諸行無常

仏教用語

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諸行無常(しょぎょうむじょう、パーリ語: सब्बे संखारा अनिच्चा, sabbe saṅkhārā aniccā)とは、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印四法印のひとつ。

解説

 
久保田米僊筆「半偈捨身図」。ヒマラヤで修行していた雪山童子は「諸行無常」の半偈(前半部)を羅刹から聞いた。童子は半偈の続きを羅刹に求めたが、生きた人肉を食す羅刹は空腹のため、続きを説くことはできないと答えた。童子は残りの半偈を聞くため自身を捨て、あなたに捧げると答えた。羅刹は後半部の半偈を童子に教え、童子は羅刹の口元に飛び込んだ。ところが羅刹は童子を食べずに帝釈天へと変わり、煩悩を一切持たない童子が将来に無上菩提となることを喜んだ[1]

涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常と呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。

「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。

生滅の法はであるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。

なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。

しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われている。

いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
わがよたれぞつねならむ   是生滅法
うゐのおくやまけふこえて  生滅滅已
あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽

パーリ語ではこの偈は次のようである。

諸行無常  aniccā vata saṅkhārā
是生滅法  uppādavayadhammino
生滅滅已  uppajjitvā nirujjhanti
寂滅為楽  tesaṃ vūpasamo sukho

三法印・四法印は釈迦悟りの内容であるとされているが、釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されている。

なお平家物語の冒頭にも引用されている。

脚注

  1. ^ 岡本英夫「雪山童子の求道」(PDF)『まなざし』第26号、沖縄聞法通信、2001年4月、1-17頁、2016年1月29日閲覧 

関連項目