてみなはれ」小玉武著、「佐治敬三と開高健 最強のふたり」北康利著)
  2. ^ カラヤンが驚いた 佐治敬三の「ほな、そうしましょ」JBpress